21話目
それからのナノホーンは、セレンが同じ空間にいるときは常にグラフェンの手を握るようになった。食事のときも、向かい合わせに座るのが普通だとはもう言わずに、グラフェンの手を引いて並んで席に着く。自室のソファでも、馬車の中でも、ずっとそうだった。
「なあ」
ナノホーンはいつもグラフェンを呼ぶ。手を繋ぎ、呼び止め、ふりむかせる。
グラフェンは、それが不安だからなのだと知っている。
自分がセレンのほうへ行ってしまうかもしれないから。
セレンが自分を奪おうとしてしまうかもしれないから。
だから繋ぎ止めておきたい。
その気持ちはよくわかる。
魔女に出会って愛を奪われてしまうまでは、グラフェンも愛する人に同じことをしていた。
だが、それは時に、愛する人を陰鬱にさせる。グラフェンの場合は、罪悪感だった。
自分は愛がわからない。
だからナノホーンを愛せない。
(打ち明けたほうがいい。自分の中には愛がないことを)
さもなければ、自分はセレンだけでなく、ナノホーンにも傷を負わせる人間になってしまう。
彼が、グラフェンを愛する前に。
彼のこの束縛が、まだ寂しさの埋め合わせであるうちに。
彼が、自分に愛がないと知って傷付く前に──。
とある公務から帰ってきた夜、グラフェンは意を決してナノホーンに向き合った。
「お話したいことがあるんです」
「なんだよ、改まって」
グラフェンは痣や、魔女との記憶、そしてセレンとの共通点を打ち明けた。初めは驚いた表情だったナノホーンが、どんどんと陰った顔になっていくのをグラフェンは断腸の思いで見つめた。
「つまり、あんたは誰も愛せない。そういうことか?」
「……おそらく。愛するという感情が、わからないんです」
「魔女に奪われたから?」
「はい」
「愛されてるっていう気持ちはわかんのか?」
迷った。
好意はわかるが、それが愛であるのかはわからなかった。
首を振ると、ナノホーンは深く深く溜息を吐いた。
抱き締められたときの、髪や頬を撫でる吐息とは違う、質量のあるどっぷりとした息だった。
「まあ、それでもいいんじゃねえか?」
「えっ」
拍子抜けしたのはグラフェンだ。
もっと悲しんだり怒鳴られたり、部屋を出て行かれてしまうくらいの反応を予想していただけに、あっけらかんとした答えに驚いてしまう。
「だって、仕方ねえだろ? 盗られちまったもんは、盗られちまったんだから」
「それは、確かにそうなんですが」
「つまり、あんたは俺がいる限り、他の男のところに行かねえってことだな? 愛がないんだから、目移りしようがねえし、俺達は夫婦だから、一緒にいるとしたら俺しかいない。そうだろ?」
「そういうことになりますね」
「いいんじゃねえか、それで。一生一緒にいたら、もしかしたら少しは愛されてるってわかるかもしれねえし」
「そうですね……って、ん?」
それではまるで、もう愛されているみたいではないか。
言葉の意味に気付いて聞き返そうとすると、ナノホーンは窓の外に目を向けてしまっていた。窓を開けると冷たい風が吹いてくる。好きな風だ。
「好きだろ、風」
「よくご存知で」
「これだけ一緒にいりゃあな。あんたが好きなものはだいたいわかる。だから、そんな切羽詰まったみたいな顔すんな。俺は、そんなの気にしねえから」
ナノホーンがグラフェンの頬に触れる。自覚はしていなかったが、常に一緒にいる彼が不審に思うほどの表情をしていたのだろう。
ふわりとした風が髪を揺らして、頭を冷やしていくのが気持ちいい。
「あんたには、笑ってて欲しいんだよ」
もしかすれば、これを愛というのだろうか。
本来ならば愛されたいはずなのに、愛さなくてもいいから笑ってて欲しいと願うのは、愛されているのではないだろうか。愛せないグラフェンを受け入れて、グラフェンの笑顔を希うのは愛以外のなにものでもないのではないだろうか。
でも、他に誰かが現れたとしたら?
自分の他にもナノホーンと一緒にいてくれる人が現れたらどうだろう。男でも女でも関係なく、ただナノホーンと一緒にいてくれる人。そうすれば彼は孤独を感じなくなり、グラフェンの存在価値など地に落ちてしまうのではないだろうか。
やはり、愛は次の相手が見つかるまでの暇潰しに過ぎない。
今は自分しかいないから。
きっと、そう。
グラフェンは、そう考えてしまう自分を心底嫌った。どうして愛だと受け入れてやれないのか。なんて自分は弱いのだろう。
愛を返して欲しい。
ほんの少しでいいから愛を返して。
そうしたら、ナノホーンを抱き締めて小さな小さな愛を大きくしていくから。ひとかけらでもいいから。たったの、一粒でもいいから。
グラフェンは思った。
もしかしたら、この世界にも魔女はいるのでは?
いや、会うとしたら愛を与えてくれる男に会わなければならない。
会って、砂粒くらいの愛でいいから与えてはくれないかと頼んでみよう。やってみる価値はある。
(セレンに男について話を聞こう)
◇◆◇◆◇◆
セレンが自室で翌朝の支度をしているときに、グラフェンはやってきた。
普通は執事の部屋に主が訪ねてくること有り得ない。しかも夜更けとあっては、いらぬ誤解を生むこともある。驚いたけれど、この方は城下町出身なのだと思い出して納得した。彼女は、気にしていない。
「どうかなさいましたか?」
「実はお聞きしたいことがあるんです」
そうして彼女が語ったのは、セレンが愛を与えられたものとは逆に、彼女は愛を奪われてしまって愛がわからない、だからセレンに愛を与えた男に会って、愛を返してもらいたい、そういう内容だった。
確かに理屈の通った話ではある。
記憶の限りでは、セレンが生きた世界よりもこの世界は過去にある。あの男が『来世』と言わなかったのは、別の人生において愛せずにはいられなくなる、そういう意味だったのだろう。そこに未来も過去もない。
セレンとグラフェンがいる。しかも別の生の記憶を持っている。
ならば、同じく魔女達がいてもおかしな話ではない。
「なるほど、承知いたしました。わたくしが覚えている男の特徴をお話いたします。男は、高身長で痩身。色白で色素の薄いブロンドの髪でしたが、まとまっておらず、どこか無頓着な印象でした。自分で切っていたのかもしれません。左右で長さがバラバラで、そのくせ前髪は長く、鼻の下までありました。服は、黒のシャツに黒のズボン、黒革の靴で左手の中指に大きな指輪が嵌められていました」
「指輪……」
グラフェンは男の姿形を思い起こしているのだろう。難しそうな顔で、顎を摘んでいる。
その姿すら美しく見えるのだから、愛とは厄介なものだ。
以前の生では、見たことのない眩さがグラフェンの周りに散っている。きらきらとしていて、夜の闇に浮かぶ星空みたいだった。
「男の名はわかりません。死ぬ間際まで、わたくしはその男と面識はありませんでした。女性に刺されて意識が遠のく中で、突然現れたのです」
「他になにか特徴はありませんか? 私達のように痣があるですとか」
「あ、わたくしとしたことが、一番の特徴をお伝えしておりませんでした。
男は目を隠しておりました」
「……目を?」
セレンは男の容貌を思い出す。思い出さなくとも、その姿態は瞼の裏に焼き付いているのだが、はっきりと思い描いた。
「そうです。目の部分だけ、真っ黒なバンダナのようなものを巻いて隠していました」
「では、目が見えていない、ということでしょうか」
男の仕草を辿る。
倒れ込むセレンの前に現れた男は、真っ直ぐにセレンの顔を覗き込んだ。
「いえ、見えているのに、見ないようにしているふうでした」
「見ないように……なんとも、不思議な人ですね」
「ええ。……それにしても、なぜ急に愛を取り返したくなったのでございますか? 今まで不自由があったようには思えないのですが」
問うと、グラフェンは僅かに目を伏せて、ぽつりと言った。
「このままでは、ナノホーンさんを傷付けてしまうんです」
ぎくり、とした。
それは左手の疼きだけでなく、心の痛みだった。
「私はナノホーンさんを傷付けたくない。もしかしたら、愛さえあれば、ナノホーンさんは幸せになれるかもしれないんです」
それはもう、愛しているのではないか。
ひとりの男のために愛を取り返そうと動くのは、もはや愛しているからではないのか。
そう言ってしまうと、グラフェンが認めてしまいそうで、気が付いてしまいそうで、セレンは結局、確かめられなかった。
傍にいられればいいのだ。
愛という名の夜に落ちたとしても、星空が見えていればその明るさで生きていけると思った。
共に星になりたいと考えるなんて、思っていなかった。
あの男がセレンに与えた愛は大きく、重たいらしい。まだ数回しか会っていないグラフェンを、セレンは深く求めている。
だから、ほんの少し、ナノホーンへの想いに横槍をいれてやりたくなった。
「愛を取り返したとき、他のだれかを愛してしまったら、どうするんですか」
問うと、グラフェンはきょとんとした顔で瞬きをした。
やはり考えるような素振りをして、いきなりぱっと顔を明るくする。
「それはそのとき考えます!」
あっけらかんとした彼女は、傍にいて心地がいい。
セレンは苦笑して、頷いた。
「では、わたくしも男の容貌に似たものを探します。念のため、グラフェン様のお会いした魔女も人相の手配をかけましょう」
「ありがとう。私もなるべく街に出て、色んな人に話を聞いてみます」
「無理はなさらぬようにお願いします。わたくしか、ナノホーン第8王子様、またはシェフのデルタフェでも構いませんから、だれかをお連れするようお願い申し上げます」
「わかりました。セレンさんもよろしくお願いします」
「仰せつかりました」
彼女に愛されたら、幸せなのだろうな。
セレンはふと思った。




