20話目
グラフェンが連れてこられたのは、どうやらセレンの私室のようだった。小じんまりとしたベッドとチェスト以外にはなにもなくて、書斎、クローゼットは共同らしい。手洗いと風呂だけは個室備え付けだ。
セレンはそっとベッドにグラフェンを座らせると、風呂場のほうへ消えてなにやらをしている。そしてすぐに洗面器にたっぷりのお湯を入れて戻ってきた。
「少し痛みますが、すぐに薬を塗りますので」
セレンはグラフェンの前に膝を付いて、グラフェンの右足をゆっくりと洗面器に浸けた。
「ひっ」
びりびりとした痛みが全身を刺すようだった。服の裾をぎゅっと握って耐える。けれど、ぱちゃぱちゃとお湯を掛けられると慣れるもので、あっという間に薬と包帯を巻かれた。左足も同じようにする。
見れば、靴は血だらけで中敷きが赤黒く変色してしまっている。
「靴は廃棄しておきます」
「勿体ないですね。一度しか履いていませんのに」
「しかし……グラフェン様の足に合わないのであれば、履くべきではございません。グラフェン様の足こそ優先されるべきです」
似たようなことをナノホーンにも言われたなと、グラフェンはくすりと笑った。
「予備の靴があったはずですので、探してまいります」
「わかりました。お願いします」
そうして、彼はグラフェンを残してクローゼットへと向かった。
ひとりになったグラフェンはなにをすることもなく、部屋をぼんやりと眺める。
暗い部屋だった。
窓も小さくて、狭くて、空気が重い。自分もほんの数ヶ月前まではここと同じような部屋で生活をしていた。今の明るくて大きな部屋に慣れてしまって、随分と窮屈に感じてしまう。それでも落ち着くのは、やはり生まれ育った場所に似ているからなのかもしれない。
セレンが戻ってきた。
やはり踵のない靴を持っている。正装用ではないため、柔らかい生地のものだ。
「これでしたら痛みは少ないかと思います」
「ありがとう」
ふにゃりと笑う彼は、どう見ても執事ではない。けれど、はたと気付いて、嬉しくて嬉しくて堪らないといった顔を隠したあとはやはり執事なのだ。
「お部屋までお送り致します」
「大丈夫、ひとりで歩けます」
「なかなか入り組んだ建物ですので、せめて出口までご案内させてください」
セレンに会うまで歩き回ったのを思い出した。甘えることにする。
◇◆◇◆◇◆
なんだかんだ部屋まで送ってもらい、ドアの前で別れた。明日は公務はないから、ゆっくり休むといいと言われて、そういえば疲れていると思い出す。
部屋に戻ると、ナノホーンの姿がない。
寝室を覗くと、ベッドに寝転がるナノホーンを見付けた。正装から普段着に変わっている。グラフェンもさっと着替えて顔を洗い、ナノホーンの隣に寝そべった。
「疲れましたね」
返事はない。
寝ているのかもしれないと思いつつ、彼の背中に目をやると、どうも起きている気配があった。不審に思って体を起こし、顔を覗き込んでみると、やはりナノホーンの目は開いている。覗いたグラフェンからさっと視線を外すように枕に頬を寄せたのが気になった。
「ナノホーンさん?」
やはり返事はない。起きているのに無視をするのは初めてだ。
なにかしたか、と思い返すも心当たりはない。
怒らせるようなことはしていないはずだ。洗礼式もマナーはしっかりと守れていたはずだし、会合でも庶民出身だから、今までのどの夫妻よりも街の発展に寄与して欲しいとの意見を受け、承諾をした。それは王家にとって利益になるはずだった。
「ナノホーンさん、どうかしました?」
肩を軽く揺さぶると、ナノホーンは胸を守るように身動いだ。
「痛い」
たったのその一言だったが、肩が痛むのか、胸が痛むのか、よくわからない仕草だった。グラフェンは肩だと受け取った。触ってくれるなという意味と受け取って、慌てて手を引っ込める。
「ごめんなさい。あの……バルコニーでミルクティーでもいかがですか」
「いらない」
「さっき会合の資料でわからない単語がありまして、教えていただいてもよろしいですか?」
「やらない。……今は、やらない」
「そうですか……」
やはりご機嫌が見事に斜めである。こういうときは、そっとしておいたほうがいいのだろうか。
(うーむ。妹なら、そっとしておいたほうがいいのだけど、姉なら構ったほうが機嫌を直してくれることもあるし……)
彼にとっての最適な対応がまだよくわからない。
だから、次の一言で駄目なら、今日はそっとしておこうと決めた。
「お風呂はいかがですか。朝も慌ただしかったですし、ゆっくり浸かるのはどうでしょう?
一緒に」
しばしの沈黙。
このびっくり作戦もだめだったかと、自分の力不足を嘆きつつ、頬を膨らませる。笑ってくれるかと思ったのに。なにが気に食わないのか、言ってくれさえすれば改善もできるというもの。沈黙されると、もう手出しもできない。
(仕方ない。今日は静かにお昼寝三昧ね)
グラフェンが再び寝転がるのと引き換えに、ガバッとナノホーンが起き上がった。
驚いた二人の視線がぶつかる。
「……あんた、なに言ってんだ?」
「ミルクティーを」
「そのあと」
「単語を」
「そのあと」
「お風呂」
「もう少しあと」
「一緒に?」
「なんで?」
「なんで? ……なんでがなんで?」
「えっ」
「えっ」
二人はしばらく見つめ合って、二度、三度と瞬きをした。
「なんで一緒に入んだよ」
「……夫婦ですし?」
「だからって、なんでだよ」
「お疲れで不機嫌なのかと」
「だからって、なんで俺と入るんだよ」
「夫婦ですし?」
ナノホーンの言わんとしていることがわからない。一緒にというのは、なかなか強烈な一言であったとは思うが、そこまで疑問を持たれるとは思わなかった。夫婦なら不思議ではないし、むしろ新婚なら当然だ。
「だって、あんたセレンが気になるんじゃねえのか?」
「あ、はい。でも執事にしても構わないと仰ってくださったので、いくらか楽になりました」
「なんで楽になるんだよ」
「傷付けてしまったのを、少しは挽回できたかと思って……」
「えっ、えっ。待った、ちょっと待った。整理する。あんたとセレンは同じ痣を持ってる、セレンはあんたを愛すると言ってる、んで執事に応募。そうだよな?」
「はい」
「で、あんたもセレンを好きなんだよな?」
「……? 違います」
「なんで?」
「なんでが、なんで?」
ナノホーンは頭痛をそうするようにコメカミを指で揉んだ。
「好きじゃねえのか? じゃあ、なんで気になるとか、胸が痛むとか言ったんだよ」
「傷付けてしまったら胸が痛みますよね。罪悪感で気になってしまいます」
「えっ、そっち?」
「えっ、どっち?」
ナノホーンは愕然とした顔を隠すように両手で覆ってしまった。
「あーーー……あっ、そう。へえ……。あー……執事にしていいなんて、言わなきゃよかった……」
「え? すみません、よく聞こえませんでした」
呟いた言葉が聞き取れない。けれどナノホーンは繰り返してはくれなくて、力の抜けた笑顔でグラフェンを見やった。
「じゃあ、あんたの一番は?」
「……? ナノホーンさんですけど」
「俺だけ?」
「はい」
答えると、ナノホーンはくしゃっと笑ってグラフェンを抱き寄せた。そのままベッドに寝転がって、放さない。
「安心したら眠くなった。寝よう」
「お風呂はいいんですか?」
「夜でいい」
「一緒に入ります?」
「……それは遠慮しておく。また我慢できなくなりそうだから」
「我慢って?」
「いいから。あんたはとりあえず、このまま俺に抱かれてろ」
強引な言葉とは裏腹に、ナノホーンの腕はとにかく優しくて仕方がなかった。振り解けば逃げられただろうけれど、その微かな束縛の力がグラフェンにとっては強くて居心地が良くて、ちっとも逃げ出したいと思わなかった。
グラフェンもナノホーンの背に手を回すと、ふふ、とナノホーンが笑った吐息が髪に掛かる。
幸せだった。




