19話目
昼過ぎに部屋に戻ってきた二人はぐったりとソファにふんぞり返ってしまった。
確かに公務が増えてはいたのだが、それは今まで7番王子までが参加していた行事にようやく8番も付いていけるようになっただとか、街を歩いて王家の支持率を上げるだとか、そんなものが大半だった。
二人だけに任された公務など初めてだ。
しかも、ふたつ。
それも当日に知る。
普通は数日前から、あるいは数ヶ月前から知らされていて当然だというのに。
「レモン水をお持ちしました。蜂蜜入りでございます」
ローテーブルに置かれたグラスには淡いゴールドの冷たいレモン水が注がれている。久しぶりの水分だ。会合という名のランチは、話し掛けられすぎてほとんど食べた気がしなかった。
食べたが。
セレンの用意してくれたレモン水は冷たくて、さっぱりとしていた。二人はいっきに飲み干した。
「今日はありがとうございました、セレンさん。助かりました」
彼のサポートは完璧だった。
洗礼式の式次第を都度教えてくれたし、会合では有識者の名前を耳打ちしてくれて相手に失礼がないようにと助力してくれた。誰ひとりとして顔と名前を知らなかったグラフェンにとっては、危機一髪といったところだった。
セレンはまた左手を胸に当てて、礼を執る。
けれど頭を下げる前に綻んだ唇を、グラフェンは見逃さなかった。
また、胸が痛んだ。
けれど、言わなくてはならない。
万が一にでも自分を愛してくれるかもしれないという期待を抱かせてはならない。その希望が鎖のように胸を縛り付けると知っている。
明日は愛してくれるかも。
明後日は振り向いてくれるかも。
そう期待して毎日相手に尽くすことがどれだけ残酷な煉獄なのかをグラフェンは知っている。
「セレンさん、ナノホーンさんと二人だけにしていただけますか? 少し、休みたいもので」
言うと、セレンはほんの一瞬だけ止まってから、頭を上げた。
「畏まりました、グラフェン様。失礼致します」
そうして出ていくセレンを見送ると、グラフェンはあんまりにも胸が痛いから雪崩るようにしてナノホーンに抱き付いた。
痛い。
とても痛い。
「なんだ、ど、どうした?」
「胸が痛いんです。セレンさんのことを思うと、とても痛みます」
「……え?」
「どうしましょう、私、どうすれば」
胸を抑える手が真っ白になるほどグラフェンは思い悩んでいた。
相手を傷付けてしまう憐憫の情からだ。
◇◆◇◆◇◆
一方でナノホーンは愕然とする。
相手を思って胸が痛んだ経験が、ナノホーンにもあった。
その相手はグラフェンだ。
仕草や言葉ひとつひとつに胸がきゅうきゅう締め付けられて痛む。それが好意なのだと知らぬふりをするには、あまりにも頻繁にすぎた。
ということは、グラフェンはセレンを?
「……あいつが、気になる、のか……?」
否定して欲しい。他の男に好意なんて抱かないで欲しい。
けれどグラフェンは小さく頷いた。
声にならない悲しみだった。
そんな馬鹿な──。
だって、俺は?
一緒にいたじゃないか。この数ヶ月、毎日ずっと一緒にいたじゃないか。
でも俺達は所詮、契約結婚。
お互いに干渉しないのが条件のはずで、自分は遊ぶために、グラフェンは嫁ぎ先に悩まないためにという利害のためだけに結婚したのだ。それ以上でも、それ以下でもない。
俺が傷付く権利なんて、どこにもない。
「じゃあ、雇えばいいじゃねえか」
本当は雇って欲しくない。
「……え、でも──」
「あの仕事ぶりなら役に立つし、あんたはそうしたいんだろ?」
そうして欲しくない。
「いえ、そういうわけでは……。私達二人だけの部屋に他の誰かを入れるのは──」
ここは二人だけの世界。
「執事は他人じゃねえだろ」
本音と言葉が相反するナノホーンの説得に、グラフェンは眉根を寄せて困惑を示した。
「執事さんは他人ではない……? そういうものなのですか……?」
「当たり前だろ。サポート役なんだから自分の右腕と同じだ」
「そ、そういうもの、なのですね……。大変……! では私ったら無用な傷を付けてしまいました、謝らないと!」
そう言ってパタパタと慌てて部屋を出て行くグラフェンの背中を、ナノホーンは見ることができなかった。
行くなと言いたいのに言えない自分が情けなくなる。契約があるから安心だと思っていたのに、契約のせいでやきもきする羽目になるとは思わなかった。
「ああーーー、もーーー」
ソファの背に仰け反りながら天を仰ぐ。
心の靄を声に出してはみたが、言葉にはならなかった。
◇◆◇◆◇◆
「セレンさん!」
セレンをやっと見付けたのは、執事達が居住している別棟だった。今まで立ち寄ったことのなかった棟は外から見るよりも複雑な造りをしていて、大いに迷った。同じデザインの扉が同じ配置でずっと並んでいるものだから覚えにくい。
そこでようやくセレンを発見できたものだから、グラフェンは思わず駆け出してしまった。
セレンが驚いて振り返る。
「セレンさん、さっきはすみませ──わ!?」
「グラフェン様っ!?」
グラフェンは廊下に転んでしまった。慌ててセレンが手を伸ばしてくれるも届かず、膝を強かに打つ。少し遅れてセレンがグラフェンの背に触れた。
「どこが痛みますか?」
「膝を打ってしまったみたいで……でも大丈夫です。絨毯がふかふかですから」
「すぐに医師を呼びます」
そこでナノホーンに言われたことを思い出した。医師は王家しか見ない。
(きっと私なんかのためじゃ、誰も来てくれない)
「いいんです、それより、足が……」
廊下で座ったまま靴を脱ぐと、靴ずれがひどく、皮がずる剥けになっていた。
これはセレンを慌てさせた。
「これは……申し訳ありませんグラフェン様! 配慮が足りず、このような傷を……!」
「いえ! 今日はたくさん歩きましたから、どんな靴でもこうなっていました。セレンさんのせいではありません。それに、靴を用意してくださっていなかったら、私は大変に失礼な服装で公務に出ることになっていました。子ども達も誇らしげでしたし、セレンさんに助けられた一日でした、本当です」
それは真実だったし、なおかつ慰めでもあった。先程自分が彼を傷付けてしまったから、それも、故意ある刃を向けたから、どうしても彼の機嫌を取りたかったのだ。
「……しかし、これは執事として不覚の極み……すぐに処置をします!」
そう言って、セレンは軽々とグラフェンを抱き上げた。ふわりとした浮遊感に驚いて、思わずセレンの首に腕を回してしまう。
「わ、私は重いです! セレンさんの腰がやられてしまいますから!」
「いいえ、まったく。とても軽いです」
「あの、でも……」
てくてくと歩いて行く沈黙が気まずい。
なにかを話さなければ……。
「あっ、ナノホーンさんがセレンさんを執事にしても構わないと仰ってくださいました!」
言うと、セレンは目を見開いてグラフェンを見下ろした。
とてつもなく近い距離だった。
吐息が掛かるくらいに。
なぜだろう。
セレンの左手が熱く感じた。




