18話目
ナノホーンはノックで目を覚ました。
温かい左手はグラフェンの右手と繋がったままだ。絡んだ細い指が愛しくなる。
グラフェンはまだ眠っていた。
そこへ、またノック。
ナノホーンは名残惜しそうに手を離して、グラフェンの額に口付けをしてドアに向かった。
開けると、見覚えのない男が立っている。男はぴくりとも表情を動かさずに、恭しく礼を執った。銀髪銀目の色白痩身男を見て、ナノホーンはすぐにこの男こそセレンだと思い付いた。
「おはようございます、ナノホーン第8王子様。わたくしは──」
「知ってる。セレンだろ。グラフェンから聞いた」
「はい。早速ではございますが、ご朝食の準備が整いましたのでお迎えにあがりました」
ナノホーンは窓の外を見た。まだ朝早い。
「俺達は遅くまで寝てんだよ」
しっしっ、と手を翻す。だがセレンは食い下がった。
「ご朝食を召し上がっていただかないと──」
「眠いんだよ、こっちは」
「大変、僭越ながら、もしや本日のご公務をお忘れではないでしょうか。教会での親のいない子ども達の洗礼式に出席、そのあとは街の有識者との会合が予定されております」
ナノホーンは目を瞬かせた。
そんな話は聞いていない。
「はあ!? 今日!?」
「左様にございます。洗礼式は9時から、会合は11時からでございます」
「教会の場所は!?」
「街外れにあります聖マリアンヌ教会でございます。城からですと馬車で30分は掛かるかと思います。8時30分にはご準備をと仰せつかっておりますので、8時には出発をしなければなりません」
「いま何時だ!?」
「7時よりほんの少し前でございます」
あと1時間で出なければならない。正装も用意していないし、グラフェンに至っては熟睡中だ。この世界では女性のほうが準備に倍は時間が掛かる。
慌ててベッドに駆け寄り、グラフェンを揺り起こす。
「おい! 起きろ! 仕事があるらしいぞ!」
「……んー?」
身動いで枕に顔を埋めてしまう。
「仕事だ!」
「……夢でも見ておられるのでは……? 私達に仕事なんて……」
「夢を見てんのはあんただよ! 洗礼式と会合があるらしい! 急げ!」
そこまで言って、グラフェンがようやく瞼を重そうに上げた。目をぱちくりとして、覚醒し始めると途端に表情が険しくなる。
「……お仕事……?」
「そうだ、1時間で出るぞ!」
「1時間……?」
「早く起きろ!」
「なんと! 早くしないとデルタフェのご飯を食べ損ねますね!!」
「え、そこ?」
「外見など腹ごしらえのあとです! 行きましょう、ナノホーンさん!」
「おいおい、ネグリジェのままで行くな!」
傍らを擦り抜ける際、グラフェンの行動を見越していたかのようにセレンが羽織物をナノホーンに手渡した。そのあとでセレンがなにも言わずにベッドメイキングを始めたのを横目で見る。
◇◆◇◆◇◆
しっかりと朝食を終えて戻ってくると、セレンは既に二人分の衣装を頭のてっぺんから足の先まですべて揃えて待っていた。
「お手伝いをさせてください」
しのごの言っていられない。
今日の洗礼式は、親に捨てられてしまった子や、事情があって存命の家族と一緒に過ごせない子達が洗礼を受ける、年に2度しかない一斉洗礼。代々王家の誰かが立ち会っていたが、今回はなんとその大役が知らぬ間にナノホーン夫妻になっていたわけだ。遅れるなんて以ての外。王家のしきたりだとか、王の名に恥をかかせるだとか、そんなものではなくて、子ども達が可哀想だ。
この日のために何度も式次第を確認して練習していると知っている。純白の正装に身を包んで、洗礼をどきどきわくわくしながら待っているのだ。そんな晴れ舞台に立ち会いが遅れてはならない。
二人は見合って、セレンに歩み寄った。
セレンは実に巧みな早業でナノホーンを着替えさせ、すぐさまグラフェンに移った。さっとシンプルなドレスを着させ、髪をまとめ、薄化粧を施す。洗礼式だから、華美にならないほうが好ましいのだ。アクセサリーもなくて構わない。
ネグリジェを脱がしたとき、ぴくりとセレンの手が一瞬だけ止まった。なにかと思ってみると、それは一昨日の夜についた赤い花達が首筋にいくつも咲いていたからだった。
敢えて知らないふりをした。
セレンも、他にはなんの反応も示させずに、第2案として用意していたらしい首まで詰まったワンピースに黙って変更した。
靴は踵の低いものを用意してくれていた。セレンを見ると、やはり眉ひとつ動かさずに説明してくれる。
「ご結婚祝賀パーティーの際、踵の高い靴は好まないとお見受けしましたので、こちらをご用意させていただきました。お召し変え致しますか」
「いえ、こちらで大丈夫です。
ありがとう」
たったの一言だ。たったの5文字を言っただけなのに、
セレンは微笑んだ。
あれだけ無表情を貫いたセレンが嬉しそうに、恥ずかしそうに笑った。それが、彼の本心なのだろうと思うとグラフェンは胸を抉られた気がした。
自分にはナノホーンがいる。
ナノホーン以外には有り得ない。セレンがもしも本当に自分を好いてくれているのだとしたら、それには応えられない。
けれど、こんなに愛しているのに愛されない気持ちを、どこかで味わった気がした。
辛くて、もどかしくて、歯痒くて、なにが悪いのだろう、どうして愛されないのだろうと自分を責めるあの気持ち。悲しくて切なくて、自分なんていなくなっても、この人にはなんの関係もないのだろうと知って絶望するあの気持ち。
あの味わった気持ちが口の中にじわりと広がる。
なにかをセレンに言ってやりたいのに、ついぞ言葉は出なくて、セレンが先に表情を引き締めた。
「参りましょう。馬車と御者は既に待たせております」
ナノホーンはグラフェンの手を取って走ってくれた。
グラフェンはちゃんと掴まるように、ナノホーンの手を握り返した。




