16話目
「ナノホーンさん──」
「今日はちょっと用事がある」
「あ、はい」
そう言って、ナノホーンは目も合わせずに外出してしまった。
昨夜の一件以来、ナノホーンはグラフェンの目を見てくれない。素っ気なくて、冷たくて、避けられているみたいだった。
以前のグラフェンならば、なにか気に障ることをしてしまって嫌われたのだろう、と特段気にすることもなかった。仲を修復しようとも試みないし、去るものは拒まない。けれど、今回ばかりは違った。
ナノホーンに避けられてしまうのは、どうしてか寂しい。
この3ヶ月間、ずっと一緒にいたからなのか。あるいは城の中には、デルタフェ以外に会話する人間といえばナノホーンしかいないから、固執してしまっているだけなのか。
おそらく、後者だろうとグラフェンは思う。
他に暇を潰してくれる人がいれば、ナノホーンがいなくてもきっと平気。他に暇を潰せるなにかがあれば、誰もいなくてもきっと平気。
グラフェンは、きっとそう、と言い聞かせた。言い聞かせるたびに左手首の痣が痛む気がするけれど、きっと平気。
「庭でも散歩しよう」
ひとり呟いて、庭に出る。
近頃は昼間でもかなり寒くなった。少し薄着すぎたかと思うも、戻るのは億劫で、広い庭を歩き回る。ただ、3周目に入るとどうにも飽きてしまった。
ナノホーンには、きちんと嫌ではなかったと伝えた。だからナノホーンは昨夜の行為とは違うことを気にしているのだろう。なんだろう。
気付くとナノホーンについて考えている自分を知ると、小首を傾げた。
どうして気になるのだろう。
(よく、わからない。一緒にいすぎたのね)
空を見上げると、ほんの少しの曇り空だった。あと一週間もすれば雪が降るかもしれない。洗濯は厳しい季節になる。
「グラフェン様」
呼ばれ、振り向くと、そこには見知らぬ男性が立っていた。齢は30代後半といったところか。色素の薄い銀の髪と瞳を持つ彼は、すらりとした細身で行儀よく足を揃えている。
「お寒いでしょう。羽織物をお持ちしました」
言いながら、男性はグラフェンの肩にショールを巻いた。胸の前で交差させて留めてくれる。反射的にショールを握ったが、こんなものを持っている記憶はない。
「ありがとうございます。あの、失礼ですが……」
「申し遅れました。わたくし、グラフェン様の専属執事を仰せつかりましたセレンと申します。よろしくお願い致します」
セレンは恭しく左手を胸に当てて、礼を執った。
「えっ!?」
グラフェンが驚いたのは、セレンの左手の甲に痣があったからだ。林檎に蛇が絡みついたような、グラフェンの左手首にあるものと瓜二つの痣だ。
思わずグラフェンは詰め寄ってしまう。左手を取って、食い入るように眺めた。
やはりまったく同じだ。
同じ痣だ。
「そうなのです。パーティーのときにお見掛けして、わたくしも痣が同じであることに気が付きました。ですので、グラフェン様の執事を熱望致しましたところ、国王陛下が快く雇ってくださいましたのでここにいる次第です」
「痣が、なんで、どうして、あなたにも?」
矢継ぎ早に問うと、セレンは照れたように小さく笑って鼻を掻いた。
「わたくしには以前の生の記憶があります。恥ずかしながら、そのときの生でのわたくしはふしだらで、誰も愛さず、誰も大切にしませんでした。そして、皆から恨まれて、とうとう、ある女性に殺されてしまうのです。命を失うとき、見覚えのない男がわたくしに話し掛けてきました。彼はこう言いました。『俺は愛を実らせるのが趣味なんだ』と。
『お前は多くの人から愛されながら、誰も愛さなかった。だから別の生では、狂おしいほどひとりの女性を生涯愛してもらう』
そう、告げられて、左手の甲を噛まれました。この世に生まれてからずっと、わたくしは愛を探していたのであります」
男?
自分の場合は美しい女だった。
愛を喰らう魔女と、愛を与える男と、二種類の術者がいるのだろうか。
考えていると、セレンはグラフェンの左手首を取って、そっと痣に口付けをした。
「やっと見付けました」
セレンはうっとりとした表情で言った。
「グラフェン様こそ、わたくしの愛する人です」
グラフェンは困った。
痣と別の生の記憶がある時点で、おそらくセレンは真実を話しているのだろう。とすれば、魔女が言っていた『生涯愛してくれる人』はセレンなのだろうか。
「でも、私はナノホーンと結婚を……」
セレンは辛そうに苦笑した。
「存じております。わたくしは、それでも構いません。なにをしてくださらなくても構いませんし、わたくしを見てくださらなくとも、わたくしの声を聞いてくださらなくとも、ただ共にいられればいいのです。
ですからどうか、わたくしをお傍に置いていただけませんか」
ナノホーンの顔がちらつく。
こんな人が現れたら、きっとナノホーンは傷付いてしまう。孤独だったナノホーンは自分という存在ができて、ひとりだった居場所から脱した。
(いや、でも──)
ナノホーンも、すぐに違う人を見付けるかもしれない。
所詮、自分なんて一時だけの執着で、代わりが見つかればすぐに乗り換える。
愛なんてそんなものだ。
挿げ替えのきく、実に不確かなもの。
けれど、どうしてもナノホーンが頭から消えてくれない。なぜなのだ。あんなに、人なんてどうでもいいと思っていたのに。
「……ナノホーンにお話をしてみてもいいですか? 彼に了承を得ないと」
「もちろんです、グラフェン様」
そのとき、グラフェンがひとつくしゃみをした。セレンが慌ててショールを巻き直してくれる。
「大変失礼致しました。お部屋に戻りましょう。ミルクティーでも?」
「あ、はい」
「すぐにお持ちします」
グラフェンは胸のざわめきを感じていた。
それ以上に、痣が疼いて仕方がなかった。




