10話目
部屋に戻ってくると、グラフェンはうんと伸びをした。
結局、昼食は食べられなかったし、なんという仕打ち。いつものダイニングに行けばなにか用意されているだろうか。それとも街に行って美味しいパンでも買ってくるか。それも時間潰しにいいかもしれないな。
「紙、持ってるか」
うーむ、と考えているとナノホーンが問うてくる。
なんの紙だと聞き返そうとして、思い出した。手に握ったままの紙片を差し出す。ナノホーンは四つ折りにされた紙を開いて見た瞬間、ぐしゃぐしゃに顔を歪めて感情任せに破ってしまった。
それを見るに、書いてあったのは料理の名前などではなかったらしい。
もし、これをくださいとシェフに見せていたら、大恥を掻いただろう。もしやそこまで予想していたのかもしれない。なかなか頭のいい連中である。
そして感情任せに、ナノホーンは再びグラフェンを抱いた。
「ごめん」
「いいんですよ。私には、なんて書いてあるか、わかりませんでしたから。傷付きもしません」
「もう、ここにいるの、嫌になったか」
「暇すぎるのはなかなか考えものですね」
「次からひとりで行かせないから、ちゃんと、守るから」
彼がなんと願おうとしているのか、わかってしまった。
わかってしまったから、グラフェンはナノホーンの背に手を回した。大きな背中だ。
「大丈夫です。どこにも行きませんから」
ぽんぽんと背中を叩く。
体を離して顔を覗き込むと、目を合わせてくれなかった。両手で頬を包み込んでみても、やっぱり目を見ない。彼の長めの黒髪を優しく避けてやると、ナノホーンも同じようにグラフェンの頬を包んだ。
ようやく視線がかち合う。
二人はそんな距離で長い時間、見つめ合っていた。
「どこにも行かない」
グラフェンは約束のつもりで、先よりも強く言うと、ナノホーンはきつく瞼を閉じて頷いた。
流れていく涙がグラフェンの手に落ちていく。
泣いているのは、ひとりになる恐怖が強かったからなのか。
世界に一般人を巻き込んだ後悔か。
あの女達の矢面に立たせた懺悔か。
ひとりにならない安堵か。
そのすべてだったのかもしれない。
「どっか行ったら、探し出して連れ戻してやるからな」
だからその強がりも、なんだかナノホーンらしく感じてしまう。ははっ、と笑うと、ナノホーンも照れ臭そうに笑った。
「さあて、お腹空きましたね」
「は? 今?」
◇◆◇◆◇◆
「お腹空いたーーー」
「だから食いに行こうよ」
「外に行くの面倒くさいーーー」
「なんなの、あんた」
グラフェンはベッドの上で俯せになって溶けていた。両腕両足を広げて脱力した姿は完全にシーツに沈み込んでいる。空腹でなにか食べたいけれど、行動を起こすのは億劫という怠惰以外のなにものでもない。
その隣で寝そべりながら本を読むナノホーンは、呆れ顔で嘆息ついた。
「食べ物の話で気を紛らわせましょう。好きな料理はなんですか?」
「チキンソテーのチーズ乗せトマトソース掛け」
「美味しそーーーお腹空いたーーー」
「それ気紛らわせてるか?」
「好きな飲み物は?」
「白ワイン」
「おっっっしゃれーーー飲んでみたいーーー」
「部屋にあるよ」
「えっ」
がばっとベッドに手を着いて起き上がると、驚いた顔でナノホーンがグラフェンを見た。グラフェンの行動の意味を察したらしい。
「飲むか?」
「飲みましょう! パーティーのときもお酒飲めなかったですし、家では買いませんでしたから!」
「真っ昼間だが?」
「わお、贅沢ぅ!」
やれやれとばかりに立ち上がるナノホーンに付いていく。ワインがどんな色でどんな作り方でどんな種類があるのかは、なんとなく知っているけれど飲んだことがない。本当に葡萄の味がするのだろうか。非常に興味深い。
軽い足取りで部屋を出ると、ちょうどそこに人影があった。
デルタフェだ。
「あ、デルタフェさん!」
「……ああ、今朝、厨房であんたに話し掛けてきたやつか」
ナノホーンの言葉に、そうそうと頷く。
デルタフェはサービスワゴンを押していた。いくつかの皿が乗っていて、銀製のクローシュで蓋されている。
デルタフェはしばらくそこにいたのか、気まずそうな顔で、ひとつのクローシュを持ち上げた。中にはグラフェンが食べたいと言ったクリームの乗ったビスケットが彩りよく盛り付けられている。
「一応、さっきの、持ってきた」
小声で言って、クローシュを下ろしてしまう。
──仰せつかりました
ダイニングで彼が確かにそう言ったのをグラフェンは思い出した。本当に昼食を作ってきてくれたのだ。
なんて最高のタイミングなのか。
「ありがとうございます、デルタフェさん! 今ちょうど白ワインを飲もうとしていたところだったんです! 受け取りますね!」
ワゴンをそのまま受け取って部屋に押し入れる。
「お食事はいったいなにを──」
振り返ったときには、もうデルタフェはいなくて、廊下に出て左右をきょろきょろと探すと、もう既に遠くに背中があった。
「おや? 行ってしまいました」
「俺達と関わってるの、見られたくないんだろ。仕方ねえさ。ほら、白ワイン取りに行くんだろ?」
二人は隣のナノホーンの部屋から白ワインを2本ほど取ってグラフェンの部屋に戻ってきた。
ビスケット以外にもサラダやスープや魚のムニエルが用意されていた。それを応接室のローテーブルに広げる。
先にナノホーンが座ったので、その隣に腰を下ろす。
「だからな、普通は前なんだよ。向かい合わせ」
「ああ、そうか、そうか」
ここはダイニングほどテーブルが大きくなく、さほど距離が生まれるわけではないからグラフェンは指摘されたとおりに移動しようとした。
けれど、ナノホーンに腕を掴まれて、上げかけた腰を再びソファに沈めることになる。
「1回座ったんだから別にいいだろ」
(誰が向かい合わせって言い出したんじゃい)
言ってやりたいとは思うが今はとにかく腹ごしらえだ。ふんわりとしたクリームの乗ったビスケットを一口で頬張る。空腹も助けてとても美味しい。
その隣でグラスにワインを注いでくれたナノホーン。
「ほれ」
「ありがとうございます」
「おい一気に飲むな!」
「ぷはー! 美味しい! 思ったより葡萄の味しないですね」
「いや、するよ」
「葡萄食べたことあります?」
「失礼な奴だな! 一気に飲み干すから味がわかんねえんだよ。少しずつゆっくり飲めばわかる」
言われたとおりに、口の中でワインをゆるりとさせてから飲んでみた。
まったくわからない。
「え、びっくりするくらい葡萄じゃないんですけど」
「は? ちょっと貸せ」
グラスを奪い取ってナノホーンも一口含む。満足げに頷いた。
「普通に葡萄じゃねえか」
「いや、全然わかんない」
「舌の上でだな──」
そうしてグラフェンはぐびぐびとワインを飲み進めていった。