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カラオケチェーン駅前店狂騒曲

作者: 丹波春厦

舞台は駅前に建つ雑居ビルの中にあるカラオケボックス店。主人公、篤史は生まれて初めてのバイトを「人とあまり接しなくて済みそう」という理由で、地元から二駅離れたカラオケチェーン店に面接を受ける。面接を担当した店長、西郷から「基本的な雑務から調理まですること」を条件に時給800円、研修期間750円なら雇うと言われ、深く考えなかった篤史はあっさり了承した。しかし西郷が発した雑務と調理という言葉の真意は篤史が思い描いていた甘いものではなく、厄介な客とバイト仲間の相手をして店の発展に貢献せよという意味だった……


「てぜに、あつしくん?」

「てぜん……です」

「あァ、これで手銭と読むんだ。でも初見で読める人居ないでしょ?」

「いえ、そこそこには……」

「……そう」


 密室のカラオケボックスに漂う微妙な雰囲気はループ再生する曲紹介やら、気まずい空気になりがちな歌番組もどきやらのせいなのか。

 それとも金髪オールバックのコワモテなおっさんのフリを、バッサリ斬り落としてしまったからなのか。

 別にこのカラオケ店で何かオイタをしたわけでも、借金取りの催促を受けてるわけでもない。俺はただ、バイトの面接を受けてるだけで、むしろ気まずさを生んでるのは社会人らしからぬ身なりでバイトの面接を行なうおっさんの方だ。

 タンでも絡んだのか、カチカチのオールバックが揺れるほど豪快な咳をかまして場の澱みを断ち切る。


「手銭篤史くん。どうして自宅から二駅も離れたウチなの? 確か君の地域にも同じ系列店が有ったはずだけど。高校も近くじゃないし」

「人とあまり接したくないんです。接するにしても面が割れてないところで出来たら」

「カラオケボックスってかなり接客業だと思うけど……」


 履歴書から視線を上げる面接担当のおっさん、西郷正則店長――ご丁寧にさいごうまさのりてんちょうと、役職までルビが振られた名札を付けている――は、鋭い眼差しで圧力を掛けてくる。仮にもカラオケチェーン店の雇われ店長だろうに、よくそんな見て呉れでクビにならないものだ。


「まっいいや、ウチも人手不足で困ってるし。身なりは乱れてないし」お前が言うな。「接客なんて嫌でも慣れてくるはずだから。後はそうだな……

 基本的な雑務から調理までしてくれるなら、即採用するよ」


 西郷店長は慣れた手つきで契約書に俺の名前や住所を写していく。

 そういうのは本人が書き記すものではないのかとか、まるで既に了承の返事をしたみたいな雰囲気になっているのかとか、時給が求人広告で見た時より少ない八百円について触れるべきなのかとか、一体どこからツッコめばいいか困惑していることにも全く意に介さない。


「ちなみに研修期間の時給は七百五十円だから」

 ツッコむ要素が一つ増えた。

「あの、勝手に契約書書いてますけど、それって俺――僕が採用されたってことで良いんですか?」

「それは君がさっきの条件を呑んでくれたって捉えるけど?」


 話の噛み合わないおっさんだ、質問を質問で返すなよ。

 基本的な雑務とは恐らく清掃やら会計のレジ打ちやらのことだろう。調理はロクにやったことがないけど……失敗は成功の母だ。いざとなれば人に聞けば良い。給料については現状口を挟む話題ではないな、頃合いを見て賃上げ要求してみるか。


「……はい、大丈夫です」

「じゃあここに署名して」


 俺が了承の意を示すと同時に、無造作にボールペンと契約書を渡してきた。店長が書き記した文字は筆圧が足りなくて、まるで筆記体のように字がくっつき解読出来ない。せめて契約書に印字された規約について読もうとするも、よほど目を通されたら困ることでも書いてあるのかせっつかれてしまった。


「よし、これで契約完了っと。とりあえず他のどれ……の挨拶とシフト調整も兼ねて明日から出勤するようにな」


 署名を終えると同時に奪い取った店長は契約書をヒラヒラはためかせながらカラオケボックスを後にした。いきなりの出勤命令と一部不穏な言葉に気持ちが引っ掛かるものの、面接の緊張による疲れが一気に出てきたので、これ以上の思案はやめることにした。

 明日からカラオケ屋でバイトか……むせ返りそうなくらい煙草の臭いが染み付いたカラオケボックス内で、俺は高揚感にも似た言い知れない心の昂りに戸惑っていた。


 これから待つ、愉快厄介な客と従業員に振り回されて簡単にバイト先を決めたことを後悔するのも知らずに。


 カラオケチェーン駅前店狂騒曲


 さて、出勤初日から早速面倒事に巻き込まれた。

 意気揚々、とまではいかないが「やってやるぜ」と腹に一物――ではやらかしてしまうので、とにかく初日くらい頑張る気持ちでバイト先へ乗り込むと――


「おいテメェーら! 出勤前の挨拶もロクに出来ねぇのか! それでもジョイナスの一員かぁ!」

「はいっ! 申し訳ありませんでしたぁっ!」


 席待ちの客やレジ待ちの客も居るロビーでカッチカチの金髪オールバックが、ジョイナスの制服を着た従業員を並ばせてどう喝していた。やっぱりアレが店長の本性か、口調もまるっきり違うし。

 完全に警察案件だと思うのだが、まともに反応しているのは短く整えた就活ヘアの暑苦しい店員だけで、他はまるで相手にしていない様子だった。


「特に千葉と皆川! オメェら完全に接客業舐めてんだろ!」

「接客業っていうか、おっさん馬鹿にしてる感じ?」

「大きい声出して挨拶すればいいってもんじゃないと思うけど」

「こ、の……!」


 そう。特に鮮やかなメッシュを入れてヘアアレンジしたチャラ男店員と、傍目から美青年と表すに相応しいヅカ系店員は、激昂するコワモテおっさんを前に堂々と携帯を弄り回している。苛立ってる客も居る中でその態度はどうなのか。

 しまいには飽きたのかチャラ男店員が女性客を口説き始めて……なんだか情報量が多くて眩暈してきた。許容オーバーで脳汁が溢れ返りそうになった頃、暑苦しい店員――名札に枠付きでバイトリーダーと主張している――が俺の存在に気が付いたようだ、慌てた様子で店長に報告する。


「さっ西郷店長、新規のお客様が来店しましたっ!」

「あァ……? おォ、来やがったな。よしテメェーら! 今日から共に働く新しい仲間を紹介する、てぜに篤史くんだ!」

「てぜん、です」

「「「……………………」」」


 おい。この白けた空気どうすんだよ。なんで俺が悪いみたいな空気が流れてんだよ。

「ウオッゴホォ!」だから豪快な咳で誤魔化そうとするな汚い。「じゃあ手銭くん、皆に自己紹介をして」

「なっ……う、っ」


 このおっさんは先日のやり取りを忘れたのか。それともこれが「嫌でも慣れる」意図なのか。突然の前フリに喉の奥から変な声が出てしまった。おかげでビビりだと思われてクスクスと隠し切れない笑いが起きてしまっている。


「ど……ども、手銭篤史です。きょ、今日からここでっ、働かせてもらいます……よっ、よろしく」


 なんとか絞り出した滅茶苦茶な自己紹介に対し、まばらな拍手が白い目と共に送られてきた。くそっ……なんで俺が恥をかく羽目に遭ってんだ。


「なんだなんだぁ? 腹から声が出てねぇな。そんなんじゃ――」

「あのー、早くレジ入ってくれませんか?」

「……あァ?」


 目の前で繰り広げているブラックバイトの光景に見かねた一人の女性客が、店長の指導に割って入るように会計を要求する。

 良かった、このままおっさんのパワハラが続くなんてまっぴら御免蒙りたい。俺を含めた従業員、他の客は勇気を持って切り出した女性客に心から――あくまで心から賛美する。

 ……横槍を入れたことで店長の矛先が向くまでは。


「いつまで待たせる気――」

「お客様……少々お待ちください」


 指導の機会を邪魔した女性客がよほど腹に据えかねたのか、文句が言い終わる前に間合いを詰めて壁際まで追い詰める。客の後が無くなったところで、おっさんの引き締まった右腕が肘ごと壁に打ち付けた。


「ひっぃ――――!」

「……今オメェの目の前で起きてる状況が分かんねぇのか? こちとら可愛い従業員たちに、愛のこもった熱血教育をしてる最中なんだぞ……?」


 金髪オールバックの中年による、思春期乙女への壁ドン。

 などという生易しい殴打音では済まされない衝撃波を生み出して、年頃の女性相手に凶器であるコワモテを唇が重なる寸前まで近付ける店長は、ドスを利かせた声を最小限まで絞ってボソボソ呟く。

 おっさんの壁ドンがほんの数ミリでもズレていれば、脆くも崩れ去った壁の代わりに背景と溶け込んでいただろう。女性客は内股となった足を震わせ、元の齢が分からなくなるほど顔面が枯れていく。


「お代は要らねぇ……さっさとお家に帰んな。さもないと……」

「いやああああああああっ!」

「こっ、殺されるーーーー!」

「誰かお助けをっ、お助けーーーー!」


 店長の威圧に耐えかねた女性客が恐れをなして逃げ出した。その様子を見ていた他の客たちも蜘蛛の子を散らしたように店を後にする。


 一体なんなんだこの店は……壁ドンの衝撃で金縛りに遭った俺の身体が動き出したのは、いつの間にか従業員まで居なくなってることに気が付いた頃だった。


「……また、やっちまった……」

「本日三度目の会計未完了、今月に入って総額十万円を突破しましたっ!」

「言われんでも分かっとるわ! ……んなことより、他の従業員の気配が無いがどうした?」

「お客様の退店と共に業務に戻りましたっ!」

「知ってたんだったら止めろ! それでもオメェはバイトリーダーか!」

「はっはい! 申し訳ありませんでしたぁっ!」


 ……コイツらはコイツらで何をやってるんだ。

 出勤早々怒涛の展開に呆然としていると、バイトリーダーを叱り飛ばした店長が俺の存在に気が付いた。


「……ご覧の有り様だ。従業員は馬鹿にし切って言うことを聞かねぇ、客もこの身なりだからちょっと注意すればたちまちビビッて逃げちまう」


 ちょっとだと? カラオケチェーン云々以前に社会人として前衛的だということに気付いてないのか。

 しかし、それだけの格好をしているのに全く動じない店員たちにも驚く。目の前で唾が飛び散るほど怒鳴られて、どうして平気なのか。


「手銭くん。なんとかして、あのどれ……をしてくれないか?」

「…………はい?」


 せめて言いかけの奴隷を否定しないことには始まらないだろ。

 などと言えば、あの眼光が俺の方に向くのは容易に想像出来る。新入りのバイトにどうこう出来るはずがないのに……


 しかし、こんなことで面倒事に巻き込まれたなんてほざくつもりはない。これは言うなれば店長の独り相撲で、土俵から転げ落ちた際に砂を被った観客みたいなものだ。

 面倒事とは当事者として、または物事の中心人物として由々しき事態を対処しなければならない状況となった時に初めて、面倒事に巻き込まれたと言うべきだ。


「ちょっとぉ! さっきからどうなってんのよこの店っ! 電話先から鼓膜が破れそうな大声出されるわ、マッズイ食べ物持ってきたウザい店員にしつこくナンパされるわ、責任者呼んだら危ないおっさん出て来るわ! 客舐めるのもいい加減にしなさいよねっ!」


 つまり、この状況。



 時は遡って、俺がジョイナスの制服に身を包んだ頃。


「一通りの業務はバイトリーダーから教えてもらって」と言ったきり休憩室に引きこもった西郷店長に代わって、でこ分けした清潔感ある髪型をワックスで台無しにしたバイトリーダーこと、須田了がレジ前で暑苦しく説明する。


「いいかい、てぜにくんっ」

「手銭です」

「バイト自体が初めてということで緊張しているだろうっ。最初は誰もが未経験なんだ!」この野郎も人の話を聞かないタイプかよ。「君は接客が苦手だと聞いてるが、人生何事も経験だっ。新入りとはいえ責任は重大だぞっ!」


 須田さんは明後日の方向を向いて握り拳を震わせる。自分の世界に入りやすい奴なのか、カラミづらい熱演をかましてくれる。

 あまり言いたくないが、社員でもないバイトリーダーが学生アルバイター相手に人生やら責任やらを押し付けないで欲しい。一体何様のつもりだ。


「須田さ――」

「リーダーと呼ぶんだ」

 ……自分は呼び間違えたくせに、人のは訂正させるんだな。

「リーダー、おれ……僕はまず何をしたら良いんですか?」

「そんなこと周りを見て状況判断するんだっ。後、一人称の使い方には気を付けるんだぞ!」

「すっすみません……えっと、じゃあ基本的な仕事だけでも」

「はぁ~……てぜにくん! さっき店長にも声が小さいと言われただろうっ。腹から声をっ! 出すんだっ!」


 リーダーの一言一句と共に指を突き差される。

 コイツ……本当にバイト衆のリーダー格なのか? やたらと俺のミスを目ざとく注意するくせに、こっちの質問にはロクな回答しちゃくれない。人の名前を間違えたらちゃんと言い直したり、指を人に向けて差すなと習わなかったのか?

 こんな調子でどうやって一通りの業務を教えてもらうのかと困り果てていると、とうとう他の従業員に呼ばれたリーダーが持ち場を離れてしまった。

 このタイミングで客が来ないことを願っていると、丁度リーダーと入れ替わる形でチャラ男店員がやってきた。


「あれ、今お前一人?」


 近くで見ると俺と歳は変わらなさそうだ。だとすれば随分と校則が緩い高校に通っているようだな。


「さっきまでリーダーが居ましたけど、消えました」

「消え……んなっははは! そうか、消えちまったか! 消されちまったならしょうがねぇ、んなっははは!」


 何がしょうがないと言うんだ。

 メッシュの入ったハネっ毛を揺らして変わった笑い方をするチャラ男、千葉裕也は笑いのツボが偏平足ばりに浅いようで、しばらく話し掛ける余地も与えてもらえなかった。


「んひ~、笑い死ぬぅ~……ところでお前、さっきの挨拶滅茶苦茶緊張してたよな。んなっはっは!」突然、素に戻って俺を流れ弾に晒すな。「え~っと確か……てぜに、だったっけ? ぶふふぅ」

「……違います」駄目だ、ここは堪えろ。とはいえ、このままイジリの対象にでもされたら終わりだ。「手銭、ですから。間違えないで下さい」

「了解、てぜに」


「て・ぜ・ん、だ。次間違えたら顔じゃなくタマが潰されると思えよ?」

「わ、わがっ、た……から、はな、せぇ……っ!」


 前言撤回、コイツだったら顔の圧殺くらいやっても平気に違いない気がする。このチャラ男を黙らせておけば、名前イジリもみだりに広がったりしないはずだ。

 それはそうとして、リーダーが居なくなったことで仕事の内容が聞けず仕舞いだった。店長に対してあれだけふざけた態度を取ることが出来る奴なら、基本的な業務は把握しているだろう。


「千葉、簡単な説明で良いから仕事のこと教えてくれよ」

「なんで急にため口なんだ……?」

「どうせ歳変わんないだろ、俺とお前。さっきリーダーに教えてもらおうとしたが聞けなかったんだよ」

「あぁ、アレね……」

 リーダーと聞いた途端、千葉はあからさまに声色を変えて肩を竦める。

「? なんだ、その意味ありげな反応は」

「大方、おっさんからあの人に聞くように言われたんだろうけど、あの人はなんも教えてくれない――教えられないんだよ。

 須田さんはな、就活に失敗しててバイトリーダーから社員昇格を狙ってるんだが、ただバイト年数が長いだけでぶっちゃけ役に立ってないんだわ」


 忌々しく顔を強張らせて、不在のリーダーを語るチャラ男の様子はまるで、今しがた俺が受けた洗礼と同じ道を辿ったように見える。


「大声で煩いしロクに仕事が出来ないくせに、他人に責任を擦り付けてゴマを擦るのはやたら上手いし。全部本人に自覚が無いのが余計ムカつく」

「じゃあ千葉は誰から習ったんだ? あのおっさんか?」

「まさか。皆川さんからだよ」

 さっき千葉と一緒に怒鳴られてた奴か。はっきりモノを言ってキツそうな性格をしてそうだが……

「あの人、ああ見えて女子大生で面倒見が結構良いんだよ。顔も綺麗で、胸以外百点満点だな」本人に聞かれたら絶対殺されるぞ。「料理はからっきし下手なのも、可愛げあってポイント高いし」

「カラオケ店で調理出来ないのは拙くないか?」

「大丈夫大丈夫、どうせレンチンしたり器に盛り付けたりするだけのがほとんどだから。

 っと、そんなことより何をすればいいかだよな。だったら、まず俺が手本を見せてやるから、歌ってる客を邪魔しない鮮やかな対応に酔いしれ、なっ☆」


 チャラ男の上にナルシストかよ、野郎相手に両目瞑ったドヘタなウインクしやがって。

 千葉は如何にも先輩風を吹かせるような台詞を言って、タイミング良く出来上がったご飯やスイーツ類を調理場から持ち出す。颯爽と軽い足取りでカラオケボックスへ向かうと、部屋の中を覗き込み――


 とてもつまらなさそうな顔をしてつま先で乱暴にノックした。

 ちょっと待て、片手が空いてるのにどうして借金取りよろしく手荒な真似してるんだ。

「注文の品をお持ちしましたぁ~……」

 語気も露骨なもので明らかに意味ありげな様相を呈している。客を前にした態度では無いと思うが、客を邪魔しない鮮やかさはどこにいった……

「失礼しましたぁ……はぁ」千葉は鬱々と重い足取りでカラオケボックスから戻ってきた。お盆も頭の後ろに回して行儀が悪い。


「わりぃ、さっきのはノーカン」

「お前の中で何があったんだ?」

「てっきり甘い物があるから女の子だと思ったのに……飯ものというトラップに気付かないなんて」


 畜生、と心の底から悔しがる千葉は壁に思いっきり拳を叩き付ける。格好良く仕草を決めているところ悪いが、完全にバイト中であることを忘れてはいないか?

 そんなチャラ男に汚名挽回? の機会が早々にやってきた。調理場から「出来たよー」と新たに注文の品を運び出すよう指示が飛んできたので、確認してみると可愛らしいパフェと――何やら不穏な臭気が漂うオムライスが並んでいる。


「よぉし、今度こそ完璧な対応してみせるから。お前は近くで見とけ」

 メニューを見て、どうやら奴の中で男女の区別が付いたようだ。さっきと大して変わり映えしないのだが、女に飢えたチャラ男の嗅覚を信じて後をついていく。

 ……って、本来の目的とはなんだったのか。よく分からなくなってきた……

 千葉は先ほどと同じように室内を覗き込んで、次は当たりだったのか一つ咳払いをしてハネっ毛を整える。どうでもいいが、滑稽なアホ面が客から丸見えだぞ。


「ンッ、ヴゥッ――――お待たせしました。ご注文のオムライスと季節のフルーツパフェでございます♪」

 なんだ今の声……一体全体、奴のどこに不気味な声を発する器官が備わっている?

 まさか、チャラ男らしい軽薄な声から咳を一回しただけで、さながら透き通った水面の先に潜む深淵のような気味の悪い声を作った、とでも言うのか? 後はノックを三回やっとけば完璧だったな。

 ともかく、千葉の『手本』を見せてもらおう。俺は中に居る客に気付かれないよう、しゃがみ込んでから恐る恐る覗き込む。すると――


 嫌がる女性客に肩を回し、勝手に曲を終わらせるチャラ男の醜態があった。

 部屋が暗がりで二人の顔は良く見えないが、身を寄せようとする千葉を必死に押し退けようと客が抵抗している。気のせいか元のゲスい声が聞こえてくるわ、デンモクを操作して何故かアニソンのデュエット曲を入れて歌い始めてるわ……

 もう、なんか色々とヤバいやつじゃないのか? コレってただの犯行現場に出くわしたやつじゃないのか?

 危機感に駆られる思いとは裏腹に、ガラス扉にへばり付く身体は一向にドアノブを捻ろうとしないどころか、手に掛けることも出来ない。えぇい、いざ衝撃的なシーンに出くわすとどうして金縛りに遭ってしまうのか!


「やだ、何あの店員……」

「客のプライバシーも考えられないの……?」


 ……ヤバいのは、天下の往来で大概な姿を晒している俺のようだ。背中に刺さる鋭い主張がよく滲みる。

 チャラ男の餌食となった女性客には申し訳ないが、ここは我が身可愛さを優先して元居た場所へ帰ることにした。


「ったく、とんでもねぇもん見せやがって」

「お~い、誰か居ないの?」

 丁度良いタイミングでレジの方向から人を呼ぶ声が聞こえる。便乗するように反応して戻ってみれば、

「はーい、今行きまーす!」

「およ? 君は確か……てぜにくん?」

「お前もか」


 居たのは客ではなく、千葉と共に店長のどう喝を受け流していたヅカ系店員、皆川歩夢だった。どうやら無人と化していたレジに気付き、俺やチャラ男の代わりに客を捌いていたようだ。


「えっ」

「あっいえ……僕の名前はてぜにじゃなく、手銭です」

「あれ、そうなの? 自己紹介の声が小さかったから、良く聞こえなかったよ。そっか~……ごめん、てぜにで広めちゃった」思いがけないところから犯人が出た。「そんなことより手銭くん、勝手にレジから離れちゃ駄目じゃない。誰かから仕事のこと教えてもらってたの?」


 眉目秀麗――少しキツそうな印象を持つ外見とは反して、随分と口調が柔らかい。てっきり皆川さんの凛々しさは内側から出てるものだと思っていたが、意外にも女性らしくて……なるほど、確かに千葉の言う通りだ。

 そして……多数の例外を除いて、実はこの人それなりに常識人なのかもしれない。見た目と中身が直結してるクズばかりなので、携帯を弄ってるくらい可愛く思える。


「ちょっと手銭くん、僕の話聞いてる?」

 皆川さんは僕っ娘なのか。俺の中での彼女のイメージはちぐはぐだ。「すみません、千葉……くんから教えてもらってました」

「えぇアイツから? それ嘘じゃないの?」

「始めは店長からリーダーに教えてもらうように言われたんですが……あの人、こっちの話なんも聞いてなくて。仕方なく千葉くんに」

「あぁもう、揃いも揃って……どうしてここの男どもは馬鹿ばっかり!」

 地団駄を踏む皆川さんが俺の肩を掴む。

「いい? 仕事が出来ないアイツらの言うことなんか、全部無視していいからね。僕が責任持って教えるから、手銭くんは向こう側に逝っちゃ駄目だよ」


 千葉、皆川さんが涙目になるって、一体何をやらかしたんだ? 本当に彼女から仕事を教えてもらえたのか? 後リーダーはよくクビにならないな。

 ジョイナスの従業員事情に困惑する俺を他所に、皆川さんはブツブツと恨めしく男連中に対する愚痴を漏らす。相当苦労してるのか、身体中から瘴気が漂っていた。


「店長は店長でいっつも人任せのくせに偉そうに怒鳴り散らして……須田は須田で無駄に歳重ねただけのゴマすり木偶の坊だし……千葉は千葉でせっかく教えてあげたのに問題ばかり起こして、怒られるのは教育係の僕なんだよ……?」

「あ、あの、皆川さん。肩、離して――」

「だから手銭くんはあの馬鹿たちの色に染まらないように、僕がお節介焼かせてもらうから!」


 う……んっ? なんだろうか、この既視感は。もしかして、もしかするとだが……この人――いや、ここの連中……


「幸い、君はほんのちょっと気が小さいだけだから、仕事に慣れていけば自信も付いてくるし――」

「み、皆川さん? ちょっと顔、近いです……」

「その時に僕が監視しとけば、アイツらの手に堕ちないで済む、し……って、うわぁ! 何どさくさに紛れてキスしようとしてんの!」


 ただただ人の話を聞かないな? すぐに自分の世界へ没入して、自らの琴線に触れるような異変が起こってから、自分の都合の良いように事態を改変してやがる。

 だからコイツら、自分の中では『常識がある』という認識なんだ。なんというか……はた迷惑な。


「まったく、油断も隙もあったもんじゃない……ほら、行くよ手銭くん」

 艶やかな指先が俺の手に絡み付く。「あっ、えっと……」

「対面だと緊張して上手く行かない? だったら電話の応対から慣れていけば良いんよ」


 図らずも恋人繋ぎしたことで初心な反応をするも、まるで気にしない様子で引っ張る皆川さんの凛々しさにときめく。漢らしい彼女に連れられたのは、部屋番号ごとの会計伝票でごった返したホワイトボードが目立つ作業場で、対比となるようにポツンと備え付けた電話機が侘しい。


「さて、早速だけど110号室が終了時間まで十分だから連絡してみよっか」

「いきなりですか? それは、勘弁して下さいよ」

「こういうのは習うより慣れよ、ってね。分からないことがあったら――って、どこに行こうというんだい?」

 トンズラかまそうとしたら、影を踏まれた……!

「いっいや~、そういえば千葉のレクチャーを投げっぱなしにしてるな、と」

「別にいいんじゃない? 大体、アイツだって僕に教えてもらったんだよ。それってつまり、僕から習うのが一番早いと思わない?」


 あっけらかんとした様子で言ってくれるが、初仕事にしてはハードルが高過ぎる。ついでにプッシュホンで押すには躊躇いのある部屋番号だ。俺が必死に嫌がる素振りを見せるも、皆川さんは決して逃さないと視線を切らない。

 これは、どう足掻いても避けられそうにない。彼女の粘り勝ちということで観念して、いよいよ電話機の前に立つ。


「おっ、覚悟を決めたね。偉い偉い♪ 人間何事も諦めが肝心だからね」

「似たようなことをリーダーにも言われましたよ……」

「えっ、マジで?」


 まずは深呼吸だ……爆発寸前の心臓を鎮め、脈打つ鼓動が穏やかに――ならない。困った。

 だが、急かされて他人のタイミングで始めるのはもっと困る。止むを得ないので、おっかなびっくり手を震わせながら受話器を取って1・1・0と番号を打ち込む。


 1コール…………2コール…………3――

「はい?」

 女性の声だ。どもるなよ、俺。「お……お時間十分前、になりましたが、えっ延長なされますか?」俺の馬鹿っ!

「え~っと……ちょっと待って」


 みんな~どうする~? 延長する~?

 時間だいじょぶ~? まだ歌い足りない人~

 ウチまだ三曲しか歌ってな~い

 お金あったっけ~?


 通話口から漏れる乙女たちの会話はどうやら、延長するかしないかで悩み中のようだ。早く決めろよ。


 も~早く決めろよ~! 待たしてんじゃ~ん

 急かさないでよ~。いま親に聞いてんだから

 お金貸して~、今月ピンチだわぁ

 あぁもう、だから向こう待っ――


「っ! ……あの、もしもし? もしも~し!」


 き……切りやがった……! 通話先の店員を待たせておきながら、勝手に切りやがった!

 しかも口喧嘩が始まった女子グループの一人が、邪魔だと言わんばかりに受話器を乱暴に戻してきたおかげで、鼓膜に響いてとても痛い。


「? どしたん?」

「切られちゃいましたが」

「き……あはははははっ! き、切られ、あはははははっ! 初電話が、切られちゃった! あはははははっ!」何から何まで似たような反応して、お前らはリンクしてるのか?「ふーっ、ふーっ……ま、まぁ上出来じゃないの? 十分経ってから、もっかい連絡すればいいさ」


 俺の異変に心配する皆川さんだったが思いもよらない結末だったらしい、抱腹絶倒する姿を見せてくれた。しかし涙目になるほどウケるほどではないだろ。

「それじゃあ次は――っと」

 次の連絡先を探す皆川さんを遮るように、電話機から喧しいコール音が鳴り響く。客から注文が入る証だ。

 そういえば……何号室から連絡が入ってるかは分かるのか?


「電話機のパネルに部屋番号が表示されるよ」

 目が泳いでいた様子で全てを察したのか、電話機上部を指して教えてくれた。番号は……204、か。何故か俺が出る状況になってることに内心納得しかねるが、自然な流れで受話器を取ってしまう自分が恨めしい。

「はい、ご注文をお伺――」

「おい誰だ! たこ焼きに全部辛子を入れた奴は! 喧嘩売ってるのか!」


 これはまた斬新な注文が入った。ここはコワモテの金髪オールバックを持っていくべきなのか……はたまた、丁度良いサンドバッグとしてチャラ男を差し出すべきか。

 ――などという冗談はさておき。通話越しでも伝わる怒り心頭な男性客は、今にも調理場に乗り込まん雰囲気で厳しい言葉を捲くし立てる。


「はいっ、はいっ……申し訳ありませんっ。すぐに――」

(手銭くん、クレーム?)

(はい。罰ゲーム仕様のたこ焼きを注文したそうなんですが、全部に辛子が入ってたようで)

(全部に辛子……?)


 何やら身に覚えがあるようだ、さっきまで明るかった皆川さんの表情に陰りが見える。依然として止まらない客側のクレームに対応する俺の隣で、慌ただしく伝票を確認し出した。


(とりあえず、もう一回作り直しますけど良いですか?)

(うん、それは大丈夫なんだけど……ごめんっ)

(? 何がですか?)

(そのたこ焼き、僕が作ったやつだわ)


 おい、千葉……レンチンと盛り付け程度で大事故が起きてしまったぞ、どうしてくれるんだ……



 結局、この後も食品に関するクレームが立て続けに来た。そのたびに濡れ衣を着る憂き目に遭って、おかげで今日の晩ご飯は必要なくなった。


「つ、疲れた……もう一生分の罵倒を浴びたと思う……」

「いや~……ホント、ごめんねぇ? でも僕だって悪気は無いんだよ」

「ただちょっと、ひと手間隠し味を加えたくなる、と?」

「そうそれ! さっすが手銭くんは分かってるな~♪」


 まるで初めての理解者に巡り合えたような顔をした皆川さんに、両手で握手されたら怒るに怒れなくなる。

 悪気が無い方がかえってタチが悪い。いっそのこと悪ふざけだったら千葉の時みたいにシメることが出来たのに……デコピンとか。


「ちなみに味見はしますか?」

「う~ん……体型維持のため」

「味見はつまみ食いじゃないですよ」

「うぅ、ごめんってば~」


 しがし意外だ。皆川さんの美貌は生まれつきのものだと思ったが、実は努力の賜物だったなんて。出会って初日だけど、他の奴らと比べたら一番仲良くなれそうだし、もっと彼女のことを知りたい……

 などという淡い時間を、よりにもよってむさ苦しい野郎に破壊されるとは――!


「皆っ、緊急事態だ! 千葉くんがまたやらかしたっ!」

「またぁ~? 今度は何号室のお客さん?」

「114号室っ!」

「……えっ、そこって確か――」



「ちょっとぉ! さっきからどうなってんのよこの店っ! 電話先から鼓膜が破れそうな大声出されるわ、マッズイ食べ物持ってきたウザい店員にしつこくナンパされるわ、責任者呼んだら危ないおっさん出て来るわ! 客舐めるのもいい加減にしなさいよねっ!」


 そして、現在に至る。いやぁ、我ながら長い振り返りだったと思う。

 この一件、何がまずかったのかと言うと回想に出てきた従業員たち――リーダー、千葉、皆川さんの三人ともが、目の前の女性客に対して被害を与えていたことだ。

 まずレジを離れたリーダーが、今しがたまで俺が居た作業場から大声で注文を承って、手が空いていた皆川さんがひと手間加えたオムライスを披露、とどめに千葉が目の前でチャラ男をかました、という流れとなる。

 つまり事の発端を作ったのは千葉ではなくリーダーだということになる。よくもまぁぬけぬけと……千葉が一番悪いけど。


「「どうもすみませんでしたっ!」」


 とにもかくにも西郷店長と平身低頭に近い謝罪をする。室内は相変わらず暗いままだが、女性客がソファに踏ん反り返る姿が見える。


「謝って済む問題だと思ってるのなら大間違いよっ! ここの店員から酷い目に遭った人が何人居ると思ってるの!」


 フリルの付いたヘッドドレスに、これまたフリルが付いた黒のワンピース、三日月型のツインテールは痛々しいほどオタクアピールで、いわゆるゴスロリファッションというやつか。顔は見えないが、声の感じから俺や千葉と歳は変わらないだろう。

 それにしても……ヒステリックに声を荒げる彼女に同情しつつも、どうして何もしてない俺が頭を下げているのか、よく分からない。


(……どうしてお前がここに居る? アイツらはどこ行きやがった)

 おっさんは頭を下げながら小さな声で尋ねる。口はほとんど動かしてないのに器用な真似をする。

(そんなのこっちが聞きたいですよ……一応、皆川さんは調理場の仕事が残ってるのでそっちを優先、リーダーは他の従業員が呼んでるとのことで不在、千葉はこの人が追い出したんじゃないですか)

(そうか……まっ、てぜにくんの方がこっちも都合良いな)

(手銭です)


 口角を僅かに上げて思わせぶりな台詞をキメるおっさんだが、客に頭を下げてる状況で都合の良し悪しなど関係有るのか?

「あぁもう、その暑っ苦しいオールバックが不愉快っ! おっさんは早く出てって!」

 発言権は完全にゴスロリ女子の方が持っていて、こちらに有無を言わせない雰囲気を隠そうともしない。さながら嵐が通り過ぎるまで頭を伏せている弱者と同じだ。

「か、かしこまりました! ……おい」

「は?」

(――鼻を利かせろ。そうすれば、この場は乗り切れる)


 彼女が今にも手に持つ日傘を振り回さんところで、店長が意味深な言葉を残して出て行った。

 鼻を利かせろ……咄嗟の耳打ちだったので後の部分はよく聞き取れなかったが、果たしてどういうことか。嗅覚を活かせという意味なのか、相手をよく見ろということなのか……

 ゴスロリ女子を覗いてみると、不快指数を上げる邪魔者が居なくなったことで幾分かヒステリーが治まりつつある。


「ふんっ、本っ当にココの連中はロクでもないわね」

 だが、おっさんが言ってるのはこのことではないだろう。傍目には被害者以外何者でもない。

 そうなれば、言葉通り鼻を利かせていくことになるが、今のところカラオケボックス特有のカビ臭とヤニ臭さしか分からない。

「スンッ……スンッ……」

「美味しそうなパフェとオムライスがあるから注文しようとしたら、うるっさい声で耳が穢れるわ……出てきたオムライスから変な匂いがして、口に入れたら酷いことになるわ……」


 他には……皆川さんが作ったオムライスの臭いと、ゴスロリ女子から甘い香水のにおいがする……だからなんだというんだ?

「スンスンッ……スンッ……」

「特に最悪なのは注文の品を持ってきた男! 気色悪い声で、ベタベタ私に触れてきて、勝手な振舞いをしてきて……もう全てにおいて許せない!」千葉、凄い言われ様だぞ。

「スンッ……スンスンッ……」

「その上、責任者を呼べば……ちょっと貴方聞いてるの?」

 しまった、鼻を鳴らし過ぎて気付かれた。俺の馬鹿、これではまるで――

「さっきからブヒブヒ、ブヒブヒ何度も鼻を鳴らして豚みたいね。

 クスクス……まぁ丁度良いわ、さっきの連中の分まで貴方には罰を受けてもらうから。鼻がよく利く豚にピッタリな罰をね」


 不敵な笑みを鳴らすゴスロリ女子は、テーブルの上に置かれた飲みかけのジュースを取る。

 俺の頭にぶっかけるのかと戦々恐々していると、何故かニーソックスを穿いた自らの脚へ垂らした。

「さぁ跪いて、豚らしく嗅ぎながら私の足をしゃぶってみせなさいよ!」


 おいおい……冗談、だろ? だって俺、この女に何もしてないのに、なんで出勤初日からこんな辱めを受けなければいけないんだ? 確かに客からすれば新入りとかバイトリーダーとか関係無い話だろうけどな。

 だからといって腹いせにリンチしていい、なんて理屈が通ってしまっては堪らない。許してはならない。

 ――――しかし。


「それとも、何? 客の要望に応えられないの?」

 しかし、ここが踏ん張りどころでもある。俺が耐え忍べば、この難題な局面を乗り越えることが出来る。正直バイト風情でそこまでする必要があるのか甚だ疑問ではあるが、ジョイナスの従業員になった以上――あのコワモテ金髪オールバックの下に付いた以上はやるしかない。

「……いえ。有り難く奉仕させていただきます」


 無心だ。今は心を無にして、ただ舐め続けるんだ。

 舌に伝わる感触なんて意識してはいけない。ゴスロリ女子の足先から滴る液体について何も考えるな。足を組んでスカートの中が見え隠れしてるからなんだって話だ。

 一心不乱に、舌を動かし続けろ。


「ふふっ……必死になっちゃって♪」

 我武者羅に、遮二無二なって舐める姿がよほど献身的に映ったのか、客の態度が徐々に軟化していくのが分かる。後もう一息だ、駄目押しに鼻孔を押し付けながら啜る。

「スンスンッ……フゴッ、フゴッ……ゴホッ!」ジュースが鼻に入った!「ゴホッ……フゴフゴッ……フゴッ、ゴホッ!」

 時折、通過する水滴でむせ返りそうな刺激に苦しむも鼻の穴を塞ぎ上気道を鳴らすことで、さながら地中に埋まるトリュフを探るように……

 舌を突き出して顔面を押し付ける醜い絵面は、ゴスロリ女子にはどう見えたのか……答えは実に分かりやすいものだった。


「本当に豚みたい……貴方、とっても無様ねぇ~」

「――ッ!」

 自分の思い通りになって上機嫌となった彼女は、罰を中断して俺の顎を指で軽く持ち上げる。壊れかけの自尊心にとどめを刺さんばかりに、至近距離で玩弄せん言葉を浴びせた。

 ただ、俺の顔が浴びたのは屈辱だけではなかった。ゴスロリ女子が一言一句発するたびに特徴的な臭いが鼻の奥へ突き刺さり、鋭い臭気が脳髄を刺激したことで突破口となるビジョンが鮮明に浮かび上がった。


『皆っ、緊急事態だ! 千葉くんがまたやらかしたっ!』

『またぁ~? 今度は何号室のお客さん?』

『114号室っ!』

『……えっ、そこって確か――学生料金だったよね? 高校の学生証見せてもらったけど』

『千葉……同年代相手に何やってんだ……』


 そしてゴスロリ女子から覚えのある、決して臭ってはならない口臭……

 コイツ、未成年のくせにお酒を飲みやがったな。しかも店側が提供していたり、まして無理やり飲まされていたら喚き散らしてもおかしくないのに、今に至るまでおくびにも出さないということは確信犯である可能性が高い。


 なるほど、おっさんの言った『都合良い』とは、事を荒立てたあの三人や取り付く島もない自分よりも部外者である俺の方がすんなり指摘出来る、というわけだったのか。

 事情が分かってきたら、段々腹が立ってきた。同情の余地があるとはいえ自らの罪を隠し、リーダーやチャラ男――ついでに皆川さんの罪を、あろうことか無関係の人間に与えるとは……

 ここは邪知暴虐で許し難い横暴を振舞う人でなしに、キツいお灸を据えてやるか。他人にプッツンさせるようなことしたらどうなるか……身を以て教えてやる。


「ほら、この程度では終わらないわよ。もっともっと楽しませてもらわなきゃ」

「はい……ですが、その前に」落ち着け、努めて冷静に……「お客様に一つ尋ねたいことがあります」

「な、なによ」

「先ほどお客様が顔を近付けてお話しした際に、アルコールのにおいがしましたが……」

「っ!」


 ゴスロリ女子が虚を突かれた顔をして身体を大きく引き攣らせる。不意打ちを食らったと言わんばかりの反応をしてくれて大変分かりやすい。

「確かお客様は学生料金を利用する際に、高校の学生証を提示されたと聞いております。言うまでもありませんが、未成年の飲酒は――」

「ばっ馬鹿なこと言ってんじゃないわよ! 証拠はどこにあんのよ!」

「貴方の息が動かぬ証拠かと」

「なんですってぇ!」

 ゴスロリ女子の肩が震え出して、頭に血が上ってるのが見て取れる。立場が悪くなったら逆切れとは良い度胸してる。

「冗談じゃないわっ! 散々客に迷惑掛けておきながら、言うに事欠いて今度は飲酒を疑われるなんて信じられないっ!」

「つまり意図的に飲んでいないと? 店が間違って出した、もしくはナンパしてきた店員に無理やり飲まされたと……そう、おっしゃりたいんですか?」

「! そ、そう! あのウザい店員が嫌がってる私に、強引に――!」


「おい、三味線弾いてんじゃねぇぞ」

「ひぃっ!」


 身体が勝手に動いて、気付けばゴスロリ女子をソファに押し倒していた。

 慣れない敬語を使って下手に出ていたが、もう止めだ。嘘を嘘で塗り固める奴に掛ける情けなんて何もない。


「あの店員がお前んところに入った時、アルコール類は持ち込んでいないんだぞ。どうやって強制出来る?」

「そ、そんなの、貴方が知るわけ」

「アイツがドアの前で髪の毛整えて、二回ノックして入室した瞬間からナンパを始めたところを、俺がドア越しに見てたんだよ。

 人を虚仮にするのも大概にしろよ……?」

「――――っ! っ……!」


 言い逃れる目論見が外れ、さらに一連の様子が覗かれていたことを知ったゴスロリ女子は、度肝を抜かれた間抜け面を晒す。いくらチャラ男に非があったとはいえ罪を擦り付けて良い、なんてことにはならい。


「ところでよぉ、俺のこと下僕のように弄んでおきながら『すいませんでした』の一言もねぇのか?」

「うっ……っ……」

「学生証を抑えれたくないなら、今回はお互いの不始末を水に流して……おい、人の話を――」


 聞いてるのか?

 黙り込んだ彼女の顔を覗き込んでみると、瞳孔が開いて口から泡を吹いている。どうやら好きで間抜け面になったのではなく、極限状態になって失神していたようだ。


 ……しまった、これでは店長やあの連中がしでかしたのと一緒じゃねぇか! 女の子を押し倒して気絶させた分、俺が一番犯罪紛いになっているし……

 何してんだ、俺の馬鹿……



「はぁ……やってしまった」


 ゴスロリ女子にとどめを刺した俺は西郷店長の制止を振り切って店から飛び出し、帰りの駅ホームで立ち尽くしていた。時計は9の数字を指しているが、あれからどのくらい経ったのかも曖昧で覚えていない……

 なんであんな暴挙に出てしまったんだ。ちょっとしたことで周りが見えなくなってしまう性格で、何度もやらかしてきて「今回こそは」と覚悟を決めていたはずなのに……


「いっつもいっつも……『やってやる』なんて意気込んだのが間違いだったのか?」

 それにしても一日持たなかったなんて生まれて初めてだ……結局制服のまま飛び出したから、明日また顔を出しに行かないといけないし……

 そうだ、そのタイミングでバイトを辞めることを伝えたら良い。電話で言うより案外、はっきり俺の意思が伝わる。

「だがあのおっさんに辞めること言うのキツイなぁ……そん時は土下座でも何でもすればいいか。は、は……」

 もはや力の入らない身体からは乾いた笑いしか生まれない……とにかく次の電車で帰ろう。間もなく通過する特急の後に来る準急に乗ればいい……っと、立ち疲れで膝がぐら――


「早まっては駄目だぁーーーーっ!」

「ふぐぉっ!」


 ぐらついた瞬間に横から襲い掛かった強烈なタックル! 直後にすんでのところを特急列車が通過していった……危ねぇ。

 一体何が起きたのか。動転していると見覚えのある暑苦しい男が抱き付いていた。


「……リーダー、離れて下さい。気持ち悪いです」

「リーダーじゃなく、須田さんと呼ぶんだ……何飛び込もうとしてるんだ、てぜにくんっ!」

「手銭ですって。意味が分かりませんよ」


 リーダーは何も言わず、俺の腰に抱き付いて泣いている。

 なんだっていうんだ、まるで自殺する人みたいに……状況が呑み込めず呆然とする。遅れて千葉と皆川さんもやってきたが、何故か全員制服姿で余計に意味が分からない……


「何してんすか、リーダー?」

「大方、手銭くんがさっき通った電車に飛び込むんじゃないかと勘違いしたんじゃない? まったく、大袈裟なんだから」

「二人とも……」

 送別会をするほど深め合った仲でもないと思うのだが。仮に送別会だとしても、こんな味気ないのは嫌だ。


「なんで僕たちがここに来たのか分からないって顔してるね」

「勿論てぜにくんを――」

「話が進まなくなるからリーダーは黙っててよ。後、いい加減てぜにくんってわざと呼ぶのやめたら?」わざとだったのか……「ありがとね。僕たちのミスを帳消しにしてくれて」

「元はと言えばあの子にちょっかい出した俺が悪いのに、サンキューな☆」


 二人が頭を下げてお礼を言ってきた。千葉に抑えられたリーダーもモゴモゴと何か叫んでいる。

 俺は……お礼を言われるような大層なことはやってない。むしろ客に一番迷惑を掛けたのに……


「客に一番迷惑を掛けたの自分なのに……って思ってる? 大体の事情は店長から聞いてるよ。114号室の女の子も不問にしてくれるって言ってくれたし……酒の出どころはあの子の持ち込みってオチだったしね」

「いやぁ~、お前が助けてくれなかったら今頃どうなっていたか……間違いなく取り調べを受けてるな」

「だったら僕は毒殺の疑いを掛けられてるね。あははっ!」

「それ笑い事じゃないっすよ、皆川さん……」

「モゴモゴ、モゴモゴッ!」

「そんな、別に……」


 別に、俺でなくとも店長が強引に壁ドンして問い詰めていたら解決した問題であって、わざわざ追いかけてまでお礼される覚えは無いのに、どうして……

「も~っ、素直じゃないなぁ!」皆川さんが俺の手を引いて立ち上がらせる。「君は僕たちを救ってくれた恩人なんだから、なんも気にせんで良いんよ。一人で全部抱え込まないで?」

「制服のまま飛び出したと聞いた時は一瞬焦ったけどよ。手銭はなんも責任感じる必要ねえからな」

「モゴモゴ……っぶはぁ! そうだっ、君が辞めようとしなくていいんだっ!」

「でも、俺じゃなくても……!」

「手銭くん」

 皆に励まされて嬉しいやら恥ずかしいやら、負い目を感じる申し訳なさやら不甲斐なさやらで、直視できず逸らした俺の顔を皆川さんが両手で掴んで向かせる。そして……


「君じゃなきゃ、駄目なんだよ? だからお願い、辞めないで……」


 ただ一点、俺の瞳を見つめて慰めてきた。

 いや……こんなの、駄目だろ。さっきから千葉も励ましてきて……絶対、勘違いするぞ……


「ど、どうしたの急に泣き出したりして!」

「どこか痛むのかっ!」

「いっいえ……皆の優しさが嬉しくて、つい……ありがとうございます」


 溢れ出る大粒の涙を拭いて三人にお礼する。

 千葉は気恥ずかしそうに手をヒラヒラさせて気にしていない素振りを見せて、皆川さんは安心したのか目尻に涙を溜めて満面の笑みを見せてくれた。リーダーは貰い泣きのつもりかもしれないが、俺より号泣していた。

 誰かの役に立つって、こんなにも嬉しいことなのか……涙が止まらなくなりそうだ。


「だ、だけどっ、なんで抜け出した俺なんかのために、ここまで……?」

「あぁ、それはだな――」

「簡単な話だぞっ!」

 説明しようとするチャラ男にリーダーが割り込む。

「君が居なくなったら貴重なイジリ枠が空いてしまうからだっ!」

「……はい?」

 今、なんと?

「……まぁアレだ。手銭みたいなタイプの人間はあまり居ないっていうか、楽しいんだわ」

「君が居なくなったら、また馬鹿の巣窟に逆戻りしちゃうんだよ! だからお願い、絶対に辞めないで!」

「代わりといってはなんだが、バイトリーダーの役職を君に明け渡そうっ」

「「わぁ~、凄~い(棒)」」


 前言撤回、やっぱりこのバイト辞めよう……


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