日常、非日常、のちに日常、そして
あつい日と肌寒い日が入り混じるような10月のある日。
いつも通りだった。学校ではナギと競い合い、授業を受けた。放課後もバイトまでの時間を体育館で過ごし、着替え、惣菜をパックに詰めたり会計したり...全てがいつも通りだったはずだ。
ガシャン。
日常が壊れる音がした。
振り返る。ミチコさんの体がゆぅらりと揺れ、ゆれて、手からトングがこぼれ落ち、ゆっくりと崩れていく。
「ミチコ?おい、ミチコ」
タケルさんがぎょっとして駆け寄る。座り込んだミチコさんの顔は、青白かった。ガクガクと痙攣している体。口から泡を吹いている。
動けない。体も頭も、動きやしない。ぐちょり、手の先になにかが触れた。生暖かい。粘りつくような感触。ぎこちなく目を動かす。赤。あか、赤....血だ。
いたい。
いたい?いたくない。ちがう、ちがう。血じゃない!
その時だ。ヒヤリ、なにかが、なにかがきた。この場に満ちていたなにかが急速に消えていく。たのしいもの、あかるいもの、あたたかいもの、おいしいもの。きえていく。そっとなにかが忍び込む。
全てを呑み込む死の気配。
「よォ」
後ろからパンっと背を叩かれてはっとした。2回瞬きをしてみれば、目の前に昇降口があった。
...学校だ。
「寝ぼけてンのか?くるみ」
笑いを含んだ声がわたしを呼んだ。ナギだ。緩慢に振り返ると、いつも通りのナギがいた。
ダークブラウンの髪も、光る二つのピアスも、少しだけ着崩した制服も立ち方も。いつも通り。変わらない。変わっていない。
わたしの日常。
「ナギ」
「...おい、....くるみ?」
ナギ。もう一度名前を呼ぶ。掠れた音が消えていく。
鼻の奥がツーンと痛んだ。目頭がカッと熱くなる。え、なにこれ、と思う間も無く頬が濡れた。
涙だ。
ミチコさん。ミチコさん。ぎゅうとまぶたを閉じれば彼女が色を無くして崩れるところが何度だって繰り返される。
指先の赤。血だと思ったのはただの酢豚。何度か味見させてもらった。すごく美味しかったはずなのに、その味が思い出せない。あのとき飲み込まれたまま。味も、匂いも、あたたかさも。ミチコさん。お客さんが呼んだ救急車に運ばれていってしまった。臨時休業、と書いた紙をぺたりと貼り付けたシャッター。血の気の引いたタケルさんが、それでもわたしを気にしてくれていた。落ち着いたら連絡するから、ごめん、大丈夫だから。
祈るように。願うように。そのはずだと自分に言い聞かせるように。
「くるみ」
ぼろぼろと突然泣き出したわたしにナギはびっくりして、動揺して、それでもすぐに冷静になった。腕を引いて人目のつかない体育館裏の扉の前に移動する。荷物をふたつ放り投げ、階段に座り、向かい合わせになるようにわたしも座らせる。
よしよし、と労わるように肩を撫でた手が頰にうつって涙を拭った。触れ合う膝と頰からじわりと熱が生まれる。あの不気味な冷たさを受けてからずっと冷え切っていた体がほぐれて、口から息が漏れた。
喉のヒクつきが収まり、鼻水も落ち着き、涙も止まった。それまでずっとその場で涙を拭いたりティッシュを出したり背中を叩いてくれていたナギが、それで、と切り出す。
「話せるなら聞いてやるけど」
1限サボったしな、と呟いて、片肘を付き顎を乗っけたナギにつっかえつっかえ話した。泣いた後は話しにくい。そして眠い。
「おまえバイトしてたんか...まあいいわ。で、どうしたい?」
「?」
ズッと鼻を啜り上げたわたしにティッシュを投げつけ、ナギは指を一本立てた。
「タケルさんが連絡くれるまで待つか」
二本目。
「ミチコさんのとこに行くか」
「行くって...どこの病院か、わからないよ」
あっという間に走っていった救急車。赤い光と音が遠ざかっていくのを呆然と見ていた。白い服をきたひとがミチコさんとタケルさんを連れていった。その光景がとても恐ろしく思えて。
「家の近くか?つかおまえどこ住んでんの」
そうか、住所も知らなかったね。学校でしか会わないしなあ。住所を言うと、ナギは「あー。そこらへんのデケェ病院っつったらあそこだろ。ちょっと待ってろ」と言って携帯で電話をかけ始めた。
「はよ。うっせおまえもサボりだろーが...先週の金曜緊急搬入してきた患者ってわかるか?....いいだろ別に.......くるみ関係だよるせェなぁ....あ?はいはい。あいよー」
すげぇ適当。
なんでも、幼馴染の一人がでかい病院の院長の二番目の息子らしく、ちょろっと調べてもらったらしい。で、ミチコさんが入院しているということがわかった。すごいね。
放課後、ナギにオラオラと蹴飛ばされるように病院にいき、受付を済ませて病室に向かう。白い建物。消毒液のにおい。なんか、なんだこれ。ミチコさんに会うっていう緊張だけじゃなない。心臓の鼓動がイヤに響く。どこか息苦しくて、はやく出たいと思ってしまう。
......苦手だ。病院が苦手なのだ、と自覚して、汗ばむ両手を制服に擦り付けて拭った。
「くるみちゃん」
病院への苦手意識とミチコさんが倒れたときの恐怖があいまって、病室の扉を開けられずにミチコさんの苗字が書いてあるプレートをぼんやりと眺めていると、後ろからタケルさんの声がした。振り向く。下の売店で買ってきたのか、袋をぶら下げたタケルさんがいた。ナギは窓のほうに寄り、外を見ていた。
「タケルさん...」
「くるみちゃん、おいで」
促されて入った先、ミチコさんは静かに眠っていた。点滴に繋がれた腕と顔が白の中でぼうと浮かび上がる。
「麻痺が残るかもって、言われたよ」
お店をどうするかはまだわからない。出来れば続けたい。ミチコはあの店が好きだから...
タケルさんの声は、なんだか以前とは違って聞こえた。わかりました、と答えたわたしの声も水の中で響いてるようだった。