AIと恋
今日はお天気がいいので、ベッドパッドを洗濯しよう。そんなことを考えながら、僕は朝食の準備をする。昆布といりこで出汁をとった具だくさんお味噌汁ととろけるチーズを入れたスクランブルエッグにカリカリベーコン。あとは、夏希ちゃん用にはちみつ入りヨーグルトと真利亜さん用に野菜スムージーを添えて出来上がり。
僕ができた朝食をテーブルに並べていると竜宮親子が起きてくる。夏希ちゃんはパジャマのままだけど、真利亜さんはすぐに出勤するので、化粧から服装まで完璧である。彼女の仕事は化粧品の店頭販売員でチーフ。
「さあ、今日も頑張ってお仕事よ」
「あたしも頑張るの」
「あら、夏希は今日は何をがんばるの?」
「お絵かきぃ」
「おお、それはすごいねぇ。芸術は爆発だ!」
真利亜さんが笑いながら、夏希ちゃんの頭をぐりぐりと撫でると、うれしそうにばくはつなのぉと彼女は笑った。そして、そんな他愛のない会話をして食事を終えると、真利亜さんは夏希ちゃんをぎゅっと抱きしめて、額をくっつけて言う。
「今日も一ついいことがありますように」
「ありますようにぃ」
よしっと言って真利亜さんが夏希ちゃんを放すと、僕を見てあとはよろしくねと言う。僕は、はいと返事をして、夏希ちゃんの手を取った。
「それじゃあ、いってきます」
「いってれっしゃ~い」
夏希ちゃんは笑顔で手を振り、真利亜さんを送り出した。
「さあ、夏希ちゃんお着換えの前に歯を磨こうね」
「は~い」
夏希ちゃんは素早く洗面所へ行き、自分用の踏み台を用意する。一生懸命歯磨きをして、僕に磨き残しがないか口を開けてみせた。僕は、綺麗になった歯を見てよくできましたと笑うと、彼女も嬉しそうに笑った。それから夏希ちゃんは着替えて認定こども園に行く準備をする。ほんの数週間前には、自分で着替えてもボタンの掛け違いがあったり、シャツが裏返しだったりしたけれど、もう僕が手伝うことはない。子供の成長はとても速いと感心するばかりだ。
園に夏希ちゃんを送り届けて、僕は家事をする。僕の仕事は一人親家庭のサポートだ。AIの仕事は数多あるけれど、僕の適性はハウスキーパーだった。僕はこの地区のラボで製造され、一年間様々な職種を経験し、竜宮家に配属になったのは二年前だ。見た目は人間と変わらない。僕がAIであることを知っているのは、サポート依頼をした真利亜さんとラボの人間、そしてご近所の大人だけである。
AIと言っても、大きく三つに分かれる。僕のように限りなく人間に近い形をとるものを擬人化AIと呼び、ロボットの形をしたものを産業AI、そして社会を管理する最大級の汎用型AI。汎用型AIはヒミコとよばれ、無数の量子コンピューターでできている。僕たちAIを管理運用し、人間に快適な生活を提供しているのがヒミコだ。
僕は今日も家事をする。あ、燃えるゴミの日だったなと思い、食器を食洗器にいれてからゴミ袋を提げて部屋を出た。
「おはようございます」
おずおずと声をかけてきたのは、隣の明菜さんだ。僕と同じヘルパーで一人暮らしの松島さんの世話をしている。
「おはようございます。今日はいい天気ですね」
「ええ、お洗濯日和ですね」
そんな会話を交わして、僕たちは一階のゴミ置き場にゴミを捨てに行った。
「松島さんのお加減はいかがですか?」
「春バテだそうです。ゆっくり過ごしていれば大丈夫とのことでした」
「そうですか。それはよかったですね」
「ええ」
そこで会話は途切れてしまう。明菜さんはあまり話をするのが得意ではないらしいので、僕も特にそれ以上の話はしない。同じAIでも、得意不得意の分野があるのだ。松島さんは御年七十歳だが、足腰もしっかりしているし、持病もないが三年前にパートナーが他界してから、一人暮らしになったので心配した家族が去年からAIヘルパーを常駐させている。それが明菜さんだった。
僕たちは無言のまま、エレベーターで三階に戻るとそれじゃあといって、お互いの部屋に戻った。僕はまず衣類を洗濯機にかけ、掃除を始める。特に浴室は丹念に掃除をした。梅雨入り前にしっかり掃除しておかないとカビの発生源になってしまうのだ。それが終わると、洗濯物を干してから寝室に掃除機をかける。ダイニングキッチンは、朝起きて一番に掃除機をかけているから、あとは小型お掃除ロボットにまかせてある。そして、寝室のシーツとベッドパッドを洗濯ネットにいれて、乾燥までおまかせで洗濯機をかける。
だいたい、午前中はこんな感じで僕は過ごす。
お昼ご飯は食べない。というか、本来AIに食事はする必要がないのだけど、人と生活していく上でのルールはともに食事をとることがプログラミングされている。なので、僕の場合は朝食と夕食は食物を食べる。人間のように消化機能がないので、ナノマシンの入ったカプセルを飲むことで消化し、排泄をするのだ。
僕は家事が終わるとコーヒーを一杯飲む。それから、夏希ちゃんを迎えに行くまでの時間は、電子ブックで小説や学術書を読んだり、生活情報ネットで夕食の献立を考えたりして過ごす。買い物はネット注文もできるけれど、夏希ちゃんの生活力向上のために彼女を迎えに行った帰りに、食材などはスーパーへ寄って買うことが義務付けられている。
さて、今晩は何にしようとタブレットを操作する。健康管理アプリで一週間の食事バランスガイドから、肉料理を提案された。そこからいくつかの料理について情報提供があり、僕は煮込みハンバーグを選んだ。それから、夏希ちゃんのお迎えの時間まで少しだけ<ユキネ>のことを考える。
僕は製造されてからずっとこの言葉が気にかかっていた。ラボの担当官である秋元さんは記憶媒体を再利用しているから、そのバグだろうと言う。つまり、僕が製造される以前のAIの記憶が完全消去できずに残ったものということだ。生活に支障はないから放っておいても問題ないらしい。
けれど、僕はときどきこの<ユキネ>という言葉に何かの意味を求めようとしてしまう。辞書にはない言葉ということは、何かの名前なのかもしれない。だとしても、何の名前なのかはわからない。わからないというのは、思っていた以上に疑似感情をマイナスにする。
「ユキネ」と口に出してつぶやけば、僕の疑似感情はひどく混乱するのだ。人間の言葉にするなら、喜怒哀楽の哀とでもいえばいいのだろうか。
やめようと僕は思う。バグなのだから考えるだけ、混乱し平常判断が鈍る。そんな状態では夏希ちゃんに悪影響を与えかねない。それがわかっているのに、空白の時間ができてしまうと<ユキネ>について考えてしまうのだった。
日曜日、僕は午前中のうちに仕事を終えて、ラボへ向かう。定期メンテナンスのためだ。バスに揺られながら、やはり<ユキネ>のことをぼんやりと考えていた。バグだとわかっているのにとても大事なことのような気がしてならない。僕を悩ませるこの言葉はいったいなんなのか。考えても考えても答えはでなかった。ラボにつくと、受付を済ませて担当官の秋元さんの部屋に入る。秋元さんはにこにこと人懐っこい笑顔で調子はどうだいと聞いてきた。
「相変わらずです」と僕は答える。
「バグのことが気になるか……」
「ええ、最近ではとても大事なことのように思えてきてしまって……」
「じゃあ、とりあえず記憶機能のメンテナンスからしようか」
「そうしてください」
僕はそう答えたものの<ユキネ>が消えてしまうことにどこか不安を覚えた。記憶のメンテナンスは簡単だ。ヘッドホンと遮光グラスを身に着けてカプセルの中に三十分程度入るだけ。その間に秋元さんはパソコンをのぞき込み、一週間分のデータの変化を見ている。僕はカプセルの中で眠っているような状態だ。
三十分経ってカプセルから出ると頭はすっきりする。
「気分は?」
「すっきりしてます」
「そうか、じゃあジムへ行っておいで」
「はい」
僕は秋元さんの部屋をでて、二階のジムに行った。ここでは、体のメンテナンスを行う。人間でいうところの体力測定をやったあと、MRIで故障個所がないか調べる。今週も特に問題はなかった。秋元さんはデータを見ながら、僕に言った。
「近いうちにセクサロイドとしての適性を見ることになったよ」
「セクサロイドですか?」
「そう。君は男性型だからね。そういう需要もあるんだよ。もちろん、女性型にもね。それで、来月の一か月間、女性型のAIと生活をしてもらう。その間に、相手の要求をどこまで許容できるかという検査だよ」
「竜宮家のヘルパーは、どうなるんですか?」
「ちゃんと代理のAIを派遣するから問題ないよ。竜宮さんには話は通してあるから」
僕はあまり気乗りがしないという気分を味わった。
「そんなに深刻な顔をしなくても大丈夫さ。今までのように適性をみるだけなんだから」
秋元さんは相変わらずにこにこしてなんでもないと言う。職種の適正の一つと考えればいいのだろうと僕は思ったが、何か胸のあたりがもやもやとするのだ。
「とりあえず、来週からはレクチャーを行うからそのつもりで」
そう言われて、僕は頷いて了承した。
それから、週末は通常メンテナンスに二回のレクチャーが加わった。レクチャーといっても、誰かが講義するわけではない。人間の性について記憶のメンテナンスと同時進行で刷り込みを行うのだ。あとは体のメンテナンスで、人間の成人男性と同じように性的機能が働くかどうかのチェックが行われた。僕には特に問題はないらしく、予定通りラボの一室で共同生活を実施することが決定した。
その日の夕食後、真利亜さんに事情を話すとすでにヒミコからメッセージが届いているから事情は分かっていると言われた。ただ、代理のヘルパーは頼まずに育休を一か月とることにしたと言う。
「夏希はシンちゃんになついてるからね。代理のヘルパーだとまた慣れるまで時間がかかるだろうし、だったら、あたしが育休して会社の方にあたしの代理を使うことにしたの」
「いいんですか?真利亜さんはお仕事好きでしょう?」
「いいのよ。たまには夏希と二人で旅行したりしてもいいころだと思ってたしね。一か月の間は、あの子にいろんな体験をさせてあげようと思って」
「それはいいですね」
でしょっと真利亜さんは笑った。そして、夏希ちゃんには僕は一か月のお休みを貰うことになったと話し、その間はママといっしょに旅行するわよと説明してくれた。
「しんちゃんはいっしょにいけないの?」
「しんちゃんだって、お休みが必要なのよ。それともママと二人は嫌?」
「嫌じゃないよ。でも、シンちゃんがいたらもっと楽しいと思ったの」
「そう、じゃあ、いつかシンちゃんと三人で旅行しようね」
「うん!それならいいよ」
夏希ちゃんは満面の笑みを浮かべた。なんだか僕は照れくさいような嬉しいような不思議が感情に満たされて、安堵した。
六月、僕の適性検査は始まった。
ラボの一室を使った検査だ。必要なものは全部そろっていて、普通のマンションの一室とかわらない。そこで僕は一か月、女性型AIと寝食をともにすることになった。相手は、意外なことに松島さんのところの明菜さんだった。
「よ、よろしくお願いします」
明菜さんは少し緊張した面持ちで挨拶をしたので、僕もよろしくお願いしますと言った。秋元さんと明菜さんの担当官前島さんは、室内にモニタリング用のカメラが設置されていることを説明して、さっさと部屋を出て行った。一か月間のメニューは特に決まっていないが、ルールは二つあった。一つは人間と同じように三食食べることと、夜はセックスをするというものだった。
最初の一週間は、お互いがなじむために夜の営みは、無理をしなくていいと言われたので、僕と明菜さんはそれぞれ別室で眠った。その一週間で、朝食は彼女が作り、夕食は僕が作る。お昼は自由にという二人の間の取り決めをした。
「あの……朝食は和食と洋食どちらがいいですか?」
「どちらでもかまいません。明菜さんが決めていいですよ」
「……わかりました」
一日目の会話はそんな感じだった。明菜さんは何かと僕に質問をする。たいてい、はいかいいえで答えられたのでそれほど悩むようなことはなかった。僕のほうはあまり質問することもなく、ただ彼女の話を聞いているという状態だった。
「信也さんの料理、とてもおいしいです」
「ありがとうございます。明菜さんの朝食もおいしいですよ」
彼女はどもりながらもごもごとありがとうございますと言った。
「あの、敬語やめませんか」
「そうですね。やめましょう」
それから、毎日のように他愛のない会話を交わす。主に明菜さんが松島さんとの生活のことや自分が好きな映画の話をしていた。
レクチャーの中で女性は共感を求める傾向にあることを知っていた僕は、ただ、ニコニコ笑って話を聞く。それが、日を重ねるごとに僕の気分を重くしていく。なぜ、そんな感情を持つのか自分でもわからない。ただ、一週間が過ぎて夜を共に過ごす日が来た時、気分は最悪だった。だから、僕にはセクサロイドの適性はないのではと疑うが、行為をしていない以上僕が勝手に判断を下すことは許されない。シャワーを浴びて身ぎれいにする。明菜さんは先に寝室に入っていた。僕はひどく気が重かった。それでも、プログラムは僕を動かす。部屋に入り、ガウンを纏いベッドに座っている明菜さんは、頬が少し赤みを帯びているような気がした。
「明かり、消すよ」
僕がそういうと彼女はこくんと頷いた。照明を消してかすかなダウンライトをつけると、僕は明菜さんの隣に座った。そして、そっと抱き寄せて口づけをしようとしたときだった。僕の意識がいきなり飛んだ。気がついたときは、ラボの秋元さんの部屋にいた。
「気がついたかい。気分はどうだい?」
僕はあまりよくないと答えた。頭の中では<ユキネ>という言葉が浮かんでいる。それと同時に彼女という言葉も生まれていた。秋元さんは珍しくため息を吐いた。そして、適性検査を継続することを僕に伝えて部屋まで同行した。扉を開けると、明菜さんが僕にしがみついてきた。
「あの、どこも異常はないですか。大丈夫なんですか」
焦ったようにいう明菜さんに秋元さんが問題はないよと冷めた目で答えていた。
「まあ、焦らないでゆっくり少しずつ関係を結んでいくことだね」
秋元さんにそう言われた明菜さんは、小さくはいと返事して、僕から慌てて離れた。
そんなことがあってから、明菜さんは僕の体にやたらと触れるようになった。そして、毎日のように手をつないで恋愛映画を見た。明菜さんはうっとりと映画に見入って、主人公が喜べば笑い、泣けば苦し気に涙を流した。
だが、僕の疑似感情は、何かを拒絶していた。その上、<ユキネ>の存在感は日に日に増していった。<ユキネ>はおぼろげに女性の姿を現すようになり、やがてはっきりと僕の脳裏に焼き付いた古い記憶のように笑っていた。僕は恋愛映画を見るたびに、<ユキネ>のことが気になって仕方がなかった。隣に座っているのが<ユキネ>だったら、そんなことまで思うようになっていたが、明菜さんは僕の変化には気がついていない様子だった。
ラボからも中止の連絡はないまま、二週間目を過ごした。そのころには、明菜さんと同じベッドで眠るようになっていた。それでも、僕には明菜さんに対して性的な感情を持つことはなかった。やはり、僕はセクサロイドしては何か致命的な欠陥があるのだと思っていた。
そして、三週間目。明菜さんから僕にキスをするようになった。どうやら、彼女はセクサロイドとしての適性があるようだ。少しずつ、少しずつキスの回数を増やしていく。僕は拒否したい感情を抑えながら、彼女の態度に少しずつ足並みをそろえる努力をしていた。
「ねぇ、あたしって魅力ない?」
不意にそう聞かれて僕は正直に答えた。
「君に魅力がないわけじゃないんだ。僕がセクサロイドとしての適性がないんだと思う」
そう答えると、彼女はそうとどこか寂し気につぶやいた。
「なら、今夜試してみようよ。本当にあなたに適性がないのかどうか」
僕は、気が乗らなかったが彼女は自分に適性があるかどうかを確認しなければならないのだから、仕方ないと思い、わかったと返事をした。そして、僕らは一夜を共にする。ただ眠るのではなく、セックスをするのだ。
ゆっくりと口づけを交わす。少しずつ、僕は彼女の体に触れる。彼女はくすぐったそうに声を出したが、僕は何も感じない。いや、拒否反応が大きくなっていく。同時に何とも言えない罪悪感が芽生えていた。積極的に行為を行おうとする明菜さんに対して、僕はどんどん何かに追い詰められていく気分だった。耐えきれなくなった僕は、ごめんといって部屋を飛び出し、シャワールームに駆け込んでいた。
次の日の朝、僕たちは無言で朝食を食べた。そのころ、モニタリングをしていた秋元さんたちが、これ以上は無理だろうと判断していたことも知らずに。その日一日はお互いに好きなことをして過ごした。明菜さんは一人で恋愛映画を見続けている。僕は電子ブックでアドラー心理学を読んでいた。だが、内容は頭にはいってこない。昨晩の行為で、もしも<ユキネ>とだったらという考えが浮かんでは消えていたからだ。僕の中で<ユキネ>というバグは一人の女性に成長していた。笑ったり、拗ねたり、怒ったりする顔が次々と脳裏をよぎる。僕は<ユキネ>にまるで恋をしているようだった。そんなとき、明菜さんが不意に<ユキネ>って誰と聞いてきた。どうやら僕は、<ユキネ>と呟いていたらしい。
「……僕の記憶媒体のバグだよ」
そう答えた僕を明菜さんは、微かに震えながら無表情のまま見つめていた。
「どうしたの?」
僕が尋ねると、明菜さんは何も答えず、ふいっとキッチンへ姿を消した。僕はなんだったのだろうと考えたがわからないまま、視線を電子ブックに戻した。そのときだった。背中に何かが突き刺さる感触を覚えた。振り返ると包丁が刺さって、体液がにじみ出ていた。僕には何が起こったのかわからないまま、今までに感じたことのない熱と痛みに体が前にのめりに倒れた。
「そんな女のことなんて忘れていればよかったのよ」
明菜さんが冷たい声でそう言った。そして、何度も僕の背中を刺し続ける。僕は抵抗もできないまま、意識を失った。
俺は雪音の笑顔みたさに、買い物につきあった。AIのくせに荷物をもってやるとありがとうと照れたように笑うんだ。それから、ヘルパーなんだから、俺の希望をかなえろよと言って強引に映画にも連れて行った。アトラクション施設にも。手をつないで歩くと、かすかに頬があからむ。俺の胸は、鼓動を速めた。俺の体の中で、欲望という熱が膨れ上がる。学校では、恋愛映画が流行っていたせいか、いつの間にかやたらとカップルができていた。俺も何人かに告白されたが、雪音に対するほどの欲望をもてなかったから、付き合うことはなかった。そして、俺は気がついた。人形に恋をしたのだと。はじめは滑稽だと思った。だけど、どんな生身の女よりも俺は雪音に惹かれていた。そして……。
俺は痛みで目を覚ました。口には酸素吸入器が当てられていて、腕には点滴の針が刺さっている。寝ぼけた様な頭は、ここがどこなのか考えていた。
「どうやら、一命はとりとめたようだね。気分はどうだい」
白衣を着た男が話しかけてきた。俺はすぐにそれが秋元だとわかった。そして自分にすべての記憶がもどっていることを自覚した。俺は吸入器を外して秋元に尋ねる。
「俺は……なんで刺されたんだ……」
そういうと、秋元は記憶も戻ったかと言った。
「もう、大体のことは検討がついていると思うが、君は早乙女信也という人間だ。そして、明菜も同じ人間だよ」
「それで?刺された理由はなんだ?俺は単にAIとしてセクサロイドとしての適性があるかないかの検査をしていただけだろう?」
「確かに君はそうだが、彼女は違うよ。君に恋をしていた。だから、パートナーとして希望したんだ。マッチングでは君たちがパートナーとして成立する可能性は50%未満だったけどね。女性の希望は優先されるからね」
「ああ、あれか保護政策か」
保護政策とは、2020年代におこったSARSによるパンデミックで人類の半数が死に至り、当時、各国で試験的に運用されていた汎用AIの判断により、残った人類を保護するための政策だった。子供を生む女性たちには、男性を選ぶ権利が与えられ、マッチングによる婚姻などが進んだが、離婚や親権放棄などが後を絶たず、子育てはAIの仕事となった。そんな経緯を俺は学習していたことに思いをはせる。秋元は俺の言葉に頷き、言った。
「明菜は君に一度振られたらしいんだ。高校の時だったそうだよ。だけど、あきらめきれず、今回の申し出をしたというわけだ。まさか、彼女が君を刺すなんてことはこちらでも予測がつかなかった。すまなかったね」
「いや、別にいい。俺は死んでも構わなかいからな」
「どうしてだい?」
「あんたは俺の担当官だろう。だったら、知ってるはずだ。俺が好きなのはAIの雪音だってことをさ」
俺は、今でも雪音を思うと胸が締め付けられるような苦しさを覚える。それがつらくて、記憶を消してAIヘルパーという職業を選んだのだ。
「そのことなんだがね。雪音はAIじゃないんだよ」
「え?……」
どういうことだ?俺はかすかな期待と混乱の入り混じった感情にどう反応していいかわからなかった。
「彼女も人間だったということさ。ただ、君は未成年だったし、彼女のことをAIだと認識していたから、マッチングは行われなかった。もちろん、君たちの間で性交渉があったことはこちらも把握している。法的には、同意の上のことだから何も問題はなかったけどね」
俺は愕然とした。雪音は人間の女だったのだ。恋に堕ちても問題のない相手だ。
「だったら、なんで姿を消したんだ!俺に言えばよかったんだ。人間だって」
「それは、本人にしかわからないよ。それに成人していない男子にパートナーの資格はないからね」
「雪音はどうしてるんだ?もう、誰かと暮らしてるのか?」
秋元はいつもの温和な顔をして、ドアの方に歩いて行った。そして、一人の女性を伴って戻ってきた。
「雪音……」
そう呼ぶと、彼女は目に涙を浮かべて微笑んだ。
「ごめんね。急にいなくなったりして」
そう言いながら、俺の手を取る。
「怖かったの。貴方の思いが一時的な恋なんじゃないかって思ったら、怖くて逃げてしまったの」
すがるようにそう言われて、俺は何も言えなくなった。
「顔、見せてよ」
そういうと、ゆっくりと雪音は顔を上げた。思い出の中の雪音より少し痩せて、髪も長くなっていた。けれど、大きな瞳も薄い唇も変わっていない。
「今はどうしてるんだ?」
「一人で暮らしてる。電子書籍の校正をしながら……」
「パートナーは?」
雪音は首を横に振った。
「だったら、俺がパートナーになってもいいか?」
雪音は驚いたように目を見開いた。
「俺は、お前がいいんだ。だから、記憶を消してAIヘルパーを選んだんだ。その間も、お前の名前だけは消えなかった」
雪音は、ぽろぽろと涙を流して、嬉しいと笑った。俺の頬にも熱いものが流れていく。消えない名前を抱きしめて生きてきた。そしてこれからは実在の雪音の隣にいることができる。そう思うと胸が喜びであふれた。
雪音がそっと俺の涙を拭ってくれた。暖かい手。柔らかな感触。
「もうどこにもいかない。信也の側にいるわ」
そして、優しい口づけをくれた。
その日から、毎日のように雪音は俺のところにやってきた。
「仕事は大丈夫なのか」
「平気、自由業だもの」
嬉しそうに笑う雪音に俺は安堵の笑みを返す。そして、一つの疑問を聞いてみた。なぜ、AIヘルパーになって自分のところにきたのかと。俺の家族は父親だけで母親は俺が十五の時に急性心臓病で他界していた。男二人の生活は少しずつ荒れて、俺が高校に入ると雪音がヘルパーとして派遣されてきた。
「女は二十歳になったら、いろんな家庭にヘルパーとして派遣されるの。最初の派遣先が信也のところだったんだ」
雪音は、少し間をおいて照れくさそうに頬を染めてゆっくりと話す。
「あたし、信也に一目ぼれしちゃったの。でも、思春期の男の子とどう接していいのかわからなくて最初はかなり緊張してたのよ」
俺はそんなことを言われて自分の行動を思い出しながら申し訳ない気持ちになった。AIだと思っていたから最初はろくなコミュニケーションをとらなかったのだ。それでも雪音は一生懸命働いて、俺に話しかけてくれた。毎日、おかえりなさいと出迎えてくれる雪音に仏頂面でああとかそんな返事しか返していなかった。俺自身も戸惑っていたのは確かだと思う。
そして、だんだんと好きになっていたのだと俺は思う。優しくて、いつも笑っていた雪音が俺を叱ったことが一度あった。それは、クラスの女の子をお前が誰かわかんないから付き合えないといって振った日のことだった。俺は機嫌が悪くて、父は仕事で出張中で不在。食事をいらないと言ったら、雪音がちゃんと食べないと体に良くないといい、うるさいなと口論になった。雪音は静かな声で言った。
「学校で何があったのか知りませんが、食事は大事なんです。作った人の気持ちも考えてください」
俺は勢いで女の子を振ったことを言った。知らない人間と付き合う気はないっていったら泣き喚いたこと。友達と称する女どもに囲まれてなじられたことを。それに対して雪音は言った。
「告白する女の子たちは必死なんです。そんな言い方したら泣かれて当然です。信也さんはもっと周りをよく見てください。女の子たちのしたことはよくないことだと思いますが、信也さんも悪いです」
「AIのくせに説教すんな!」
「します。人を傷つければあなただって傷つきます。だから、食事はいらないといったのでしょう」
俺は図星を刺されて黙った。正直、よく知らない相手から好きだと言われても、困惑するだけで断り方なんか知らない。正直に答えたら、女どもに囲まれてなじられた。冷たいとかひどいとか、言い方をかんがえろとか……。それが結構俺にはきつかったのだ。
その日はとにかく叱られたことが癪に触って、ふて寝した。それから、少しずつ周りを見るようになった。特に女どもに対しては慎重になった。雪音の怒った顔が頭から離れなかったからだ。たぶん、そのときから、少しずつ雪音に好意を持ち始めたのだと思う。気がついたら、いつも雪音とクラスの女どもを比べていたのだから。
「信也はいつからあたしのこと好きになったの?」
そう言われて内緒と俺はそっぽを向いた。
「ひどい。あたしはちゃんと言ったのに」
「恥ずかしいから内緒だ。だけど、今はちゃんと言えるよ」
俺は真剣な顔で言った。
「愛してる」
雪音は真っ赤になってもうずるいなぁと笑った。
<中間報告>
早乙女信也と望月雪音について
2058年7月より、早乙女信也は正式に望月雪音のパートナーとなった。マッチングは90%と高い数値であり、定期的な観察においても誤差は5%未満である。また、早乙女信也は、竜宮家のヘルパーを継続。ただし、住み込みから通いに変更。六年間は転職をせず。その間、望月雪音との間に二児の子をもうける。長子、幸也が10歳、次子、音羽が6歳になったころ、第三保護区へ転居。信也は第一次産業に従事、雪音は校正の仕事を続ける。離婚の兆候はなく、穏やかな家庭を作っている。
マッチングのパーセンテージは、確実性が高まっていることが本件でも証明されている。他の事例でも、マッチングが80%以上であれば、離婚率、親権放棄率も低下していることが判明した。よって、マッチングによる婚姻は、人間における恋愛感情主体の婚姻よりも適切であると考えられる。ただし、人間の多様性や自由度を考慮した場合は、60%以上が適正と考えられる。
なお、小牧明菜については、記憶を凍結しリハビリセンターに送還。詳細は担当官前島より報告書提出あり。
<中間報告>
小牧明菜について
記憶凍結後、リハビリセンターにてアサーショントレーニングを行う。
3年間のトレーニングにより、コミュニケーション能力に変化有り。よって、記憶凍結を解除。
一時的なパニックを起こしたものの、深く反省し、人生のやり直しを希望。第一保護区にて、10年間、社会奉仕として介護に携わる。現在、介護職を続けながらマッチングにおける70%の西島博文と交際中。
ヒミコは日々各擬人化AIからのデータを解析し、できるかぎり自然の状態で人間を保護する方針をとっている。それは、未だに人間の恋愛感情の発生と消失について、確定的なデータを得られないからであった。マッチングのパーセンテージが低くても家庭を維持している者たちもおり、データの不足は否めない。故にヒミコは、女性の希望する男性との生活に干渉することをひかえる方針を継続した。
<終>