第19部 I Wish ―願い― 【3】
日曜日だというのに本部長官室まで呼び出されたウォルター・エダースは、不機嫌な顔で事務員が運んできたご自慢のロイヤル・コペンハーゲンに注がれたコーヒーを飲んでいた。しかし、機嫌の悪さでは本部長官のエルミス・バーグマンの方が更に上回っていた事を彼はこの後知る事になるのだ。
「一体どういうつもりだ?ウィル」
「何がだ?」
窓際に立ったエルミスは、こちらを見もせずにコーヒーを飲んでいるウォルターを振り返って見た。
― このヤロー、しらばっくれるつもりだな・・・ ―
ウォルターはソファーに腰掛け、足を組んでのんびり背もたれにもたれ掛かっている。
「今日、合同訓練の会議がここであってなぁ・・・」
「それで・・・?」
ウォルターは顔色も変えずに答えた。
「いつもは本部のリーダーと訓練校の教官に任せてるんだが、今日に限って俺も参加したんだ。そう。もちろん訓練校からは教官だけでなく、訓練生の代表として、各チームのリーダー達も参加していたよ」
さっと表情の固まったウォルターを見て、エルミスは“そーれ、顔色がかわったぞ”と内心ニヤリとした。
「もう、3年生になっちまったんだなぁ・・・。何でもっと早く言ってくれなかったんだ?俺はあの子が来るのをずっと心待ちにしていたのに・・・・」
エルミスがぐーっとその大きな顔を近付けてきたので、ウォルターはぎゅーっと首をねじって横を向いた。
「何の、話・・・かな?」
「しらばっくれるんじゃない!」
エルミスが思いっ切りセンターテーブルを叩いたので、ウォルターはその上にはめ込まれているガラスが割れるのではないかと思った。そうなれば、彼の愛する名器もただでは済まないだろう。
「ジュードだよ!何でこの俺に黙ってたんだ?え?あの子がやっとここにたどり着いたって事をお前は知っていたんだろう?しかもAチームのリーダーって言うじゃないか。俺はもう・・・俺はもう、嬉しくて・・・」
エルミスがその大きな太い手の平で顔を覆って泣き始めたので、ウォルターはびっくりして彼の肩に手を乗せた。
「エ・・・エル、すまん。別に隠すつもりは無かったんだ・・・ただ・・・」
ウォルターが“何となく言い辛くて・・・”と言い訳をしようとしたが、「隠すつもりは無かっただとぉ!?」と叫びながら突如エルミスが丸くなっていたその巨体を起き上がらせたので、ウォルターはソファーの上に吹き飛ばされた。
「2年以上も黙っておいて、何が隠すつもりは無かっただ!あーっ、お前って奴は、支部隊員時代からちっとも変わっとらん!いつまでたっても臆病で腰抜けで意気地なしだ!」
エルミスの侮蔑の言葉にウォルターは返す言葉も無く、フーッと溜息を漏らしながらソファーに沈み込んだ。
「ああ、その通りだよ、エル。俺は臆病で腰抜けで意気地なしなんだ」
― フン、開き直りおって・・・ ―
エルミスは心の中でブツブツ呟くと、ウォルターの前にある大きなソファーにドサッと音を立てながら座った。ウォルターはうつむいたままぎゅっと両手を握り締めた。
「最終試験の受験者の中にあの子の名前を見つけた時、嬉しい反面どうしたらいいか分からなかった。5年以上も経って今更どんな顔をして会えばいいんだ?あの子はせっかく会いに来た自分を無碍に追い返した俺との約束を守って、必死にここまでやって来たと言うのに・・・。
俺はとてもじゃないが、名乗りを上げることなんて出来なかった。でもあの子は・・・ジュードは、以前お前が教えてくれた少年の頃とちっとも変わって無くてな」
ウォルターは急にうつむいた顔を上げると、ソファーから身を乗り出してエルミスに笑顔を向けた。
「そりゃもう、良い目をしてるんだ!キラキラと輝いていて真っ直ぐで。毎日毎日めきめきと成長してるって感じでな。あの子はきっと良い機動救難士になるぞぉ!」
まるで息子の成長を嬉しそうに語る父親のような顔をしてジュードの自慢をするウォルターを、エルミスは冷めた目で見た。
「ほうっ、そうか。それで?ジュードにはもう、あの時“無碍に”君を追い返した“臆病者のウォルター・エダース”は私です。と名乗ったんだろうな」
「いや、それが・・・その・・・」
ウォルターは再びエルミスから目を逸らしてうつむいた。
「ほほおう?まだ名乗ってない。まさかお前、あと半年もすればあの子も卒業だから、それまでバレなきゃいいだろう・・・何て思ってるんじゃないだろうな」
「そ・・・確かににそんな風に考えた事もあったんだが・・・・」
ウォルターは言葉を詰まらせると、目だけを上げてチラッとエルミスを見た。
「どうやら・・・バレてるみたいなんだ。でもジュードも何も言って来ないし・・・」
「はぁ?」
もうエルミスは呆れて物が言えなかった。普段は長官の俺より偉そうで、SLSの校長という権限を最大限に生かす頭を持っているくせに、こと娘や息子のように思っている人間に対しては、全くの腰抜けになってしまうとは・・・・。
「お前は馬鹿か?ジュードの方から名乗れるわけ無いだろう。又お前に、『そんな奴は知らん。俺は忙しい。帰ってくれ』なんて言われるのが怖いに決まってるじゃないか!」
「ああっ!そうか!」
ウォルターは全くその事に気が付かなかったらしい。びっくりしたように顔を上げると銀色の髪の毛をかきむしった。
「俺は『今更名乗るんだったら、どうしてあの時会ってくれなかったんですか?』ってあの子に責められるんじゃないかと・・・」
「こ・・・んの・・・!」
エルミスは額に青筋を浮き上がらせて立ち上げると、彼の頭の上から怒鳴りつけた。
「お前はジュードがそんな了見の狭い人間だと思っていたのか?ああ、お前なんかに言われなくても一目見て分かったよ。あの子は7年前とちっとも変わってない。あの時と同じように輝くような瞳でまっすぐ未来を見つめているとな!それをお前は2年も一緒に居て分からないなんて!もういい。辞めろ!お前にSLSの校長なんか任せておけるか!」
30年来の親友にぼろくそに言われ、ウォルターはしゅんとなってうなだれた。
「どうしたら・・・いいかな?」
「はぁ?そんな事、自分で考えろ!いいか!もしジュードが卒業するまでに名乗りを上げなかったら、俺はお前の免職届けを出してやるからな!」
憤慨したように叫ぶと、エルミス・バーグマンはその巨体を震わせながら長官室を出て行ってしまった。
2回目の合同訓練会議は2月の半ばに開かれた。平日だったので教官とリーダー達は授業を休んで参加しなければならなかったが、本部の意向とあれば仕方が無かった。合同訓練までそう日数があるわけではない。できる限り話を詰めなければならないとあって、訓練校側は昼一番に呼び出された。
前と同じ5階の会議室でミーティングが行われるという事だったが、フロントの女性がエレベーターに向かおうとする彼らを呼び止めた。
「申し訳ありません。本日のミーティングの場所は変更になりました。少しこちらでお待ち願えますか?」
女性がフロントの電話で確認を取った後、前と同じようににこやかに手を差し出した。
「本日は3階の聴講室で行うそうですわ。あちらのエレベーターでどうぞ」
― ドサッ・・・ ―
自分の真後ろで何かが落ちた音がして、ジュードは振り返った。足元に持っていた書類のケースを落としたシェランが、真っ青な顔をして立っていた。彼の隣に居るマックスも様子がおかしいのに気付いて振り返った。
「教官・・・?シェラン教官」
マックスに声を掛けられ、シェランはハッとしたようにかがみこんだ。ジュードも散らばった荷物を拾おうと、しゃがんで彼女の耳にささやいた。
「シェラン、どうかしたのか?」
「いいえ、何でも無いわ」
シェランはすぐに笑って答えたが、ノートを受け取る手が、わずかに震えているのにジュードは気が付いた。何事も無かった様にシェランは立ち上がると,エレベーターホールに向かって歩き始めたロビーの後を追った。
ジュードも立ち上がって彼女の後姿を不安な顔で見送ったが、更に後ろに立っていたクリスの表情を見て驚いた。いつも水の様に静かな雰囲気を湛えている彼が、まるで炎を体中から溢れさせているかのような激しい怒りを顕わにしながら立っていたのだ。サミー達も気付いたらしく、戸惑ったように彼を見ていた。
― 一体何なんだ?この教官達の張り詰めた空気は・・・ ―
訓練生の誰もがそう思っていた。
3階にエレベーターが昇って行くにつれて、シェランはまるで呼吸困難に陥ったように胸が苦しくなってくるのを感じた。
聴講室・・・。もう二度と行きたくなかった場所・・・。
冷たい汗が体中に溢れてきそうなほどの息苦しさ・・・。このまま意識が暗い闇の中に溶け込んで倒れてしまいそうだった。だが、自分を見つめる視線に気付いてシェランは顔を上げた。ジュードとマックスが心配そうにじっと見つめている。
― 駄目だ。しっかりしないと・・・・ ―
シェランは2人に笑いかけると丁度開いたドアを出て、その場所の前に立った。ロビーが両開きのドアの取っ手を持ってドアを開ける。中は見なくても良く覚えている。50人程の席が階段状に上にあがっていて、それが低い位置に立つ小さな演説台を取り囲むように並んでいる。そして紺色の制服を着た審問官がその高い段上の席から、たった一人の無実の加害者を追い詰めるのだ。
3年前に見た光景がありありと頭の中に浮かんで、シェランは息が止まりそうになった。
「おや、訓練校の皆さんは今到着したのかね?」
後ろから聞き覚えのある声が聞こえてきて、マックスはむっとして振り返った。1回目の会議で散々嫌味を言っていたBチームの副リーダー、パット・ネイブルスがリーダーのニコラスと共に立っていたのだ。
クリスはさっと表情を変えると、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「さあさあ、入りたまえ。他のリーダーはとっくに来ているよ」
パットはそう言って中に入るように勧めた。ぞろぞろと人々が聴講室に入っていくのを見ていたパットは、シェランが前を通り過ぎる時、彼女にだけ聞こえるように囁いた。
「泣き叫びたくなる程懐かしいだろ?カーナル・オブ・ザ・フィッシュ・・・」
だが、その声は彼女の後ろに居たクリスの耳にも届いた。
「やっぱり貴様が仕組んだんだな!?」
パットに掴みかかって行こうとしたクリスの腕を、びっくりして戻って来たロビーが掴んで押しとどめた。
「離せ、ロビー!この男、許さん!」
「立場を考えろ、クリス!生徒の前だぞ!」
「クリス、やめて!」
目の前に飛び込んできたシェランの顔を見て、やっとクリスは我に返った。
「教官・・・!」
そして自分を呼ぶサミーやヘンリーの声もやっと聞こえてきた。クリスは握り締めた拳をゆっくりと下ろすと、謝るようにサミーの肩をぎゅっと握った。
「さすが、女の尻を追いかけて本部隊員を辞めただけはあるな。殴る勇気も無いのか?」
パットの挑発を聞いて、今度は訓練生達が怒りを感じる番だった。
― 何なんだ?この男は・・・。これでも本部の副リーダーなのか? ―
しかも、側に居るリーダーのニコラスは、彼のこの無礼きわまりない行為を止めようともせず、黙って見ているだけだ。シェランはきりっと眉を吊り上げると、パットの前に立ってひょろりと背の高い彼を見上げた。
「仲間を侮辱するのが本部隊員の仕事なのかしら?これ以上、あなた方にあこがれている訓練生の前でみっともない姿をさらし出すのはお止めなさい」
シェランはそう言った後、自ら反対側のドアを引き開け、聴講室の中に入って行った。
「この場所がどうしたって言うの?私は全然平気よ。さあ、ミーティングを始めましょう!」
心配して入り口まで来ていたレイモンド達は,ホッとした様に元の席に戻った。
一時はどうなる事かと思ったが、合同訓練の話し合いは滞りなく進められた。ジュードは又バーグマン長官が司会をするのかと期待していたが、彼はあの時本当にジュードの為だけに司会をかってくれたらしい。普段はレイモンドが司会進行を任されていた。
それでも時々シェランやクリスとパットやニコラスとの間に流れる張り詰めた空気に不安を感じて、ここにエルミスが居てくれたら良かったのに、と思わざるを得なかった。
それぞれのチームのリーダー達は教官と共に訓練校に戻ったあと再び授業を受けたが、誰からともなく今日の放課後リーダーミーティングをしようという話になった。どう考えても、今日の教官達の様子は只事ではなかったとみんな思っていたのだ。放課後、本館4階の会議室にリーダー達が集まると、今夜の司会進行役であるジーンが皆の前に立って全員に尋ねた。
「お前達も感じている通り、今日の教官達の態度はどう見てもおかしかった。いや、今日だけじゃない。前回のミーティングからやけにあのパットってヤロー・・・もとい、Bチームの副リーダーは、シェラン教官を目の敵にしていたようだが、それについて君達の意見を聞きたい」
ジーンの呼びかけに、サミーが手を挙げた。
「クリス教官も変だったぞ。あの落着いている人があんなに怒っているのを初めて見た」
「多分、会議室が移動になったあたりからだ。シェラン教官は“私は全然平気よ”って言っただろ?本部隊員時代、あそこで何かあったんじゃないか?」
サミーに続いてヘンリーが答えた。
「ジュード、教官から何か聞いてないのか?」
マックスから尋ねられたが、ジュードは首を左右に振った。考えてみればシェランと一緒に居た時、本部隊員時代の話をした事はほとんど無かった。それはシェランが話したくなかったのか、それともジュードが自分の知らないクリスとの思い出を聞かされるのが嫌だったのか、あるいはその両方だったのか、今となっては良く分からなかった。
「あのさ。ちょっと小耳に挟んだんだけど・・・」
アーリーが静まり返った中、遠慮がちに切り出した。
「お前ら、怒らないで聞いてくれよ。これはあくまで噂だからな」
アーリーはもったいぶった言い方をすると、全員の顔を見回した。
「実はシェラン教官が本部隊員を辞めたのは・・・チームリーダーの命令を無視した為に、たくさんの人が救助出来なくて・・・死んだかららしいんだ。それで、教官は査問委員会から審問を受けて除隊させられたんだって・・・」
「何・・・だとお?」
ヘンリーは立ち上がると、いきなりアーリーの胸ぐらを掴んだ。
「何処の誰がそんな根も葉もない噂を立てやがるんだ!あの人はな、自分が死んでも人を救おうとするような人間だぞ!それを・・・!」
「だ・・・だから噂だって言ったじゃないか!」
アーリーはヘンリーのあまりの怒りに、泣き出しそうになりながら叫んだ。
「噂だろうと何だろうと、そんな事を真に受けて言う奴は許さん!」
「よせ!ヘンリー!」
サミーとザックが今まさに、アーリーを殴ろうとしている彼を2人がかりで押さえ込んだ。
「すまんな、ジーン。話を続けてくれ」
まだ暴れまわっているヘンリーを、サミーと両手で押さえ込みながらザックが言った。
「ジュード、お前はどう思う?」
ジーンが口元に手を当てて考え込んでいるジュードに尋ねた。
― 査問委員会・・・審問・・・聴講室・・・ ―
もし、今アーリーが言った事が本当ならば、今日のシェランとクリスやパット等のやり取りの説明がつく。彼女の命令違反でたくさんの人の命を救えなかった。それはチームのリーダーや副リーダーにとって、とても辛い、嫌な思い出だろう。そして、シェランが審問に掛けられたのがあの部屋だったとすれば、シェランにとって二度と入りたくない部屋だったに違いない。
だが、それが本当に真実なのか?オレが知る限り、シェランはもし自分のせいでたくさんの人が死んだのなら、SLSの教官には決してならなかっただろう。いや、きっとライフセーバー自体を辞めてしまったに違いない。そして、自分の愚かな行為を悔やみながら、ひっそりとあの家で亡くなった人々の冥福を祈り続ける筈だ。
ジュードは立ち上がると、皆の顔を見回した。
「多分、アーリーが知っているという事は、この訓練校内でも知っている人間が居るという事だ。だが今までは皆聞き流していた。本当のシェラン教官を知っているから。だが、本部のBチームのあの感じでは合同訓練の際、何も知らない訓練生にまで、まことしやかに噂を流す可能性は高い」
その通りだと皆が頷いた。
「本当の真実より噂だけが先行して流れると、この間みたいな騒ぎに発展しかねないだろう。そうなると、シェラン教官のこれからの教官としての人生に支障が出るばかりか、悪くすれば今度はこの訓練校を追われる事になるかも知れない」
新学期が始まって以来の騒ぎで、深く傷つき追い詰められたジュードは、噂の恐ろしさは身をもって知っていた。あんな辛い経験をシェランにだけは味あわせたくなかった。
「歪曲して捻じ曲げられた噂が流れる前に、事の真相を知る必要がある」
その言葉にジーンとサミーは難しい顔をした。
「真実を知ると言っても、俺達が入手できる情報なんか、世間の気を引く為に捏造された新聞や雑誌の記事しかないと思うが・・・」
ジーンの意見にサミーも頷いた。
「多分クリス教官は真実を知っている。だから、シェラン教官をかばおうとしているんだ。だけど彼に聞いても多分教えてはくれないだろうなぁ・・・」
とりあえず手分けして、出来る限りの情報を収集しようという結論になった。合同訓練まで日数が無いので三日後にもう一度ミーティングをしようと決めて、彼らはそれぞれの部屋に引き上げた。