第19部 I Wish ―願い― 【2】
木曜日の夜に行われた教官会議で、ロビーは本部との合同訓練に際しての注意事項や教官として彼らが行うべき任務をクリスとシェランに教え込んだ。他の教官ならすぐに本部との打ち合わせに入れるのだが、今回初めてプロとの合同訓練を経験する2人の為に、ロビーが早目に教える事にしたのだ。
だが、シェランもクリスも2年前までは本部隊員だったので、あえて難しい話をする必要は無かった。彼等は4年間、本部隊員としての経験を積んでいたからだ。
合同訓練の話が意外と早く終わったので、ロビーは報告会をやろうと言い出した。少し元気の無い後輩へのロビーの配慮であった。
その日彼らは夜遅くまで、それぞれの担当する生徒のデータを見ながら、意見を交換し合った。クリスの予想通り、ロビーは几帳面に毎日の授業での生徒の状態をチェックしていて、それを分厚いノートに一つ一つ丁寧に手書きで纏め上げているのにはシェランもクリスも驚いた。
一方シェランはこの間クリスの教官室で彼に見せた資料に更に手を加え、生徒の潜水記録を他の2人が見やすいようにグラフ化していた。
そしてクリスは、生徒の筆記テストの成績結果と救急救命に関する知識の増加をデータ化し、更に前年度との比率を求め、表に記していた。加えて、今年一年にわたって行うべき授業予定と、生徒一人ずつの年間成績目標を定めてあった。
それを見たシェランが「素晴らしいわ、クリス。パーフェクトね!」と手を叩いて言うのを聞いて、彼は非常に満足げに微笑んだのだった。
2月に入ると、3年の教官達は本部のリーダーと合同訓練の話し合いを始める。合同訓練は訓練校から本部にお願いしてやらせて頂くようなものなので、教官自ら本部まで行かなければならなかった。それには訓練生のチームリーダーと副リーダーも参加する事になっていた。
本部隊員の都合を聞くと日曜なら全員予定が開いていると言うので、ジュードは最終試験以来、2度目の本部へ教官や仲間と共にやって来た。教官にとってはわざわざ日曜出勤をしなければならないのだが、ジュード達は本部にいけるのなら日曜だろうと放課後だろうと全く気にならなかった。
「本部って、どんな所だろうな・・・」
マックスが期待一杯に呟いた。
「ジュード、最終試験のあと行ったんだろう?どんなだった?」
なぜか妙に緊張しているシェランやクリスの様子に気を取られていたジュードは、驚いたようにマックスの方を振り返った。
「あ・・ああ、そうだな・・・」
彼は少し考えた後「そういえばオレ、入り口までしか入ってないからなぁ・・・」と曖昧な答えを返した。あの時ジュードは、本部の隊員が出動する裏側の出入り口から入ったのだが、シェランを助けるのに精一杯で、あまりはっきりとは覚えてなかったのだ。
本部に到着すると、ジュードとマックスは「おーっ!!」と声を上げた。さすがSLSの本部だけあって、支部とは高級感が違う。大きなガラスの自動ドアにはSLSのマークがすりガラスになって掘り込まれ、それが両側にさあっと開くと、広いロビーが現れた。ロビーの床は深いグリーンの大理石でピカピカに磨かれている。
正面奥の壁も深いグリーンの大理石で、巨大なSLSのカモメのマークと真鍮で造られたSLSの金文字が、天井に付いている2個のサーチライトによって浮かび上がっていた。
ジュード達が余りに感動しているので、本部前で合流したジーンが不思議そうに言った。
「お前等。こんなに近くなのに、本部に来た事ないのか?」
「え?来てもいいの?」
ジュードがびっくりして叫んだ。彼等は訓練生が本部に行ってはいけないと思い、遠慮していたのだ。
「何言ってるんだ。せっかくSLSの訓練生になったんだから、本部くらい見せてもらわなくてどうする。俺はここに来てすぐに見学に来たぞ」
「僕もチームの仲間と来たよ。SLSの訓練生だって言ったら、中まで案内してくれたなぁ」
サミーも楽しそうに言ったので、ジュードとマックスは物凄く損をした気がした。
ロビーの奥にある、木製の濃いブラウンの受付台に居た女性職員が、彼らを待ち受けていたように立ち上がった。
「SLS訓練校の者です。今日は合同訓練の打ち合わせで参ったのですが・・・」
ロビーが女性に話すと、彼女はにっこりと微笑んで正面の左側に手を差し出した。
「その道を真っ直ぐ行くとエレベーターホールがあります。ミーティングは5階の会議室Aで行われますわ」
教官達は礼を言ってエレベーターホールの方へ向かったが、ジュードはその女性にひそひそ声で尋ねた。
「すみません。あの・・・トイレは何処ですか?」
彼女は再びにっこり笑うと、エレベーターとは反対側に手を差し伸べた。
「あちらの廊下を真っ直ぐ行くと、左手にありますよ」
ジュードは受付の女性に礼を言うと、マックスに“すぐ行く”と合図を出して反対方向に早足で歩き出した。
「何を考えてるんだ?あいつは・・・。トイレくらい済ませて来い」
ジーンがムッとして言ったが、ジュードは午前中ずっとマイアミにバイトに行っていて、帰って来るのがぎりぎりになってしまったのだ。事情を知っていたマックスは「初めて機動の本部隊員と会えるから緊張しているのさ」と軽く答えた。
「あー、参った。でも会議中に中座するよりいいよな」
一階のトイレに飛び込んだジュードは、恥ずかしさを隠すように独り言を呟きながらトイレから出てきた。だが急に目の前を何か巨大な黒い影が横切ったので、驚いて立ち止まった。
彼の目の前を通り過ぎた男はその身長もさる事ながら、横にもかなり幅広かった。体重は軽く100キロを超しているだろう。その山のような体の上についている大きな顔をジュードの方に向けて彼も立ち止まり、見知らぬ青年の顔をじっと見ていた。
この体型ではどう考えても本部隊員では無いだろうが、本部に居るのだからここの関係者だろう。ジュードはすぐに妙な誤解をされないように敬礼をし、―トイレの前で敬礼をするのはちょっと恥ずかしかったが― 自分が訓練生である事を告げ、名を名乗った。
だがその男はジュードの名を聞くと、まるで奇跡を目の当たりにしたような目をして急に「おおおーっ!!」と叫んだ。その叫び声は誰も居ない廊下中に響き渡ったが、男は全く気に留めることも無く、びっくりして固まっているジュードをその太い両手で子供をかかえるように軽く抱き上げた。
「わああっ!何をするんですか!」
ジュードは恥ずかしいのと訳が判らないのとで真っ赤になって叫んだ。彼はジュードを降ろすと、ジュードのふた周りも大きな顔を近付けて満面の笑顔を向けた。
「俺だ、ジュード。エルだよ。ワシントン支部で会っただろう?もう7年も前の事だから忘れてしまったか?」
ジュードは信じられないような顔をして、彼の瞳をじっと見た。忘れる筈など無い。彼は恩人のウォルター・エダースの事を教えてくれた人物なのだ。
「エルさん?ほんとに?す、すみません。オレ、全然気付かなくって・・・」
「わはははは、当然だ。引退してから随分太っちまったからな。ジュード、お前はちっとも変わってないな。そのくせっけの黒髪もその瞳も昔のまんまだ」
7年前たった一度会っただけなのに、彼が自分を覚えていてくれた事がジュードはとても嬉しかった。エルは引退して本部の事務職にでも就いたのだろう。だからこんなに太ってしまったんだな。
「所で今日は本部に何をしに来たんだ?見学なら案内してやるぞ」
何をしに来たと問われ、ジュードはやっとここにやって来た目的を思い出した。
「ああっ!エ、エルさん、すみません。オレ、本部のリーダーと打ち合わせに来たんです。合同訓練の。早く行かなきゃ会議が・・・」
「合同訓練?じゃあジュード。君はチームのリーダーか副リーダーになったのか?」
「はい、Aチームのリーダーです。じゃ、オレ行きます!」
駆け出していこうとするジュードの腕を、エルがむんずと掴んだ。
「慌てんでもいい。俺が一緒に行ってやるよ」
「え?で・・でも・・・」
ジュードの足はそれでも前に行こうともがいていたが、エルの強靭な腕から逃れる事は出来なかった。
すぐ戻ると合図を送っていたくせに、いつまでも戻ってこないジュードに、マックスはいらいらしながら自分の前に座っている本部隊員を見た。全員席に座ってジュードが戻ってくるのを待っているのだ。
「おい、ジュードはどうしたんだ?腹具合でも悪いのか?」
隣に居るサミーが心配してささやいてきたが、マックスは返事をする事さえ出来なかった。
― バカヤロー!リーダーのくせに何やってんだあぁぁー!じゅうううどおおおおーっ!! ―
それにしても、さっきからシェランの様子がおかしい事にマックスも気付いていた。ロビーは本部隊員に会った時、時間を取ってくれた事に対して礼を述べた後、以前から面識もあるので、本部側の全員と挨拶を交わした。
しかしクリスは以前自分が所属していたCチームのリーダー、副リーダーと挨拶を交わしただけだったし、シェランにいたっては、Aチームのレイモンドに「久しぶりだな」と声を掛けられるまでは何一つしゃべらず、その返事も「ええ・・・」と答えただけであった。
マックスも本部隊員時代、シェランが所属していたのはBチームだと知っていたので、何故彼女が昔の仲間に声どころか、顔も見ようとしないのか分からなかった。
「一体Aチームのリーダーは何をやっているんだ?帰っちまったんじゃないだろうな」
Bチームの副リーダー、パット・ネイブルスが細くとがったあごをしゃくりあげながらシェランを見た。マックスや他のリーダー達は蒼白になってうつむいた。確かにいくらなんでも遅すぎる。教官達の様子もおかしいというのに、これ以上空気が悪くなったらどうしよう。マックスはまるで生きた心地がしなかった。
エレベーターが5階に到着すると、ジュードはまるでエルの小脇に抱きかかえられるようにしてそこから降りてきた。
「あ、あのエルさん。いいんです。ちゃんとオレが謝りますから・・・」
「わはははははっ、気にするな、ジュード」
エルは豪快に笑いながら、大またでのしのしと廊下を歩いていった。だが気にするなと言われても、気にしないわけにはいかなかった。
エルはこの本部で働いているとはいえ、ポロシャツとスラックスというラフな彼の服装は、このSLSでトップクラスのチームを率いるリーダーに何かを言える立場ではない事を示していた。自分が原因でエルに何かお咎めがあったらどうしよう。そう思うと、ジュードは彼の親切を素直に受けるわけにはいかなかった。
「エルさん、本当にいいんです。オレが遅刻したのをエルさんに謝ってもらわなくても・・・」
「いいから、いいから・・・」
「エルさん!」
会議室Aの中は、いまや張り詰めた空気が漂い、静まり返っていた。
「全く、リーダーの教育もちゃんと出来ていないようでは、これから先が思いやられるな。本当に彼は3年生なのかね?訓練校Aチームの教官」
パッドが嫌味たっぷりに言ったので、周りの気まずい空気を察してレイモンドが立ち上がった。
「Aチームのリーダーは道に迷ってしまったようだね。僕が探して来よう」
「いいえ、レイ。私が行くわ」
シェランが立ち上がろうとしたその時、ノックも無しに勢い良く扉が開かれた。
「わっははははははっ、いやあ、遅れてすまんな。SLS訓練校の諸君!」
エルはその巨体を無理やりドアに押し入れると、彼の体の後ろに隠れて全く見えなかったジュードの肩を抱えるようにして、自分の前に押し出した。
「とても懐かしい旧友に廊下でばったり会ってしまってね。彼が行こうとするのを、つい無理やり引き止めてしまった。ジュード、紹介しよう。彼らが私のSLS本部隊員チームを率いる、リーダーと副リーダーだ」
一瞬、エルが何を言っているのか分からず、呆然とジュードは彼を見上げた。
― 私のSLS本部・・・ ― と彼は言ったのか?
エルはボーっとしているジュードに席に着く様にこやかに促すと、会議室の一番前に立ってジュードと他の訓練生の顔を見回した。
「訓練生諸君には初めてお目にかかるな。私がSLS本部長官、エルミス・バーグマンだ」
― でかい・・・! ―
訓練生達が本部長官を見て、最初に感じた印象はそれであった。そしてジュードは、以前から知っていたこの気の好い男が、本部長官であった事に非常に驚いていた。
エルミスは自分専用とも思われる、人間2人分の横幅をとった席に着くと、すぐに会議の進行を始めた。
「さて、それでは教官は良く見知っているから省くとして、訓練生は初めてここに来たのだったな。まずこちら側から紹介しよう」
そう言って彼はAチームから順に紹介を始めた。
「まず、チームAのリーダー、レイモンド・ダームストン」
レイモンドは皆の視線が自分に注がれると、にこっと笑って訓練生の顔を見回した。以前会った時と変わらず、優しいブラウンの瞳をジュードに向けて目を細めた。
「副リーダーはビリー・カルダス。レイモンドは潜水でビリーは機動だ。チームB、リーダーのニコラス・エマーソン。副リーダー、パット・ネイブルス・・・」
ニコラス・エマーソンの名前を聞いた時、シェランの表情が一瞬硬くなり、クリスもその瞳を曇らせた。
淡い白金の髪を全て後ろで束ねたニコラスはにこりともせず、そのプラチナの髪には似合わない黒い瞳を伏せ、じっとうつむいていた。
「ニコラスもパットも潜水士だ。チームC、リーダーのカーク・グロバリー、副リーダー、ビル・アスコット。Cチームは2人とも機動救難士。こちらは以上だ。では訓練生の諸君、自己紹介をしてくれるかね」
「はい!」
自己紹介と言われたジュードは、思わず大きな声で答えて立ち上がった。
「ああ、ジュード。別に立ち上がる必要は無いよ。そんなに緊張しなくてもいいからね」
バーグマン長官はニコニコしながら彼に言った。
「す・・・すみません・・・」
ジュードは真っ赤になりながら、同じように赤くなってうつむいているマックスの隣に小さくなって腰掛けた。
訓練生の自己紹介が終わると、さっそく合同訓練についての議論に入った。今日はほとんど顔合わせと、合同訓練に関しての説明だけで終わると思っていた訓練生であったが、忙しい本部隊員のリーダー達は滅多に全員揃って時間を取る事が出来ないらしい。会議では合同訓練の日程や大まかな訓練の内容に至るまで決議をしていった。
だがほとんどが本部隊員の都合を優先しなければならないので、訓練校側の意向はあまり認められそうに無かった。合同訓練の細かな打ち合わせは又後日という事で、2時間ほどで会議は終了した。
訓練校に戻ったチームのリーダー達は早速全員を集めて、さっきの会議の様子をチームメンバーに伝えることにした。彼らはいつものようにそれぞれのチームがミーティングで使っている場所 ―AチームはルームA、Bチームは大講堂、Cチームは談話室― に集まると、早速待ちかねていたメンバーの質問攻めにあった。今日は日曜日だというのに3年生は誰一人出かけず、彼らの帰りを待っていたのだ。
「まぁ、待て待て。そう急くなよ」
マックスはもったいぶって立ち上がると、まず本部の玄関の様子や本部チームのリーダーと副リーダー、そして何より巨大な体のエルミス・バーグマン長官について詳しく説明した。
「えー、では合同訓練の日程についてであるが・・・」
チームメイトが首を長くして聞き耳を立てている様子をニヤニヤしながら笑って見ると「それはジュードリーダーから話して貰おう」と、更に焦らすようにジュードに手を差し出した。
「マックス!お前、前置きが長すぎるぞ!」
「早く言え!」
仲間のブーイングを受けても、彼は嬉しそうに笑いながら席に着いた。ジュードはそんなマックスをしょうがないなぁ・・・という顔で見た後、やはり彼と同じように皆の前に立つと思わず焦らしたくなってしまった。それほど彼等は、期待に満ち溢れた顔をしていたのである。
ジュードは内心のいたずら心を隠し、真面目な顔で「えー、コホン!」と白々しく咳払いをした。
「本部との合同訓練の日程は・・・」
ジュードが全員の顔を見回す。長く伸びた首を更にグーッと伸ばして仲間が聞き耳を立てる。
「3月・・・・5日だ!」
途端にチーム全員が立ち上がって「ワーオ!」「やったぜ!」と叫んだり、ピーッと口笛を吹き鳴らしたり大騒ぎになった。
そんなチームメイトを見ながら、ジュードもマックスやショーンと肩を叩きながら笑い合った。彼等訓練生にとって本部との合同訓練は訓練生としての最後の試練である。これを乗り越え卒業を迎えれば、後はプロのライフセーバーとしての道が開けているのだ。
― やっとここまで来たんだ ―
ジュードはそんな充実感を感じていた。