第2部 試練 【3】
Bチームの助けもあって彼等は勝利を得、筋肉自慢の男達は逃げ去ったが、門限の5時はとっくに過ぎていた。しかもSLSのあるノースビーチのすぐ側での乱闘騒ぎが、訓練所にばれない筈は無かった。
7時前に寮に戻った彼等は、ロビーの長い説教を聞いた後、すぐにシェランに全てを打ち明けた。きっと今頃Bチームもクリスに話をしているだろう。シェランは黙って彼等の話を聞いていたが「とにかく医務室に行きなさい。先生を呼んでおくから」とだけ言って部屋を出て行った。
彼等は手当てを受けた後、肩を落としてそれぞれの部屋へ引き上げた。きっと明日には訓練校中に噂は広まるだろう。ベッドの端に座ってうなだれているジュードの前で、アズは部屋の端から端を何度も往復しながら、行き場の無い怒りを彼にぶつけた。
「大体お前が悪いんだぞ、一緒に行こうなんて誘うから!どうするんだ。退学になったら!」
ジュードは顔も上げられなかった。確かに彼の言う通りだ。何故こんなことになったんだろう。喧嘩を止める術は他に無かったんだろうか。ジュードは悔しさに唇を噛み締めた。
「ごめん・・・アズ・・・」
ただ一言だけ答えたジュードの声はわずかに震えていた。アズは腰に手を当てて、小さくなってうなだれている彼の頭に巻かれた白い包帯を見た。一部始終を見ていたアズには、彼が仲間の為に辛抱強く相手を説得していたことが分かっていた。きっと自分なら最初に殴られた段階で、すぐ殴り返していただろう。
― 誰がこいつの為に喧嘩なんかするもんか ―
そう思っていた彼も、ジュードがあの赤毛の男に殴られた瞬間、体中に熱いものが湧き上がるのを感じた。だから彼も今、顔のあちこちに絆創膏を張っているのだ。
アズは小さく溜息を付くと、くるっと後ろを向いてジュードに背を向けた。
「まっ、スカッとしたけどな」
ジュードがびっくりして顔を上げた時、彼は既に布団の中にもぐりこんでいた。
「早く寝ろ。明日も朝から説教だぞ」
今のジュードには彼の言葉が何よりの救いだった。ジュードは「うん」と答えてベッドに入ると、頭から布団をかぶって目を閉じた。何も言わずに自分の話を聞いていたシェランの顔が浮かんだ後、彼はゆっくりと深い眠りに落ちていった。
SLSの教官にはそれぞれ個別の部屋が与えられている。それらは全て本館の3階に設けられていた。シェランはジュード達から話を聞いた後、自分の教官室に戻り、デスクの上の蛍光灯だけをつけると、溜息を付きながら椅子に腰掛けた。
小さな光に照らされた写真立ての中の両親は、明るいフロリダの太陽の中で笑いながらシェランを見ている。だがシェランが彼等の本当の笑顔を見る事は、もう7年も前に終わっていた。
彼女の父はフリーダイビング(素潜り)の世界記録を持つほど、海に慣れ親しんだ男だった。母も海が好きで、大西洋を中心とした海洋研究学者であり、環境微生物研究の第一人者でもあった。
そんな2人の娘が海を愛し、共に生きていくのは当然であっただろう。
シェランは幼い頃から父と共に海に潜るのが日課であった。やがて彼女は息さえ続けば、いつまでも海の中で過ごすようになった。魚達の住処を知り、彼等と共に泳いだ。そんな彼女を地元の者達は『カーナル・オブ・ザ・フィッシュ』(魚の大佐)と呼んだ。
シェランが15歳になった日の朝、学校に行く彼女を呼び止めて母は言った。
「今日は早く帰って来てね。パパと一緒にケーキを焼いて待っているから」
手を振りながら見送ってくれた両親が、どうしてその日、海に潜ったまま帰らぬ人となってしまったのか・・・。
遺族であるにも関わらず、シェランがどれほど尋ねても、詳しい話を教えてはもらえなかった。
諦め切れなかったシェランは、両親の死の理由を必死に調べた。
それでも知る事が出来たのは、両親は軍の依頼を受けて海に潜った事、彼等が乗っていたのは自航式(自分で操縦が出来るタイプ)の潜水艇ではなく、海上の船から金属製のロープなどで海の中へ降ろしていく、潜水函であった事(もし自航式であったなら、彼等は自力で戻って来れただろう)
そして何らかの事故が海中で起こり、潜水函とロープとを繋いでいたウィンチが壊れ、彼等は潜水函に閉じ込められたまま深い海に沈んだ事。これだけで、彼等が何の為に海へ潜ったのか、何処で事故に遭ったのかさえ分からなかった。
いずれにせよ、7年以上の間、真実は封印されたままであった。17歳の時、5THの事件に関わるまで、何も教えてくれない軍や政府を憎み続けてきたシェランだったが、リリアンが死んだ時、全ての恨みは海に捨てる事にした。恨みや憎しみでは人を救えないと悟ったからだ。
両親を飲み込んでいった海を、彼女は今でも愛しいと思う。自分が海に潜る時、彼等が見守ってくれているように感じるから・・・。
だが陸に居るシェランは孤独だった。唯一信頼し、相談できる相手は、父の親友で今では親代わりであるSLSの校長、ウォルター・エダースであったが、今回の件では彼も責任者として頭を悩ませているだろう。しかも、自分が担任である生徒の不祥事によって・・・・。
まだ22歳の年若い教官は家に帰る気力も失って、呆然と両親の写真を見つめていた。
遠慮がちにドアをノックする音が聞こえて、シェランは我に返って顔を上げた。
「どうぞ・・・」
返事をすると、再び遠慮するように少しずつドアが開いた。エバとキャシーだった。
彼女達は1年生ではただ2人だけの合格者で、後は2年と3年に女性は1人ずつしか居なかった。4人の女生徒はなるべく男子寮から離れていた方がいいだろうという事で、普段授業を行なっている本館の裏手にある別棟に住んでいた。男子寮からは本館の中を通らなければこの別棟には行けないからだ。
「どうしたの?こんな時間に女子寮からの外出は禁止でしょう?」
「分かっています。でも私たちはもう、退学は覚悟しています」
2人はまるで仲の良い姉妹のように、ぎゅっと手を握り合っていた。その姿にシェランは彼女達が何らかの決意をしてここを訪れたのだと悟った。
「ジュードは、事の成り行きだけを説明しました。言い訳をしないのは男らしいと思います。でも、シェラン教官には全てを知っていてほしい欲しいんです。明日までに・・・」
「全てを知ったからと言って、彼等の処分が変わる事は無いわよ」
「分かっています!」
エバは我慢が出来なくなったように叫んだ。
「でもこのままじゃ、あいつ等があんまりにも可哀相!ジュードは・・・自分よりずっと年上で2倍もありそうな男の前に立って・・・。きっと凄く怖かったに違いないのに・・・なのに、何度も馬鹿にされ、殴られても、決して手を挙げなかった。それどころか、仲間を制して、決して喧嘩をするなって・・・。
あいつは言ってました。『オレは死んだ親父に、いつだって自分の心に恥じる生き方はするなと言われてきた。あんた達は自分の心に恥じる事は無いのか?』と・・・。そして『男の誇りがあるのなら、黙って2人を帰して欲しい』って・・・。
なのに、自分を犠牲にして仲間を守ろうとしているあいつを・・・あの男はぶん殴って気絶させたんですよ!みんなが怒るのは当然だわ!あんのヤローッ、今度会ったらメッタギタに・・・・」
キャシーはエバの頭を抱き寄せて落ち着かせると、シェランを見上げた。
「他の誰が何と言っても構いません。でもチームのメンバーとあなただけは、彼等を信じて欲しいんです。彼等は仲間として、そしてライフセーバーとして、私達を守ろうとしてくれました。それだけは・・・・」
うつむいて彼女達の話を聞いていたシェランは、胸を締め付けられる様な気がした。
「信じているわ・・・。決まってるじゃない。私の・・・生徒なのよ・・・」
「教官・・・」
シェランは泣いている2人を強く抱きしめた。
「退学なんかにさせないわ。絶対に守ってみせる。あなた達は、全米一のスペシャルライフセーバーチームになるんだから・・・!」
次の日は日曜日だったので授業を受ける事はなかったが、ジュードの予想通り、1年A、Bチームによる乱闘騒ぎは訓練校のみならず、SLSの本部にも届いていた。
ジェイミーは同室のマークが2年のチームメイトに会いに出て行った後、そっと部屋を抜け出した。
本館は今日食堂や談話室以外にやって来る事は無いが、彼は1階の大食堂の前を通り抜けて、余り生徒が使わない、本館の奥にあるエレベーターに乗って2階に上がって行った。
ここは小さなミーティングルームが5つあって、Aチームはいつも一番左端のルームAでレクリエーション等をしている。彼は周りを確認すると、その使い慣れた部屋に入って行った。
「遅いぞ、ジェイミー」
「悪い。マーク先輩が居たもんだからさ。こんな時にウロウロ出歩いていたら、余計先輩達に印象悪いだろ?」
そう答えつつ、彼は不規則に並べられた椅子の一つに腰掛けた。部屋に集まっているのはジュード達と救命士の試験を受けに行かなかったAチームの有資格者のメンバーで、23歳のマックスを筆頭に全員20歳以上の者達である。
昨日エバとキャシーは、ジュード達が医務室に行って治療を受けている間に、男子寮にやって来た。見つかれば間違いなく退学だが、それでも彼女達は真実を聞いてほしいと、ジェイミー達を集めたのだった。
2人が帰って行った後、ジェイミーはジュードが何も言おうとしないので、ショーンに事件の真相を問いただした。彼の話はエバとキャシーの話とほぼ一致していたので、彼女達が仲間を庇う為にウソを言っているわけではないとジェイミーは確信した。それで今日、もう一度仲間を集めたのである。
「だから俺は、俺達だけでもあいつ等を擁護してやりたいと思う。みんなで校長先生に話をしに行かないか?」
ジェイミーの言葉にノースやネルソンも頷いた。
「ああ、いい考えだな」
「俺、Cチームの奴等にも話してみるよ」
皆快く引き受けてくれたので全員が賛成かと思われたが、マックスだけは渋い顔をして立ち上がった。
「冗談じゃない。あんな問題を起こした奴等に関わって自分の首を絞めたいのか?よく考えてみろよ。例えどんな事情があっても、人を守るべき立場の者が他人を傷付けていいはずは無い。あいつらは然るべき処分を受けて当然なんだ」
一番年上で身体の大きなマックスの発言は影響力があった。皆はうつむいて黙り込んだが、ジェイミーだけは立ち上がって彼を見上げた。
「確かにお前の言う事は正論だよ。だけどな、ジュードやショーンなんかまだ18歳だぞ。他にもまだ十代の奴だって居る。たった18で自分よりずっと年上で力も強そうな奴の前に立って、脅されても殴られても決して手を上げず、冷静に話を続けるなんて、俺達が18の時に出来たか?
それこそがあいつ等がライフセーバーっていう証拠だろう。ライフセーバーだから、あいつは決して怯まずに立ち続けたんだ。それを俺達年上の者が責めたら可哀相だろうが!」
ジェイミーの言葉にうつむいていた仲間は顔を上げた。そんな仲間達の様子にマックスはあきれたように溜息を付いた。
「お前はあいつ等と仲がいいからな」
「仲がいいから何だ?俺達は仲間だ。この15人が一つのチームなんだ。チームメイトを信じられなくて、SLSのライフセーバーになれるか?」
ガタンと椅子を引く音がしてハーディが立ち上がった。
「俺は行く。訓練校中の奴に頭を下げたっていい。あいつ等を退学なんかにさせるか」
「俺も行く」
「俺もだ」
ハーディの後に皆が立ち上がるのを見て、マックスは「勝手にしろ」と冷たく吐き捨てて部屋を出て行った。
「・・・ったく、あの分からず屋!」
彼が出て行ったドアに怒りの言葉を投げるジェイミーの肩を掴んで、ネルソンが苦笑いをした。
「あいつはジュードにやきもちを焼いているのさ。イイカッコしたがりだからな。一番年下の奴に、受験の時から一番いい所を持っていかれて悔しいんだろう。俺達が合格できたのは、ジュードと大佐のおかげだって分かっているから余計な」
― 全く、でかいくせに小さい男だぜ ―
ジェイミーはこれからのチームワークに一抹の不安を感じずには居られなかった。
ジェイミー達が本館のミーティングルームに集まっている頃、ジュードの部屋にもショーンや事件の当事者達が集まっていた。
「どうなるんだろ、これから・・・」
「やっぱり・・・退学かな・・・」
レクターの一言で、部屋の中の空気は益々重くなった。
そんなジュード達が暮らしている寮の入り口に、真っ白いスーツを身に着けたシェランが立っていた。彼女はぐっと息を吸い込むと、迷いも無く玄関から中へと入って行った。丁度2階から降りてきた、寮の管理を任されているロビーが彼女を見て、びっくりしたように立ち止まった。
「シェラン?ここは女人禁制だぞ?」
シェランはうるさそうに目の前に滑り落ちてきた髪を掻き揚げると、ロビーのすぐ側で立ち止まって彼の大きな四角い顔を見上げた。
「分かっているわ。ちょっと生徒に会いに来ただけ・・・。あの子達、外出禁止だから」
「し、しかし、男の部屋をいちいち見て回るのは・・・」
「大丈夫よ。どうせ一箇所に集まって、肩を落として溜息でも付いているんだから」
自分の横を通り過ぎて行こうとするシェランの腕を、ロビーは思わず掴んだ。
「シェラン、あんたまで訳の分からん事をするな。これ以上俺達に迷惑をかける気か?」
シェランは自分の腕を掴んだ彼の手をチラッと見ると、そのごつごつとした大きな手の上に白く長い指を重ねた。
37歳のこの年まで、四角四面な生き方しかして来なかった ―して来れなかった― この男は、シェランが17歳の頃、このSLS訓練校に生徒として入学してきた頃から知っている。
彼女は特待生で、ここに入学した時には既に一流の潜水士であり、ありとあらゆる免許を持っていた。彼女はすぐにでもSLS隊員として活躍できる技能は持っていたが、一応3先生として1年間だけこの訓練校に入校してきたのだ。
しかし、ここの教官の誰よりも深く潜ることが出来、知識も豊富な彼女を、誰もがやりにくい生徒だと思っていた。それがまさか自分と同じ教官職に就くとは・・・。
実の所ロビーはこのシェランが好きではなかった。いや、苦手だった。ライフセーバーとして4年活躍し、その前から数々の伝説を作り上げていた鉄の女。なのにまるで深海魚のように透き通る白い肌と、見つめられるとどんな男の心も奪っていってしまいそうな深いコバルトブルーの瞳。
仕事一筋で、決して女には負けられないと思っている無骨な男にとって、それは危険信号だった。
だが今、彼の手の上にあるのはライフセーバーらしからぬとずっと思っていた、白くしなやかな女性の手であり ―しかもその指が触れている自分の手は、彼女の腕を強引に掴んでいた― 髪の匂いまでもが香ってくる程、彼女は側に居て自分を見上げている。そして彼は決して直視しないように努めていた、シェランのその瞳に捉えられていた。
全身の血が鼓動の高鳴りと共に体中を駆け巡り、彼は自分の顔が今まで経験したことが無いほど、赤く染まっていくのを感じた。
「ロビー・・・・」
淡いピンクの唇が自分の名を呼んだ時、今度は何故か背中に氷のような冷たいものが走るのを感じた。
ああ、そうだ。彼女はいつだって深い色合いのスーツを着ている。それは彼女の教師としての自粛を表すものだったのだろう。だが今日の彼女は決意を示すかのような真っ白なスーツに身を包み、その瞳も声も、己の全てを生徒の為に武器にするつもりなのだ。
「ロビー。他のチームや教官の方々に迷惑をかけた事は、本当に申し訳ないと思っているわ。でも考えてみて。もしあなたの大切な人が危険に晒されていたとしたら・・・。そして、その人を助ける術を全て失ってしまったとしたら・・・。ねぇ、ロビー。あなたならきっとその身をもって救いに行ったでしょう?
彼等も同じなの。ただ大切な人を守ろうとしただけ。あの子達は男だったわ。あなたと同じ・・・。分かってくれるわよね?ロビー・・・」
彼はごくっとつばを飲み込むと、まるでロボットのように抑揚の無い声で答えた。
「あ・・・ああ。良く・・・分かるよ・・・」
「じゃあ、あの子達を退学・・・なんて話が出ても、決して賛成なんかしないわよね」
「ああ・・・しないよ・・・」
「良かった。あなたが協力してくれるのなら、百人力だわ」
にっこり微笑んだシェランが、彼の頬に協力の証のキスをして2階に姿を消した後、硬直したように立ちすくんでいたロビーは、全身の力が抜けたようにその場に座り込んだ。
「完敗だ・・・・」と呟きながら・・・・。