第17部 鉄人競技会 【5】
アイアンマンレースは120m、160m、200mの沖合いに設置したブイをスイムとパドルボードとサーフスキーでそれぞれ往復する競技だ。前日にくじ引きで3種目の順番を決めるのだが、本日は最初にサーフスキー、スイム、パドルボードという順で競技が行なわれる事になっていた。
選手にとって得意な種目がスタートになれば、先に前に出ることが出来、前にいる方が波を利用出来るので有利である。
Bチームは選手達が出て行く前にサミーが現在の波の状態、潮流の早さ、風向きなどを事前に察知して選手に指示を出してきたが、とうとうサミーはこれで最後になる指示を与えた。
「現在波の高さは30から50cm程度、丁度引き潮だ。行きはいいが帰りは体力を消耗するぞ。風は南に向いている。帰る時オーバーにならないように気を付けるんだ。波をうまく利用すれば君達に敵は無い。頼むぞ、ジャン、ハリー、ジェイムズ」
『おうっ!!』
最終レースという事もあって、サミーの声にも張り詰めた緊張感があった。
「ジーン、まかせたぞ!」
「頑張れ!エネミー!」
「期待してるからな、ビル!」
Cチームからも声援に送られながら、選手がアイアンマンレースのコースに走ってきた。
ジュードはスイムよりはサーフスキーの方が得意だった。パドルボードも得意な方であったが、今回出場する選手にはジュードよりもっとパドルボードが得意な男が一人いた。3年Cチームのジーンである。それから同じく3年Bチームのジェイムズ・ケリーも以前行なわれたパドルボードレースでジーンと競り合い、2位になった事があった。
その他の出場者はBチームがジャン・ホールデンとハリー・マザック、Cチームがエネミー・テスとビル・ヤングで、全員3年生で固められている。最後の勝負はやはり3年生が決めねばならないのだ。
Aチームは若さだけは勝っていたが、他のチームの選手に比べて、皆身体が小さかった。アズもアンディもジュードとそんなに変わらない170cm前後で、飛びぬけて大きいジーンやジャンとは20cm以上も差があった。
遠くから見るとAチームの3人の所だけ引っ込んで見える。それを見てマックスはやっぱり俺が行けば良かったかな・・・と少し後悔した。
ジーンが隣にいるジュードをニヤッと笑って見下ろした。
「マックスとネルソンあたりが出てくるかと思ったら、まさかジュード、自分で志願したんじゃないだろうな?」
「そのマックスのご推薦だ。言っておくけど、ジーン。今日のオレは一味違うぜ」
「へええ?確かに一味違う様だなぁ。さっきのビーチランで無様にこけていた姿は見物だったぜ」
ジュードとジーンが先頭でバチッと鋭い視線を絡み合わせると、その後ろでアズも同じ潜水のハリー・マザックと睨み合っていた。
ハリーは前からこの年若い同輩が煙たくてしょうがなかった。ハリーはCチームではジーン、アーリーについで3番目に実力がある。だが全てのチームとなると、やはり1番潜れるのは深海の魔女キャシーで、2番目はこの無口鉄仮面男(Cチームでアズはこう呼ばれている)で、次にジーン、ヘンリー、ザックあたりがやって来ると、完全に自分の存在が消えてしまうのだ。
シェランも上位5位くらいまでは気に留めているだろうが、6位以下なんて後はみんな同じと思っているだろう。
こんなチビにいつまでも負けていられるか。今日こそこの男に勝つ絶好のチャンスだ。見ていて下さい、教官!
ハリーは今日は敵チームの教官なのだが、シェランのような美人で実力のある人間に認められたくて、内心期待に胸を膨らませていた。
一方アンディは誰も自分など気にしたりしないので、比較的気分は楽だった。もちろん3年生ばかりの間に入って競技するのは緊張するが、BチームのジャンはCチームのエネミーと睨み合っているし、ジェイムズはビルと互いに牽制し合っている。
― よーし、みんなにイイトコ見せるぞ! ―
アンディは“さすがチームのリーダーに選ばれただけはあるな”とジュードに言って欲しかった。
各チームの代表選手はスタートチェンジオーバーラインに並んで、1番に乗る事になるサーフスキーを見つめた。
サーフスキーは水中からのスタートになる。ここが最も難しい所で、漕ぎ出しには大変な動力が要るし、波打ち際からのスタートはバランスも崩しやすいので更に体力を消耗する。しかも5.8mと船体が長く、ブイを回る時に衝突しやすいなどの危険性を孕んでいた。
スタート直後に心拍数が170から190位にまで上がり、そのままスイム、パドルボードと更にハードな競技が続く。それゆえに、この競技をアイアンマン(鉄人)レースと呼ぶのだ。
選手達はノイスの「レディ」の声に水中まで進んだ。それぞれのライバルと目を合わせると笛の音を待つ。
― ピィッ・・・! ―
全員が一斉にサーフスキーに乗り込んだ。かなりゆれたが誰も乱れず、激しくパドルを漕ぎ出すと、静まり返っていた観衆がいっせいに応援を繰り広げた。
サーフスキーはカヌーやシーカヤック系の乗り物では最速の一つだ。ただ他と違うのは、その長さを生かして波を超えて突き進む所にある。選手が向かって来る大きな波を乗り越える度に、仲間達は大きな歓声をあげた。
現在ジュードは、ジーン、ジェイムズに次いで第3位。その後をアズ、ハリー、ジャンと続き、アンディはパドルの使い方が不慣れなのか、3年最後のビルから少し遅れた最下位になっていた。
目の前で豪快にパドルを漕ぐ2人のライバルを見ながら、ジュードは歯を噛み締めた。ここで出来るだけ彼等を引き離しておかなければ、最後のパドルボードで追い付けなくなるかもしれない。
だが、誰もが同じ思いだった。現在Aチームは88点。BチームとCチームが同点の97点で、このアイアンマンレースで全てが決まるのだ。チームの代表としての名誉、責任、誇りが彼等の上に重くのしかかっていた。
― 絶対に負けられない! ―
特にジーンはCチームのリーダーとして、いつも先頭を走って来た。誰にも負けない自信もある。だからこそ誰にも負けられないのだ。
凄まじい速さで先頭の3つのスキーが200m沖のブイに差し掛かる。外側から回り込んだジュードのスキーと波にあおられたジェイムズのスキーが接触しそうになった。慌ててジェイムズが離れようしてバランスを崩したので、ジュードは一気に目の前の大きな波を乗り越えて彼を追い抜かした。
― このまま行くぞ! ―
彼等の直ぐ後ろでも、アズとハリーがすでにデッドヒートを演じていた。ハリーが前に出るとアズが追いつく。抜かされたハリーはすぐさま抜き返す。全く互角の勝負だった。
「お前なんかに負けるかぁあぁあぁっ!」(スキーが揺れるので声も揺れる)
ハリーはアズに抜かされる度に叫んでいたが、アズの方は「・・・フン」と鼻を鳴らすだけで相変わらず仏頂面でパドルを漕ぎ続けた。
「戻ってきたぞ!」
やはりジーンを追い抜かす事が出来ず、ジュードは2位のまま帰ってきた。その直ぐ後にジェイムズ、アズとハリーも張り付いている。少し遅れてエネミー、ジャン、ビル、続いてアンディも浜に上がった。
トランジットは全てランなので、彼等はそのままスタート位置に立つオレンジの旗まで走り、更に海へ向かう。次はスイムだ。
スイムのコースは一番短く、120m沖のブイを回る。それでもサーフスキーで体力を消耗している選手には相当過酷なレースだ。ここに居るライフセーバー競技をやったことのある人間なら誰でも知っていた。だからこそ、観衆にまわった者達は力の限りに声援を送るのだ。
周りの訓練生が皆立ち上がって声を枯らしながら応援しつづける中、シェランは祈るように胸に手を当てた。今のシェランにはチームの勝利よりも、訓練生達が勝ち負けにこだわり過ぎて、無茶をしないかそれだけが心配だった。
ライフセービング競技のプロでさえ、無理をして競技中に倒れたり、水中で事故に遭ったりするのだ。今まで救護班に運ばれたのが、テリーだけだというのが不思議なくらいの熱気であった。そのテリーももう戻ってきて必死にジュード達を応援しているが・・・。
シェランは首を伸ばして沖のブイに向かって泳いでいくジュードを見た。さっきキャシーに励まされて(ジュードは脅されたと思っているが)随分張り切っていたけれど、大丈夫かしら・・・。
やはり水の中で潜水課には敵わないのか、ジュードはジーンの1m後方に下がってしまった。反対にジェイムスはジュードを今にも追い抜かしそうな勢いである。アズとハリーも追いついてきた。中でも際立っていたのはアンディである。
彼はまず浜でビルを抜かし、泳ぎ始めてすぐジャンを追い抜いた。そしてブイを回る頃にはエネミーに追いつき、最後の120mで彼を今まさに追い抜こうとしていた。AチームとCチームからアンディとエネミーを応援する声が響いてきた。
「アンディー!そこだー!行けー!」
「エネミー!2年なんかに負けるんじゃないぞ!」
「リーダー、行けー!」
2年生の仲間が“リーダー”と叫ぶのを聞いて、アンディは“絶対諦めるもんか”と思った。もし勝てたら、みんながどれ程喜んでくれるだろう・・・。
水泳は子供の頃から得意だった。他の子供など寄せ付けない泳ぎに感心して、両親はオリンピック選手も排出した水泳教室に通わせてくれた。中学の頃にはその教室で僕について来られる者は誰もいなかった。コーチも必ずお前ならオリンピックで金メダルを取れるぞ、と期待してくれていた。高校に上がった頃には次のオリンピックに向けて準備を始める事になっていて、もちろん僕もそのつもりだった。
あの日・・・・。初めてこの特殊海難救助隊の存在を知るまでは・・・・。
あれは高校2年の頃だった。辞書を買いに行った本屋で、ついでに水泳に関する情報誌でもないかと探していた時、ふと大判の写真集が目に入った。
アマチュアカメラマンが3年に亘って取材し続けてきた写真を初めて出したもので、表紙にはSLS ―Special Life Saving― という文字の下に、オレンジ色のライフベストを着た男達が海の上で巨大な波と戦いながら、溺れている人(当時は要救助者という言葉も知らなかった)を助けている姿が写っていた。
僕が泳いでいるのはいつも穏やかなプールの中だけで、こんなに激しい海の中で泳ぐ人間がいたなんて知らなかった。何故か興味を引かれた。すぐに買って帰って、ドキドキしながら写真集を括り付けてあるナイロンテープを切り、表紙を開いた。
見開きのページはライフシップの前で白い制服を着て、ずらっと並んだ本部隊員が敬礼をしている姿があった。次のページからは本部隊員だけでなく、あちこちの支部で撮られた彼らの日頃の訓練や救助の様子を、写真で紹介しながら説明が書いてあり、SLSの基本精神やほんの少しだけだったが、訓練校の事も説明されていた。
その時初めて、海の事故から人を懸命に守ろうとする、ライフセーバーという人々が居る事を知った。
彼らの任務は、海で事故にあった人々を救助するだけが仕事ではない。何よりライフセーバーの一番の任務は事故を未然に防ぐことにある、とも書いてあった。
その写真を見ながら、何だか良く分からない感覚に見舞われたのを覚えている。今まで僕が泳いできたのは、全て自分の為だった。水の中を誰よりも早く泳ぎ、自分の前に誰かが立てる水しぶきを見たことも無い。いつもトップでプールの端に手を付いて、みんなの賞賛を受ける。
それがとても気持ち良かったから、泳ぎ続けてきた。それでいいと思ってきた。だけど、この人達は違う。彼らがこんなにも汗と泥にまみれて訓練しているのは・・・そして、こんなにも恐ろしい波に立ち向かっていくのは、全て他人の為なのだ。
それからずっとこの写真の中のライフセーバーという人達の事が頭から離れなくなった。泳いでいる時は特にそうだった。ただトップに立ちたいだけで泳いでいる自分と、彼らの違いをいつも考えた。
この写真集を出したカメラマンのスティーブ・ガードナーという人がホームページも開いていたので、メールも送ってみた。彼は初めて出した写真集にそんなに興味を持ってくれて嬉しいと、とても丁寧な返事をくれた。
スティーブはSLSのファンで、小さい頃からずっと憧れていたという。だが残念なことに、彼はまるっきり泳げなかった。ついでに鼻アレルギーが酷く、耳抜きも出来ないのでダイバーとしては致命的であった。
彼とメールでやり取りをする内、僕も結構ライフセーバー通になってきた。海に行くと、危険な場所や怪我の元になりそうな物が落ちていないか確認している自分に気付いて、ああ、もうこれはなるしかないなぁ・・・と思ったんだ。
高校の卒業を目前に控えたある日、コーチと親に卒業したらSLSに行くと言った時には、みんな一体、何事が僕に起きたのかと大騒ぎになった。最初のうちは大反対されたけど、僕の意志が固かったのでその内コーチも諦めてくれたし、両親はお前がやりたい様にすればいいと言ってくれた。
そして僕はやって来たんだ。写真じゃない、現実の世界に・・・・。
入校式の日に出会って意気投合したミシェルは、機動救難士になるのだと言う。彼はヘリで飛んだり、リベリング降下をする姿にずっと憧れてたらしい。僕はやっぱり泳ぐのが好きだし、リー教官も僕の輝かしい経歴を見て、潜水士はどうだい?と言ってくれたので、僕もそのつもりだった。あの日、彼に会うまでは・・・。
「抜いたぞ!エネミー先輩を抜いた!!」
彼の親友が大きな声で叫んだ。ミシェルは隣でAのマークの付いた旗を振っていた技術装備課の1年生から旗を奪うと、それを振り回しながら必死に声を張り上げた。
「行けぇっ!アンディ!お前が一番だぁーっ!!」
その声に応える様に、アンディは更にスピードを上げた。アズとハリーも抜いた。素晴らしいスピードである。
― 見えた・・・ ―
アンディはその目にやっと彼の背中を捉えた。入校してからずっと後を追いかけてきた人・・・。あの日彼に会わなかったら、僕はきっと潜水課に行っていただろう。
初めて彼を見たのは、まだうす暗い夜が明ける前の校庭だった。
ミシェルが「明日5時半に起きたら、取って置きの秘密を見せてやるよ」と謎めいた事を言うので、半分眠気まなこのまま、彼に付いて行った。丁度1時間ものランニングを終えて、あの人が校庭に戻って来た所だった。
彼は休憩代わりに軽く準備体操をこなすと、空に向かってそびえる鉄塔の中に入って行った。上からぶら下がっている命綱を腰に付けると、大きく息を吸い込む。4cmもある太いロープを掴んだ彼の姿は、あっという間に頂上まで行ってしまった。
余りのスピードに僕は彼の背中に羽が生えているのかと思った。だってそうだろう?ロープは何の変哲も無い、ただのロープなんだから・・・。
頂上に姿を消した彼は、今度はまるで水鳥が水辺の獲物を狙って急降下してくる時の様に、目にも留まらぬ速さで降りてきた。
「だ・・だ、誰?」
思わずミシェルの方を向いて言葉を詰まらせると、彼はニヤッと笑って応えた。
「2年のジュード先輩、カッコいいだろ?いつも4時半から一人で訓練してるんだぜ。僕もあの先輩みたいな機動救難士になるんだ」
その時僕は間髪を入れずに叫んだ。
「僕もなる!機動救難士になるぞ!」
「そうか。それじゃあもう、君達はオレの後輩だね」
さっきまで鉄塔の昇降訓練をやっていた人が、金網の傍に座り込んでいた僕達を頭の上から見下ろしていて、僕は興奮して掴んでいたミシェルの襟首を持ったまま、真っ赤になってしまった。
その時からずっと彼の背中を見つめて来た。2年になってリーダーに選ばれた時、やっと少し彼に近づけたような気がした。
― オレはお前達が、必ずこうして知らせに来るって判っていたよ ―
あんな台詞を1年後、僕も後輩に言ってやれるのだろうか・・・・。
「ジェイムズ先輩を抜かしたぞ!」
Aチームはアンディの活躍に大騒ぎであった。
「凄いや、アンディ!」
チームの旗を振るミシェルを同じ2年の仲間2人で肩に担ぎ上げ、その上からミシェルは力の限り旗を振る。
「行け!アンディ!金メダルだぁぁーっ!」
アンディがジュードに追い付いた時、彼等は再び浜に帰って来ていた。再びランでスタートラインの2つの旗を回り、チェンジオーバーラインの前にあるボードを持って海へ向かう。ジュードはボードを掴みながらアンディに叫んだ。
「アンディ!行くぞ!」
「はいっっ!」
その直ぐ後から、ジェイムズ、そしてアズとハリーもボードを掴んだ。
「お前には負けん!」
「・・・」
叫んだハリーには目もくれず、アズは無言のままボードに飛び乗り、激しく水を掻き立てながら波に乗った。
パドリングはライフセーバーの基本的な技術だ。沖に向かう時は波を見極め全力でぶつかって行くのか、ボードを返し、波をやり過ごすのかが重要なポイントになる。
やり過ごすのは時間のロスだが、波に負けて押し戻されるよりは確実に早い。ハリーはやり過ごす方を選んだ。今日の波は普段より高いからだ。だが、アズは波にぶつかって行く方を選んだ。今は引き潮。自分なら例え全力で波にぶつかったとしても、体力を維持できるとアズは信じていた。
それは決してアズの過剰な驕りではなかった。彼はジュードと同じく、毎朝の訓練に決して手を抜いたりはしなかった。それは自分が、シェランやキャシー、そして二人の姉のように恵まれた才能を持って生まれたわけでは無いと知っていたからだ。
平凡な人間が才能のある人間と同等に並ぶには、その倍も努力がいる。だから彼は毎朝、毎日そして休みの期間中も己を甘やかさず鍛え上げた。それによって得た持久力という賜物は、このレース一つで失われる物ではなかったのだ。
波にぶつかっていくアズを見てハリーは“馬鹿な奴・・・”と思ったが、確実にその差は開いてきた。間もなく大きなジェイムズの背中が見えてきた。
アズにとって、優勝やそれに伴う商品などは、どうでも良い事であった。全ては自分に打ち勝つ為の過程。才能のある人間を羨んだりせず、己の持てる力の限り、海に挑むのだ。何者の侵入も許さない、この巨大で底知れぬ深さを持ったライバルに・・・・。
ハリーと同じく波をやり過ごしているジェイムズを、アズは全速で抜き去った。巨大な波に真正面からぶつかっていくアズに仲間は歓声を上げた。
「やったぜ、アズ!さすがサムライ!」
「アズせんぱーい!!」
1,2年の潜水課が叫んだ。
そして、アズの前方に居る3人も、彼と同じように波と戦いながら突き進んでいた。
アンディは息も切れ切れで、何度も波に覆されそうになりながらも、決してやり過ごそうとはしなかった。波間に見えるジュードの背中を必死に追っていた。
何が何でも付いて行く。絶対ひっくり返ったりも出来ない。もしそんな事になったら、ジュードは試合も忘れて、必ず自分を助けに来るからだ。
ブイを回る時、ジュードは運良く内側のコースに入った。ジーンとの差を詰め、ほぼ一直線に並んだ。今までずっとトップを走っていたジーンは、苦々しい顔でチラッと隣に居るジュードを見た。
「やっぱり、お前か・・・、ジュード!」
SLSに入学した時から、ジーンは常に仲間の先頭に立っていた。成績も訓練も彼の右に出る者はほとんど居なかった。
最終試験のあの緊迫した状況下でさえ、諍いになりそうな仲間に対して「こんな時に喧嘩をする様な奴は俺がぶん殴る」という一言で皆を黙らせてしまった。(その時はアーリーも良く協力してくれた。きっと彼が今副リーダーになっているのも、その時の貢献が大きかったのだろう)
だからジーンは入学した時から、Cチームの中ではいつも一目置かれていたし、チームのリーダーに選ばれるのも当然だった。
そんなジーンにとって一番目障りなのはAチームのメンバーだった。女の癖にキャシーが次々に塗り替えていく潜水記録にジーンは手が届かなかった。アズもそうだ。そして何より憎たらしいのはこのジュードだ。潜水課でもないくせに、彼はウェイブ・ボートで675フィートもの深海に潜ることが出来た。
1年の頃、このSLSの厳しい身体能力テストや学科試験を全て1番でくぐり抜けてきた奴が居ると聞いた事があった。それは当然自分の事だと思っていたが、2年でリーダーに選ばれたサミーの噂を聞いた時、あいつだったのかと思った。
でなければこの俺が、たかが一般のテストで(何回も)負けるはずが無い。ある時、談話室でサミーと二人きりで話す機会があったから言ってやったんだ。
「今までずっと隠してきたとはご苦労な事だな、天才さん」
するとサミーは、小さく笑って小首を傾げながら俺を見上げた。
「天才っていうのはね、ジーン。自分の事を決して天才なんて思っていないんだ。確かに僕はそういった人種に分類されていたかもしれないけど、本当の天才は何も考えてはいない。そんな人間が一生懸命努力したら、普通の人間は追いつけないよね。
ほとんど一番下に居たくせに、「オレも頑張る」って約束したもんだから、バイトの合間を縫ってちょっと勉強しただけで、いきなり11位になっちゃうとか、大切な人を守りたいからってだけで、どんな深さも怖く無くなっちゃうとか、それから1度会った人間の顔と名前は忘れないとか・・・。仲間から絶対の信頼を得て好かれるのも、天から授かった才能なんだろうね」
それが誰の事を言っているのか直ぐに分かった。それからもう一つの事実にも気が付いた。自分の事を天才だと思っていた俺は、本当は天才なんかじゃなかったんだと・・・。
天才のサミーが認めた天才・・・。神から与えられた才能を持って生まれてきた・・・。本当にそんな人間がこの世に存在するなんて思いたくなかった。だから俺は負けられないんだ。こいつにも、他の誰にも・・・・!
パドリングをしている手に更に力を込めると、ジーンは外側からジュードを追い抜き始めた。そのまま直線に入る。あと150m・・・。
全てのチームの人間がフィニッシュラインに立つ旗の前に集まり、固唾を飲んで見守った。
「うおおおおおーっ!」
ジーンが雄たけびを上げながら水しぶきを巻き上げる。ほんの少しずつだがジュードを追い抜かし始めた。荒々しい息を繰り返しながら、ジュードは腕が千切れてもいいから負けたくないと思った。
目の前に何度も見た、シェランの泣きそうな顔が浮かんでくる。
― もうごめんだ。あの人の泣き顔を見るのは・・・・ ―
いつだってシェランには笑っていて欲しかった。自分のせいで泣く彼女なんて、もう見たくはなかった。
「わあああああああっっ!」
この大会でジュードは初めて大きな叫び声を上げると、正に腕が千切れるほどのパドリングを開始した。頭ひとつ分前に出たジーンのボードに、少しづつ追い付いて行く。
「させるかぁぁっ!」
あと30m・・・・。
2人のボードは一直線に並んだまま浜に向かって突き進んできた。腰の深さまで達するとボードを降り、それをもって50m先のフィニッシュラインまで走る。
― 絶対負けられない・・・・・!! ―
沸き起こる歓声の中、重いボードを持ってスタートの旗を回る。あと20m・・・。
そこからフィニッシュの赤旗を超えるまで、ジュードの耳には何も聞こえてこなかった。ノイスがチームの名が書かれた白旗を上空に掲げる。
Aチームの電光掲示板が108という数字を映し出す。
全ての音が自分の耳に戻ってきた瞬間、ジュードは気を失ったように砂の上に倒れこんだ。その後から、アズ、アンディ、ジェイムズがゲートに走りこんだ。
「救護班!」
シェランが鋭く叫んだ。ジュードを称える歓声の中、シェランは彼の元に駆け寄った。
「ジュード、しっかりして!」
だがジュードは顔を勢いよく砂の中から上げると、救護班などまったく無用とばかりの笑顔を彼女に向けた。
「シェラン!やったぞっ!」
そして彼は、びっくりして大きく目を見開いているシェランの前に立ちあがると、右手の拳を握り締め、それを上空に向けた。
「カリビアン・ドリーミィ・ワールドだぁっ!」
― ワアアアアアーッッ!!―
Aチームからノースビーチ中に広がるような歓声が上がった。エバとキャシーは互いに抱き合い、回りの男達はジュードの元へ駆け出した。2年生達も彼の元へ走り、1年生もそれに続いた。
「やったぞ!アズ、アンディ!」
ジュードが嬉しさにはちきれそうになりながら、フィニッシュゲートに立っている2人の元へ走って来た。
「このバカ者!裸で抱きつくんじゃない!気持ち悪い!」
アズは本当に気持ち悪そうに逃れようとしていたが、アンディはそのまま嬉しそうに叫んだ。
「ジュード先輩、僕やりました!アズ先輩に次いで4位です!」
ジュードは自分が勝った時より、ずっと嬉しそうな顔をして微笑みながら彼の手を取った。
「やっぱりオレの思った通り、アンディは2年で一番のリーダーだ」
「ジュード先輩・・・・」
アンディが呆然としてジュードを見上げている間に、ジュードは団体でやって来たAチームの男達に担ぎ上げられた。アンディのチームも走ってきて彼に良くやったと声をかけた。
「やっぱり凄いな、アンディ。さすがオリンピックの金メダル候補だ」
嬉しそうに背中をたたいたミシェルの言葉に、アンディは微笑んで答えた。
「金メダルならもう貰ったよ。ジュード先輩に・・・」
そんなAチームの様子を見た後、ジーンは小さくため息をついて、悔しそうに砂の上に座っているエネミーとビルの肩を叩いた。
「又次がある。もっと努力すれば、どんな天才にだって勝てるさ」
それは彼自身にも言い聞かせる言葉であった。
「握手は次の勝負まで置いておこう」
マックスの肩に乗って、両手を広げ、Aチームの仲間と喜びを分かち合っているジュードをもう一度見ると、彼は仲間の元に戻っていった。
「終わったな・・・」
「はい・・・」
まるで力が抜けたように、クリスは隣に座ったサミーに呟いた。
「まぁ、結構楽しめました。なぁ、ヘンリー、ザック」
ヘンリーはむっつりしたまま、「まーな」と答え、ザックはくすっと微笑んだ。Bチームもそうやって穏やかに戦いを終えたのだが、その中でたった一人、どうにも諦め切れない男が居た。
「冗談じゃないぞ。もうドリーミィ・ワールドへは行くって決めたんだ」
己のチームの勝利を確信してやまなかったアダムス・ゲイン教官は、何かを決意したように呟いた。
教官達の白いテントではAチームに賭けていた技術装備課のマイケル・ウッドワースと航空機課のアレックスが「やったぞ!」と言って肩を叩き合った。校長がニヤニヤ笑いながら頷いているので、「校長先生はどのチームに賭けていたんですか?」とアレックスが尋ねると、彼は全く悪びれることなく答えた。
「はっはっは。私はどのチームが勝っても行くに決まっているではないか」
賭けに負けたフレッドやミッキー達は“本当にいまいましいタヌキ親父だ”と内心思った。
この日、ノースビーチの砂浜では訓練生達の熱気がいつまでも残っているようであった。