第16部 新入生 【6】
本館の入り口までやって来たシェランは、ネルソンとピートが揃って歩いてくるのを見つけると、いきなりネルソンの胸倉を掴んだ。
「ジュードは何処!?」
凄まじい迫力のシェランにネルソンは思わず「ヒィィィッ!」と声を上げたので、ピートが慌てて答えた。
「ジュ、ジュードは談話室に居るであります!」
シェランはネルソンを放すと、目を吊り上げて階段を見つめた後、ゆっくりとそれを登って行った。
ジュードは近頃の周りの騒ぎのせいで、すっかり疲れ果てていた。せめて親友のショーンに話せれば少しは気が楽になるのだが、それも出来なかった。生気のない顔をしているジュードを見ながら、ショーンは彼の前に缶コーヒーを置いた。
「なあ、ジュード。お前、本当にあの子とデートするのか?」
「できればしたくな・・・・いやっ、そうだな。リズはいい子だし、礼儀正しいし、別に断る理由はないだろ?」
ぼうっとしていたジュードは、思わず本音を吐きそうになって慌てて取り消した。
「ふーん。お前は彼女の事をそう思ってるのか。まあそれならそれでいいけど、行きたくないんならちゃんと言ってやった方が相手の為だぞ」
「それがそうもいかな・・・いやっ、い・・・行きたいわけじゃないけど、行きたくないわけじゃないんだ!」
ジュードはもう、自分が何を言っているのか良く分からなかった。
「行きたいわけじゃないんなら、行きたくないんだろ?歯切れ悪いぞ。お前、俺に何か隠してるだろう!」
「か、隠してなんか・・・・」
「いいや、隠してる!何で親友の俺に隠し事をするんだ?そうやっていつもお前は・・・・!」
立ち上がって熱弁をふるっていたショーンが、急速冷凍された魚のように大口を開けたまま固まってしまったのを見て、ジュードは悪い予感に駆られながら後ろを振り返った。大粒の涙を浮かべたシェランが、今まで見た中で最も恐ろしい顔をして、肩を震わせながら立っていた。
「ジュード・・・あなたって人は・・・あなたって人は・・・・」
これはマズイ。絶対逃げるべきだ。ジュードの本能はそう叫んでいたが、一歩足を引くのと同時に大きく振り上げたシェランの右手が彼の左頬に振り落とされた。
― バシンッッ!! ―
激しい音がシーンと静まり返った談話室に響き渡った。部屋の中と外から彼等の様子を見ていた生徒達も大きく眼を見開き、唖然として成り行きを見ているだけだった。
赤くなった頬を押さえて信じられない顔を向けたジュードを見て、シェランは情けなくてボロボロ涙がこぼれてきた。
「恥を知りなさい、ジュード。キャシーにあやまるのよ」
ジュードにはシェランが何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
「信じてたのに・・・あなたの事・・・心の底から・・・・」
小さな声で呟くと、シェランは後ろを向いて談話室を飛び出していった。ドアの外で集まっていた男達は皆、廊下の壁にピタリと背中をつけて、彼女の通り道を作った。
「ジュード・・・大丈夫・・・か?」
頬に手を当てたまま、呆然と立ちすくんでいるジュードには、ショーンの心配そうな声も耳に入らなかった。全く意味が分からない。一体何が起きたんだ?どうしてこんな公衆の面前で殴られなきゃならないんだ?
シェランは“恥を知れ”と言った。キャシーにあやまれって・・・。キャシー・・・?まさか・・・・!!
ジュードは心配して周りに集まっている仲間を掻き分けるようにして走り出した。この場合、考えられる原因はただ一つだ。だがそんな事ありえない。こっちがちゃんと約束を守っているのに、あいつ等が裏切るなんて・・・・!
だが実際シェランはあの映像を見たんだ。そして泣きながら「やめて!」と懇願するキャシーをオレが暴行したと思った。でなければあのシェランが人前でボロボロ泣いてオレを殴ったりするものか・・・・。
そう思った瞬間、ジュードはその場に倒れこんだ。まるで足元の土が全て無くなって、この地球の中に吸い込まれてしまったみたいだった。
「もう・・・終わりだ・・・・・」
そう呟くと、ジュードはその場に突っ伏した。
ジュードが目を覚ましたのは、その日の深夜だった。運動場に居たはずなのに、いつの間にか部屋に戻ってベッドに潜って眠っていたらしい。サイドボードの灯りが付いている。今日は何日の何時なんだろう。ジュードはぼうっとした頭で考えた。
「気が付いたか?」
ふと見上げると、アズがベッドの脇に立って自分を見下ろしていた。
「お前、酔っていたのか?帰ってきたかと思うと、いきなりベッドに潜り込んで・・・。ピートとネルソンが心配して訪ねて来たけど、眠っていたようだから起こさなかったんだ」
そういえば、ネルソンとピートが談話室のドアから見ていた。彼等もあのシェランとオレのやり取りを見ていたんだ。きっとオレが飛び出していったから、心配して様子を見に来てくれたんだ。
ジュードはまだはっきりしない頭で考えた。
「気が付いたなら大丈夫だな。もう一度寝ろ。まだお前の起きる時間まで間がある」
そう言って自分のベッドの方へ行きかけたアズも、きっと心配して起きていてくれたのだと悟ったジュードは、思わず彼の手を掴んだ。
「アズッ!」
彼はジュードの顔を振り返った後、すぐに自分の手を掴んでいる彼の手を見つめた。その手が微かに震えているのが分かったからだ。
「アズ・・・。アズはどんな事があっても、オレを信じてくれるか?」
必死に訴えるジュードの瞳はまるで、迷子の子供がやっと見つけた誰かに助けを求めているようだと思った。
「それは一体どんな場合の時だ?」
アズは静かに聞いた。
「例えば、オレが無実の罪を着せられて、世界中の人がオレを犯人だと思っても・・・アズはオレを信じていると言い切れるか?」
「そうだな・・・。それはお前次第だ」
「オレ次第?」
アズはジュードに手を握られたまま、彼のベッドの端に座った。
「お前が俺を真っ直ぐに見て“オレはやってない。信じてくれ”と言ったら、俺はきっとお前を信じるだろうな。だがな、ジュード。それでは何の解決にもならない。お前の望みは、たった一人の人間に信じてもらう事じゃない。無実の罪を晴らすことだろう?お前はみんなに言ったか?オレを信じてくれと・・・・」
ジュードは小さく首を振った。そうだ。どうしてオレは何も言わなかったんだろう。例えどんなに興奮していたって、ちゃんと真っ直ぐ彼女を見て“オレはやってない。信じてくれ”と言ったら、あの人なら分かってくれたかも知れないのに・・・・。
ジュードはベッドから飛び起きると、シェランの家に行こうと歩き出したが、今度はアズが彼の肩を掴んだ。
「待て。もし何かあったんだとしたら、今からここを出るのは余計信用を落とす事になる。例えどれ程やりたい事があっても、時と場所を選ばん行動は信用を失う元だ」
ジュードはベッドサイドに置いた時計を見た。もうとっくに午前0時を回っている。幾らバイトの日は夜遅く帰寮する事が許されていても、深夜、寮を抜け出すのは校規違反だ。
ジュードは彼に言われるままおとなしくベッドの中に戻り、枕をクッションにして座った。アズもジュードの机から椅子を引っ張ってきて、それに座った。
「いいか、ジュード。例えばお前が何か濡れ衣を着せられて、その無実を誰も信じてくれなかったとしよう。だが、真実はいつだって一つしかない。そしてそれはお前の心にしか無いものだ。だからお前がいつだって、己の心に恥じないよう、真っ直ぐに正義を貫いていれば、必ずお前を支持する者は出てくるはずだ。
そしてそれが1人、2人と増えていけば、やがてみんながお前を信じる事になる。いいか。お前は既にスタート時点で14人の味方をつけてるんだ。だから焦るな。分かったな?」
自分の為に不器用に笑いかける友を見て、ジュードのその両目から涙が零れ落ちた。ジュードはアズの手を握りうつむきながら頷いた。
「父さんも同じ事を言ったんだよ、アズ・・・・」
次の朝、アズが目を覚ますと、ジュードのベッドが空になっていた。もしかして又、家出したか?と心配になったが、机の上に“いつものトレーニングだよ。心配しないで。ジュード”と書かれたメモがあったので、ホッとしたように笑った。
「だぁれが心配などするか」
そう呟くと、アズも水着の入ったバッグを持って部屋を出て行った。
SLSは訓練校としては大きい方だが、生徒は3学年あわせても135人しか居ない。だから何か事が起これば、あっという間にうわさが広がってしまうのだ。昨日の談話室での一件も火曜の午前中には全ての生徒の知る所になり、午後には“実はジュードがシェラン教官と密かに付き合っていたのに、裏ではリズやキャシーにも手を出していた事がばれて、シェランが烈火の如く怒った”という、とんでもない醜聞になっていた。
昨夜はエバとマイアミまで行っていて、門限ギリギリに帰ってきたキャシーも次の朝、昨日の出来事を見ていたピート(こちらは見た事をありのままに伝えた)に事情を聞き、思わず蒼白になった。
キャシーもジュードと同じ事を考えたのである。シェランがそんな事をするのは、あの映像を見たとしか考えられなかった。おまけにシェランは今日、体調を崩したという理由で休みを取り、3年の潜水はディックの受け持つ2年生との合同訓練になっていた。
シェランがずる休みをするのは、これが初めてだった。例えどんなに辛い事があっても、シェランは授業を休んだ事は一度もない。いや、熱があっても必ずやって来るだろう。
キャシーは一限目の授業を終えると、急いで本館の2階にある更衣室に飛び込んだ。ロッカーに入れてある携帯を取り出してエバに連絡をつけようとしたが、すでに彼女からメールが入っていた。
― 今日のランチは女子寮の部屋で食べよう ―
エバも誰かから事件の事を聞いたのだろう。昼休みのチャイムが鳴ると、キャシーは一目散にシャワーを浴び、急いで食堂から持ち帰りの出来るパンと牛乳を手に入れた。息を切らしながら女子寮の部屋に戻ると、エバがたくさんのパンや飲み物を、まるでピクニックのように絨毯の上に広げて待っていた。
「なんだ、買って来たの?シャワーで時間が掛かると思って買っておいたのに」
「いいわよ。それも食べるから」
慌てていたので、パンを一つしか買ってこなかったのだ。キャシーはエバの向かいに座り込むと、早速本題に入った。
「あのデータはどこにあるの?まさか盗まれたとか・・・・」
「私もそう思ってすぐ見たけど、ちゃんと机の引き出しに入ってたわよ」
「でも間違いなく教官は・・・あれを見たのよ」
キャシーがイチゴ味のサワークリームが中に詰め込まれたパンを頬張りながら、牛乳のパックにストローを指した。
「確かに机には鍵がかかってなかったけど、一体誰がそんな事・・・・」
エバは言いかけて、口を閉じた。キャシーもじっと押し黙ってエバを見つめた。この女子寮に入ってこれるのは、エバとキャシー以外にはシェランとリズしか居ない。シェランでなければ、犯人は1人しか居ないのだ。
「やってくれるじゃない、あの女。昨日の3つ星レストランのチケットは、私達をここから遠ざける為だったのね」
ピートから聞いたシェランの様子は、惨憺たる有様だった。今まで生徒の前で一度も取り乱した事のないシェランが、大粒の涙を流しながらジュードを叩いたのだ。
きっとシェランはキャシーが暴行を受けたと思って、又自分の生徒で心から信頼しているジュードが仲間にそんな事をしたのだと知って、世界が崩れるほどのショックを受けただろう。確かにもともとの原因を作ったのはキャシー自身であったが、例えジュードが裏切っても、シェランにあの画像を見せるつもりなど無かった。シェランを深く傷付ける事が分かっていたからだ。
リズはきっとジュードがシェランを好きな事を知っている。彼をシェランから引き離す為にシェランを傷付けたのだとしたら・・・・。
「許せない・・・・!」
キャシーは手に持ったパンを握りつぶした。淡いピンク色のクリームがパンの中からどっと出て、彼女の手の上に流れた。
「あんなデータ、とっとと捨てるべきだったのよ!」
エバは立ち上がって机の引き出しから小さなカードを取り出すと、半分に折ろうとした。
「待って」
エバはどうしてキャシーが止めるのか分からず、彼女を見た。キャシーは手にべっとり付いたクリームをゆっくり舌で舐めながら考えた。
このカードの存在を知っていたという事は私達のあの日の行動を見ていたという事だ。つまりリズは私やエバの行動・・・いや、シェランやジュードの事も見張っているのかもしれない。何故そこまで出来るのだろう。彼女がそれ程ジュードの事を愛しているとは、なぜか思えなかった。
そうだ。私が最初リズの事をどうしても受け入れられなかったのは、彼女の行動のすべてが、なぜか空々しく見えたからだ。まるでショーンの言う女優のように、彼女の言葉や行動が演技をしているように思えた。だから最初からショーンもあの子を嫌っていたのだ。彼の知っている欲深な女優に似ていたから・・・・。
キャシーは立ち上がると、カードを持ったまま自分を見つめているエバの側まで行って、右手からそれを取り上げた。
「私達は少しあの子を甘く見すぎていたようね。作戦は変更するわ。あの小悪魔。奈落の底へ突き落として、何が本当の目的か、必ず吐かせてやる」
キャシーは冷たい瞳をにやりと細めると、本当の悪魔を見た時のように蒼白になっているエバの目の前で第一ボタンをはずし、胸の間にカードを滑り込ませた。
カーテンの隙間から差し込む日差しが強くなって、シェランは目を覚ました。まだ頬が涙で濡れていた。時計の針は午後2時を指している。とうとうずる休みをしてしまった・・・。深い後悔に駆られながら、半身を起こした。
昨日の出来事を聞きつけたクリスがその夜に電話をしてくれたが、ただ泣くだけで何も答えられなかった。クリスは今からそちらに行くと言ってくれたが、こんな状態で彼に会ったら、きっと朝、後悔する事になるだろうと思ったので断った。
再びクリスが朝一番に電話をくれた時は、夜通し泣いた後だったので声が枯れていた。休むなら僕が伝えておくよと彼が言ってくれたので、つい甘えてしまったが、なんだかとんでもない事をしてしまったような気がする。
少しずつ本来の自分を取り戻していくにしたがって、シェランは生徒の事が心配になってきた。3年の潜水課はどうしているのだろう。ディックやゲインが代わりに教えてくれているのだろうか。もしかするとジーンやヘンリー、ザックが中心となって自習しているかもしれない。でも幾ら3年生でも、教官無しに潜らせたりしてないわよね・・・・。
シェランは不安に駆られてベッドを出た。寝不足なのか、泣きすぎなのか分からないが、頭が痛い。なんだか今までの疲れがどっと出てきたように身体中が重かった。
昨日帰った時のままベッドに潜って泣いていたので、シェランはとりあえず部屋着に着替えた。空腹を感じキッチンに向かおうとした時、ふと化粧台の上に置いたジュードへのプレゼントが目に入った。
何故、あんな事をしてしまったんだろう。取り乱して沢山の生徒の前でジュードを叩くなんて・・・・。
本来なら教官室に彼を呼び出して、事の真相を問いただすのが教官としての正しいやり方だ。それなのに彼の意見も聞かず、一方的に思いをぶつけてしまった。自分はこうして休めばSLSを離れられるが、ジュードに逃げ場は無い。彼は今どんな思いで授業に出ているのだろうか・・・・。
「そうだわ、キャシー」
シェランはハッとしたように顔を上げた。この場合、最初に考えなければならないのはキャシーの事だ。あれがもし本当なら、一番傷ついているのは彼女なのだ。シェランは急いで学校へ行こうとクローゼットを開いた。だがふと今日ずる休みをしてしまった事を思い出した。
「いえ、今はそんな事よりキャシーのほうが大事だわ」
そう言いつつスーツを引っ張り出したが、どうも何かが引っかかる。それは昨日までのキャシーの行動だった。もし自分が誰かに暴行を受けたら、普段と変わりなく授業に出られるだろうか。きっとショックで誰にも会いたくないと思うだろう。キャシーもきっとそうだ。そんな目にあったら、私の元に泣きながらやってくるか、部屋に閉じこもって授業には出てこないだろう。
「やっぱり、何かが変だわ」
ちゃんと落ち着いて真実を見極めなければ、教官としての信用も何もかも失ってしまうかもしれない。シェランはもう一度、鏡の前に立って自分をじっと見つめた。そしてジュードへのプレゼントをそっと抱きしめた。心の奥底で、やはり彼を信じたいと思っている自分に気付いたのだった。
朝はアズのおかげで元気よくトレーニングに励み、授業に臨んだジュードだったが、いかんせん根も葉もない噂話の的にされるのは、実に厳しい試練だった。特にまだジュードの事を良く知らない1年生達は「3年としてちゃんと言い開きをしろ」だの「SLSの恥だ」とまで平気で聞こえよがしに話したりする。そのせいでジュードは自分よりも先に1年に殴りかかっていこうとするショーンやマックスを取り押さえるのに四苦八苦であった。
そして2年生の間にも動揺が生じていた。ジュードを慕う機動や2年Aチームと他の課とは完全に対立していた。
「はんっ!ジュード先輩、ジュード先輩って、やけにご執心だったが、とんでもない女ったらしだったな!」
「お前等に何が分かるってんだ?ホントにあの人が教官や自分の仲間に何かしたと思ってんのか?」
1年間ずっとジュードを目標として来たアンディとミシェルには、ジュードがどれ程自分の仲間の事を大切にしてきたか知っていた。彼が本当に心の底から誰の事を思っているのかも・・・・。
「そうでなきゃ大佐があんなに怒る訳ないだろうが!俺は一部始終見てたんだぜ!」
潜水のローリー・エイムズが叫んだ。
「大佐は“恥知らず”と言ったんだ。それがどういう意味かお前等にだって分かるだろう!」
「ジュード先輩は恥知らずなんかじゃない!」
アンディはローリーに殴りかかって行った。
「やめるんだ!お前等!」
あわや大乱闘になる所で、近くを通りかかった3年Cチームが止めに入った。
「一体どういう事なんだ、ジュード!俺達リーダーにはちゃんと説明してくれるんだろうな!」
ジーンはうつむいて座っているジュードの前に立って、机を思い切り叩いた。運悪く、火曜の夜はリーダーミーティングの日だった。
ここでちゃんと説明すれば、彼等なら分かってくれるかもしれない。だがエバとキャシーのやった事は遊び半分とは言え、これだけの騒ぎを巻き起こしたという事で罰則は免れないだろう。それにジュードは何よりもシェランが心配だった。あの気丈な彼女が訓練校を休むなんて、きっと耐えられないほどのショックだったのだ。
ジュードはじっと自分の返答を待っている仲間達の顔を見回した。机の上で握り締めた両手が震えてきそうだった。
「明日・・・もう一日待ってくれないか。どうしても先に教官と話がしたいんだ。それからでないと何も言えない。今のオレには・・・・オレを信じてくれとしか、言えないんだ」
ジーンは、黙ったまま真っ直ぐに自分を見ているジュードの瞳を見つめた。
「オレを信じてくれという事は、おまえ自身は何もやっていないという事だな?それを信じてくれと言う事なんだな?」
「オレは自分の心に恥じる事は何もしていない。これだけは真実だ!」
力のこもった声が会議室に響いた。マックスがサミーや副リーダー達の顔を見ると、皆静かに頷いてくれた。ジーンはテーブルについていた片方の手を離すと、その手を腰に当ててジュードを見下ろした。
「いいだろう。お前が待ってくれと言うんなら、1日でも2日でも待ってやる。教官とじっくり話をして、ちゃんと誤解を解いて来い」
ジュードは思わずこみ上げてきた思いを押さえ込んだ。
「ありがとう、ジーン・・・みんな・・・・」
ミーティングの進行役であるサミーが、疲れた顔のジュードに声をかけた。
「今日はもう寝ていいぞ、ジュード。マックスも居る事だし・・・・」
「いや、大丈夫だ。大丈夫・・・・始めてくれ」
ジュードの言葉に頷くとサミーは「よし、じゃあ始めよう」と着席を促す為に手を叩いた。
水曜日の朝、意を決してSLSにやって来たシェランだったが、朝から聞こえよがしに入ってくる噂の変わり果てた状態に唖然としてしまった。特にジュードに対する醜聞は耳を覆いたくなるような内容だった。
『女ったらしのジュード・マクゴナガルはSLSの教官やチームメイト、おまけに後輩にまで手を出し、バイト先の2つ年下の女性から訴えられた事まであるとんでもない男だ。今、教官達の間でジュード・マクゴナガルをAチームのリーダーからはずすべきか話し合いがもたれている』
「なんなの、これは・・・・」
朝一番に掲示板に貼ってあった紙を、シェランはその場で剥ぎ取り、破り捨てた。
「こんなものを全員が見る公共の掲示板に貼り付けるなんて、今年の1年はなかなか威勢がいいな!」
後ろからやって来たクリスも回りを見回して叫んだ。掲示板を眺めて騒いでいた生徒達はみな、自分は犯人じゃないというそ知らぬふりですぐにその場を離れていった。
「何が2つ年下の女性よ!妙にリアリティ出してくれちゃって!そんな女性、何処に居るって言うのよ!」
唇を噛み締めて怒っているシェランの肩を、クリスは優しく叩いた。
「気にするな。どうせリズに憧れてたニールかトムズあたりだろう。その内僕が合同訓練でしごきまくってやるさ。それよりキャシーが探していたぞ。海で待ってるって言ってた」
「そうよ。私、あの子に会う為に、早めに来たのに!」
シェランは急いで着替えると、海に向かった。授業前の海にキャシーはいつも先に来てウォーミングアップを済ませている。なぜかいつもはプールでウォーミングアップをしているアズも彼女の側にいた。
「教官!」
シェランの姿を見つけて、すぐに海から上がってきたキャシーの濡れた身体をシェランは抱き締めた。
「ああ、キャシー。あなた大丈夫なの?ごめんなさいね。本当は一番にあなたの所へ行かなきゃならなかったのに・・・」
キャシーは静かな瞳でシェランを見上げた。
「教官。私は大丈夫です。ジュードは私に何もしていません。今夜それを証明します。授業が終わったら、私とエバの部屋に来ていただけませんか?」
シェランはゆっくりと頷いた。
ジュードだけでなく、ジュードの所属しているAチームにも噂の余波は飛んでいた。ピートとブレード、レクターの3人が、2年のAチームの潜水課である、テリー、ミルズ、ケビン、アーサー、ディッキーの5人と、談話室で前回の合同訓練の話をしていた時だった。
その合同訓練の時、テリーやミルズのチームと共に訓練した1年のAチームの潜水課の者達が通りがかりに話しかけてきた。
「あれぇ?テリー先輩。この人たち3年のAチームの先輩でしょ?女ッたらしのジュード先輩がリーダーのチームなんかと一緒に居ると、先輩たちまで恥をかきますよ」
ムッとしたピートやブレードが立ち上がる前に、彼等の前に座っていた2年生5人が一斉に立ち上がったので、遅れをとった3年生はびっくりしながら後輩達を見つめた。
「お前等!3年の先輩に対して失礼だろ!」
「そうだ、謝れ!」
ディッキーとアーサーが叫んだ。普段ヘラヘラしているケビンもジロッと1年生を睨んでいる。ミルズがさらさらの黒髪を掻き揚げながら言った。
「全くもって礼儀を知らない1年生には困ってしまうなぁ、テリー」
「全くだ。己の方が余程恥さらしだという事が分かっていない。ねぇ、ブレード先輩?」
“ねぇ”と言われても、お前等の1年の頃とそう変わらねーぞ、とブレードは思った。
それでもリーダー格のジュン・ハーマンとハロルド・ポーターは、まったく引く様子がなかった。
「礼儀って言うのはですね、ミルズ先輩。尊敬できる相手に対して使うものですよ。3年Aチームの何処に尊敬できるものがあると言うんですか?特に、リーダーのジュード・マクゴナガルに」
「では、お前達はどんな人間なら尊敬できると言うんだ?」
1年生は後ろから響いてきた声に振り返った。髪の色と同じくらい真っ黒な顔から白い大きな目をギョロッと光らせ、ケイ・アズマがそこに立っていた。
「おやおや、又3年Aチームの方ですか。全く1年Aチームとか3年Aチームとか紛らわしい。同じAチームと呼ばれるのも不愉快ですね」
思わずジュンに殴りかかっていこうとしたディッキーの手をピートが掴んで止めた。ディッキーがピートを振り返ると、彼は静かに首を横に振った。
「質問の答えになってないな。SLSの訓練生ならすぐに答えられるはずだが・・・。もう一度聞こう。お前達の尊敬したいのは、どんな人間なんだ?」
ハロルドがニヤッと笑いながら腰に手をやると、自分より少し背の低いアズに近付いて彼を上から見下すように見た。
「そんな事、決まってますよ。いかにもライフセーバーって言うカッコイイ男に決まっているじゃないですか」
「ハッ、くだらん!」
自分の答えを一笑に付されて、ハロルドはムッとした顔をした。
「いいか。ライフセーバーがカッコイイなんて思っている内は、お前等は港の階段に座って、出動していく隊員を見て喜んでいるだけのカメラ小僧か追っかけに過ぎん。では、SLSのチームの中で誰が一番カッコイイと思うか?もちろんリーダーだ。フン!それも大きな間違いだ」
この意見には1年だけでなく、2年生もびっくりしてアズを見た。まだリーダーの居ない彼等にとって、それは大きな憧れだ。リーダーに選ばれる事。それはチームの中で一番と言う意味では無いのか?
「死と直面している救助現場でカッコイイ男なんて誰もおらん。ただ必死に助けられる人を救うだけだ。
“ライフセーバーに名誉も栄光も必要ない。ただ人を助ける為、助けられる命を救う為に、その為だけにオレ達は在るんだ”
ジュードがいつも言っている言葉だ。
そしてリーダーは、要救助者とチーム全員の命をその肩に背負いながら、いかなる状況でも己を見失わず、冷静に判断を下し、いざという時は自分が犠牲になるのを覚悟の上で俺達の前を走らなきゃならない。
それがどれ程の重責か分かるか?だからリーダー達は常に己を律し、毎日毎日訓練に明け暮れ、他の者の何十倍も努力し、悩み、葛藤し続けているんだ。それをお前等は、くだらん噂話で汚していいと思っているのか?」
その場に居た1年や2年は、全員息を詰まらせていた。内心、テリーやミルズは、吾こそはリーダーにふさわしいと思い、リー教官に立候補するつもりでいた。だが違う。リーダーになるという事は学生の頃の学級委員に選ばれるのとは訳が違うのだ。
アズは黙りこくっている1年生に静かに背を向けたが、もう一度彼等を振り返った。
「ジュードがどんな人間か知りたければ、毎朝午前4時半に俺の部屋の前で待っていろ。ジュードは2、3分で出てくる。そしてあいつが何をしているか追いかけてみる事だな。だが。ピーヒョロロなお前等があいつについて行けるかな?」
立ち去るアズをムッとした顔で見ている1年とは対照的に、3年生達はニヤニヤしながら話し合った。
「なぁ、ピーヒョロロってどういう意味だ?」
「もちろん。ピーピー口だけは達者だが、ヒョロッとしていて中身がないって意味さ」
「その通りだよ。さすがピート。頭いい!」
レクターは上機嫌で笑った。