追 想 True Romance
SLS訓練校の校長ウォルター・エダースと、本部長官エルミス・バーグマンはこのSLSでは少々異例の存在だった。なぜなら歴代の校長と本部長官は代々、引退した本部隊員から選ばれていて、支部隊員出身の人間は一人も居なかったからだ。
それが何故こうなったのか、未だにウォルターは事の次第を良くは知らなかった。ただ、前本部長官と訓練校の校長は今の彼等と同じく親友だったらしく、訓練校の前校長アーノルド・クライストは退職する際に本部長官に言ったらしい。
「引退した隊員ばかりでは年寄りばかりになってしまう。活きのいい訓練生には活きのいい校長が必要だ」
前本部長官もそれに賛同したらしく、本部の中から人を引き抜くわけにはいかないので、支部隊員に白羽の矢が当たったという訳だ。とはいえ、まさか同じチームの仲間同士で、訓練校の校長と本部長官をやる事になるとは思ってもみなかった。
「いや、なかなか見事な采配ですよ。アーノルド校長」
ウォルターは自分が訓練生時代、世話になった校長の名を呼ぶと、歴代の校長の写真が飾ってある天井近くの壁を見上げた。やがて自分も『SLS訓練校 第7代目 ウォルター・エダース校長』と金色のプレートに名を刻まれて、彼の横に並ぶであろう。ウォルターはそろそろ西日が差し込んできたので、彼らの写真が色あせないように窓のブラインドを下ろしに行った。
ふと下を見ると、ノースビーチの所々にある黒い岩陰の一つに、金色の長い髪が風になびいているのが分かった。
― ははぁ・・・又何かあったな・・・ ―
あの岩は本館の他の教室からではあまり見えないのだが、3方向に窓があり、しかも5階という高さもあって、この校長室からは良く見る事が出来る。だからシェランが本部隊員時代から今に至るまで、何かあった時にはその岩の陰に座って ―多分泣きながら― 海をじっと見つめていたのも知っていた。
だからといってウォルターは、一度も慰めに行ったことは無かった。彼女が以前のようにここまで助けを求めてきた時だけ手を貸す事にしている。それが父親の役目だからだ。そして普段彼女を慰めるのは、きっと彼女が将来見つける大切な人間の役目だろう。
そんな事を思いつつ彼女を見下ろしていると、本館の方から黒髪の青年が走ってくるのが見えた。シェランは彼に見られないように急いで涙を拭き取ると、笑顔を向けて立ち上がった。ジュードはシェランの側まで走ってくるといつものように岩に座ったので、シェランも元の砂浜に腰をかけた。
何を話しているのか、とても楽しそうに話している2人を見ていると、いつもウォルターは遠い昔の記憶を呼び起こされる。思い出す度に胸の奥が懐かしいような苦しいような感覚に見舞われるが、それを忘れる事など出来なかった。
あれはまだウォルターが、この訓練校の2年生になったばかりの頃だった。
当時から頑固でお堅いと評判の男は、休みの日でも他の訓練生のようにマイアミやビーチに遊びに出るでもなく、大抵午前中は訓練に精を出し、午後からはビーチの見回りも兼ねて散歩するのが習慣だった。
サウスビーチにはちゃんとした監視員が居るので、彼は人のあまり訪れる事の無いノースビーチをいつも歩くことにしている。釣り人達がのんびりと糸を垂れている突堤まで来ると、突堤の周りを固めてあるテトラポッドの所に、裾の長い白い衣服を着た人間が居るのに気が付いてウォルターはぎょっとした。
その人物は体を丸めてテトラポッドに顔を突っ込むようにして中を覗いていたからだ。波にさらわれでもして落ちたら大変である。
もとよりライフセーバーの仕事は、溺れた人を救助するのが唯一の目的ではなく、事故を防ぐ事が一番の使命だと理解していた彼は、急いでその人物に近付き肩を叩いた。
「君、そんな所で何をしているんだ。危ないじゃないか」
海の中に顔を突っ込むようにしてテトラポッドの間を覗き込んでいた人物は、肩を叩かれてゆっくりと顔を上げた。その人物を見てウォルターは思わず言葉を失った。
海風に巻き上げられた金色の髪は、まるで金糸のように細く滑らかにたなびいていた。光に透ける薄いブルーの瞳は今まで出会ったどの女性より知的な輝きに溢れ、初めて見る男に驚く風でもなく穏やかに微笑んでいる。そして何より彼を驚かせたのは、その白い素肌だった。この南国のような都市に居て、まるで一度も陽を浴びた事の無いような真っ白な肌を彼は初めて見た。
彼女はそのピンク色の唇でにっこり微笑むと立ち上がった。良く見ると左手に海水と緑の藻が入った試験管を3本ほど持っている。
「まぁ、ごめんなさい。ここは立ち入り禁止区域だったのかしら。私、何も知らなくて・・・」
「あ・・・、いえ、そういう訳では・・・ただあなたが落ちそうかなと思って・・・」
ウォルターは自分が赤くなっていないか自信が無かったが、彼女の方は何も気付いていないようだ。
「気に掛けてくださったのね。もしかしてSLSの方?」
「ええ、まだ訓練生ですけど・・・」
「私もまだ大学生なのよ。マイアミ大学の2年生。あなたは?」
大学の2年生ならまだ19か20歳くらいだろうか。ウォルターは自分をまっすぐに見ている彼女の瞳から照れたように目をそらしながら答えた。
「僕も2年です。ただ、大学を卒業してから入校したのであなたよりは年上でしょうが・・・。所でこんな所で何をなさってたんですか?その試験管の中は海水?」
こんな場所で話をするのも危険なので、ウォルターは先に突堤まで上がって彼女に手を差し出した。彼女は彼の手をとってテトラポットを上がってきた。その白くしなやかな手に、男ばかりの中で生きてきた彼が動揺しない筈は無かった。
「ええ、私は海洋研究学科の学生で環境微生物の研究をしているのよ。この試験管の中に一体何万匹の微生物が存在すると思う?」
ウォルターは想像も付かない質問に戸惑ったように黙り込んだ。彼女は肩に担いでいた白い四角い箱に試験管を一本ずつ差し込み蓋を閉めると、再びウォルターに笑いかけた。
「ごめんなさい。SLSの人にこんな話をしても分からないわよね。私はセルレイン・リヴァインよ」
「ウォルター・エダースです」
ウォルターは彼女の方から差し出された白い手をもう一度握った。
妙な女だったな・・・。そうは思いつつも、ウォルターはあの物怖じしないまっすぐな瞳にもう一度会いたくて、暇さえあればノースビーチを散歩していた。微生物が居るのならやはりテトラポッドのあたりか、もっと遠くの岩場あたりだろう。そう思って思い当たる所に遠出してみたりもした。
その甲斐あってか、2週間後の日曜日に再び北側の岩場あたりで彼女を発見する事が出来た。相変わらず大きなプラスチックの箱を側に置いて、岩場の中を覗きこんでいる。
「微生物も大事だろうが、波にさらわれるのが怖くないのも困ったものだな。ミス・リヴァイン」
ウォルターの声を待ちかねていたように、彼女は顔を上げて微笑んだ。
「セリーよ。ミスター・エダース。それよりウォルターって呼んだ方がいい?」
「別にどちらでも構わないよ」
ウォルターはわざと気の無い返事をした。
それからは別に約束をしていたわけでも無かったが、2人は時々ノースビーチで会うようになった。セリーは相変わらず岩場やテトラポッドの影に生息している、肉眼では確認出来ない微生物の収集に夢中になっていた。
「一体そんなものを調べて何がおもしろいんだい?」
ある日ウォルターがセリーに尋ねた。
「じゃあ、あなたはどうして起こるかどうかわからない事故の為に、いつもこうやってガード(パトロールの事)をしているの?」
「それは・・・」
まさか君に会いたいから・・・等と言う言葉を口が避けても言えない性質の男は、うろたえたように言葉を切った。
「ねぇ、誰かにとって価値の無いものでも、私にとっては価値があるの。あなたにとってそれがそうであるように・・・。だってそうでしょう?普段は全く必要が無くても、事故はいつ起こるかわからない。だからあなた達が居るの。微生物も同じよ。たとえ人間の目に見えなくても、それは私たちの生活に確実に影響を及ぼしている。だって全ての命はここから始まったんですもの」
彼女の研究はどうやら、科学のかの字も知らない俺なんかが触れてはならないもののようだった。それでもセリーは実験室から顕微鏡を持ってきて、俺に海の中の微生物を見せてくれたりもした。
「ほら、ここにたくさん居るのが下水を綺麗にする活性汚泥よ。顕微鏡の倍率を800から1000倍にしないと見られないのが細菌類と呼ばれるものなの。それより少し大きくなったのが原生動物や後生動物で100から400倍の倍率で見る事が出来るわ。細菌は水の中の汚れを食べて水を綺麗にしているの。その細菌を食べているのが原生動物や後生動物よ」
「一概に800から1000倍と言われても、よく大きさが分からないな」
「そうね。細菌類を3ミリくらいの大きさとするでしょう?すると原生動物や小さな後生動物は大体テニスボールからバスケットボール位。人間は3000メートル級の山に匹敵するわ」
「それはすごいな」
顕微鏡を覗いた後に、すぐ側で微笑んでいるセリーの輝くような笑顔と白い肌に、ウォルターの心は何故か息苦しいような甘い感覚を覚えるのだった。
そんな風にしてセリーと出会ってから1年が過ぎた。この堅物の俺が時々女性と会っている事が耳ざといチームの連中に知れない筈も無く、よく“付き合わないのか”とか“卒業前に結婚しろよ”等とからかわれたものだが、そんな言葉はおこがましいほどセリーは自分の研究に真剣だった。
彼女はこの大西洋をこよなく愛し、この海に生きる全ての生物に愛情を持っていた。卒業しても大学に残って海洋学とやらを続けていくのが夢だと何度も話してくれる彼女に、自分の夢を押し付ける事など出来なかった。ウォルターはやがてこのフロリダを離れ、遠くの支部に配属されるのが分かっていたからだ。
本部との合同訓練も中盤を向かえ、そろそろ卒業という文字が俺達の間にちらつき始めた頃だった。彼と再会したのは・・・・。
その日はいつものようにセリーに付き合って、波の穏やかな岩場で海水の採集を終えて帰る所だった。
「いつも悪いわね、ウィル。本当は訓練で忙しいんじゃないの?」
「俺は別にリーダーでも副リーダーでもないしね。セリーは微生物を愛するあまりに海に落ちる危険性があるから、ライフセーバーの卵としては放っておけないだけさ」
そんな冗談を言いながら砂浜を歩いていた時だった。サウスビーチの方から、まるで人魚の尾びれのような大きなフィンを担いだ背の高い男が、2人の男達と楽しそうに話しながら近付いて来た。
「このままタイムが伸びれば、次の大会では随分いい所までいけるぞ」
「なかなか、世界の壁は厚いよ」
「何言ってるんだ。今でもお前は世界で第3位の実力を持ってるんだぜ。アル」
その男達の真ん中で尾びれを背負っているアルと呼ばれた男に、ウォルターは見覚えがあった。その陽に焼けたさわやかな笑顔も白金の髪も良く見知っていたものだったが、先に声をかけたのは彼のほうだった。
「ウォルター?ウォルター・エダースじゃないか!」
「ああ、アルフォート。久しぶりだな」
「なんだ、お前、SLSに入ったって聞いてたけど全然連絡もないし、どうしてたんだ?」
アルフォートは親しげに彼の肩に腕を回して笑った。
「今、3年生だよ。もうすぐ卒業だ」
「そうか、やったな。機動救難士になるのがお前の夢だったもんな」
アルフォートはウォルターにそう笑いかけた所で、彼のすぐ後ろに立っている女性に気が付いた。セリーの方も彼の吸い込まれそうな紺碧の瞳に見とれていて、一瞬彼らは互いに自分達以外の何者をも存在を忘れてしまったように見つめあった。
そしてその瞬間、ウォルターは彼らが一目で恋に落ちたのだと悟った。
「あ・・・え・・と、彼女?」
我に返ったようにアルフォートが尋ねた。
「いや・・・違う。友人だ」
心がきしむ様な感覚を覚えながら、ウォルターは2人を紹介した。
「セリー、彼は高校時代の友人でアルフォート・ミューラー。フリーダイビング(素潜り)の権威なんだ。彼女はセルレイン・リヴァインだ。マイアミ大学の3年生。良く分からんが、カビかなんかの研究をしているらしい」
「環境生物学よ。ウォルター」
その日からセリーの心の中には彼一人が息づくようになった。大西洋と同じ紺碧の瞳をしたダイバーに・・・。
昔からアルフォートは、男友達も女友達も溢れるほど持っていた。子供の頃からフリーダイビングに青春をかけてきた彼は、いつもダイバー達の憧れであり、友人達の自慢でもあった。背も高く見栄えのいい彼に女性の視線が集まらないわけも無く、高校時代はいつも困るほど女の子達に追いかけられていたし、様々な新聞や海洋関係の雑誌にも取り上げられるほどの有名人だった。
反対にウォルターの方はがり勉では通っていたが、たまに図書館で会う司書係の女の子としゃべる位が関の山のような男だった。男友達もSLSに入ってチーム一のおせっかいで気のいいエルミスが最初の親友で、後はみんな頑固なウォルターに一目置いていて、高校時代も似たようなものだった。
そんな正反対の2人が何故か高校時代は気があって、何かとつるんでいたのを覚えている。ダイビングの面白さを教えてくれたのもアルフォートだった。彼のおかげでウォルターは最初の26フィートの潜水試験もやすやすと合格する事が出来たのだった。
それからは3人でよく会うようになった。ウォルターは鈍い方ではないので、2人に遠慮して自分は会わない様にしようとしたが、アルもセリーも気がいいというか、彼らこそ鈍かったのか、決してウォルターを仲間はずれにはしなかった。
時々仲のいい2人を見ていると心に走る衝動に辛くなる時もあったが、どうせもうすぐ卒業なのだからと自分に言い聞かせた。
俺はここに留まる事など出来ない。だからどれ程思っていても、それを口にする事なんて愚かな事だ・・・・。
やがて卒業を迎え、俺達のチームの配属先はワシントン州支部と決まった。フロリダからすれば一番遠い支部かもしれないが、俺は返ってそのほうが良かったとさえ思った。もうこれで2人の姿を見ずに済むのだと。
旅立つ日、いいと言うのに彼らはマイアミ空港まで見送りに来てくれた。セリーはぽろぽろ涙を流しながら「元気でね」と言ってウォルターを抱きしめた。
「幸せにな、セリー。君なら絶対大丈夫だ」
セリーの頬に口付けをするとアルの方を向き直った。
このムカつくほどの幸せ者には、一発くらいお見舞いしてやってもいいと思っていたが、このお人よしのバカがセリーと同じようにボロボロ涙を浮かべて泣いているのでそれも出来なかった。
「元気で・・・元気でな。ウィル。たまには帰って来いよ」
「ああ・・・」
もう二度と帰るつもりなど無かったがそう答えると、ウォルターは彼の肩を抱きしめ、そっと耳打ちした。
「セリーのこと、頼んだぞ。俺の大切な・・・妹だからな・・・」
「うん・・・うん」
そうして俺は過去に別れを告げた。もう二度とここに戻るつもりも、彼らに関わるつもりも無かった。
幸いな事にワシントン支部に行ってからは毎日の厳しい現実に、昔の事など懐かしんでいる暇さえなかった。自分達が訓練所で、如何に教官に護られてきたのかという事を思い知らされた。あの豪快なエルミスでさえ、リーダーとしての責務と実際の救難現場の凄惨さに、何日も眠れない日々を送っていたらしい。
そうしてあっという間に1年が過ぎ去っていった。そんなある日、懐かしい大西洋の紺色の海とさわやかな青い空の写真が写ったはがきが届いた。アルとセリーの結婚式の招待状だった。途端に忘れていた筈の甘酸っぱいような感覚が胸の底から湧き出てきたように思った。
「結婚するのか・・・・」
分かっていた事とはいえ、何とも言えない複雑な想いがこみ上げてくる。もう忘れた筈なのに・・・。
彼らはまだ自分を親友だと思っているのだろう。それが余計ウォルターにとっては苦痛だった。もう忘れてくれたらいいだろう?こんな便りもよこさない男の事なんか・・・。
ウォルターは頑なに心を閉ざすと、不参加の返事を出した。どうしても仕事が忙しくて行けないと理由をつけて・・・・。
それからしばらくして、彼等から結婚式の写真が届いた。ウォルターに参加してもらえなかったのがとても残念だったとセリーから手紙も付いていた。純白のウエディングドレスに身を包んだセリーは、今までウォルターが見たどの彼女よりも輝いていて幸せそうに見えた。それだけでウォルターはこれでよかったんだとやっと思えたのだった。
それからもたびたび彼等から手紙が来たので、ウォルターは当たり障りの無い文章で返事を返していた。そして彼らの結婚から2年が経ったある日、とうとう彼らに待望の赤ん坊が生まれたのだ。女の子で名前をシェルリーヌとつけた、と書いてあった。是非一度会いに来てやって欲しいというアルからの手紙にも、ウォルターは休みが取れないという理由をつけて会い行こうとはしなかった。
本当に頑固でへんこつで愚かだったのだ。俺は・・・・。
それからしばらくは彼等から何の連絡も無かった。連絡が無いと安心する反面、何だか気になってくるのが人間の感情というものだろうか。
丁度その前の年は、久しぶりにワシントン支部に新しいチームが配属された年だった。去年訓練校を卒業したばかりの不慣れなチームも、一年たって随分プロの仕事に慣れてきたおかげで、いつもより長い休暇を取れた俺は、久しぶりにフロリダの実家に帰ってみる事にした。両親にも、もう何年も会っていなかったからだ。親父もお袋ももうリタイヤしていい年頃なのに、まだ現役で州の西側にあるタンパに住んでいる。
フロリダに帰ってみると、やはり気になるのはアルとセリーの事だった。娘が生まれた時も写真を送ってくれたのを覚えている。セリーにそっくりな白い肌とアルと同じ紺碧の瞳を持った赤ん坊だった。きっと今では5歳くらいに成長しているだろう。何だかそんな事を考えると無性に会いたくなってきた。あれからもう二度と会うことは無いと思っていたのに・・・。
7月の暑い日だった。確か結婚して彼らはマイアミビーチに新居を構えたと知っていたので、人に聞きながら訪れた。聞く人みんなが『ああ、あの白亜の宮殿ね』などと訳の分からない事を言うので、一体どんな家だろうと思っていたら本当に宮殿・・・否、近代的なコンサートホールのような形と大きさにびっくりしてしまった。
何の連絡もせずにいきなり訪れて、迷惑がられるだろうか・・・。そんな不安を抱きながらインターフォンを押した。
しばらくするとドアが開いて、真っ白な肌と同じ純白のドレスに身を包んだ小さな少女が、まるで羽根が生えているかの様に飛び出してきた。それはウォルターにとってまさに天使との出会いだった。そして何よりも初めて会うのに物怖じしないその少女の瞳が、大西洋と同じ紺碧の色をしていたのが、ウォルターにとってとても印象的だった。
「まぁ!うそでしょう?今日のこの日にあなたが帰って来てくれるなんて・・・!」
後からやって来たセリーは娘を抱き上げ、玄関先で立っているウォルターを見て感嘆の声を上げた。
「あなた!アル!来て。ウォルターよ!彼が帰ってきてくれたの!」
「ウォルターだって?」
アルフォートも急いでやって来た。
「ウィル!ああ、なんて偶然なんだ。今日はこの子の、シェランの誕生日なんだよ」
丁度パーティの真っ最中だったらしく、アルの仲間達もたくさん訪れていた。ウォルターは突然押しかけた非礼を詫びたが、アルとセリーは彼が帰って来てくれただけで充分嬉しそうだった。
「おじさま、ウォルター・エダースっていうの?」
ウォルターの膝の上に座ったシェランが尋ねた。
「ああ、そうだよ」
「パパとママがいつも親友の彼はどうしてるんだろうって心配していたのよ。SLSのライフセーバーなんですってね」
シェランの言葉を聞いて、俺は今まで頑なに心を閉ざしていた自分を恥じた。アルもセリーもこんな自分をいつも心配してくれていたのだ。
それからは、時間の取れる限りフロリダに帰る事にした。といっても年に2,3回が限度だったが、それでも再びアルやセリーとの信頼関係が復活し、そして何よりもシェランという存在が、彼らとの絆をより強いものにしていった。
ウォルターにとって、シェランはまさに自分の子供と同じだった。彼女の誕生日にはなるべく休みを取るようにしたし、もし帰れない時でも、シェランの為に心からのプレゼントを贈った。
そしてそれは彼女の15歳の誕生日も同じだった。運良く休みが取れたウォルターは、その前日の4日からマイアミの実家に戻っていた。5日の当日の朝、アルから「夕方からシェランの誕生日パーティを、いつものように内輪だけでやるから参加してくれ」と連絡があって「もちろん参加するさ。その為に帰って来たんだからな」と言って彼を笑わせた。
だがまさかそれが、彼との最後の会話になるなんて思いもよらなかった。シェランの両親は海軍からの依頼で大西洋のある海溝を調査中に事故に遭い、そのまま行方不明になってしまったのだ。しかし、肝心の事故現場も事故の状況も家族であるシェランに一切知らされることは無かった。どれ程悔しかっただろうか・・・。彼女の悔しさや憎しみは、そのままウォルターの心の中の思いだった。
そんな風に友を失ってから1年後だった。ジュードと出会ったのは・・・。といっても嵐の中の救助だったので、こちらの方もほとんど顔を覚えているわけではなかったが。後に彼が父親と叔父を失った事を聞いて、助けられなかった事を残念に思った。
あの時、ライフシップは救助に出ていたが、そこからヘリを飛ばす許可は下りなかったのだ。だが、要救助者がもうすぐそこに居る事が分かっていたのと、当日のヘリのパイロットがワシントン支部一腕のいいパイロットだったので、何とかヘリを飛ばす事が出来たのだ。だからすでに父と叔父の行方が分からなくなっていたとはいえ、ジュードを救助できたのは本当に運が良かった。
それでもきっと彼は、父と叔父を助けてくれなかった事を恨んでいるだろう。俺はずっとそう思っていた。もう少し早く来てくれたら、家族が死ぬ事はなかったんだと責められた経験が、以前一度あったからだ。それ以来、俺は救助した人達が礼を言う為にやって来ても一度も会おうとはしなかった。だからそれから更に1年後、ジュードが訪ねて来た時も彼を無視したのだ。
その頃、そんな小さな俺とは逆にシェランは大きな敵と戦おうとしていた。5THの事件だ。大西洋にある巨大な石油採掘場に数個の爆弾が仕掛けられたというものだった。しかもその爆弾の内いくつかは、970フィートも深い海の中に付けられているというのだ。
― 取り行けるものなら行ってみろ ―
その挑戦をシェランは受けてたった。誰か一人でも5THの人間が脱出すれば、すぐさま海上の施設に仕掛けられた爆弾が爆発するという状況で、シェランはたった一人、SEALの潜水士でさえ行った事の無い深海に潜った。そして海底を支える柱に取り付けられた3つの爆弾を、全て取り外す事に成功したのだ。
だが“わたしという名の男”はシェランが海中に取り付けられた爆弾をはずしたにも関わらず、海上の施設に付けられた爆弾を全て爆破させたのだ。あの男は最初から5THを生かすつもりなど無かった。あの男はそういう男なのだと皆が言う。今まで狙った施設は必ず再起不能にしてきたのだ。事実5THは36人の犠牲者を出し、再起不能に陥った。
では何故、わざわざ970フィートもの深海に爆弾を取り付け、それをシェランに取りに行かせたのか。その答えはジュードが答えてくれた。
“わたし”という男は今まで一度も破壊すると決めた施設に脅迫などをしてきた事は無い。それをあえてしたのは、それが“彼”の考えではなく、彼のすぐ側に居るであろうルイス・アーヴェンの挑戦ではなかったのだろうか。
彼は世界一の女潜水士と呼ばれるシェランに挑戦したかったのだ。そして5THで敗れた彼は、今度はウェイブ・ボートで彼女に挑戦してきた。それを防いだのはジュードとシェラン、そしてルイス・アーヴェンの仲間であったSEALだった。
だが、彼はまだ生きている。あの“わたし”と呼ばれる男も・・・・。
いつか彼らは再びあの男達の挑戦を受ける事になるのだろうか。それがウォルターの一番の不安だった。その戦いにはきっとシェランだけでなくジュードも巻き込まれるに違いないだろう。それが彼らの因縁のようにも思う。どうしてだ?私が一番大切に思っている2人の子供達が、これ以上危険な目に遭わないように、ただそれだけを願っているのに・・・。
ウォルターはオレンジ色の入日に包み込まれた砂浜を再び見下ろした。ジュードとシェランはまだ楽しそうに話を続けている。あの笑顔を護ってやりたいと心の底から思う。どんな事をしても・・・・。
そんなウォルターに自分達の姿を見られているとも知らず、シェランとジュードは仲間達の話題で盛り上がっていた。ひとしきり話が終わった時、ジュードがシェランにふと尋ねた。
「そういえば校長先生って何で結婚しないのかな?年は少しいってるけど、まだまだ現役で充分通用するし、男のオレ達から見てもカッコイイと思うのに・・・。」
その質問にシェランは小首をかしげてにっこり微笑んだ。
「あのね、ジュードだから言うんだけど、ウォルターはたぶん・・・まだママの事が好きなんだと思うわ」
「マ・・・ママ?ママって、シェランの?」
「うん。多分そうなんだと思う。パパとママは鈍いから気付いてなかったと思うけど、きっとそう。だから私の事も本当の娘のように大事にしてくれるんだと思うわ。もしママがまだ生きていたら、あるいはウォルターは他に好きな人を作ったかも知れないけど、ママは死んでしまったでしょ?きっと彼の中に居るママは、ずっと若い時のままなんじゃないかしら・・・。私も心配だから、早く誰かいい人を見付けて欲しいんだけど・・・」
ジュードは思わずシェランから顔をそらして考えた。確かシェランの家に飾ってあった写真の中の母親は、彼女にそっくりじゃなかったか・・・?まさか校長って・・・・。いやもしかしたらそうかも・・・。
だってそんなにも好きだった女性とそっくりな娘が側に居たら、いくら娘だと思っていても、いつかそれが別の愛情に変わらないとも限らないぞ・・・。あまりにも危険だ。ウォルター・エダース・・・。
「ジュード、どうしたの?」
急に考え込んでしまったジュードの顔を、シェランは不思議そうな顔で覗き込んだ。
「い・・・いや、何でも・・・」
そう答えつつジュードの心中は穏やかではなかった。まさかあの海千山千の校長までもがライバルなんてあんまりだ。いや、卒業してここを出て行く自分にはどうだって良い事なんだけど、でもやっぱり校長はいけない。それならクリスの方がまだ若いだけましじゃないか・・・。
「シェラン、校長先生の事、父親だと思っているよな?それ以外でもそれ以上でもないよな?」
「何言ってるの?ジュードったら・・・。ウォルターの事、命の恩人以上に父親のように思っているのは、ジュードの方じゃないの。何?私にやきもちやいてるの?」
「い・・いや、そういうわけじゃないんだけどね・・・うん・・」
ジュードの赤くなった横顔を見ながらシェランは微笑んだ。
そしてそんな2人の様子にちょっと複雑な思いを抱きながら、ウォルターは窓のブラインドを下ろし、自分がいつも事務処理を行っている椅子に座って、机の上に飾ってある写真立てを見つめた。
3つある写真の内一つは、まだ5歳のシェランを自分が抱いて、その左側にアルとセリーが並んで撮ったものだった。背の高いアルが少し前かがみになって写真の中からウォルターに笑いかけている。
「どうだ?アル。お前の娘はライフセーバーの男を選んだぞ。さぞかし悔しいだろう。ザマーミロだ」
彼は陽に焼けた親友の顔をちょんと指でつっつくと、にやりと微笑んで椅子の背にゆっくりともたれ掛かった。