第15部 オレゴン・サマー 【10】
「出て来い!ジュード!この俺様と勝負するのが怖いんだろう!」
ダットの挑発にもジュードは姿を現す事はなかった。
― フン、姑息な罠を仕掛けやがって。この俺がそんなものに引っかかるとでも思っているのか? -
ダットは上下左右にサーチライトを照らし、注意深く一歩一歩林の中を進んだ。ふと地面の色が他と違う事に気付いたダットは、右足でその部分を踏みつけてみた。途端に地面が崩れ落ち、落とし穴が現れた。
「はんっ!やっぱりガキだな、ジュード!こんな子供だましの手段で俺を罠にはめようってのか?」
ダットは勝ち誇ったように叫んだ。
「そのようね」
ダットは頭で考えるよりも早く、声のした方に銃を向けた。真っ白な馬に乗った女が、10メートルほど先からこちらを見ている。この距離ならはずしはしない。
だがダットが銃の引き金を引こうとした時、何かが彼の銃を後ろに奪い去った。今度は右手後方にこげ茶色の馬に乗ったジュードが、カウボーイが使うようにロープを輪状にして投げ、丁度彼の銃をその手元に掴んだ所だった。
「実はカウボーイのバイトも1年ほどやってたんだ。観光客に見せないといけないから輪投げは必須でね。さっきの男の足もこれで引っ掛けて木につるしてやったんだ。なかなかだろ?」
自慢げに話すジュードの言葉と命の次に大事な銃を奪われ、ダットは完全に頭に血がのぼった。
「この・・・ヤローッ・・・・」
ダットは憎しみを込めて歯をギリギリと噛み締めながら、一直線にジュードに向かって行った。ジュードは逃げる事もせず、馬上からじっと彼が来るのを見ている。
「そこを動くなよ、ジュード」
ダットの言葉にジュードは小さな声で答えた。
「もちろん、動かないさ」
突如、足首を何かに噛み付かれたような痛みが走り、ダットは悲鳴を上げた。あせってもう片方の足を踏み出した途端、そちらにも同じような痛みが走った。まるで巨大な蛇に噛み付かれたような痛みだ。ダットは叫びながら、もんどりうって倒れた。
だが更に鋭い牙は、彼の右ひじと左腕に噛み付いた。これこそが本当の罠だったと気付いた時には、もう既に遅かった。彼の周りには動物を挟みこんで捕まえる為の罠が、大口を開けて数限りないほど仕込んであったのだ。
ジュードは血まみれになって倒れているダットの足や腕を冷ややかに見下ろした。
「それ以上動かない方がいい。動けばすべての罠が作動して襲い掛かってくる仕組みになっている。この罠は全てお前達が動物を捕らえるために仕掛けたものだ。言っただろう?自然を利用すれば必ず彼等から報復を受けると。これで少しは、お前が殺した動物達の痛みや悲しみを思い知るがいい」
侮蔑の眼差しを向けて去って行くジュードとシェランの後姿に、ダットは最後の咆哮を上げた。
「許さんぞ!俺は絶対にお前を許さんからな!憶えていろ!ジジュードォォォッ!!」
ジュードは持っているのも汚らわしそうに、ダットの銃を茂みの中に投げ捨てた。
「シェラン、怒ってるか?ライフセーバーが人を傷つけた事・・・・」
ジュードはうつむいたまま、言い訳をするように呟いた。
「あら、嫌だわ、ジュード。あんな怪我、一ヶ月もすれば治っちゃうじゃない。私の考えでは、そうね。一年くらいは寝込んでいただいても全然構わなかったわよ」
「そ、そう。それは良かった・・・」
でこぼこ道に何度もハンドルを取られそうになりながら、バーリーは山道を進んできたが、そろそろ限界だ。これ以上は幾ら4WDでも進めないだろう。彼は懐の重みをもう一度確認すると、懐中電灯を手に車を降りた。
夜の闇はまるで黒いカーテンを張り詰めたように辺りを包み込み、月の光さえ通そうとはしなかった。小さな懐中電灯一つではとても全てを照らしきれず、バーリーはふくろうの鳴く声にもビクッと肩を震わせ、その方向に光を当てた。ふくろう達が煩わしそうに光に目を細めた後、バサッと羽音を立てて飛び立つと、彼は小さな溜息を付いて再び暗い森の中を進んで行った。
ダットがいつも仲間と落ち合う場所は、この森を抜けた所にある。ダットはそこに居るのだろうか。いつもは煩わしいだけの仕事仲間も、こんな夜には早く会いたいと思うものだ。
バーリーはとにかく先を急いだ。・・・と、突然、何かにつまずいて、前によろめいて倒れた。手をついた地面が妙にべっとりと濡れているので、落とした懐中電灯を拾って照らしてみると、辺り一面が真っ赤に見えた。
「ひっ!」
気味が悪くて思わず声を上げたが、そんなはずはない。だがもう一度自分の手に灯りを当てると、べっとりと赤い液体が付いていた。バーリーは恐怖に顔を引きつらせながら、恐る恐る自分が今つまずいた何かを振り返った。
電灯の光に照らし出されたのは、恐ろしい形相でカッと赤い口を開いたまま死んでいる熊の姿だった。
「うわぁぁっ!」
バーリーはしりもちをついたまま、2、3歩後ずさりすると、よろめきながら側の木を掴み、立ち上がった。しかしその木の上からも血が滴り落ちて来て、見上げると、ウサギの死体が縛り付けられていた。
「ひっ!」
彼はすぐその木から離れようとしたが、濡れた地面に足を取られて再びよろめき倒れた。バシャッと顔にかかったのは、やはり真っ赤な血で、彼は激しく肩で息をしながら何とか立ち上がると、小さな電灯で辺りを照らしてみた。周りには様々な動物が血まみれになって転がっており、自分の立っている場所も、周囲も、全て血の海だった。
「なんなんだ、これは・・・なんなんだよ!」
バーリーは気が狂いそうになりながら叫んだ。恐怖で、自分が何処に居るのさえ分からなくなりそうだった。
「分からないのか?バーリー・・・・」
何処からともなく響いてきた声に、バーリーは聞き覚えがあった。オレゴンの大地を吹き抜ける風のような透き通る声。この7年間、思い出したくもないのに、いつだって耳障りに大自然の美しさと偉大さを語りかける男・・・・。
「ロバート・・・・」
木の陰に立ってバーリーの様子を見ていたジュードは、驚いたように彼を見つめた。何故今彼はこの状況で父の名を呟いたのだ?ジュードは彼が自分の声を父のロバートと勘違いしていると分かったまま続けた。
「この血はお前が捕らえて剥製に変えた動物達の血だ。彼等はみんなその命の灯が消えない内に殺され、その血と内臓を抜き取られ、ただの皮だけにされて売られていく。一体何の為に・・・・?」
「求めるものが居るからさ!都会に住んでる奴ほど自然に憧れる。殺伐としたビル群。近代的だが味わいのない殺風景な部屋。そんな場所に西部の大地を置く事が出来たら?彼等は開拓時代のアメリカを求め、それを表す動物の剥製を欲しがるんだ。俺はただ奴等が欲しがるものを与えてやっているだけさ。ビジネスマンとしてな!」
「その為にこの地を血で穢したしたのか?俺達がずっと守ってきた、そしてこれから先も守り続ける・・・」
「俺は知らない!俺は出来上がった製品を売るだけだ。こんなに血が流れてるなんて俺は知らない!」
バーリーはその場でうずくまり、血と泥にまみれた手で頭を抱え込んだ。
「俺が憎いんだろう、ロバート!本当は俺が憎いからこんな目にあわせるんだろう!だったらどうしてあの時俺なんかを助けたんだ?どうして突き放さなかった?どうしてなんだよ!ロバート!」
ジュードは半狂乱になって叫んでいるバーリーが、何を言っているのか全く分からなかった。もしかしたら、バーリーがロバートから離れていった原因はこれなのか・・・?
ジュードは木の陰から出て行くのをやめて、ロバートのままもう少しバーリーの様子を見てみる事にした。きっと無理に作らなくても、ジュードとロバートの声は似ているのだ。
「バーリー。俺がお前を憎んでるなんて、そんな事あるはずないだろう?どうしてそんな風に思うんだ?」
バーリーは暫く地面に手をついたまま押し黙っていたが、まるで教会で懺悔する時のように語り始めた。
「忘れたのか?もう12年も前になるからな・・・。あんたと一緒に山歩きをするようになって、何度目かの春だった。あんたが昼飯の用意をしている間に薪を集めに行っていた俺は、藪の中で遊ぶ小さな熊の赤ん坊を見つけた。2匹で絡み合って遊ぶ姿がつい可愛くて近付いてしまったが、山に登るものなら誰でも知っているはずだ。小熊の側には必ず母親の熊が居る事を・・・。
『バーリー!離れるんだ!』そう叫んでお前が走って来た時には、母熊の猛襲が俺の頭を目がけて襲い掛かっていた。俺はかろうじて逃れて一撃を防いだものの、そのまま足を滑らせて崖から落ちそうになり、何とか右手一つで崖の端を掴んで下に落ちずに済んだ。
だがその手をもう一度、あの鋭い爪で引き裂かれたら、手を放すしかなかっただろう。あの時あんたが石を投げて母熊の気を逸らしてくれなかったら・・・・。母熊はあんたを追いかけていった。そして何とか俺は崖の上に這い上がって、あんたの声を聞いたんだ。『今のうちに逃げろ!バーリー!』」
ジュードは木の陰に立ってじっとバーリーの語りを聞いていた。ああ、そうだ。あの人ならきっとそう言うだろう。
「例え逃げろと言われても、逃げていいものじゃない。熊に追われて逃げ切れる人間は殆ど居ないんだ。だからあの時俺は、仲間であるあんたを助けに行かなきゃならなかった。何故ならあの時、銃を持っていたのは俺だけだったんだから・・・。
なのに、俺は・・・あまりに動転して・・・。いや、ただ単に怖かったんだ。もう一度あの熊に対峙する勇気なんてなかった。俺は必死に逃げた。そうだ。ロバートだって逃げろと言った。だから俺は逃げたっていいんだ。そう言い訳をして、お前を見捨てたんだ・・・・」
その日の事はまだ幼かったジュードもよく憶えている。肩から背中にかけて、熊の爪が肌をざっくりとえぐり取り、これ以上血が流れたら意識を失う所まで行きながらも、父は深夜、自力で家に戻ってきた。慌てふためいてレゼッタはロバートをアストリアの病院へ運び、父は3週間ほど入院していた。
レゼッタもまだ若く、取り乱していたせいか森林局へ連絡を忘れ、父は山で行方不明になったと大騒ぎになっていたらしい。
「お前は戻ってこなかった。てっきり俺はお前が熊に殺されたと思って、逃げた自分を責め続けた。だが一ヶ月後、お前はひょっこり戻ってきた。“ちょっと熊に襲われて入院してたんだ”なんて笑いながら・・・。そして俺に何て言った?“また山に行こうな。バーリー”」
バーリーは血に濡れた地面を激しく叩いた。
「何で俺を責めない?仲間を見捨てて逃げた卑怯者と呼べばいい!しかも俺は森林局の奴等にもお前の事を話さなかった。話せば、先輩局員を見捨てて逃げた恩知らずと、ののしられるのが分かっていたから!お前が俺に、にっこり笑って話しかけてくるたびに、俺はお前が俺を責めているんだと思った。実際そうだった。お前は俺を憎んでたんだろう!」
「父さんはバーリーの事を一度だってそんな風に言った事はないよ!」
ジュードはたまらなくなって、とうとう木の陰から姿を現した。まるで夢から覚めたようにバーリーはジュードを見つめると、皮肉っぽく笑った。
「ああ、そうか、ジュード。お前か・・・。そうだな。ロバートであるはずがない。あいつは7年前に死んだんだ・・・・」
彼はそう言いつつ、辺りを見回した。よく見れば周りに落ちている動物の死骸も辺り一面に撒かれている血も全て作り物だった。暗さと恐怖ですべてが本物に見えていただけだったのだ。
「随分と小細工をしてくれたもんだ。こんなもので俺を陥れようってのか?ジュード」
尖った鼻先にしわを寄せて、バーリーはジュードを睨みすえながら立ち上がった。そしてゆっくりと懐にある銃をつかみ出した。
「あんたにオレは撃てないよ、バーリー」
ジュードはもうこれ以上バーリーと言い争う気にはなれなかった。彼が何年もの間、父に対して抱いていた悔恨の念は一生晴れる事は無い。謝りたくても、もうロバートはこの世に居ないのだから。
「俺が?どうして撃てないと思う?俺はお前やロバートとは違うぞ」
「だって、父さんの葬式の日、一番泣いてたのは、あんたじゃないか・・・!」
それは事実だった。何故あの時あんなにも悲しかったのか。まるで自分を包んでいたすべての温情が消えてしまったように思った。だがバーリーは急にバカにしたように笑い出した。あの時の思いを誰かに知られるなんて、たまらない屈辱だった。特にロバートの息子なんかに・・・・。
「俺が泣いていただって?」
彼はおかしくてたまらないように腹を抱えて笑った後、ジュードを指差した。
「あの時俺は笑っていたのさ。何が自然を愛し、共存するだ?何が自然の友だ?結局はその守り続けた友達に、お前の親父は殺されやがったんじゃないか!!」
バーリーがその最後のセリフを言い終わらない内に、彼の頭上から金色の液体が零れ落ち、彼の身体中を包み込むほどにべっとりと絡みついた。それと同時に黒い鉄柵が激しい音を立て地面に激突するように落ちてきた。
それはバーリーの為に用意された第2の罠だった。だがジュードは話のいきさつからバーリーが反省して自首してくれるようなら、それは使わないでいようと思っていた。しかしジュードが切らなかったロープをシェランが切ったのである。
その瞬間、すべての罠が彼の上に落ちてきたのだった。
「な、なんだ?これは・・・」
赤い土を踏み鳴らしながらシェランがゆっくりと檻の側に歩いてきた。
「蜜蝋よ。あなた達、相当大きな熊を狙っていたのね。よくこんなに沢山集めたこと。それにこの鉄柵。あなたは人間だから中から鍵を開けて逃げる事もできるでしょうけど、やめた方がいいわね。辺りにいる獰猛な獣達は蜜蝋をかぶった人間を舌なめずりして襲ってくるわ。どう?自分が罠に捕まった気分は」
「き・・さま・・・!」
バーリーは憎しみを込めて、ジュードの側に立ったシェランを見た。そしてシェランもバーリーから一度も目を逸らさずに答えた。
「例えジュードが許しても、私はあなたを許さない。バーリーあなたはね、この世界で一番奥病で、愚かで・・・そして悲しい人間だわ」
シェランはバーリーを見据えると、側に居るゴールドフロストの背に股がり、もう二度と彼を振り返らなかった。
「嘘だろ?ジュード。俺をこんな格好のまま、置きざりになんかしないよな?確かにお前の親父の事は悪かった。だけどどうしようもない事はあるだろう?誰だって・・・恐怖に逃げ出してしまう時はあるだろう?」
ジュードはバーリーの惨めな姿を見て、哀れだと思ったが、それ以上の感情は沸いてこなかった。たとえロバートが生きていたとしても、彼とバーリーの間に起こった過去の出来事など、父ならきっと忘れてしまっているだろう。そんな過去に囚われて父を疎み、彼からも自然からも離れ、動物達を殺し続けたバーリーに同情する事は出来なかったのだ。
「そうだよ、バーリー。確かにあんたと親父は違う。そしてオレも父とは違う」
そう。きっとロバートならこんな惨めな男をここに残して行きはしない。どれ程まわりに愚かだと言われても、彼自身や彼の心を助けようとするだろう。
「父さんは自然を心から愛し・・・そして自然に愛され過ぎた・・・・・」
きっとあの嵐の海の中、ロバートは息子の命を繋ぎ留める最後の希望に向かって泳ぎながら、心の中でこう叫んだのだろう。
― お前が誰かを連れて行きたいんなら、俺を連れて行け!だけどこの子だけは駄目だ。何があっても、息子だけは助けてくれ! ―
そして自然はそれに答えて、自分を心の底から愛し、守り続けた男を連れて行った。息子の命と引き換えに・・・・。
「だからオレは自然と戦う道を選んだ。この偉大な大自然にとって人間の存在など、ちっぽけでゴミみたいに何の価値も無いかもしれないけど、オレはそれを彼等の脅威から救う仕事を選んだ。ライフセーバーという、海と戦い続ける仕事を・・・・!」
ジュードはただ呆然と自分を見つめているバーリーに背を向け、フェニックスにまたがると、ゴールドフロストをせかしてすぐその場を離れた。野獣たちはもう既に人間や蜜蝋の臭いに引き寄せられて、近くまで来ているだろう。
自分を見捨てて行くジュードの後姿が見えなくなるまで彼は地面に両手を付いたままそれを見つめていたが、やがてうつむいたまま毒づき始めた。
「自然と闘う?勝てるはずもないのに?やっぱりお前の息子は、お前にそっくりの大バカヤロウだな、ロバート・・・・」
だが、周りの闇の中に金色の光る瞳が徐々に現れ始めると、彼は恐怖に顔を引きつらせて震えながら檻の中央に逃れた。
遠くから2発の銃声が響いてきた後は、何の音も聞こえなかった。きっと今バーリーの回りは凶暴な猛獣で溢れ、彼はただ震え上がっているだろう。
「終わったね・・・・」
シェランは隣に居るジュードに言ったが、心の中に起こった小さな嵐は波をうねらせるように彼女の心を乱していた。
― だからオレは自然と戦う道を選んだ。ライフセーバーという海と戦い続ける仕事を・・・・ ―
シェランは今初めてジュードが山岳レスキューではなく、ライフセーバーになろうとしたのかが分かった。彼は自分から永遠に父を奪い去った海に復讐する為に、ライフセーバーを選んだのだろうか。
シェランにとっても海は両親が死んだ場所である。そして今まで沢山の人々が命を落とす事になった場所だと分かっている。それでもシェランにとって海は母であり、友であり、恋人だった。彼女は海を愛するがゆえにライフセーバーになったのだ。だがジュードは・・・・。
「シェラン、今から家に戻る元気はある?戻って森林局に連絡をつけないと」
「ええ、ゴールドフロストもまだ大丈夫みたいだし・・・でも、ジュード。一つ聞きたい事が・・・・」
シェランがジュードに今考えていたことを聞こうとしたが、急にフェニックスが前足を上げ、激しくいなないた。その瞬間、銃を撃つ音が響き、ジュードの左肩を弾が貫いた。
「ジュード!」
彼はフェニックスの背から転げ落ちた。急いでシェランがゴールドフロストから降り、彼を助け起こしたが、ジュードは落馬のショックから気を失っているようだ。
「ジュード、ジュード!しっかりして!」
強い痛みを感じながらジュードがうっすらと目を開けた。
「ジュード!」
頭を打っているのなら動かすのは危険だ。まず傷の状態を見なくては。シェランがジュードの頭に手を伸ばしたが、ジュードはカッと目を見開いて叫んだ。
「逃げろ!シェラン!!」
それは今までで一番危険を孕んだ声だった。だがシェランはその場から動かずに後ろを振り返った。
まるで身体中を猛獣に襲われたかのように血まみれになった男が、暗がりの中からゆっくりと姿を現した。ボサボサの髪の毛は更に不気味に広がり、ギラギラと光る目は、初めて会った時より更に憎しみの光で溢れ、血走っていた。
そのボロボロになった服の間からほとばしる血が、彼があの恐ろしい罠を自ら受けて、そしてそこを脱出してきた事を示していた。
「チッ、馬が気付かなけりゃ完全に殺ってたのになぁ・・・。それとも血で指がすべったか・・・?」
彼はライフルの銃創を新しく入れ替えながら、まるでよろめくように2人に近付いて来た。
「ダッ・・・ト・・・・」
シェランはまるで幽霊を見たように震えながらも、ジュードの前に両手を広げて立ち塞がった。
― 殺させないわ。この人だけは、絶対に・・・ ―
シェランの身を挺した行為をダットは鼻で笑った。
「この距離なら2人一緒にあの世行きだ。残念だったな」
ダットが引き金に指を当てると同時に、ジュードは後ろからシェランを抱きしめ、自分が代わりに前に出た。だがシェランはジュードの肩越しから見たのだ。ダットの後ろから立ち上がった2メートル以上もある巨大な黒い影を・・・。それは激しい雄たけびを上げながら、その太い強靭な腕をダットの首目がけて振り下ろした。
「キャッ」
自分の胸の中に思わず顔を沈めたシェランを抱きしめて、ジュードはぐにゃっと首がくの字に曲がったまま、5メートルも先に吹き飛ばされたダットの体を見た。さっきのギラギラした目は光を失い、飛び出たように見開かれたままだ。
巨大な熊はジュード達のすぐ側で立ち上がっていた。あの夜、崖の上に立っていた姿、そのままに・・・。この距離では逃げられない。来ないでくれ・・・。この人だけは助けてくれ・・・・。ジュードはただじっとその熊の目を見つめたまま、心の中で叫んだ。
熊はじいっとジュードの目を見つめていたが、やがて前足を下ろすと、一度もジュードを振り返らずに行ってしまった。ジュードがきつく抱きしめていた腕を緩めたので、やっとシェランも顔を上げる事ができた。黒い大きな熊は雄雄しく、そして王者のようにゆっくりと森へ帰っていく。
「ジュード。あの熊の事、森林局に言うの?」
森林局に言えば、例え相手が誰であろうと、人を殺したという事で処分されるだろう。ジュードは首を振った後、森の中に姿を消した彼の足跡を見つめた。
「動物にだって、復讐する権利はあるさ・・・・・」
そして彼等はやっと懐かしい我が家に戻って来た。小さな煙突から上がる煙を見て、シェランは一刻も早くレゼッタに会いたいと思った。ジュードはフェニックスとゴールドフロストを納屋に入れると「明日キッグスの所に戻してやるから、今日はここで我慢してくれ」と疲れた顔で2頭の友の頭をなでた。
まるで遭難者のようにボロボロになって帰ってきたジュードとシェランを見て、レゼッタは「まあ、まあ!」と叫ぶと、すぐに2人をリビングのソファーに座らせ、傷の手当を始めた。ダットが最後に放った銃弾は幸いな事にジュードの左腕をかすっただけで大事には至っていなかった。
レゼッタが森林局に連絡を取ったが、もう夜も遅く誰も対応に出なかったので、明日の朝一番に知らせようという事になった。
お腹をすかせているだろう、ジュードとシェランの為にレゼッタが軽い食事を用意してリビングに持っていったが、2人はまるで折り重なるようにして疲れた顔のまま眠っていた。レゼッタは「まあ」と言って微笑んだ後、彼等の為に今度は毛布を取りに行った。
翌日知らせを受けた森林局は、地元警察と共に密猟者の捕縛に当たった。ジュードが彼等を捉えていた場所の地図をファックスで送っておいたので、彼等はすぐに密猟者が居る場所へ辿り着いたが、全員あっけにとられる事になった。
ある者は馬フンのプールの中で銅像のように固まったまま、ある者は深い穴の中でネズミ捕りの罠に引っかかったネズミのように。それ以外にも大きな木にロープで縛られたまま、彼等は森林局員や警察の助けが来るのを心から待っていたらしい。密猟者達は殆ど抵抗することなく ―どちらかと言うと、救い出すのに大変苦労したのは警察と森林局員の方であった― おとなしく警察の手に引き渡された。
バーリーの家で休んでいたロッドも後ほど踏み込んだ警察に逮捕され、動物の剥製を作っていたシズリーという男も後に検挙された。
バーリーの家から押収された動物達の剥製は、証拠として暫く州警察に預けられるが、事件の処理が付けば写真だけ残して荼毘に付されると聞いて、シェランの心は少し休まるような気がした。
森林局と警察の方からジュードとシェランに事件を解決した謝礼と表彰をしたいと申し出があったが、2人は断った。もう後2日しかここで過ごせない彼等は、レゼッタと3人で家に居る事を選んだのだ。
「ええ、ええ、よく分かってますわ。それはもう、うちの息子と“娘”は今回オレゴンの自然を守る素晴らしい活躍をしたんですもの。でも2人とも表彰も新聞の取材も一切受けないと決めてるんです。それにもうフロリダに戻らないといけませんので・・・では・・・」
電話を切った後、レゼッタは大げさに両手を上げながらジュードとシェランの座っているソファーの前に腰掛けた。
「もう7度目よ。今度はポートランドの雑誌社ですって。断るのが大変!」
「それは大変だろうけど、さっきの“娘”ってのはなんだよ。いつシェランがうちの娘になったんだ?」
「あら、SLSの教官なんて言うと又世間がうるさいだろうと思って、気を使ってあげてるのに・・・」
レゼッタは目の前にあるコーヒーに手を伸ばすと白々しく答えた。だったら息子の友人とでも言えばいいだろうと思ったが、どうせこの母の事だ。知らん顔で流されるに違いないと思ったジュードは、黙って母の作った洋ナシのタルトを丸ごと口に放り込んだ。
夏休みの最後の日、レゼッタは2年前、ジュードを見送った時と同じように出入り口に立って2人を見送った。あの日の朝と同じように少し冷たい朝の空気がより清浄さを感じさせ、眩しい光が玄関口を照らし出している。
「じゃあ、行ってくるよ、母さん」
ジュードは2年前と同じように言うと、母を抱きしめた。自分が成長したからだと分かっていても、やはり母の肩は以前よりずっと小さく感じられた。そしてレゼッタはそんな親子を微笑みながら見つめているシェランを抱きしめ「必ず又ここへ帰って来てね」と言った。なんて嬉しい言葉だろう。レゼッタは“遊びに来て”ではなく、“帰って来て”と言ってくれた。
この時この家は、シェランにとって第二の故郷になったのだ。そしてレゼッタはそっとシェランの耳に囁いた。
「うちのバカ息子の事、よろしくね、シェラン」
シェランは目を輝かせると、レゼッタに向かって敬礼をした。
「はい!必ずSLSの教官としてジュードを立派なライフセーバーにしてみせますわ!」
レゼッタはそういう意味で言ったのではないのだが、目を細めて微笑むと去って行く2人に手を振った。
再びアストリアから列車に乗って、ポートランドまで向かう。ジュードは疲れが出たのか、列車に乗るとすぐ眠ってしまった。昼頃シェランに「もうお昼よ。ランチも食べないで寝ているつもり?」と言われるまで起きなかったが「もちろん食べるさ」と言って、レゼッタが作ってくれた弁当を受け取った。
缶コーヒーの蓋を開けながら、シェランはずっと気になっていた事をジュードに尋ねる事にした。
「ねえ、ジュード。ジュードは海が嫌いなの?お父さんを奪っていった海が憎い?」
ジュードはシェランからコーヒーを受け取りながら、彼女がバーリーを捕まえた夜の事を言っているのだと気が付いた。
「オレは海を憎いと思った事は一度もないよ。憎むべきは力のなかった自分自身だから・・・。だからもっともっと訓練して、もっともっと強くなって、自分が心の底から守りたいと思うものを守れるようになりたい。海はそんなオレを鍛えてくれる素晴らしい教官で好敵手だ。それに海がオレに仲間を与えてくれた。一緒に戦っていく仲間を・・・。
オレは父さんのようには自然を愛する事は出来ないかもしれない。でもずっと共に生きていくよ。自然と、海と・・・そしてオレが守るべき人々と・・・・」
シェランはホッとしたようにジュードの瞳を見つめた後、窓の外に広がる荒涼とした大地に目を移した。遠くに見えていたカーラントの街がだんだんと日差しの中に消えるように小さくなり、やがて見えなくなっていった。