第15部 オレゴン・サマー 【8】
シェランの怒りの雄たけびを背中で聞きながら、ジュードは冷たい闇の中を駆け抜けた。彼女が怒る事は分かっていたが、置いてくるしかなかったのだ。
初めてテントで寝た人間は、大抵まともに寝付けないものだ。狭苦しいシュラフもさながら、下はウレタンマット一枚で殆ど地べたと同じである。特にシェランは贅沢なベッドでいつも寝ているのだから、多分昨日は殆ど寝付けなかっただろうし、体中痛いはずだ。そんな状態でさらに冷たい川の中に落ちた彼女を寒空の中、連れ回すわけには行かなかった。
とりあえずジュードは密猟者がまだこの辺りをうろついていないか、周辺を確認する必要があった。それから出来ればバーリーの家に行ってみようと思っていた。ここからなら3、4キロの距離だ。少し危険だが、行動を起こすなら早い方がいい。
体を藪の中に隠しながら、周囲の様子を探ってみたが、密猟者達はジュードやシェランが死んでしまったと思ってくれたようで、人の気配を感じる事はなかった。
こんな闇の中で行動していると、まるで自分が獣になってしまったような気がする。それだけなら結構楽しんでいられるのだが、実際の獣の方はジュードを仲間とは思ってくれないだろう。
ジュードはシェランの居る周辺が安全な事を確認すると、山の外へ移動を始めた。小走りに走りながら、時間ごとに変わる星の位置と方位磁石で進む方向を時々確認した。幾ら山の全てを知っていると言っても、この暗闇と季節ごとに変化する山の様相で、勘が狂う事は充分あるからだ。
ジュードがオレゴンに居た2年前まで、バーリーの家は山から少し離れた所に、そこだけぽつんと置いてきぼりを食ったような小さな森の中に建っていた。住まいを変えていなければ、まだそこに居るはずだ。
今居る地点からバーリーの家までは確かに3キロ程であったが、そこに行くまでにいくつかの崖を登らなければならない。迂回していけば倍に距離が伸びる為、直進していく道を選んだ。
高さ5メートルの崖を2つ登り終えると、最後に10メートル程の崖が目の前にそびえ立っている。普段ならなんという事は無い崖だが、昨日から続いている密猟者からの逃亡や、40メートル以上ある滝にダイビングしたりと無茶な行動のせいで、以前脱臼した左肩が少々痛み出した。
― 古傷が痛むって奴かな・・・・ ―
マックスが言うとこのセリフの後に“チェッ、年寄りくさいぜ”等とカッコつけて苦みばしった笑いを浮かべそうだ。内心クスッと笑いながら、頂上に手をかけ頭を出した瞬間、何か黒い生き物が頭にぶつかりそうになり、急いで首を引っ込めた。
ムササビでも飛んでいったのかと思いつつ上を見上げたジュードは、声も出せずに目を見開いた。青白い月の光を背に崖の淵に立ちジュードを見下ろしているのは、真っ黒な毛むくじゃらの姿だった。その生き物は後ろ足で立ったまま、じっとジュードを見下ろした後、辺り一面に己の力を誇示するように咆哮を上げた。
この周辺で一度、熊に遭遇した事はあったし、遠くからならもっと沢山の回数見かけているが、これほど大きな熊を、しかも自分のすぐ頭の上で立っている姿を目撃したのは初めてだった。
つまり先程、ジュードの頭を攻撃したのは、この熊の手だったのだ。もし頭にその一撃がヒットしていたら、間違いなく今生きていなかっただろう。
ジュードは崖の淵にかけた手をガブリとやられないように、そっと下に引っ込めた。熊から目を離さず顔は上げたまま、手探りで岩の裂け目や足場を探しつつ降りて行く。
どれ程大きな熊でも崖下に居る獲物を仕留める事は出来ない。彼は前足を下ろしていつもの姿勢に戻ると、ジュードに一瞥をくれて去って行った。
ジュードは熊の足音が遠ざかるのを待って、そっと顔を崖の上から覗かせた。その上は藪など殆ど無い閑散とした林だったので、まだ巨大な熊が去って行く様子を窺う事ができた。その大きな熊の影に隠れるようにして少し小さな茶色い毛並みの熊が彼と共に並んで走っていく。
ジュードは彼等の姿が見えなくなるのを待って崖の上によじ登った。あの大きな熊はきっともう一匹の熊を守ったのだ。ここには身を隠すための藪も殆どない。きっとジュードが敵だと思って威嚇したのだろう。
― 敵じゃないって思ってくれればいいけど・・・・ ―
ジュードは少し痛む左肩をさすりながら思った。あの密猟者と同じように思われるのは嫌だったが、彼等に人間の善し悪しを判断してくれと言うのも無理な話だ。
ジュードは首筋に流れ落ちていた冷たい汗をぬぐうと、先を急いだ。バーリーの家は記憶どおりの場所に以前と変わらぬ姿で建っていた。この小さな森に似合うマシンカットログハウスで平屋の家だ。ジュードの家のように自然の丸太を利用して作られた重厚感のあるログハウスではなく、木を正確に組み立てて作られた家は整然としていて、どこかのオフィスのような感じもした。
壁からにょきっと出ている黒い煙突から灰色の煙が上がってたので、まだ彼は起きているようだ。
外側から薄明かりの漏れている窓を覗いてみたが、どの窓もブラインドがしっかり閉まっていて、中の様子をうかがい知る事は出来なかった。家の中央にある玄関は二本の柱に支えられた屋根が付いていて、その右横にとめてある車に、バーリーの居る家に気を配りながら近付いていった。
車は黒にオレンジ色のラインが入っているジープだったが、通常のジープとは違い、後ろの部分がホロ付きの荷台に改造されていた。助手席側から車の中を覗いてみたが、怪しい物は何もなかった。
辺りに目を配りながら後ろに回り、そっと荷台に飛び乗った。床部分が傷つかないよう下にコンパネを敷いている以外は、別段変わった様子はなかった。板の上に何か重いものを載せて引きずったような跡が何本も付いていた。ジュードは懐中電灯を口にくわえて動物の毛などが落ちていないかくまなく調べたが、彼の望む答えはそこにはなかった。
― こんな傷跡だけじゃ何の証拠にもならないな・・・ ―
ジュードは懐中電灯を消すと、ホロの外に誰も居ないか確かめて荷台を下りた。
来た時と同じ道を通って巨木まで戻ると、シェランは眠れないと言っていたわりには、すやすやと気持ちよさそうに太い幹にもたれかかって眠っていた。ジュードが枝まで登ってくると彼女はゆっくりと目を開けて眠そうに「お帰りなさい、ジュード」と言った。
「ただいま。よく眠れたみたいだね」
「うん。おっきな木の側ってなんだか安心できるみたい。それにぽかぽかあったかくて・・・」
シェランはまだまどろみの中に居るようにゆっくりとしゃべった。
「夜明け前には出発しよう。それまでまだ2時間ほどあるからオレも少し眠るよ」
そう言いつつジュードはシェランの体と幹を縛り付けていたロープを緩め、幹とシェランの間に割り込んだ。彼は木の幹にもたれかかると後ろからシェランを引き寄せ、今度は自分と彼女を幹に縛り付けると、シェランの体に後ろから腕を回した。
いくら毛布にくるまれていても、この体勢はシェランの顔を赤くさせるのに充分だった。そういえば昔、父の膝の上でよく本を読みながら眠ってしまった事があったが、その時のようなゆったりした気持ちで眠れそうにはなかった。
「ジュード。シュラフは使わないの?」
「うん。それに入ると手足が自由にならないから・・・。それに充分あったかいよ。シェランが・・・居るから・・・」
ジュードの声はだんだんとゆっくりになって、既にもう眠りについてしまったようだ。シェランはさっきよりも更に顔が赤くなり、体も心地よい温かさを通り越して暑いくらいであった。ジュードはシェランを抱きしめたまま、頭だけ彼女の肩にもたげて眠っている。後ろを振り向かなくても耳元で囁くようなジュードの寝息は、彼がもう深い眠りに付いている事を物語っていた。
― もう。この人ってば、どうして私をドキドキさせるのが得意なのかしら・・・・ ―
気持ち良さそうに夢の世界の住人になったジュードとは対照的に、シェランは未だに現実の中で頭を悩ませていた。
朝に強いジュードはきっちり2時間後、目を覚ました。彼はシェランと毛布などを下に下ろすと、昨日荷物を隠した藪の中にそれらもしまいこみ、ロープやアーミーナイフ、ライター、懐中電灯などの必要なものだけを上着の内側に来ているポケットが一杯付いたベストに入れ込んだ。
「これからどうするの?」
シェランの質問にジュードは白い歯を見せてニカッと笑った。
「もちろん腹ごしらえさ。火は使えないから、ここから一番近い街に出て何か食べよう。それから保存のきく食料も調達しないとね」
やっと普通の食事が食べられると知って、シェランの胃も心も踊ったが、ふと思いつくことがあった。
「ねえ、ジュード。ここから一番近い街って・・・どの位あるのかしら」
「7、8キロってとこかな。朝メシ前の運動にはもってこいだろ?」
シェランは一瞬黙り込んだ。道理で夜明け前に出発するはずだ。これでキッグスの昔話が決して誇張ではなかったと分かった。毎朝ジュードは確かに12キロもの距離を走って、新聞配達をしながら学校に通っていたのだ。
それに彼は今でも朝一番に朝食を済ませ ―彼の為にチーフのテッドはいつも一食だけ早めにモーニングを用意している― 一限目が始まる前に基礎訓練を終わらせているのだ。
― 駄目だわ。このままじゃ本当にジュードに追い抜かされちゃう! ―
シェランは焦りにも似た緊張感で上着を着込むと、前のファスナーを素早く上げた。
「行きましょう、ジュード。7キロでも8キロでも、私は全然平気よ!」
ジュードとシェランがその小さな街に辿り着いた頃、太陽はとっくに上がって一日の始まりを告げていた。街の名前はカーラントと言った。ふと聞いた事のある名だとシェランは思ったが、アストリアに向かう電車の中で同じ駅名を聞いたのを思い出した。この街にもあの電車は通っていたんだと思いながら、ジュードの後を付いてそのカーラント駅の近くにあるカフェに入った。
早朝から会社に向かう人々の為に、店内のカウンター周りには沢山の種類のパンが並べられていた。カウンターの一番右端にあるトレイに好きなパンを取っていって、レジでドリンクを注文し、金を払うらしい。シェランは朝食を外で食べた事が無かったので、戸惑いながらジュードに従った。
パンは持ち帰りも出来るらしく、店の名前の入った紙袋を持ったサラリーマン風の男性が、山から下山してきたと言わんばかりの2人の顔をじろりと見ながら店を出て行った。
トレイに山盛りのパンとオレンジジュースのLサイズを乗せたジュードは、シェランとなるべく人目に付かないよう窓際を避け、店の奥にあるテーブルに着いた。
「それで・・・これからどうするの?」
シェランがバナナマフィンをちぎりながらジュードに聞いた。
「バーリーの家に行こうと思っている」
ジュードはなぜかそっけなく答えた。
「バーリーに会って、密猟者の事を話すの?」
シェランは密猟者と言う所は、特に声のトーンを落とした。
「いいや、バーリーには会わない。でも今日は土曜日だから多分家に居るはずだ」
土曜日・・・。シェランにはすっかり曜日の感覚がなかったが、確かに駅に向かう人影は早朝とはいえまばらだった。シェランはさっきのサラリーマンが何故自分達をじろっと見たのかが分かった。
「どうして家に居るのに、バーリーに会わないの?」
ジュードはその質問に答えたくないように、オレンジジュースを飲みながら目を逸らした。
「言えば・・・シェランは怒るよ」
シェランは首をかしげると、手に持ったマフィンをトレイの上に置いた。
「意味が分からないわ。どうして私が怒らなきゃならないの?」
「モーガンの時と同じ理由さ」
― モーガン・ロイド! ―
その名を思い出すだけで、シェランはムカムカとした吐き気をもよおすような感覚を覚える。以前ジュードと2人で両親の墓参りに行った時、彼等の船を襲った海賊の首領の名だった。あの事件を思い起こすたび、シェランはやるせないほど腹が立つ。モーガンに対してだけでは無い。自分自身に対して腹が立つのだ。
ジュードがあの男の正体を疑っていた時、シェランは人を簡単に疑ってはいけないと教官ぶって偉そうな事を言ってしまった。しかもその結果、見事に囚われてジュードの足手まといになる羽目になったのだ。
あの事件はシェランがいかに自分が経験も浅く人を見る目の無い、ひよっこ教官だったかという事を思い知らせてくれた事件だった。
シェランはまだ自分から目を逸らせたままのジュードをじっと見つめると、落ち着いた声で問いかけた。
「では、バーリーが私達を売ったのね?」
てっきり“お父さんの後輩を疑うなんて、どうかしているわ”等と批判めいた言葉が返ってくるものと思っていたジュードは、オレンジジュースのストローを口にくわえたまま、びっくりしてシェランを見た。
「そうね。例えば私達があのとっても間抜けそうな男・・・ダットと言ったかしら。彼とその仲間に付けられていたとして・・・あの男が自分の仕込んだ罠がどんどん暴かれて破壊されるのを、黙って見ているはずは無いわね。・・・という事は、あの夜、私達が山小屋に泊まる事を知っていた誰かがダットに言った事になる・・・。
あの日、私達の行く道を知っていたのはバーリーただ1人。それに妙だと思ったのよね。あのダットって男、ジュードの名前まで知っていたんだもの。ジュードの事を良く知る誰かが言ったとしか思えないわ」
シェランの明確な回答に、ジュードは驚いたようにジュースのコップをテーブルに置いた。
「凄いね、シェラン。急に探偵になったみたいだ」
「簡単な構図よ」
シェランは少し鼻にかかったように笑うと、アップルジュースを一口飲んだ。
「でも分からないのは、何故森林局員のバーリーが密猟者と繋がっているかという事。バーリーはお父さんの後輩だったんでしょう?」
ジュードは残念そうな顔をすると、腕を組んで椅子の背にもたれた。
「前にバーリーと一緒にキャンプをした事があるって言ったよね。あれはまだオレが父さんと山歩きをし始めた頃だ。それ以降一緒に行くのは亡くなった叔父さん・・・コリンの父親だけど、彼と行くのが殆どだった。
バーリーは・・・何となくだけど、親父の事を煙たがっていたように思う。父さんは・・・なんて言うか、自然と合体してるような人でさ。いや、融合って言った方がいいかな・・・」
オレゴンの空と同じ色の瞳。オレゴンの大地と同じ色の髪・・・・。小さい頃、父さんはここでしか生きられない人だと思っていた。
「息子のオレが言うのもなんだけど、父さんが山に行くと自然が空気を震わせて喜んでいるように思った。彼の吐く息さえ、いとおしむように・・・。ほら。小さな頃、人の踏み込まないような深い森の奥に行くと、妖精が見えるって言うだろ?だけど父さんは年を取っても見えてるような人だった。いや、実際見えてたんじゃないかな、あの人だったら・・・・」
“妖精”などというファンタジックなセリフを言ってしまったジュードは、まん丸な目で自分を見ているシェランに気付いて恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「えーと、だからさ。つまり、親父はいつでも何処でも自然の友だったし、心から自然を愛し、尊敬していた。だからキャンプなんかに行こうものなら、ずっとそんな話になるだろ?おまけにバーリーは後輩だから、森林局の中でもそんな話ばかりされただろうし・・・」
「どうしてそれが嫌なの?自然が好きだから森林局員になったんでしょ?」
「うーん、それがどうも違うみたいだ。バーリーにとって森林局は、生活の糧を得る手段・・・つまり、その辺のサラリーマンと何も変わりは無かったんだ。そういう人間にとって父さんみたいな人間は煩わしかったのかもしれない。
父さんはきっと森林局に勤めてなくてもあの場所に家を建てたし、休みの日はずっと自然の中で過ごしただろうから・・・。でも父さんの事を嫌うのと、密猟者の片割れになる事とは全く意味が違う。保護区の動物を捕まえたり殺したりするのは犯罪だ。ましてや密猟して金儲けに使うなんて、許されないんだ」
ジュードの声が少し大きくなってきたので、シェランは咎める代わりに自分の声を低くしてテーブルの上に身を乗りだした。
「それで、バーリーは何の為に動物を捕まえているのかしら?」
ジュードも自分が少し興奮していた事に気付いて、シェランと同じように身を乗り出し声をひそめた。
「分からない。それを探ろうと思って昨日バーリーの家まで行ったけど、中の様子は全く分からなかった。だから今日一日バーリーを見張ってみようと思うんだ。バーリーは現役の森林職員だから証拠がなければ森林局も信じてはくれないだろ?」
「そうね。いざと言う時の為に密猟者が森林職員を抱きこんだか、あるいはバーリーが動物を捕らえるために密猟者を集めたか・・・。いずれにせよ、あのビーバーの親達がどうなったか私は知りたいわ。動物園とかに売られてるんならいいんだけど・・・」
「うん。それだったら森林局が掛け合って元の森に戻してくれるよ。とにかく急がなきゃ。こうしている間にもあいつ等に捕まる動物が居るかも知れない」
2人は頷き合うと、残りのパンやケーキを急いで口の中に押し入れた。店を出た後、人目に付かないように小さなスーパーで火を使わなくても食べられる保存のきく食料を買い込み、その足でバーリーの家に向かった。
家の全景が見える藪の中に身を潜め、何か動きがないか見つめた。相変わらずブラインドは下りたままだったが、バーリーは起きているようだ。昼間でもブラインドを上げないのは、何か余程見られたくないものが中にあるのではとジュードは思った。
しかし彼等がやってきてから2時間経っても、辺りには何の変化もなかった。バーリーは家から出る気配もなく、誰かがやって来る様子もない。じりじりと時間だけが過ぎていった。2人で見張るのも体力のロスになるので、30分交代で1人ずつ見張る事にした。
少々お腹がすいてきたので、ジュードがさっき買ってきた中からドライソーセージを取り出してかじり始めた。見張りをしているシェランにも勧めたが、食い入るような目でバーリーの家を見つめたまま、彼女は手でいらないと合図した。
暫くするとバーリーは陰気な暗さが嫌になったのか、ブラインドを少し回して光を入れた。そのままの状態なら少しは覗けるかも知れないと思ったが、誰かが来る可能性も考えて、もう少し様子を見ようという事になった。
それから更に2時間が過ぎた。とっくに昼は回っている。シェランと交代して昼食をとったジュードは眠たくなってきた。このままじゃ全く意味の無い一日になるんじゃ・・・そんな思いで眠気まなこをこすった時、シェランが小さく鋭く彼を呼んだ。
小型のミニジープがジュード達の居る反対側の林から現れ、こちらに向かってくる。この森に住むのはバーリー1人だから、間違いなく彼を訪ねてきた人間に違いない。彼等は更に頭を低くしてジープを見つめた。ジュードの予想通り、紺色のジープはバーリーの家の前に停車した。
1人の男が下りてきた。ダットだ。間違いない。昨日ジュードとシェランを追い詰めた時と同じ、茶色かベージュか分からない色の変色しているピッグスキンの皮ジャケットを着て、助手席においてあったライフルを出すと、それを車のサイドに立てておき、今度は後ろのドアを開けた。
後部シートを全て倒さないと入らないような大きな荷物を引きずり出すと、その何か重いものが入っているような白い袋を肩に担いで、再びライフルを持ち、バーリーの家に入って行った。
ジュードはシェランと目を合わせると、今だ、とばかりに藪の中を飛び出した。シェランが周りを見張っている間に、ジュードがさっきバーリーが開けたブラインドの表側の窓からそっと中を覗いた。
一瞬ジュードは、大きな茶色い目がきらりと光って自分を見つめていたので、ぎょっとして息を呑んだ。だがよく見るとそれは、ひょろりと伸びた足でじっとこちらを見つめて立つ小鹿であった。すぐ側に立派な角をはやした親鹿も居る。
いや、鹿だけではない。猿、狐、野うさぎ、小さなリスや羽色の美しい小鳥に至るまで、まるで時が止まったかのようにじっと動かないままそこにいた。
リスは台の上に立てられた木々の間で走り回っているように。小鳥は枝の上でさえずっているように。猿はまるで仲間同士で喧嘩する時の様に立ち上がって前足をふり上げ、狐は野原を楽しそうに走り回っているかのように。野ウサギ達はたくさんの木の実を集めてまるで集会をしているかのように・・・。
彼等は、生きて生活をしていた時と同じような姿で死んでいた。窓枠を握っているジュードの手が怒りの為にわなわなと震えてきた。動物達は生きたまま売買されたのではなかった。彼等はみな殺されて剥製にされたのだ!
右側のドアから入ってきたダットがバーリーと何かを話している。ジュードは今すぐ玄関から飛び込んでいってバーリーの横っ面を張り倒してやろうかと思ったが、ダットが自慢げに持ってきた白い包みを広げた次の瞬間、雷に打たれたような衝撃でその場から動けなくなってしまった。
茶色い毛の動物が力なく横たわっている。大きさからして熊だろう。もしかして昨日の大きな熊が守ろうとしていた熊か・・・?例えそうであったとしても違ったとしても、なんの罪も無い命が又一つ、森から消えたことに変わりは無かった。
ジュードの周りを包み込む緊迫した空気に気付いて、シェランが窓の方へ顔を近付けた。
「どうしたの?ジュード。何かあったの?」
― 駄目だ!シェラン・・・! ―
ジュードがシェランの肩を窓から引き離そうと手をかけようとしたが遅かった。好奇心一杯の瞳でブラインドの隙間から中をのぞき見たシェランは、全てを見てしまった。その歪んだ口の隙間からニヤニヤと野卑な笑いを漏らしつつ、ダットが己の殺した熊をライフルの柄で小突いたのも・・・・。
「あ・・・の・・・男・・・!」
シェランはギリッと噛み締めた歯の隙間から憎しみの声を発すると、まるで水に飛び込むときのように素早く身を翻して玄関口に向かった。
“シェラン・・・!”
ジュードは小さな声で叫ぶと彼女を捕まえて身をかがめさせた。
“放して、ジュード。あんまりだわ。ひどすぎる、あの人達!行ってひっぱたいてやるんだから!”
“気持ちは分かるけど、今は押さえるんだ。そんな事をしても何の解決もしないんだぞ”
“でも、許せない。許せないわ!”
少しでも手を緩めたら再び飛び出して行きそうなシェランを引きずるようにして、ジュードは腰をかがめながら何とかさっきいた藪まで彼女を連れ戻した。
「落ち着いて、シェラン。分かるだろ?今行ってもあいつ等に捕まるのがオチだ。オレ達はまだ生きている事を気付かれちゃならない。そうだろ?」
「でも・・・でも、ひどいわ!生きたまま売ったんじゃないのよ。みんな殺してた・・・!あのビーバ-の親達も殺されて剥製にされたんだわ!剥製なんか・・・剥製なんか、何の意味があるの?自分の部屋に飾って、人間は動物より偉いんだって思いたいから?そんなつまらない優越感の為に彼等は・・・・!」
その時、ドアが開く音がした。2人はドキッとして話すのをやめ、藪の中に身を潜めた。ダットが家から出てきたのだ。彼は肩からさっきの熊が入った袋を下げたまま、もう片方の手でポケットから薄汚れたこげ茶色の袋を取り出し、一度手の上で軽く放ったあと、ニヤッと笑い再びポケットにそれをしまいこんだ。熊を捕らえた報酬の重みを確かめたのだ。それを見てシェランは悔しさに堪えきれず、泣きながらうつむいた。
「ひど・・い・・・ひどすぎる。あんな人・・・あんな人達・・・・」
自分の胸に何度も拳を押し付けながら泣いているシェランの腕を握り締め、ジュードは深く冷たい瞳で走り去っていくダットの車を見つめていた。
やっと泣き止むと、シェランは少し恥ずかしそうにジュードから離れた。生徒の前では泣かないで居ようと決めていたのに、どうも動物が絡むとシェランの涙腺は弱くなるようだ。近頃シェランはエバとキャシーの前でも泣いてしまったし、特にジュードの前では何度も涙を見せてしまった。
そんなシェランの気持ちを察してか、ジュードはシェランが涙を拭いている間、彼女から目を逸らしてバーリーの家の方を見つめていた。
「これからどうするの?」
ジュードはまだバーリーの家を見ながら何かを考えている風だった。証拠は全てここにある。それさえ確かめればもはやここに用は無い。何よりもこれ以上ここでぐずぐずしている暇は彼等には無かった。
「そうだな。ひとまずカーラントに戻ろう。必要なものが出来た。それからあいつを迎えに行かなきゃ・・・」
ジュードは呟くように答えると立ち上がった。
“必要なもの”とはなんだろう。それに“あいつ”とは・・・?だがシェランは質問を返さなかった。
顎をひいて背筋を伸ばし、いつもは明るく輝くような大きな瞳を細め、その奥に深いかげりを宿す。いつも窮地に追い詰められた時に彼が見せる表情だ。こんな時のジュードは、誰よりも冷静で鋭敏な判断力を備えているように思う。
シェランは何度もジュードのこんな表情を見てきた。初めて会った最終試験でライフシップが海上で動かなくなった時、SLSの計画にジュードだけは薄々気が付いていた。彼が「SLSはオレ達に何を期待してるんだろうな」と言った時、シェランは内心ヒヤッとしたものだ。
炎を恐れて退学になりそうだったマックスの為に「もう一度チャンスをくれ」と彼がシェランの教官室で懇願した時もそうだ。
それにウェイブ・ボートの空港でルイス・アーヴェンを追い詰めた時。そしてコリンが壊したブレーキのせいでシェランが入院した時、チームのみんなに狙われている事を告げられなかったシェランに「だからこそ身を守る為にみんなに話すべきだ」と言ってくれた。
その全ての判断に間違いはなかった。ウェイブ・ボートではルイスを取り逃がす事になったが、ジュードのおかげで誰一人死ぬ事はなかった。あの時からシェランはジュードに深い信頼を寄せるようになった。だから彼がその表情になった時は質問の必要がないのである。
シェランは黙ってカーラントへの道を戻り始めたジュードを追った。