第15部 オレゴン・サマー 【7】
バーリーはコロンビア河から2~3km南下した小さな森の中に住居を構えていたが、そこは住む為と言うよりも一種の隠れ家的に存在している家だった。彼はその家の一室を寝室に使い、後は出来上がった製品を発送するまで保管しておく倉庫に使っていた。
― 出来上がった製品・・・・ ―
それは当然、生き物ではなかった。だが生きている姿そのままに形作られ、まるで生きているようにも見えた。
ビーバー、猿、鹿、小さなウサギもいた。それらは全て目をガラス玉に変えられ、腐らないよう防腐加工され、ただじっと互いに見詰め合っていた。
命の無い動物達が立ち並ぶ部屋の奥で、バーリーはふとキーボードを打つ手を止めて、にやりと笑った。
邪魔者は昨夜の内に仕留めたと、ダットの使いの者が夜遅くやって来て言った。何と自分から滝壺の中に飛び込んだそうだ。勇気があると言うか、無謀と言おうか・・・・。まあ、周りをライフルを持った男達に取り囲まれていたから、もう逃げ道は無いと観念したのだろう。
密猟者に殺されるより自ら死を選んだのは、あの理想主義のロバートの息子らしい。とりあえずこれで安心して仕事が出来るというものだ。
彼は再びパソコンを操作し始めた。これを使って取引を行なうのだ。もちろん公共の回線を使用しているので、取引は全て暗号を使い、当然一見はお断りである。バーリーにとってこれはビジネス以外の何物でもなかった。
「ニューヨークか。今度は熊の剥製とは・・・。マンションのロビーにでも置くのか?」
バーリーがコーヒーを片手に独り言を呟きながらキーを叩いていると、ダットが大きな袋を肩から担いでやって来た。
「大物を仕留めたぜ!」
ダットは嬉しそうに叫んだが、バーリーは眉をひそめて彼の袋を持っていない方の手を見つめた。
「ダット、ライフルは車に置いて来いといつも言ってるだろう」
「上等なんだぜ。盗まれたらどうするんだ」
盗むような人間はこの辺りに居ないと何度言ったら分かるんだ。バーリーはうんざりしたように黙りこんだ。
「それより見ろよ!」
ダットが重そうに担いだ袋を下ろすと、中から茶色がかった毛色の熊が現れた。熊の息は既になかった。
「メスか?熊は体の大きいオスのほうが人気があるんだがな」
「ああ。巨大なオスが一匹、一緒に居たんだが逃げられちまった。あいつを仕留めるにゃ1人じゃムリだ。罠にでも引っかかってくれりゃ一発なんだが・・・。いや、あいつなら普通の檻じゃぶっ壊しちまうだろうな」
バーリーはチラッと熊の死体に目をやると「まあいい。買おう」と言って、胸ポケットから金を取り出しダットに渡した。
「いつものように加工場に運んでおいてくれ。シズリーに急ぐように言ってくれないか。丁度、注文が入ったからな」
バーリーは机の上に置いてあったコーヒーを一口飲むと、事も無げに言った。
「それから、そのでかいオスの方も仕留めて来い。一緒にいたんなら夫婦だろ?セットで売ったら見栄えがする」
「構わんが、あいつはそう簡単にはムリだぜ。こいつの倍は貰わなけりゃ割に合わん」
頭はのろいくせに金の計算は早い奴だ。バーリーはフンと鼻を鳴らすと椅子に腰掛けた。
「いいだろう。ただし3日以内に仕留めろ。でないと3分の2に減給だ」
「OK」
ダットは肩をすくめながら返事をした。
森に戻るとダットは仲間に命じて熊を捕らえる準備を始めた。彼等が狙うオス熊は体長が2メートルほどあった。きっと立ち上がって腕を伸ばせば3メートルになるだろう。
― ビッグな化け物だ ―
ダットは熊をおびき寄せる蜜蝋を準備しながらニヤッと笑った。
「奴を捕らえるには、まず行動範囲を知る必要があるな」
ダットは仲間に命じて今朝熊を見つけた辺りから、熊の足跡や木に残されている熊の爪とぎ跡、熊の排泄物などで、行動範囲を限定させていった。
「このでかいフンは間違いなくビッグMのだぜ。しかもまだ新しい」
「メスを殺されて逃げたかと思ったが、まだ残ってたんだな。こりゃ案外早くお目にかかれるかも知れねーぞ」
密猟者の内の2人、ギルシュとメガは顔を見合わせて笑った。彼等は二人一組になり、その熊をビッグMと呼んで追っていた。
ギルシュが苔の張り付いた大きな木の根元にビッグMの足跡を発見しメガに頷いた時、遠くから銃声が響き、辺りにとどろいた。
「あっちだ!」
ギルシュとメガはご自慢の銃を肩から下ろし、脇に挟むと走り出した。
彼等が駆けつけると、仲間のコルトーとバローがライフルを林の中に向けて弾を放っていた。ギルシュとメガもすぐさま銃を構えたが、前方にはもはやビッグMの姿を見つける事は出来なかったので、彼等はライフルを下ろし立ち上がった。
「クソッ、逃がしたか」
「手ごたえは?」
苦々しく呟いたコルトーにギルシュが聞くと、彼は両手を上に揚げて首を振った。
その頃ダットはビッグMを捕まえる為の丈夫な鋼鉄製の檻を調達し、仲間のロブソンとビジーに森の中へ運び入れさせていた。檻を形成する黒い鉄筋の太さは3センチ以上あり、広さも普通の熊が5匹入っても余裕があるほどである。
「こりゃあ見事なもんだ。随分高かっただろう、ダット」
鉄の柱を拳でたたきながら、ダットは仲間達に片目を閉じてみせた。
「なあに、奴が捕まりゃ何十倍の金になるんだ。ヒツヨウケイヒってもんよ」
彼は檻の入り口を開けて固定させると、ロブソンとビジーにビッグMをおびき寄せる為の蜜蝋を中につけさせた。ビッグMの体格にあわせて蜜蝋もいつもの3倍の大きさのものだ。
「こりゃすげえや。ビッグMも大喜びだな」
蜜蝋の付いたグローブを舐めながらビジーが笑った。ダットは2人に急ぐように合図を送った後、辺りを窺いながら言った。
「人間のにおいを残すなよ。あいつは用心深い。何しろこの俺様から逃げおおせたんだからな」
その日、何の収穫も得る事が出来なかったダットは、1人でこの小さな街の中心街からかなり離れた居酒屋で食事を取っていた。何年前から使っているのか分からないほど傷だらけのテーブルに付き、むせ返るようなタバコの煙が白い層になって漂っている中でも、ダットは平気で豚肉の塊にフォークを入れていた。
店に居る客は近所の農家の親父だったり、町で小さな金物屋を営んでいるような人間で、いずれも金を持っている風ではなく、不景気そうな顔をして酒を飲んでいる。仲間達はみんな、明るい音楽が流れる気のいい女性従業員の居る中心街の店で飲んだり食べたりするのだが、ダットはこの湿っぽい店の雰囲気が好きだった。
ドアを開けた瞬間、バーリーはうんざりしたように顔をしかめた。この店に一歩足を踏み入れただけで肺をやられそうだ。店の亭主に「少しは換気をしろ」と叫びたくなるのを堪えて、うまそうに丸ごとゆでたジャガイモに喰らい付いているダットの方に歩いて行った。
― よくこんな所でメシが食えるな。とことん埃っぽい所が好きなんだ、この男は ―
バーリーはそう決め付けると、あまり息を深く吸わないようにしながら、ダットの前の椅子に座った。
「その様子じゃ収穫はなかったようだな」
バーリーの問いに、ダットは食事の皿から顔を上げずに答えた。
「今日檻を仕込んでおいた。明日中にはいい知らせが出せるさ」
「コルトー達が今日、熊を仕留め損なったそうだな。警戒して罠には引っかからないんじゃないか?」
ダットはテーブルの脇に置いてある愛用のライフルに手をかけると、食事の皿からゆっくりと顔を上げてバーリーを下から見つめた。
「俺達はプロだ。引き受けた仕事はやり遂げる。あんまり舐めてもらっちゃ困るんだがな」
バーリーは彼等のこういった態度が嫌いだった。あくまで自分はビジネスマンだ。だから家にもライフルを持って入るなといつも彼等に言うのだ。
「俺はお前達を舐めてるんじゃない。自然を見くびるなと言ってるんだ。甘く見ると痛い目を見るぞ」
ダットはバーリーの言葉にふと首をかしげた後、思い出したようにゲラゲラ笑い出した。
「なんだ、何がおかしい」
「お前さん。ロバート何とかって奴の事を随分嫌っていたみたいだが、今のセリフ、そいつの息子とおんなじだったぜ」
「ジュード・・・と・・・・?」
バーリーは眉をひそめた。冗談じゃない。なんで俺があいつの息子と同じ事を言わなきゃならないんだ?それではまるで・・・・・。
「あの崖っぷちに追い詰められた時、あのガキがそう言ったんだ。
自然を利用するならしたいだけすればいい。だがお前達は必ず報復を受けるぞ。己の愚かさに気付かない限り・・・・えーと、なんだっけな。まっ、とにかくそんな所だ。その後いきなり女と一緒に滝壺に飛び込んだ。全く見事な最後だったぜ。
まだ19のガキって聞いた時にゃびっくりしたが、それだけでそのロバートって奴が息子にどんな教育をしてきたか分かるってモンだ。なぁ、バーリー?」
バーリーは足元から虫唾が走ってくるのを感じながら、傷だらけのテーブルを叩きつけて立ち上がった。
「教育だと?あいつはただの自然オタクだ!息子もそれに習ってるに過ぎない。あんな奴と一緒にするな!」
周りの目も気にせずバーリーは叫ぶと、ダットに背中を向け肩を怒らせながら出て行った。立ち込める煙の中で余りに声を張り上げたせいで、外に出た時、思い切りむせて咳き込んだ。
涙が出るほど咳き込みながら、余りに苦しくて地面に手をつくと、バーリーは思い出したくもない男の顔と声を頭の中に描き出していた。そしてそれはどれ程、心に壁を張り巡らせても目の前にまで浮かんでくるのだった。
薄闇が迫る夕暮れ時の河岸、オレンジ色の炎がまるで命を持っているかのように揺れている青銅色の岩壁の前で・・・。そしてまるで木々の息遣いが聞こえてくるような大木の立ち並ぶ深い森の中で、ロバートはいつだって自然の友だった。
オレゴンの大地に立って彼が空と同じ色を映したその瞳で宙を仰ぐ時、彼の周りを取り囲むすべてが彼を祝福し、守っているように見えた。
バーリーがロバートと初めて会ったのは彼が森林局に入った22歳の時だったが、最初はそんなロバートをうらやましいと思い、そうなりたいと憧れたものだった。
だが月日が経つにつれ、バーリーはそんなロバートを疎ましく思うようになった。彼にとって森林局の仕事は金を稼ぐ手段というだけで、自然を愛しているからとか、守りたいからという気持ちは全くといってなかった。だからロバートのように己のすべてをこのオレゴンの自然を守る為に費やそうとは考えられなかったのである。
― 自然が俺達を守っている?冗談じゃない。俺達が自然を守ってやってるんだ。いずれ利用する為にな ―
バーリーはそう考えるようになり、又違う部署に配属された事もあって、いつしかロバートと距離を置くようになった。
そういえばその頃からジュードは目端が利くと言うか、食えないガキだった。俺は後輩だったので、ロバートにも一応気を使っていたからあの男も俺が自分を嫌っているなんて思いもしなかったろうが -と言うより、ロバートはよく結婚できたなと同僚が言うほど鈍感な男だった― だがジュードは違っていた。
あれはロバートが亡くなる2年位前だった。時々森林局に遊びに来ていたジュードと、たまたまロバートの居る部署まで資料を取りに行った時、久しぶりに出会った。
「バーリー!久しぶりだね!」
「ジュードじゃないか。元気だったか?」
「うん、元気だよ。バーリーも元気そうで良かった」
その時ふと俺は不思議に思った。以前よくロバートと共にジュードに会った時、あいつは俺の名を呼びながら勢いよく首に抱きついてきたものだった。なのに今日は側まで走って来たのに、じっと立って俺を見上げながら話をしている。
その時はこのガキも少しは大人になったのかなと思っていたが、違っていた。それに気が付いたのは、別れ際のあいつのセリフだった。
「じゃあな、ジュード。又な」
手を振って背中を向けたバーリーにジュードはもう一度声をかけた。
「バーリー」
― なんだ?まだ何か用があるのか? ―
ふと眉をひそめたが、にっこり笑って振り返った。
「なんだ。どうした、ジュード」
「バーリーはパパの事、好きだよね・・・・?」
その時俺は一瞬、言葉を失ってしまった。ジュードの瞳が底知れないほど深く見え、自分の心の奥底までを見透かされているようで、恐ろしささえ感じた。
「ああ・・・当たり前だろ?勿論好きさ。お前の事もな・・・・」
「うん・・・・」
ジュードは微笑んだが、その目はとても悲しそうだった。そしてそれからも、もう二度と俺に飛びついてくる事は無かった。
あいつは見抜いていたんだ。俺の気持ちがだんだん変わっていった事。ロバートの事を嫌っていた事。だから彼の息子である自分の事も嫌っているかもしれないと思ったから、昔のようにすぐ抱きついたりせず、様子を見ていたんだ。そして俺の嘘を見抜いた・・・・。
バーリーは地面を見つめながら手で土を掴み取ると、ぐっと力を入れた。そうだ。あいつはそんなガキだった。そしてロバ-トの居ない今、あいつは誰よりも山や森や河の事を知っている。この俺よりもずっと。
そんな奴が幾ら追い詰められたからと言って、滝の方へ逃げるわけがない。奴には勝算があったのだ。生き残る為の・・・・・。
バーリーは突然立ち上がると、さっきの店のドアを開けて店内中に響き渡るような声で叫んだ。
「ダット!出て来い、ダット!」
食事を終えて店に居る他の客と同じようにタバコをくゆらせていたダットは、バーリーの大声にびっくりしてむせ返った後、不機嫌そうに煙の中から姿を現した。
「なんだ、バーリー。帰ったんじゃなかったのか?」
迷惑そうに立っているダットを人気のない建物の陰まで引っ張っていくと、彼に顔を近付けた。
「今すぐ仲間を集めて山狩りをするんだ。あいつは生きている」
「あいつって?」
「ジュード・マクゴナガルだ」
ダットは馬鹿にしたような笑いを浮かべると、首を振りつつ答えた。
「何言ってんだ?あの滝が何メートルあると思う?助かるわけはねぇ」
バーリーはダットの胸倉を掴むと、更に顔を近付けた。
「何メートルあるんだ?」
「は?」
「あの滝が何メートルあるのか、お前は知っているのか?」
「そりゃ、知らねぇけど・・・・」
バーリーはダットを放すと、もう一度辺りを確かめるように表通りに目をやった。
「俺も知らん。だがジュードなら知っているはずだ。もし飛び込んでもギリギリ助かる見込みがあったのなら・・・。例えそれが10パーセントの確率でも、お前達に撃ち殺されるよりは、そちらを選んだだろう」
「そりゃ、確かにそうだが・・・普通の人間が、あの状況でそこまで考えられるか?どう考えてもあの高さに身が縮む。10パーセントどころか、1パーセントも生き残れる可能性は無いぜ」
「普通の人間ならな。だがジュードは2年前ここを出て、フロリダのSLSに入った。SLS・・・海難救助隊だ。今ライフセーバーになる為の訓練を毎日やっているはずだ。あいつは俺が知らないと思って訓練所の名は伏せていたが、あの女も同じ学校だといったから訓練生だろう。
ライフセーバーといえば、水の専門家だ。普通の人間とも鍛え方が違う。2人の内、どちらかが意識を保ってさえ居れば、例え滝壺の中に落ちても必ずもう1人を助ける事ができる。荒れ狂う海の中で人を救助する訓練を受けているんだからな」
「だが、森林局の方には何の通報もないんだろう?助かってたんなら必ず森林局に通報するはずだぜ」
ダットは少しうろたえたように否定したが、バーリーには確信めいたものがあった。
何故ジュードがSLSに入校した事を言わなかったのか?久しぶりに会ったあの時は無意識にそうしたのだろうが、彼は心のどこかでバーリーを信用していなかったのだ。だとすれば、自分達を追い詰めたダット達の手際のよさから見て、裏切り者が誰か気付いているに違いない。だから森林局に訴えても、俺がもみ消す可能性があると考えたのだ。
だからと言って、このままジュードが逃げ去るとも思えない。彼にとってコロンビア河の自然は父のロバートが守り続けた聖域だ。それを犯した人間をこのまま黙って見ているはずは無いのだ。
「山狩りをしろ、ダット。あいつはまだあそこに居る。何をしようとしているのか分からんが、必ず俺達の邪魔をしてくるはずだ」
よくは分からなかったが、バーリーのしつこさにダットは仕方なく答えた。
「分かった。山狩りはしよう。だが明日夜が明けてからだ。動物ってのは夜行性が多い。あの辺りにゃまだ野生の狼も居るんだぜ。それにあんたの言う通りあのガキが山の全てを知っているような奴だったら、深夜あの広範囲を探しても見つかる可能性は低い。ましてや俺達は少人数だ。危険が多すぎる。あんたも言ってただろ?自然を甘く見るなってさ」
バーリーは不服そうに目を細めたが「明日、必ずだぞ」と言い残して去って行った。ダットは溜息を付いてバーリーの背中を一瞥すると再び店に戻っていった。客達が吐き出す煙が何層にも折り重なる中でふと立ち止まると軽蔑したように呟いた。
「全く、あんなガキにおたおたしやがって。肝の小せえヤローだぜ」
2日前の夜、ダットとその仲間に崖の淵まで追い詰められたジュードは、シェランを抱きかかえたまま、激しく流れ落ちる水流の中に身を投じた。シェランは一瞬何が起こったか分からないほど動転したが、体がまっさかさまになっているのに気付くと同時に、ジュードが自分の頭と両腕を体でしっかりと守っているのが分かった。
ジュードの言葉をとっさに理解したシェランは硬くしていた体を緩め、大きく深く空気を吸った。
― ザブン!! ―
水音は一瞬で途絶え、2人の体は深い水底まで沈んだ。シェランは目をしっかりと開け、自分の身体を力一杯抱きしめていたジュードの腕を下からすり抜けた。彼は完全に気を失っている。頭を水面に打ち付けた時の衝撃は相当なものだったはずだ。
それでもジュードは水の中に入るまでシェランを守り抜く自信があったのだ。そして水の中に入れば、シェランが必ず岸まで泳ぎきると信じていたのである。
シェランはジュードの体を片手で抱えると、岸に向かって泳ぎ始めた。滝の流れは激しくても、滝壺の中に落ちてしまえば流れは緩やかである。シェランは先にジュードを岸に上げると、自分も這い上がった。
「ジュード、しっかりして!」
シェランが2、3度強く胸を押すと、ジュードはすぐに水を吐き出した。咳き込みながら首を痛そうに押さえているジュードにシェランは言った。
「全く、無茶なんだから」
「だけどうまくいっただろ?この滝は約41メートルあるんだ。人間が気を失う高さは、大体43メートルだからギリギリ水面までは意識を保てると思った。まあ、首の骨が折れるのは多少覚悟したけどね」
こんな風に言うとシェランは必ず「なに馬鹿なことを言ってるの」と言って怒るものだが、今日はどうしたわけか何も言わずに微笑んでいる。
「怒らないのか?」
「ええ、怒っているわよ」
シェランは立ち上がると、びしょ濡れになった上着を脱いで力一杯絞った。水がボタボタと音を立ててしたたり落ちていく。
「私はね、あの野卑で身勝手で生き物の命をまるで石ころみたいに思っている、あの人達に怒ってるいるの。ええ、もうお腹の皮がよじれるくらい怒ってるわよ!」
「ああ、それは良かった」
ジュードも立ち上がると山小屋に向かって歩き始めた。彼等はジュード達が死んだと思っているだろうからもう山小屋には用がないはずだ。
ジュードにはどうしても持ってきた荷物が必要だった。町へ戻る気など毛頭なかった。
「オレも丁度同じ気分だったんだ。どうしてもこのままじゃ済ませられないっていうね・・・・・」
その夜、彼等はすぐに山小屋に引き返した。中でシェランが濡れた服を脱いで着替えている間に、ジュードは外で見張りをしながら自分も着替えを済ませた。山小屋にあった毛布をシェランの頭から体全体を包み込むようにかけると、小屋を後にした。幾ら拭いても水に濡れた後、山の夜風にあたれば確実に風邪を引くからだ。
それから足元に絡みつく草を押し分けて、真っ暗な夜道を進み続けた。
「ジュード・・・あの・・・・」
毛布に包み込まれたシェランの肩を抱いて、無言で歩き続けるジュードに声をかけた後、シェランは黙り込んだ。
河から上がった時、ジュードが呟いた言葉の意味をシェランはずっと考えていた。肩を抱きしめる手から、彼の決意が伝わってくるのを感じる。ジュードは戦うつもりなのだ。でもどうやって・・・?
相手は少なくとも10人は居る。皆ライフルを持ち、ハンターとして腕も一流だろう。シェランはそれ以上何も言えず口ごもった。彼を止めることなんて出来ないと分かっていた。この地は彼の父親が守り続けた地なのだ。
それに今回の件に関しては、シェランも本当に腹の底から怒りが何度も蒸しかえってくるのを感じていた。己の欲の為に罪のない動物を殺して笑っていられる人間の神経が分からず、無性に腹が立った。
「疲れたか?シェラン」
ジュードが心配してシェランの顔を覗きこんだ。彼の顔は月明かりを背にして暗く翳っているせいか、少し頬がこけていつもよりずっと大人っぽく見える。闇夜に溶け込むような黒く、くせのある前髪から覗く瞳は、まるで今まで一度も潜った事のない海の底のように計り知れないのに、いつも透き通るような純粋さを秘めていた。
巡洋艦ヴェラガルフでレーダー塔の頂上までコメルネ・タラトに追い詰められた時、下から走ってきたジュードの姿を見た瞬間、シェランは何の迷いもなく鉄梯子から手を放した。自分の命を全て託せるほど彼の事を信頼していた事に、目覚めてから初めて気が付いた。そしてどれ程、彼に会いたかったかも・・・・。
その信頼は今でも変わらない。そして教官として必ずジュードをプロのライフセーバーにするという決意も決して変わらなかった。
シェランは心配そうに自分を覗き込んでいるジュードの顔を見上げ、月の青光に輝く瞳で彼の目を見つめた。
「私はどんな事があってもジュードを信じている。この先何が起こってもジュードについていく。私はジュードの信頼できるバディになれるわよね?」
ジュードは口の端を上に向けてニヤッと笑うと、自信に溢れた顔でシェランを見つめ返した。
「SLSはいつだって機動と潜水が2本の柱だ。今はフォローをしてくれる一般は居ないけど、その分自然が味方になってくれる。シェランとこの自然がバディになったら、オレは誰にも負けないよ」
手が届きそうなほど周りを包み込む星々の中で、2人は強く頷き合った。
やがて彼等は、獣さえも恐れを抱いて近寄らないような巨大な木の前に到着した。幹の太さは大人が7、8人居ないと周りを取り囲めないほどで、高さは幾ら見上げても想像がつかなかった。何百年もこの大地に根付いてきたその根元から幹にかけては薄い苔が張り詰めている。それでも全く衰えを感じさせない青々とした葉を茂らせた太い枝が、蜘蛛が触手を伸ばすように闇の中に腕を広げていた。
「コロンビア河の流域ではオレの知る限り一番大きな木だ。今日はこの木の上で休もう」
「え・・・?」
それは木の上で寝るという事だろうか。そんな離れ業、猿かコアラでもなければ出来るはずは無いとシェランは思った。ジュードは毛布をかぶったまま戸惑ったように立っているシェランにはお構い無しに、ロープと2人分のシュラフ(寝袋)を取り出すと、荷物を茂みの中に隠した。
寝袋を取り出したという事はやはり木の上で寝るつもりなのだ。シェランは今の今、ジュードについて行くと言った自分の言葉を、まるでコップの底が抜けてしまったようにスポッと忘れてしまった。
― 冗談じゃないわ!私は潜水なのよ。下に潜るのならいいけど、高い所に登るなんて・・・絶対嫌! ―
「ジュード、木の上でなんて眠れないわ。木の洞かほら穴みたいなところは無いの?」
だがジュードはシェランの方も振り向かずに、肩にシュラフを担いで木の巨大な幹にロープを回した。そしてロープの端を持ち、足を掛けたら滑り落ちてしまいそうな苔の上を軽々と踏んで、少しずつロープを上に引っ掛けながら登って行った。
7メートルほど登った所に太さ1メートルもある大きな枝がにょきっと突き出ていて、その上に2枚のシュラフをかけると、今度は木の枝にロープをくくりつけ、それをつたって下に降りてきた。
「ほら穴や木の洞じゃ、肉食の動物は防げないよ。密猟者に見つかるから火は燃やせないんだ。この辺りには個体数は減っているけど、まだ野生の狼も居る。木の上が一番安全なんだ。それとも狼と戦うのを覚悟で、近くのほら穴に案内しようか?」
狼と聞いて、シェランはまるで身体中が木になってしまったように棒立ちになった。野生の狼など見た事もないが、獰猛に決まっている。
「でも私、木登りなんて出来ないわ。特にあんな足場もないような・・・」
ジュードは笑いながらシェランにロープを引っ掛けた。
「潜水士に木登りなんかさせないよ。シェランはオレの背中」
「私を背負って登るの?ロープ一本で・・・?」
信じられないような顔をしているシェランに、ジュードは当たり前のように答えた。
「山岳レスキューの訓練じゃ毎回やってるけど。おまけに担いだり運んだりするのは、シェランよりずっと重いマックスやネルソンだよ」
そうだった。機動は時には山岳レスキューなどの応援に行かなければならないので、週に一度そのカリキュラムが組まれている。山の少ないフロリダでは余り本部に要請が来る事は無いが、他の支部に行けば起こり得る、大規模な山火事や河川での多人数の事故の際に協力できるよう、レスキューと同じ訓練をさせられるのだ。
それはライフセーバーとしての彼等の能力を高める事にもなっていた。潜水士のシェランは、本部時代も教官になった今もその場面を殆ど見た事がなかったので、ジュード達、機動救難士候補生がそれ程成長しているとは思わなかったのである。
潜水課の訓練生の成長は手に取るように分かっているのに、他の課の訓練生の事を全く分かっていなかったのはチームの担当教官であるシェランにとって、とても反省すべき事であった。
シェランは後ろを向いてしゃがみこんだジュードの背中に決まり悪そうに摑まった。ジュードがシェランの体に回したロープを彼女が落ちないように自分に撒きつけている。
― 本当に・・・私ってここに来てから反省しなきゃならない事ばかりだわ ―
しかもジュードが背中に居るシェランが、まるで空気になってしまったように軽々とロープを登ってしまったので、さらに驚いた。
今まで機動の事はロビーに任せっぱなしだったが、これではいけない。帰ったらロビーとクリスに互いのチームの生徒の事を報告し合うように提案しようかしら・・・。たまには訓練の様子を他の課が見学できるようにするとか・・・。
シェランが難しい顔で考え込んでいる間に、ジュードは片手でシェランの体を支えながら彼女の体をシュラフの中に入れ、ファスナーを締めた。まるでみの虫になったような状態のさらに上から毛布を巻き付け、下に落ちないように木の幹に回したロープで彼女の体を固定した。
「じゃあシェラン。オレはちょっと行って来るから」
「え?」
みの虫から、蜘蛛の巣に囚われて動けなくなった幼虫状態のシェランは、びっくりしてジュードを見た。彼は既にロープを掴んで下りる体勢に入っている。
「な、なに?何処に行くつもりなの?」
「ちょっと様子を見に行くだけだから大丈夫だよ。あっ、眠たくなったら寝てていいから」
そう言いつつロープを滑り降りたジュードの姿は、既に闇の中に消えていた。
「な・・・なにが、寝ててもいい・・・よ・・・」
全く身動きも出来ずに呟いた後、シェランは顔を真っ赤にして叫んだ。
「あなたが大丈夫でも私はちっとも大丈夫じゃないわ!こんな状態で眠れるわけないじゃない!私はみの虫じゃないのよ!ジュードのバカァァー!!」
ひとしきり叫んだ後、下を見てめまいを覚えたシェランは、思わず空を見上げた。幾重にも折り重なる小さな葉の間から、まるで氷のつぶてのように冷たく輝く星々が流れ落ちていく。消えゆく星の運命を見つめながらシェランは小さく溜息を付いた。
「バディだって・・・言ったくせに・・・・」