第15部 オレゴン・サマー 【5】
うっそうと茂る林の中を抜け、やがてジュードとシェランは深い森の中へ入っていった。川の流域なら所々で美しい風景が味わえるが、ただ木が生い茂っているだけの森の中は普通の山歩きと変わらなかった。
それでも木々の間から差し込む光や、時々流れてくる風もさわやかで心地よい。
「森の中では木々からフィトンチットって言うのが出てるんだって。木が自分で作り出して発散する揮発性物質なんだけど、それによって人は普通に歩いていてもさわやかに感じたり、癒されたりするんだ」とジュードは言った。
フィトンチットがどんな物なのかシェランには良く分からなかったが、この大自然がオレゴンの人々に大きな影響を与えているのは間違いないだろう。だからここの人々はみんなおおらかで優しいのだ。
そしてその影響をジュードは最も強く受けている1人に違いない。幼い頃から父と共にこの自然に慣れ親しんできたのだから。
シェランはジュードが仲間の事をいかに深く、大切に思っているか知っている。彼が仲間に向けるその思いは、この大自然が人々を守り、愛しむ姿と似ているとシェランは思った。
もう少し行くと、小さな沢があると言うので、そこで昼食をとることにした。今日はレゼッタが作ってくれた弁当があるのだ。
薄暗いほど低い木々が生い茂る藪の中を暫く行くと、黒い岩壁の上を小さな水の流れが落ちていくのが見えた。こんな場所は土地勘のあるものでも滅多に見つけられないだろう。
シェランには今、自分がどちらの方角に向かっているのか全く分からなかったが、ジュードにはまるでナビゲーションが身体の中にあるように、目指す場所が分かっているようだ。
午後からは、さらに奥へと進んでいった。薄暗い藪の中はもはや人間が侵入してはいけない場所のように思えた。シェランは大きなデイバッグを背負ってどんどん前に進んで行くジュードの背中を懸命に追った。もしこんな所で彼の背中を見失ってしまったら確実に遭難してしまう。
シェランにとってそれはとても恐ろしいものだった。海で遭難した人々を何百人も見てきたが、海より山の方がずっと恐ろしく思えた。
突然自分の後ろで何かが駆け抜けていくような音がして、シェランはびっくりして後ろを振り向いた。鹿か何かの蹄の音はすぐさま去っていったが、ジュードはシェランの「キャッ」と言う叫び声を聞きつけて戻ってきた。
「シェラン、どうした?」
「ごめんなさい。何か動物が走っていったみたいで驚いただけなの」
「ああ、ここは獣道だからね」
「けものみち?」
「動物は自分が通る道を大体決めているんだ。だから密猟者もその道に・・・・・ああっ、血が出てるぅっ!」
シェランの右手の甲に血が出ているのを発見し、ジュードはびっくりして叫んだ。
「ジュードったら大袈裟ね。びっくりした拍子にちょっと引っかいただけよ」
シェランは笑いながら手を振ったが、ジュードは素早くいつも着ているメッシュ状のベストのポケットを開けた。以前シェランの指を治療する時に消毒を忘れた事があったので、今日のジュードは万全である。なんと言っても母からシェランを無傷で連れて帰ってくるよう至上命令が出ているのだ。
治療の後、ジュードはデイバッグのサイドポケットから軍手を取り出し、彼女に手渡した。
「こんな物、必要ないわ」
第一恥ずかしいじゃない。シェランは軍手をはめている姿などジュードに見せたくなかった。
ジュードは返された軍手と自分の顔を、ぐーっとシェランの顔に近付けた。
「シェラン。シェランは普段、海の中にばかり居るから分からないだろうけど、山はシェランが思うよりずっと危険なんだ。海の中じゃシェランを傷付けるものなんてほとんど居ないだろう?だけど山の中じゃ、ちょっとした油断がすぐ怪我の原因になるんだ。シェランは殆ど海の中に居て皮膚も弱いんだから、ちゃんとはめなきゃ駄目だ。でないともう連れて行けない。ここに置いて行くぞ」
シェランにとってそれは、この上ない脅し文句だった。
― なによ。人を魚みたいに・・・ ―
実際ジュードが自分の事を半人半漁のように思っているとも知らないシェランは、口を尖らせながら軍手を手にはめた。
それからさらに藪の中を進んだが、人に荒らされた形跡は無かった。そこを抜けると高い木々が群生している森の中にやって来た。木々の背が高い為か、日が余り差し込まず、足元には濃い緑色の苔が当たり一面に広がっている。
苔の上を歩いて足跡をつけるのが、重い罪のように思えるほど、幻想的で美しい空間だった。
― ここではきっとフィトンチットが倍くらいになってるんじゃないかしら・・・・ ―
どうやらシェランはこのフィトンチットが気に入ったらしい。彼女がその木々が吐き出すさわやかな息遣いを胸一杯に吸い込んだ時、森の奥から動物のうなり声が聞こえて思わず息を止めた。
急いで駆けつけてみると、黒い鉄格子の大きな檻が林の中においてあり、中に体長120センチほどのヒグマが摑まっているのが見えた。熊は興奮して叫び声を揚げながら、必死に鉄格子を叩きつけたり、檻を揺らしたりしている。
ジュードが遠くから檻の中を見ると、蜜蝋が天井から吊り下げられていた。きっとあれにおびき寄せられたのだろう。蜜蝋が餌という事は、確実に熊を狙ったのだ。
ビーバーといい、熊といい、食用にも毛皮が利用できるものでもない動物を捕まえて、どうすると言うのだろう。ジュードにもシェランにも密猟者達の意図がつかめなかった。
「シェラン、檻の入り口の反対側に回って、離れているんだ。オレが檻を開けて、あいつを逃がすから」
ジュードの発言にはいつもびっくりさせられるシェランだが、今回のは更に驚いた。
「何言ってるの?相手は熊なのよ。幾ら私達より小さくても、充分人間を殺せる大きさだわ。おまけに理不尽に囚われて気が立ってる。扉を開けた途端、襲い掛かってくるかも知れないのよ」
「それでも、あのままにはしておけない」
ジュードはぎゅっと唇を噛み締めると、シェランに背中を向けた。
どうやら彼は密猟者に対して、かなり頭にきているようだ。当然だろう。彼の亡くなった父がずっと長い間、守り続けてきた場所を荒らされたのだから。
シェランは仕方なくジュードに言われた通り、入り口の反対側に回って藪の中に身を潜めた。木々の間から覗くと、ジュードがゆっくりと檻の側に近付いていくのが見えた。
熊はジュードを見ると、益々興奮して彼に向かって走り出し、何度も鉄格子に体当たりを繰り返した。
「大丈夫だ。落ち着いて。君を助けたいんだ。落ち着いて・・・・」
何度も声をかけながら入り口の格子を掴んだが、熊は威嚇するように大きく口を開けて、その鋭い爪で彼の手を引き裂こうとした。
「大丈夫だ。怖がらなくてもいい。落ち着くんだ」
20分ほどそんなやり取りを繰り返すと、やっと少しずつ熊の興奮も収まってきたようだ。だがまだ安心は出来ない。扉を開けた途端、襲い掛かってくる危険性は充分にある。
シェランはジュードを見守りながら、側にある枝をぎゅっと握った。
ジュードは熊から目を離さず、デイバッグからロープを取り出すと、扉の格子にくくりつけ始めた。熊を驚かさないよう更に声を掛けながら、ロープを檻の上に渡し、入り口の反対側に回った。そして力一杯ロープを引っ張ると、徐々に扉が上がり始めた。
檻の中央でじっとしていた熊は、扉が開ききると、ふとジュードを振り返った。自分の安全を確認したのだろうか。
にっこり笑って「行くんだ」と言うと、彼はもう振り返ることなく、森の中へ姿を消した。
ホッとしてシェランはジュードの側に駆け寄ってきたが、ジュードはまだ怒ったような顔をしてロープを放し、再び鉄の扉が音を立てて落ちた。
「こんな物をこのままにしておけない。壊すから手伝ってくれる?シェラン」
「壊すって、どうやって?」
「こうやってさ」
ジュードはニヤッと笑うと再びロープを檻にくくりつけ始めた。四方、4箇所にロープを通すと、今度はその端を持って、近くの高い木に登り始めた。
「よし。この辺でいいかな」
7メートルほど登った所で、枝の上からロープを反対側に下ろし、自分も再び木の幹を伝って降りてきた。2人で力を合わせてロープを引っ張ると、少しずつ檻が上へ上がっていった。
檻が登りきるとジュードはシェランを離れさせ、木の陰に隠れるように言った。檻が落ちた時、木片や小石などが飛び散って危険だからだ。
シェランが離れた場所にある大きな木の幹に隠れたのを見ると、ジュードは近くの木に括り付けていたロープの端を解いた。・・・と同時に檻は一瞬で地面に叩きつけられ、ぐにゃぐにゃに折り曲がり形を変えた。
それから2人はあちこちで3つの罠を見つけた。一つはさっきの熊用の檻、後の2つは鹿などを捕らえる足を挟みこむタイプの罠だった。どれもまだ動物は捕まってなかったのは幸いだった。
熊の罠を同じようにして壊し、後の2つは密猟者に分からないよう、藪の中に埋めた。
今日はそれで夕方になってしまったので、彼等は適当な場所にテントを張る事にした。
「川の側にテントを張らないの?」
川に近い方が水を汲んだりするのに便利だとシェランは思ったのだ。
「山の天気は変わりやすいから、急に大雨が降って川が増水すると、こんなテントなんか簡単に流されるんだ。だから川が増水した場合を考えて、少し高台に立てるか、距離を置くんだよ」
それからジュードはテントの立て方もシェランに教えた。
「ドームテントは素人でも簡単に作れるように出来てるんだ」
ジュードが言うように、細いポールを繋げてテントの中に通すと、簡単に立ち上がった。
「後はペグを土に打ち込むんだけど、先は必ずテント側に向けて斜めに挿すんだ。逆だとすぐに抜けてしまうからね」
シェランが教えられた通りにペグを1本、土の中に叩きつけている間に、ジュードは他の3本ともう2つテントをこしらえてしまった。ジュードのテントから少し離れた所にシェラン用のテントを立て、更にその向こうにトイレ用のテントを立てた。
トイレ・・・と言っても、土に深く穴を掘って上からテントをかぶせただけだったが、シェランにはとてもありがたかった。夜中に真っ暗な藪の中に入っていく勇気など、とても無かったからだ。
それからは食事の準備である。今夜はレゼッタがミートパイを焼いてくれているので、それを食べる。途中、ジュードがあちこちで見つけたキノコもスープにして食べようという事になった。
ジュードは手際よく川から石を持ってきてかまどを作ると、取ってきたキノコを袋から出し始めた。だがその中にシェランはどう見ても毒キノコにしか見えないキノコをいくつか発見した。赤や黄色の警戒色といい、グロテスクな形といい、どう見ても毒キノコだ。
「ジュード。それ、毒キノコじゃないの?色も形も変だわ」
ジュードはそう来ると思った、という顔をして、笑いながらひとつひとつキノコを並べ始めた。
「これはタマゴタケ。ちゃんと食用でフライにすると凄くうまいんだぜ。良く似たキノコでベニテングダケってのがあるけど、これは食べると中毒を起こすけどね。みんな一般的に色が派手なのが毒キノコと思いがちだけど、どちらかと言うと普通っぽくても毒キノコの場合が多い。
例えばこれ。シロマツタケモドキって言う名だけど、良く似た奴でドクツルタケってのがある。本当に普通のキノコだけど、毒性は強く、1~2本食べただけで死んでしまうんだ。他にもシロタマゴテングダケ、タマシロオニタケ、フクロツルタケとか色々あるけど、どれも普通のキノコにしか見えないよ」
「ふうん・・・・・」
シェランはジュードの説明を聞きながら、ここへ来てから何度も思った事を改めた考えた。
ジュードはもしかしたら、ライフセーバーより山岳レスキューの方が向いているのではないだろうか。そんな事を言ったら「オレは機動救難士になるんだ」といつも言っている彼に怒られそうなのでとても口に出来なかったが、彼の知識や経験はとても金では買えない貴重なものだと思う。
ここに来てからシェランはずっとジュードに教えられっぱなしであった。完全に教官と生徒が逆転しているのだ。だから何もライフセーバーとして0から始めなくても、充分山岳レスキューに入っても通用するのではないだろうか。
そんな風にシェランに思わせたのは、ここにいるジュードがマイアミに居る時よりずっと生き生きして見えるからであった。彼はこんな大自然の中で生きているのがふさわしいのだ。そう思うと、シェランはたまらない寂しさを覚えた。
「シェラン、どうしたんだ?キノコスープ、作ってくれないのか?」
目の前に差し出された派手な赤色のキノコに気が付いて、シェランは目が覚めたように笑った。
「勿論作るわよ。ジュードがびっくりするくらい、おいしいのを作っちゃうからね」
キノコの出汁が出たおかげか、キノコスープは塩とブイヨンしかない割には、なかなかの味だった。レゼッタの作ってくれたミートパイは、なぜか懐かしい味がした。
食事の後も、ジュードはキャンプでのきまりを教えた。
「食器はティッシュで全部汚れを拭き取ってから洗うんだ。そうすれば川が汚れないだろ?」
シェランはジュードの言う事に「はい」と素直に返事をして、ティッシュと汚れた食器を持って川に向かった。ジュードはシェランが川で食器を洗っている間に、テントの近くで火を焚く準備を始めた。焚き火は朝まで絶やしてはいけないので、夜中も時々起きて見なければならないのだ。
拾ってきた枝を火の中に入れて炎を大きくしながら、ジュードはチラッと川の方を見た。シェランはジュードに言われた通り、丁寧に汚れを拭き取ってから食器を洗っている。
― なんだか妙だな・・・・ ―
ふとジュードは思った。教官であるシェランが生徒に色々言われてあんなに素直に従うか?いつもは駄目!の一点張りなのに・・・。まさか、何か怒っているんじゃないだろうな。
シェランが素直な態度を取ると、どうもジュードは落ち着かなかった。
焚き火の炎が勢い良く燃え始めた頃、シェランが洗いあがった食器を持って戻ってきた。
「ジュード、これはどうしたらいい?」
「あ、えーと、そこのレジャーシートの上にでも伏せて置けば、明日には乾くよ」
「はい」
― また“はい”だ ―
ジュードはどうも居心地が悪そうに、火の側にやって来たシェランを見上げた。
「シェラン、何か怒っているのか?」
「?・・・何が?」
「だって、さっきからずっと“はい、はい”って・・・」
シェランはくすくす笑いながら、ジュードの隣に座った。
「ここではジュードが教官だもの。私は何も知らないから生徒と同じでしょ?山の事を色々教えてもらってるんだから、従うのは当然だわ」
ジュードはホッとして肩をなでおろした。そういう事なら今がチャンスだ。言いたい事を言っておこう。
「それじゃあ、オレがこうしろって命令したら、嫌も駄目もなく従ってくれるか?例えば逃げろって言ったら、わき目も振らずに逃げるとか・・・」
シェランはすぐに返事をせず、少し考えてから聞いた。
「それって熊に遭遇した時の事?」
「いや。熊に遭ったら背中を向けて逃げたら駄目だ。必ず追ってくる。熊は木登りも得意だから逃げ切れないよ。出来る限り遭わないようにしているけど、もし遭ってしまったら、前を向いたままゆっくりと後ろに下がる。この辺の奴はおとなしい奴が多いから、こちらに攻撃する気がないと分かれば深追いはしない」
「もしそれでも襲ってきたら?」
シェランは更にしつこく聞いた。
「その時は地面に伏せて身を縮め、両手で頭を守るんだ。熊の攻撃は最初の一撃で決まる。二打目はないからそれさえうまく交わせば助かる見込みはある」
シェランは溜息を付くと立ち上がった。
「殆ど最初の一撃で殺されるって事ね。ようく分かったわ。心に刻んでおく」
どうやらシェランは、ジュードの質問に答えたくないようだ。それで熊の話を引き伸ばしたのである。シェランはこれ以上ジュードに質問されないように、とっとと自分のテントに帰ろうとしたが、ジュードは自分の側を通り過ぎようとしたシェランの手を握って彼女を引き止めた。
「シェラン。質問の答えは?」
シェランは握り締められた手が熱くなっていくのを感じながら、どう答えればいいのか迷った。
幾らここではジュードが教官でも、命令されるのは嫌だ。それではもしジュードが危険な時でも、逃げろと言われたら彼を置いて逃げなければならなくなる。きっとその時の事を言っているのだ。
「嫌よ。私は誰の命令も受けない。自分の事は自分で決めるわ」
シェランはジュードから目を離して答えた。早く手を放して欲しかった。こんな二人きりの誰も居ない所で、手を握り締めたりしないで。
「シェラン。オレはずっと親父とここで生きてきた。ここは美しいだけじゃなく、危険な場所だって沢山あるんだ。だがそんな所でもオレが親父を信頼し、言われた事をちゃんと守ってきたから、無事に通り抜けられた。だからシェランにもオレを信じて、言う事を聞いて欲しいんだ。でないとシェランを守りきれないかも知れないだろ?」
私は守られるのではなく、ジュードを守る為に来たのよ。と言い返してやりたかったが、それは何の根拠もない言葉でしかなかった。今のシェランはただ自分で歩けるというだけで、山の知識も危険さも分からない、赤ん坊と同じなのだ。
シェランは唇をきゅっと結んでジュードを振り返った。赤い炎に照らし出されている彼の顔は、さっきの言葉が本当にシェランの身を案じているだけなのだと語っていた。
「私はジュードを信頼しているわよ。でなければ、みんなが幾らあなたをリーダーにって言っても、承知しなかったわ」
「じゃあ、答えはYes?」
ジュードがホッとして手を緩めたので、シェランはテントへ戻り始めた。
「それはその時、私が判断するわ」
「シェラン!」
さっとばかりにテントの中に姿を消してしまったシェランに、ジュードはそれ以上何も言えなかった。彼は憤慨したように肘をひざの上に付くと「全く、強情っぱりなんだから・・・」と呟いた。
フロリダでは決して味わえない、オレゴンの澄んだ空気が生み出す満点の星空を、シェランと一緒に見ようと思っていたジュードのロマンチックな計画は、おかげさまで先延ばしになってしまった。