第15部 オレゴン・サマー 【4】
そんな雨の日が何日か続いた後、やっと空は晴れて朝日が東の窓から差し込んでくる中、シェランはいつものようにレゼッタと朝食の準備をしていた。
「シェラン、ごめんなさいね。私の都合であなたを振り回してしまって・・・・」
急にレゼッタがうつむいたので、シェランはびっくりしてサラダを作っている手を止めた。
「そんな・・・そんな事ありません。私もとっても楽しかったし」
「でもジュードはあなたに、父さんと見たオレゴンの自然を見せたかったのよ。最初の頃ちょっとイライラしてたもの。まっ、わざとイラつかせてやったんだけどね」
シェランは微笑むと手を拭いて、レゼッタの方を向いた。
「そんな事ありませんわ。ジュードはちゃんと分かっていました。私の気持ちもレゼッタママの気持ちも・・・。もし私とジュードがすぐに山や森に出かけてしまったら、レゼッタママは又一人ぽっちになってしまったでしょう?本当は久しぶりに帰ってきた息子と一緒に居たいのに・・・。私、分かってました。だからこれからもジュードと一緒に居たい時はどんどん私を使ってくださいね。私いくらでも協力しますから」
レゼッタは泣きたいような顔で微笑むと、シェランをぎゅっと抱きしめた。
「本当にあなたって、なんて可愛い子なのかしら。うちのニブチン息子の嫁にするのはもったいないわね」
― レゼッタママも私のママにはもったいないです・・・ ―
温かい母の腕の中でシェランは思った。
やっとレゼッタママのお許しが出てので、ジュードは早速馬に乗る準備を始めた。シェランが紐のついた革靴を履いて出てきたので、ジュードは倉庫にあった長靴を持って来て、ズボンの裾を中に入れて履くように言った。長雨で外はドロドロだし、紐の付いた靴は馬具に引っ掛けて危険だからだ。
ジュードの家から15分ほど歩くと、小さな牧場が見えてきた。まだ朝が早いからなのか、放牧場の方に馬の姿は見えなかった。それでも牧場主は厩舎の方で馬の世話をしているらしいので行ってみると、36、7歳の男性が1人で水を変えたり、掃除をやっていた。
いかにも西部の牧場主という風体の彼は、やはりカウボーイハットをかぶり、皮製のベストを着ていた。
「キッグス!」
ジュードが呼びかけると男は飼い葉おけを持ったまま、ジュードの側に走ってきた。
「久しぶりじゃないか、ジュード!もうライフセイバーになれたのか?」
「あははっ、まだだよ。学校は後1年残ってるんだ」
ジュードは後ろに立っているシェランをキッグスに紹介した。さすがに教官と言うと根掘り葉掘り聞かれそうなので、友人という事にしておいた。
「こりゃあ、飛び切りの美人じゃないか!うまくやったなぁ、ジュード!」
「友人だって言ったろ?彼女はもうとっくにプロのライフセーバーで、マイアミじゃ知らない人が居ないくらいのキャリアを持っている。オレなんか足元にも及ばないんだ」
そう言ってジュードはキッグスの持ってきた桶を拾って中へ入っていった。
キッグスはボサボサの頭をかきながら「全くあいつは相変わらずだなぁ。真面目って言うか、なんて言うか・・・」と呟いた後、シェランの方を見て笑った。
「あんたもそう思うだろ?それにあんな働きモンで親孝行な奴は居ないぜ。あんたみたいな都会のお嬢さんには古臭い男かもしれないけどな・・・」
厩舎の奥でジュードは懐かしい馬を見つけた。
「フェニックス!」
こげ茶色の馬はジュードを見ると嬉しそうに鼻を鳴らし、前足で土をかいた。
「分かってるって。今日はお前に乗るよ」
馬の方も嬉しそうにジュードを鼻でこついて催促をしている。そんなフェニックスの長い鼻をなでているジュードを厩舎の入り口で見ながら、キッグスはシェランにジュードの昔話を聞かせ始めた。
「あいつは親父を亡くしてから、すぐにライフセーバーになるって決めたみたいだが、そりゃもう、周りの奴等はみんな、子供のたわ言としか思ってなかったなぁ。なんと言ってもSLSは入学金も授業料もバカ高いし、成績も運動も学校でトップクラスじゃないと駄目。おまけに審査は厳しいし、どう考えたってこんな片田舎の少年が入れるはずないってね。
だがあいつは真面目にこう考えていた。18歳で高校を卒業するまで5年ある。その5年間でSLSに入る為の全ての準備を整えよう。金は働けばたまる。運動は元々得意だし、成績は勉強すればいい。まず今から生活をしてSLSを卒業するまで幾らいるか計算して、それを60ヶ月(5年間)で割り、1ヶ月でいくら稼がなきゃならないか計算した。
当然母親にもムリをさせたくないから少しでも家に金を入れなきゃならない。とてもじゃないが13歳のガキが稼ぎ出せる額じゃなかった。
俺の所にもバイトを頼みに来たが、俺は断ったんだ。うちじゃとてもそれだけの金は払えないってね・・・・」
― それでジュードはどうしたのかしら・・・ ―
まるで夢中で見ていたドラマの続きが気になって仕方がない少女のように、シェランはドキドキしながら、キッグスがゆっくりとタバコに火をつけて煙を吐き出すのを見つめた。
「ところがあいつは朝の2時間だけ働かせてくれって言うんだ。2時間あれば厩舎中を掃除して水をやり、馬に餌を与えてやれる。そして学校に行くまでの間に新聞配達だ。それも自転車でなく走ってだぜ?一体何キロあると思う?12キロだぜ!
そして学校じゃ休み時間もずっと勉強していたらしい。ガリ勉と相当言われたらしいが、あいつは平気で笑っていた。
中学で1番じゃなきゃ、ポートランドの高校で一番にはなれないからな。あそこはレベルも高いし、色々な学科に分かれていて、オレゴン中から頭のいい奴が集まってくる。だが州最大の大都会であるポートランドの高校でなきゃSLSは注目してくれないだろ?あいつは何が何でもそこに入り、トップクラスに割り込んでなきゃならなかった。
当然学校が終わると、又バイトだ。金になるなら何でもやってたぜ。工事現場、家庭教師、高層ビルの窓磨き。2つ3つは平気で掛け持ってたな」
シェランはキッグスの話を聞きながら何も言えず、馬と話をしているジュードをただじっと見つめた。
何も高校で一番の成績でなければSLSに入学できないわけでは無い。だがSLSの他の訓練生のように、やれ政治家だの大会社の社長だなどという肩書きを持った親でもなく、裕福な家庭でもない人間が入学するのは難しいのだと彼は思っていたのだろう。
13歳から18歳といえば、普通なら一番遊びたい年頃だ。だがその全てを犠牲にしても、彼はSLSに入りたかった。一体何が彼をそこまで駆り立てたのだろう。自分を救ったウォルター・エダースの存在だろうか。父のように海で命を落とす人々を、一人でも救いたかったからだろうか。
キッグスはタバコの火を水桶の中に入れて消しながら最後の煙を吐いた。
「俺は一度、まだ夜の明けきらない真っ暗な厩舎の中で掃除をしているあいつに言った事がある。“こんな無茶な生活はいいとこもって2、3年だ。身体を壊す前にやめた方がいい。努力すればどんな夢も叶うなんて、それこそ夢なんだ”
あいつはきっと何度も同じセリフを他人から言われていただろう。そしてその度に笑いながらこう答えたんだ。
“そうだよ。今まさにオレは、夢の中で生きているんだ。オレはひとつひとつの夢を叶えながら生きている。それがどんなに素晴らしいことか、分かるかい?”
俺は思ったね。いや、誰もがみんな思っていただろう。こんなバカには誰も敵わない。きっとどんな幸運の女神も味方に付けちまうだろうってね」
シェランは泥にまみれた厩舎の中を、ゆっくりとジュードに向かって歩き始めた。
最終試験の選考の前にジュードの身上書を見た時はびっくりしたものだ。成績は学校で常に三位以内に入っている。運動能力も他の受験生に比べてずば抜けていた。おまけに合格後、3年分の授業料は全て前払いであった。もし途中でドロップアウトしたらどうするつもりなのだろう。
だが彼は退学するつもりなど、毛頭なかったのだ。運動も学力もお金も、全てSLSの為に用意したものなのだから・・・・。
あの身上書一枚ではジュードのその努力を知る由もなかった。父親の居ない彼が決して楽をして入学したわけでは無いと分かっていたが、キッグスの話を聞くまで彼の5年間を計り知る事は出来なかった。
ライフセーバーになる為に、どれだけの物を犠牲にしたのだろう。友人と遊ぶ時間も語りあう事もなかっただろう。普通の男の子達が青春時代に経験する全ても、彼には何の魅力も無かったのだ。たった一つの夢以外には・・・。
そしてとうとう彼はその怒涛のような5年間を乗り切ってやってきた。SLSに・・・この私の元に・・・・。
ライフセーバーという、小さくて大きな存在になる為に・・・・・・。
ジュードの過ごして来た人生を思うと、シェランは涙が溢れそうになった。だがそれは同情ではなく、感動に近いものがあっただろう。そして同時にシェランは、己の歩いてきた道を反省せざるを得なかった。
ジュードがライフセーバーになろうと決めた年頃には、シェランはすでにライフセーバーという免許以外は全てを持っていた。
父が世界的に有名なダイバー。母が高名な学者。恵まれた環境に加えて、生まれながらに持った才能で、シェランは努力というものを知らずに全てを手にしていた。
ライフセーバーになりたいと言えば、SLSはもろ手を上げて迎えてくれた。普通の訓練生が3年かけて卒業する課程も、たった1年で卒業。支部隊員がどんなに願っても入隊できない栄誉ある本部隊員に即配属。
それをシェランは恵まれているとか、自分だけは特別だとか何一つ思わなかった。ただ上から言われるままに1年間だけ訓練校で学んで本部に行った。それだけの才能があるから行かせたんだよと言われても、何も思わなかった。それがどれ程の妬みを生むかも考えずに・・・・。
そしてなぜ妬まれるのかも分からずに、どうしてこんなひどい仕打ちをされるのだろうといつも1人で泣いていたのだ。
― 違う・・・・ ―
ライフセーバーは皆、ジュードほどではなくても、血のにじむような努力を積み重ねてきたのだ。入学するだけでも大変な訓練校。3年間の厳しい訓練。長い支部隊員時代。それを乗り越えて本部隊員になった人々は、何も知らず当たり前のように自分達の間に割り込んできた少女など、認められるはずはなかったのだ。
どうして気付かなかったんだろう。せめて支部隊員として出発していたら、あんな取り返しの付かない後悔をする事は無かったのに・・・・・。
少し離れた場所でシェランがじっとこちらを見ているのに気付いて、ジュードが迎えにやって来た。
「汚いからびっくりしたろ?だけど牛舎よりマシなんだぜ。こいつら結構きれい好きだから、毎日掃除はしてるしね」
ジュードはシェランと共に、フェニックスの側にやって来た。
「こいつは昔、手の付けられない暴れん坊だったんだぜ。牧場主のキッグスも乗せないんだ。調教するのに凄く時間が掛かったけど、今じゃオレにだけは懐いてるんだよ」
シェランは優しい目でフェニックスを見つめながら、馬の頬の辺りをなでているジュードを見つめた。
「この馬はオスでしょう?」
「え?何で分かるんだ?」
「だって、ジュードは男の子に人気があるもの。卒業したアラミスとか1年のアンディとミシェルとか・・・」
「それって、褒め言葉?」
シェランは困ったように笑うジュードと笑い合いながら、心の中で新たな決意を結んだ。
もう同じ間違いはしない。私は教官として再出発したのだ。だから最後まで教官として生きよう。どんな事をしても、ジュードの夢を叶えよう。私の全てを懸けても、彼をライフセーバーにしてみせる。
ジュードがフェニックスを引いて厩舎を出ると、キッグスがシェラン用の真っ白な馬を連れて来た。
「ゴールドフロストだ。こいつは性格も優しいから初心者でも大丈夫だぜ。まっ、ここの馬の事は俺よりジュードの方が詳しい。あとはこいつに聞いてくれ」
邪魔しては悪いと思ったのか、キッグスはとっとと家の中へ入っていった。
ジュードはゴールドフロストにも久しぶりの挨拶をすると、2頭の馬を引いて、丁度馬が一頭ずつ入れるように木で枠を作ってある場所に馬を入れた。そして手に入りきらないような大きなブラシを持ってきて一つをシェランに渡すと、馬の毛の流れに合わせてフェニックスの身体にブラシをかけ始めた。
「馬に乗る前は必ずこうやってブラッシングをしてやるんだ。これは仲良くなりましょうって言うコミュニケーションなんだよ。馬はこうやって世話をしてくれる人をいい人だと思って友達だと認めるんだ」
シェランもジュードのする事を見ながら、馬の毛の流れに沿ってゴールドフロストにブラシをかけてやった。馬は時々くすぐったいのか、身体をぶるるっと振るわせるので、その度にシェランはびくっとして手を引っ込める。
ジュードが笑いながら「喜んでいるんだから大丈夫。もっと強くブラシをかけてやったほうが喜ぶよ」と言うので、ブラシを持つ手に力を込めた。
ブラシをかける度に馬の身体についた草の屑が舞ってくしゃみが出そうになるし、思ったより大きな馬の体すべてにブラシをかけるのは結構疲れる作業であった。
最後にジュードがフェニックスの顔に優しくブラシをかけながら「今日は宜しくな、フェニックス」と言ったので、シェランも同じように「今日は宜しくね、ゴールドフロスト」と彼女の顔を撫でながら言った。
それが終わると鞍をつける。まず馬の身体に傷がつかないよう、厚手の布を置いて鞍を載せるのだが、思ったより鞍は重くてびっくりした。こんな重いものをつけて、人間まで乗せて走るなんて馬は凄いと思った。
すべての準備が整うと、ジュートはシェランに馬の乗り方を教えてくれた。
「鐙の中に左足をかけて、左手で鞍の一番上を持つ。右手は鞍の後ろを持って。さあ、一気に上がってごらん」
言われた通り、一気に上がって馬に乗ったが、急に地面が遠くなってシェランは少し怖くなった。
「ジュード、凄く高いわ。それに右足が空中に浮いてて・・・・」
ジュードは笑いながらシェランの右足を鐙の中に入れて、手綱の持ち方を教えた。
「馬が歩くとかなり揺れるように思うけど、太ももに力を入れて少し腰を浮かせるようにして馬の歩くリズムに合わせるんだ。円形馬場で練習しよう」
円形馬場とはその名の通り、直径6メートルほどの馬場を円形に柵で囲ったもので、ジュードはゴールドフロストを柵の側で止めると、無口(馬の顔につけるベルト)に長い曳き手を掛け、自分はその端を持って円の中心に立った。
「シェラン、足のかかとでゴールドフロストの腹を軽く蹴るんだ」
「蹴るの?痛くないかしら」
「大丈夫。それがGOの合図だよ」
シェランがびくびくしながらかかとをお腹にぶつけると、ゴールドフロストは円形の柵に沿ってゆっくりと歩き始めた。暫く歩いた後、ジュードが少し強く馬の腹を蹴るように言うので「ゴールドフロスト、ごめんね」と言いながら蹴ると、今度は駆け足になった。
「ジュ、ジュード・・・早いわ。それに、す、凄く揺れて・・・・」
「大丈夫。下半身を常に保って、上半身は硬くならない様に。手綱はしっかりと持つんだ。もっと馬のリズムに乗って」
“馬のリズム”と言われても、シェランは落馬しないようにするのが精一杯だった。
「よし。大分慣れてきたみたいだから、外に出てみようか」
「外?」
シェランはびっくりして叫んだ。平らな馬場と違って、外には起伏や坂道が一杯ある。
「大丈夫。今日はそんなに遠出しないから」
「でも、ゴールドフロストが急に走り出したりしたら・・・」
「こいつは賢い馬だから、初心者を乗せてそんな事はしないよ。フェニックスなら別だけどね」
馬に乗って出た外の世界は、普通に歩くのとは全く違っていた。遠くまで風景が良く見える。自分一人の時より自然が近くに感じられた。
小高い丘を越えると、そこは広い平原になっていた。
「シェラン。少し馬を走らせてみるから、そこで見ていて。手綱はしっかり引いておくんだよ。ゴールドフロストがつられて走り出したら困るから」
「うん」
ジュードは「フェニックス、行くぞ!」と叫ぶと思い切り馬の腹を蹴った。まるで水を得た魚のように、こげ茶色の馬が泥を蹴散らし走っていく。手綱を器用に操りながらジュードが縦横無尽に馬を走らせる姿は、テレビでよく見る西部のカウボーイが巨大な牛の群れを追いかける様に良く似ていた。
ジュードが遠くからシェランに呼びかけた。
「どう?少しは勉強になった?」
「・・・え?」
実は彼の余りに見事な乗馬に見とれて、手綱さばきなど殆ど見ていなかったのだ。山と大地に囲まれた大自然の中で日差しを受けて輝く彼の顔は、マイアミに居るよりずっと生き生きとして見えた。そしてシェランは少し胸を高まらせながらボーっとなって見ていたのだ。
― いけない、いけない。今日は乗馬の勉強をしてるんだから・・・ ―
シェランは首を振ると、手綱を握り直した。
「よし。ゴールドフロスト、ジュードの所まで行くわよ」
シェランはさっき教わったように、少し強めに馬の腹を蹴った。ゴールドフロストはギャロップ(駆け足)で走り出す。ジュードはシェランとゴールドフロストの周りをぐるっと一周した後、横に並んで走り始めた。
この分なら少し遠出しても大丈夫だろう。途中レゼッタの作ってくれた弁当を小さな白い花々が乱れ咲く見晴らしのいい野原で食べた後、少し休憩してから北へ向かった。
パノラマに広がる大地は、列車から見たよりもずっと広く感じられた。荒涼とした野原もゆったりと雲が流れる暖かい午後の日差しの中では、不思議と寒々しさを感じなかった。
所々に低い草が生える堅い岩山をゆっくりと馬が登っていくと、その先に果てしなく続く蒼い大河と、その周りを彩る濃い緑の木々、青黒くそびえる玄武岩の岩壁が、まるで絵画を見ているようにシェランの目の前に広がった。
「すごい・・・・」
思わず言葉を失って前を見つめているシェランをにっこり笑って見た後、ジュードも久しぶりの故郷の風景に目をやった。
「この風景もオレゴンの中では、ほんのワンシーンでしかないんだ。大自然が作り出す誰も描く事の出来ない絵画を、ここではあちこちで味わう事が出来る。シェラン、東の方を見てごらん」
顔を上げると、はるか彼方に真っ白な万年雪を頂くマウントフッドの頂上がうっすらと浮かんで見えた。
その畏怖堂々とした姿を見て、ここに住む人々は何を思うのだろう。
「マウントフッドの雪解け水は火山灰のミネラルをたっぷり含んでいて、とてもうまいんだ。ふもとではその水を利用したチェリ-やアプリコットの栽培が盛んで、これも最高!その内食べよう」
「ふうん。フロリダの皮ごと食べられるブドウとどっちがおいしい?」
ジュードは手綱をさばいて馬を歩かせながらシェランを振り返った。
「あれは特別さ!」
初めて馬に乗ると、気付かない内に疲れているものなので、再びゆっくり馬を歩かせてキッグスの牧場まで戻ってきた。馬に乗った後は、そのまま厩舎に帰していい訳では無い。ちゃんと乗った後の世話もあるのだ。
ジュードは馬を再び一頭ずつ柵の中に入れて手綱を柵に結ぶと、ホースを引っ張ってきて二つのバケツの中に水を入れた。
「今はまだ暖かいから水でいいけど、冬は湯で洗ってやるんだ。それから蹄の中に入っている土も掘り出してやるんだよ。放っておくと病気の原因になる。その時に足に傷がないか見てやるんだ。馬にとって足は命と同じだからね」
シェランは一通り説明を受けた後、ゴールドフロストの身体を洗い始めた。泥が跳ねてかなり下の方は汚れている。馬は自分の身長より高いので、シェランも水浸しになってしまった。
爪の間に入っている泥を取り除くのが又一苦労であった。
馬も手馴れたもので、体の側で後ろ向きに立って太ももの下を叩いてやると、ちゃんと足を上げてくれる。しかしその後は、こちらが支えてやらなければならない。かがんだまま左腕に力を込めて支えながら、右手で蹄の間に金具を差し込んできれいに土をこそげ取ってやるのだ。
これはブラッシングより重労働であった。おまけに何処まで金具を差し込んでいいのか素人には分かりにくい。もし妙に傷付けたりしたら、そこからバイ菌が入ってたちまち足が腐ってしまう事もあると聞いて、シェランは非常に恐ろしかった。
すべてが終わる頃、シェランは精も根も使い果たしたような気持ちだった。テレビで馬に乗った人々が障害物を馬と共に優雅に乗り越えるシーンを何度も見た事があるが、それは表向きだけで彼等は裏で、泥まみれ水浸しになりながら馬の世話をしていたのだ。
― 私って本当に物知らずだったんだわ・・・ ―
今日一日で色々思い知らされたシェランだった。
ジュードの家に帰ってきたのはもう夕方近くで、レゼッタが夕食の支度をしているのか、家の周りにはいい匂いが漂っていた。ジュードとシェランが「ただいま」と言いながら家に入ると、レゼッタが「お帰りなさい」と言いつつ台所の奥から出てきた。
“ただいま”“お帰りなさい”そんな単純な掛け合いが出来るのも、シェランにとっては幸福だった。
夕食のテーブルを囲みながら、シェランは今日一日の出来事を、多少興奮気味にレゼッタに話した。自分が見て感じた事を彼女にも知って欲しかったのだ。勿論ジュードの昔話をキッグスから聞いた事は、本人の前なので伏せておいたが・・・・。
4,5日もすると、もともとの才能なのか、シェランはすっかり馬にも慣れ、ゴールドフロストとも仲良しになっていた。という事で今日は又レゼッタのお手製弁当を持って、少し険しい山間を抜け、コロンビア河のすぐ近くまで行ってみようという事になった。
朝、晩は冷えるので、防寒着を忘れないようにレゼッタに言われ、シェランはやっと気がついた。毎日楽しくてすっかり忘れていたが、8月ももう半ばを過ぎている。あと1週間と少ししかここには居られないのだ。
いつものように馬にブラッシングをしていると、キッグスが出てきて、今夜から馬に馬着を掛けてやってくれと言った。
「馬着って何?」
「馬の防寒着さ。競馬場の周りを馬が騎手に連れられて歩いている時、着ているのを見た事ない?大きなカバーを背中から掛けてる馬が時々居るだろ?」
そういえば見覚えがあった。グリーンや紺のカバーだが、あれは寒さを防ぐ為の物だったのか・・・。ジュードの話によると、コットンやナイロン製だけでなく、フリースやウォータープルーフまで様々な種類があるそうだ。
ブラッシングを済ませると、軽く馬場で歩いてから外に出た。秋口(この辺りではもう秋口である)の冷たい風が頬をなでる。周りの景色も少しずつ秋へと変化しているように思った。
ついこの間まで緑一色だった木々が、その緑の葉を黄色や赤に変化させていくのだ。マイアミと違ってここには四季がある。夏しか知らないシェランが生まれて初めて秋を経験できるのだ。
ここにいる間に秋だけでなく、冬も経験できればいいのに・・・・。
それは少々わがままな願いであったが、シェランは以前ジュードに雪の降る夜をプレゼントしてもらってから、ずっと本物の雪を見てみたかった。マウント・バッチェラーやマウント・フッドに行けば、今すぐにでも本物の雪に触れられるが、シェランが見たいのは万年雪ではなく、冬の夜、まるで生きているように空から舞い降りてくる生まれたての雪だった。
そして次の日の朝、誰の足跡もついていない降り積もった雪の上を、自分の足跡をつけて歩いてみたかった。まるで子供みたいな夢だったが、一度も雪の積もる朝を経験した事の無いシェランにとって、それは小さな憧れであった。
「シェラン、ここからは気をつけて。ボーっとしていると落馬するよ」
どうやらシェランが考え事をしている間に山間の道に差し掛かっていたらしい。賢いゴールドフロストは、上に乗っている初心者がボーっとしていても、ちゃんとフェニックスの後ろについて歩いてきたのだ。
「ごめん、ゴールドフロスト。せっかく乗せてもらっているのに、失礼だったわね」
シェランはゴールドフロストの首の辺りをなでると、下半身に力を入れた。ごつごつとした岩山を登った後は、少し傾斜のある下りだ。だが少しと言っても初心者が馬に乗ったまま下りるのは、高さもあって非常に恐怖感を覚えるものだった。
同時に下りると、上に居る馬が足を滑らせた時、下に居る馬まで巻き込まれる危険性があるので、先にジュードが下りてからシェランが降りる事になった。ジュードとフェニックスにとっては、これしきの傾斜は傾斜の内に入らないのだろう。軽々と岩から岩に乗り移って下りていった。
「シェラン、あんまり怖がっちゃ駄目だよ。馬にもそれが伝わる。彼女を信じて。ゴールドフロストならこれ位大丈夫だから」
ジュードが下から叫んでいるが、そっちの方は余り見たくなかった。
「も、もちろん信じているわよ。ゴールドフロスト。行きましょう」
シェランは強張った笑いを浮かべた後、ゴールドフロストの腹を蹴った。
馬はシェランの事をちゃんと気遣ってゆっくりと降りてくれたが、角度のある場所を下りると、馬の背中は随分と揺れるので、シェランはもうゴールドフロストの首にしがみついていたい気分だった。だがジュード教官の見ている前でそんな無様な姿は見せられない。
「頑張れ、シェラン。もう少しだ」
ジュードの声援を聞きながらシェランは歯を噛み締め、馬の揺れに身体をあわせるように努力した。上に乗っている人間が変な風に体重をかけると、馬は足を滑らせてしまうだろう。
やっとの思いで下に降りると、ジュードが「さすがシェラン。ただの初心者とは違うね」と言って右手を挙げたので、シェランは自慢げに微笑みながら彼の手の平を軽く叩いた。
それからはそんなに起伏のない道のりだった。殆ど人間が踏み入った事のないような林の中を抜けると、目の前がパァッと開けて、豊かな水とその水の奏でる音がシェランの耳に飛び込んできた。コロンビア河に到着したのである。
「この近くにはコロンビア河歴史街道と名づけられた道路があって、たいてい観光客はその道を車で走りながらこの辺りの全景を楽しむんだけど、こうして近くで見るのもいいだろ?これこそがこの州を潤し、発展させてきた源の河なんだ」
シェランはじっと河を見つめたまま近くまで歩いて行った。こんなにも川幅のある河を見た事はなかった。青く透き通る水が絶え間なく流れる様も・・・・。
広大で美しい大西洋の海をシェランはずっと愛していた。優しいリズムを刻みながら打ち寄せる波の音は、まるで母の心音を聞きながら眠る赤ん坊のように、いつもシェランを包み込んでくれた。
だが滔々と流れる大河の水流は、みなぎる力と生のエネルギーに満ち溢れていた。どんな辛い事があっても生き抜く為の活力を与えてくれるような気がした。
そこからさらに山間の道を抜け、上流へ向かった。上流と言っても彼等が居るのは、この巨大な河のまだ下流域でしかなかったが。
暫く行くとジュードは馬を木の幹に繋ぎとめ、シェランと2人で河から少し離れた所に聳え立つ、大きな木の陰に隠れた。
「河の両岸に沢山の木が寄せ集まっているだろう?あれはビーバーの巣だよ」
「ビーバーの巣?本物のビーバーがあそこに住んでるの?」
シェランは目を輝かせた。野生のビーバーを生で見られるという滅多にないチャンスに心が躍った。
「うん。オレゴンは別名ビーバーステイトって呼ばれているんだ。彼等は自分のテリトリーの河で木や泥を使ってダムを作る。巣は土と草を固めて作られてるんだけど、部屋への入り口は水中にあって部屋は水面より上に作られてるんだ。部屋の中の水面が高くなるとダムを調整して水位を変えたりできるんだよ。ほら、大きな巣の向こうに小さなダムがあるのが・・・・」
ジュードはシェランに説明しながら巣を指差したが、ふと言葉を止めた。なんだか様子が変だと思ったのだ。今は長雨の後で、河の水かさは増している。なのにビーバーのダムは水かさが低い時と同じ状態だったのだ。彼は木の陰から出ると、ビーバーの巣に近付いていった。
川岸から覗いてみたが、やはりおかしい。巣にはまるで生き物の気配がなった。
ジュードは心配そうに様子を見守っていたシェランの所に戻って来ると、デイバッグからロープを取り出し、自分の腰の辺りに巻き付け、もう片方を大木の幹に回してしっかりと留めた。
「ジュード、一体どうするの?」
シェランには彼のやろうとしている事が何となく分かっていた。
「向こう岸にある巣の様子も見てくる」
「駄目よ!」
シェランは思わずジュードの腕を掴んだ。
「雨で水かさが増しているのよ。河でのレスキュー作業の授業で習ったでしょ?川の水はひざを越すと、大の大人でも押し倒してしまうのよ。それに所々で急に深くなっているから川は海より危険な事があるって・・・・」
「大丈夫だよ。流れは大分元に戻ってるし、命綱も付けていくから。もしこけて流されたら引っ張ってくれ」
そう言いつつ、彼はさっさと川の中に入ってしまった。水はジュードの太ももの上くらいまである。秋口の川の水は既に冷たかった。
「もう、ジュードのバカ!知らないから!」
ぶつぶつ言いつつもシェランは木に結びつけたロープをしっかりと握り締めた。一方ジュードは足元に気をつけながら、ゆっくりと水を掻き分け、前に進む。徐々に近付くにつれ、向こう岸近くに作られたビーバーの巣の様子が分かってきた。
こちらの巣はさっきの巣よりひどかった。土や草で作った部屋を隠すためのカモフラージュは全て取り去られている。やっとの事で辿り着いて部屋を覗くと、手の平ほどの小さな骸が3つ、寒そうに身体を寄せ合いながら並んでいた。
ジュードは堪えきれなくなって「くそっ!」と呟くと、上着を脱いでその小さな3つの身体を包み込んだ。
ロープを手繰りながらジュードが戻ってくるのを、シェランはじっと見守った。彼は何を持って帰ってきたのだろう。ジュードが水から上がるとシェランは彼の元に走り寄って、大事そうに腕に抱えたものを見つめた。
「ジュード、それは?」
「見ない方がいい。ビーバーの赤ん坊だ。親が居なくなって餓死したんだろう」
「餓死って、この子達の親は?」
シェランの目が既に潤んでいたので、ジュードはとりあえず彼等の墓を作ってやる事にした。
川から少し離れた場所に穴を掘ると、上着ごと埋めてやった。少し土を盛ってその上に小枝で作ったクロスを立てた。
「ねえ、ジュード。この子達の親って、熊か何かに襲われたの?」
ジュードは少し答えにくそうに溜息をつくと、墓の上にそっと手を重ねた。
「いや、違う。あれは人間の仕業だ。この子達の親は人間に狩られたんだ」
「人間に・・・?って、ここは禁猟区でしょう?」
「密猟をやってる奴が居るんだ。くそっ、父さんが生きてた頃は、こんな事一度もなかったのに・・・・」
ジュードは口惜しそうに呟いた。
シェランにはなぜ、彼等の親が狩られなければならないのか分からなかった。ビーバーなど捕まえてどうするのだろう。土産物屋でキーホルダーにして売るのだろうか。そんなつまらない事の為に、彼等は親を失い、死んでしまったのだろうか・・・・。
それ以上、2人は何も語る事が出来ず、そのまま家まで戻ってきた。家のドアを開けると、レゼッタがいつものように彼等を出迎えに出てきた。
「あらあら、2人共どうしたの?今日はお弁当も食べなかったのね」
レゼッタの顔を見た途端、シェランは我慢が出来なくなって彼女に抱きついた。
「レゼッタママ!」
「シェラン?」
レゼッタはびっくりしてシェランを抱きしめた後、鈍く光る目を息子に向けた。
「ジュード、あんた・・・まさか・・・」
「なっ、何もしてない!オレは何もしてないぞ!」
ジュードは必死に首を振った。
「嘘おっしゃい、泣いてるじゃないの!女の子を泣かすなんて、あんたって子はぁぁぁ~」
この時、ジュードの周りはマウント・バッチェラーの雪嵐に包まれた。
とんだ濡れ衣を着せられたジュードだったが、何とかレゼッタに説明して分かってもらう事ができた。シェランはショックでお腹も減っていなかったが、せっかくレゼッタが弁当を作ってくれていたので、今日は家で彼女と共に食べる事にした。
「父さんが生きていた頃には、そんな事は一度もなかったのにねぇ」
レゼッタも残念そうに呟いた。
「母さん、オレ明日から少し留守にするよ。ちょっと気になるから山の様子を見てくる」
「ジュード?」
シェランはびっくりしてフォークをテーブルの上に置いた。
「少し留守って、まさか泊まりで行くの?」
「コロンビア河流域は広いからね。2、3日か・・・一週間くらいは掛かるかなぁ。昔、父さんともよく行ったんだよ。テントを担いで・・・」
シェランはムッとした顔でジュードを見た。どうせ駄目だと言っても行くに違いない。
「レゼッタママ、大丈夫ですわ。私が一緒に付いて行きますから」
「何言ってるんだ?密猟者が居て危険かも知れないんだぞ。オレ1人で・・・」
「危険だから私が付いて行くんじゃない。私はあなたの保護者なのよ」
シェランは決然とジュードに言うと、レゼッタの方を振り向いてにっこり笑った。
「ジュードの事は私が教官として責任を持って見守りますから、安心してくださいね、レゼッタママ」
どうせ来るなと言っても付いてくるんだろうなぁ・・・・。ジュードは顎を手の平の上に乗せて、諦めたように溜息を付いた。
次の日の朝早くから、ジュードとシェランは山に入る準備を始めた。
ジュードは自分の荷物をまとめた後、シェランにデイバッグの詰め方を教えた。
「服は全部小さく堅く丸めてバッグの内側に沿って並べるんだ。中身を護るクッションになる。化粧品は出来るだけ割れない物に小分けしてその内側に。懐中電灯とロープはいつでも取り出せるように外側のポケットに入れておく」
「食料は?」
「非常用に少し持っていくけど、今の時期は川に魚も一杯居るし、木の実もそろそろ実ってきているだろうから、何とかなるよ。そうそう、きのこスープなんかもうまいな」
― 木の実、きのこスープ、川魚・・・ ―
シェランにはどれも初めての食べ物であった。彼女の頭の中には早速、川魚を焼く時に使う塩と、きのこスープの味付けに使うブイヨンの用意が浮かんでいた。
全ての準備を済ませ、出て行く2人をレゼッタがいつものように見送ってくれた。
「行ってらっしゃい。シェラン、ジュードをお願いね」
「はい。レゼッタママ、行って来ます!」
レゼッタはシェランにジュードの事を頼みながら送り出したが、前日の夜、ジュードにはちゃんと至上命令を言い渡しておいた。
― ジュード、シェランを絶対無傷で連れて帰ってらっしゃい。無傷って意味、分かってるわね? ―
家の前で手を振っているレゼッタに手を振り返した後、ジュードは溜息混じりに「分かってるよ・・・」と呟いた。