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SLS  特殊海難救助隊  作者: 月城 響
54/113

第13部 消えた巡洋艦 【8】

― 今夜の内にかたを付ける ―



 タラトはアッサンにそう言ったが、3日目の朝を迎えても、まだこそこそと動いている何匹かのネズミが生き残っているようだ。



 昨夜、シー・ホークを奪おうとしたのか、1人の男がヘリの格納庫の前に居る見張りの2人を殺した。しかし格納庫のシャッターを開けるのを手間取っている内、別の兵に気付かれ、男は海に逃れた。


 上から散々マシンガンを打ち込んだらしいので、生きている可能性は低いだろう。よしんば生きていてもこの辺りに泳いで渡れる距離の島は無いし、再度侵入を試みても、甲板を見張っている兵に見つかり、蜂の巣にされるのがオチだ。



 さて、あと何人残っている・・・?



 タラトにとって、強い敵を追い詰める事ほど快感を感じる時は無い。だから彼は滅多にマシンガンや銃は使わなかった。敵がじわじわと死の恐怖を味わえるようにナイフでゆっくりといたぶり殺すのだ。タラトは腰や足に何本も吊り下げたナイフの中の1本を取り、銀色に光る両刃をぺろりと舐めた。






 敵の目を逃れながら、狭く入り組んだ薄暗い廊下をデニスは息を切らしながら走っていた。肩には銃弾を受け、血まみれになったダートンを担いでいた。ダートンがこんな風になってしまったのは、つい今しがただった。


 敵兵が1人になったのを確認して襲い掛かったのだが、それは罠だった。敵はこちらが1人になった人間を限定して襲っているのを知って、どこかへいった振りをし、天井からデニスとダートンが飛び降りた途端、物陰から銃を撃ってきたのだ。


 とっさにダートンがデニスを突き飛ばしたので彼は無傷で済んだが、その分ダートンが弾の的になってしまった。デニスは倒れこみながら銃を取り出し、周りにいた4人の敵を全て撃ち殺した。


 銃を使った以上、そのうち新手がやってくる。その前に何とかウェイを敵の目の届かない所に連れて行かなければ・・・。いや、まず止血だ。彼の血の跡で居場所が分かってしまう。


 デニスは自分の上着を一番血の出ている彼の足に巻きつけると、彼を担ぎ上げたのだった。やっと物置のような小さな部屋を見つけ、デニスはそこでダートンを下ろした。



「ウェイ!しっかりして下さい。ウェイ!」


 パートナーと認めてくれた彼の為にも足手まといにだけはなりたくなかったのに、何故彼は俺なんかを助けたんだろう。彼なら敵の気配に気付いた段階で逃れられたはずだ。


 デニスは止血した布の上に染み出してくる血を懸命に手で押さえた。早く・・・早くちゃんとした治療をしないと・・・。


 彼は着ていたブラウスも引き裂いてウェイの肩や腕に巻きつけた。それでも足りないので、ベルトをはずしてズボンを脱ぎ始めた。


「何を・・・やってるんだ、デニス・・・。ストリーキングか・・・?」

「ウェイ!」



 普段は冗談など一言も発しない男のくせに、こんな状態の時に言われても笑えるはずは無かった。


「少しここで待っていてください。医務室に行って止血剤を取ってきますから」

「馬鹿なことを言うな。敵は医務室や厨房でもろ手を広げて待っているぞ。もう行け。同じ所に留まるのは危険だ」

「あなたを置いては行けません」


 ダートンはいつもの無表情な顔で目を細めると、震える手で胸のホルダーから銃を取り出し、自分の頭に押し当てた。


「とっとと行け。自分の始末くらい・・・自分でつける・・・」

「私にそんな脅しは効きませんよ。引き金(トリガー)を引く力も無いくせに」



 デニスがダートンの手から銃を奪うと、彼の腕は力なく床に落ちた。だが彼の言っている事は正しい。こちらが負傷していて、しかも腹を空かせている事は奴等にだって分かっている。ダートンもデニスもこの3日間、殆ど何も口にしていなかった。


 デニスにも分かっていた。ウェイの言う通り、行くしかない。敵は生き残りがいることを知って追って来ているのだ。


 デニスは彼の胸のホルダーに銃を戻すと、そのままホルダーの上に両手を押し当て、うつむいた。


「行きます。必ず敵を全て打ち倒し、人質を救出します」


 デニスは立ち上がるとダートンに背中を向けた。二度と振り返ってはいけない。彼は俺の足手まといになると思って、舌を噛み切ってでも死んでしまうだろうから・・・・・。








 ヘレンが昼か夜かも分からない薄暗い部屋に閉じ込められてから何時間が経っただろうか。彼女は緑色の小さな電灯が照らし出す、薄暗い壁をじっと見ていた。へレンの右隣にはカルディーノが、左隣にはふてくされたような顔をしたままウォルフ・バトラーが眠っている。彼等の寝息が静かに響く中で、ヘレンは1人考えていた。



 よしんばここから出られたとしても、あれだけの敵を素手で倒すのは不可能だ。両側で寝ている男共は当てにならないし、独りで何処までやれるか・・・・。

 こんな時にルイスが居たら少しは戦況も変わっていただろうに、あのバカ者め・・・・・。


 ヘレンは追い詰められた時ほど、彼が楽しそうに口元を歪めていたのを思い出した。時々彼は死にたがっているのではないかと考える時があった。少佐のくせに部下以上に無茶をする時があった。



 ヘレンが全てを打ち消すように「フン!」と鼻を鳴らした時、天井で何かが音を立てているのに気付き、ハッとして上を見上げた。その音は指先で天井をつついているような音で、3回鳴ってはやみ、2回鳴ってはやみ、5回鳴っては・・・を繰り返している。同じ数字が2回繰り返された後、ヘレンはニヤッと笑って天井を見つめた。


「アレックか・・・」

「はい。ご無事で何よりです。大佐」




 シー・ホークの通信機に辿り着けず、敵に追われて海に飛び込んだ彼は、艦の下部にあった点検口を発見し、何とかそこをこじ開けて戻って来たのだ。何か他に通信できる者は無いかと探し回っている内、やっと仲間であり、強い味方であるシュレイダー大佐を見つけたのだ。だが下は暗がりの為、天井の隙間からではよく見えなかったので、自分の認識番号を指で叩いてみた。大佐ならすぐに気付いてくれるはずだ。



「アレック、他には?」

「目下の所、私だけです」


 ヘレンは聞かなくても分かっている質問をして溜息を付いた。他に誰か居るなら、一番格下のアレックが直接コンタクトを取るはずは無いからだ。アレックはとりあえず、自分の知りうる限りの情報をヘレンに報告し、指示を待った。


「アレック、何でもいい。武器を調達して来い。但し、無理はするな」

「Yes、Sir」


「私にも頼むよ」


 ヘレンの足元に寝転がっていたバトラーが頭だけを上に向けてニヤリと笑った。ヘレンはムッとした目で彼を見下ろしたが、希望の光が見えたことには代わりは無いし、アレックにとっては、やっと待ち望んだ命令を得る事が出来たのである。







 両肩に深手を負いながら、ダスティン・アラードはデニス等と同じく少人数の敵を倒しつつ艦の深層部まで来ていた。もとよりヴェラガルフは彼の家のようなものなので、敵よりはるかに分が在る。姿を隠す場所も全て頭の中に入っていた。


 しかし敵兵を殺し、辺りを窺いながら進んで行くディーを、まるで夜行生物のように天井に張り付いて、じっと上から見つめている男がいた。


 長い間、すべての方向を見失うような南米のジャングルで生き抜いてきたタラトは、どんな暗闇も入り組んだ迷路のような場所でも血の臭いを嗅ぎ付け、着実に敵を見つけることが出来るのだ。


 タラトは気配を殺して相手の様子を窺った。さっきゲリラ兵を殺した手際から見て、海軍の中でもかなり上位のものに違いない。何処に隠れていたか知らないが、出てきたのが運のつきだ。


 まるで蜘蛛が糸を伝って滑り降りてくるように、音も無く頭上から現れた敵に、ディーはとっさに身を翻した。左腕を敵のナイフがかすめ、じっとりとした痛みが伝わってくる。



― こいつ、殺気も無かった・・・・ ―



 ディーは手に持ったナイフを構えながら目の前に居る敵を見据えた。まるで獣のように身をかがめ、40センチ以上あるサバイバルナイフを持ち、闇のように暗い肌の中で、唯一ギラギラと光る目をした男・・・・。


 すべての気配を消していたタラトに対して、ディーはその危険を肌で感じ取っていた。そしてタラトもまた、己の一撃をかわしたディーの力を感じ取った。



― 極上の獲物だ・・・・ ―



 タラトはナイフに付いたディーの血をべろりと舐めると、床を蹴り飛びかかった。


「くっ!」


 のこぎりのような敵のナイフを手で持ったナイフで交わしたが、右わき腹をもう一本のナイフがかすめた。間髪を入れず又ナイフが襲い掛かってくる。



 ディーは何度も敵の攻撃をかわす内、廊下の壁に追い詰められた。顔のど真ん中に杭を打ち立てるように真っ直ぐ白刃が向かってくる。とっさに身をかがめる。タラトのナイフがディーの髪をかすめ、壁に突き刺さった。


 隙を突いてディーが下から蹴り上げる。壁に刺さったナイフを放してタラトが後ろへ飛び逃げた瞬間、ディーは立ち上がって走り出した。


 銃は使えない。敵の半分の長さしかない普通のナイフでは余りに分が悪い。だがタラトは、背中を向けたディーに向かって、太ももにつけた長さ15センチほどのナイフを3本、一気に投げつけた。


 3本のナイフは確実にディーの首、左胸、脊椎を目指していた。だがディーはそれらが自分の身体を貫く寸前、振り返って一気に3本とも叩き落した。


 一瞬、敵同士は眼を見開き、互いを見据えた。ディーが大きく深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。タラトの口元がニヤリと笑いながら歪むのを見た後、ディーは再び走り出した。心臓が逸っている筈なのに、身体中が冷たく感じた。それは生まれて初めて味わう恐怖だった。



― 何だ、あれは・・・。野獣けものか・・・・? ―









 人工島にある、そんなに広くない厨房は、保冷庫と3台のカセットコンロ、何処からか適当に持ってきたような余り衛生的ではない調理台だけで構成されていた。無論水道などは通っていないので、大きなポリタンクに入った水を少しずつくみ出して使うのだ。


 キャシーとアメリア、そして料理は不得手だがやる気だけは溢れているエバの3人は、この調理器具も揃っていない間に合わせの厨房で、艦に戻る事も許されず、料理を作っていない時はその片隅で休む事になっていた。



 それでもまだ彼女達は自分の事をましだと思えた。彼女達には料理を作る合間に適当に食事を取ることを許されていたが、人質の乗客達は水の一滴さえ与えられていなかったからだ。



「ジュード達、お腹すかせてるよね・・・・」


 深夜、厨房の片隅でひざを抱え込んだキャシーが呟いた。


「あいつら、揃いも揃って大食いだからねぇ。特にマックスなんて、今頃食べ物の事しか頭にないんじゃない?」


 エバとキャシーの会話に目が覚めたのか、アメリアも身体を起こした。


「心配してくれる友人が居るだけで、彼等は幸せかもしれないわよ」


 キャシーはこの上品な婦人と食事を作ったり話をしたりする間に、彼女の中にシェランと同じような強さと優しさを見出していた。あの恐ろしい男の元へ行ったきり、戻ってこないシェラン・・・。彼女や仲間の事で落ち込んでいるたび、アメリアは励ましてくれるのだ。


 こんな人がママだったら良かったのに・・・。キャシーはふと思った。


「アメリアさんこそ、ご心配でしょう?ご主人の事」

「そうね。もうどうしようもないのだとしたら、せめて死ぬ時は主人と一緒に死なせて欲しいわ」


 一瞬言葉を失ったキャシーとエバに、アメリアはハッとして2人の顔を見つめた。


「ごめんなさい。あなた達は生きる事を考えているのに、死ぬことなんか・・・。ごめんなさいね」


アメリアは涙を浮かべて、まるで自分の娘のように2人を抱きしめた。



 こんなに強い人でも、いつ訪れるかもしれない死の恐怖と戦っているのだ。キャシーは再びシェランの事を思った。もしアッサンという男に何かされたりしたら、あの純粋な人は死んでしまうかも知れない。



 どんなに願っても叶わない夢はある。キャシーの夢のように。そして叶わない夢になろうとしているショーンやジュードの夢のように・・・。


 この時初めてキャシーは死を意識した。


― もうどうしようもないのなら・・・・ ―


 キャシーはアメリアの言葉の続きを考えた。


 最後の最後のその時に、たった一つ願うこと・・・・。


 もし本当に、もうどうしようもないのなら、私はシェラン教官の側で仲間達と一緒に・・・死にたい・・・。









 ジュード達の居るホールに戻ることも許されず、キャシーやエバのいる厨房にも行かせてもらえないシェランは、ずっとアッサンの部屋で過ごさなければならなかった。とはいえ、彼はシェランに何かを要求するわけでもなく、触れるような事も無かったので、シェランには彼が何故自分をここに居させるのか理解できずにいた。


 勿論何度も厨房に戻らせて欲しいと頼んだが、アッサンは取り合ってもくれなかったのだ。


 一日目の夜は怖くて全く眠れなかった。二日目の夜も彼の部屋の片隅でじっとひざを抱え、机に向かったままのアッサンの背中を見ていた。


「お前のようなヒョロヒョロの女を襲ったりはしない」


 だから寝ろと言っているのだろうとシェランは思ったが、それでも気を許すことは出来なかった。


「あなたこそ寝れば?ここへ来てから一睡もしてないんじゃないの?」

「俺は必要な時に必要な時間だけ眠ることが出来る。立ったままでもな」


 それは凄い特技だ。では話しかけても返事が無い時は目を開けたまま眠っていたのだろうか。


「みんなの所へ帰らせて。生徒の事が心配なの」

「そんなにあのガキ共が大切か?」


 シェランは座ったまま首だけをこちらに向けたアッサンの顔をじっと見つめた。


「2年前の私には何も無かったわ。一生を捧げたはずの仕事も辞めざるを得なくなって・・・。でも私は宝石を拾ったの。それは15個もあって命のエネルギーに溢れ、世界中で一番輝いていた。あの子達はそのうちの4つよ。今の私にとっては・・・私の、全てなの」


「だから助けてくれ・・・か?」

「助けてとお願いしたら助けてくれるのかしら?」


 そんな問答など何の意味も無かった。シェランは再び背中だけをこちらに向けたアッサンに、ただ溜息を付くだけだった。




 三日目ともなると、たまらない眠気が襲ってきた。窓も無く携帯式のランタンが数個あるだけの部屋は、朝か夜かも分からず、何の変化も無かった。とにかく何かをしていないと眠ってしまう。シェランはラジオのニュースに耳を傾けているアッサンに向かって叫んだ。


「アッサン!」



 ニュースは丁度、巡洋艦を拉致した犯人から身代金の要求が入ったことを知らせていた。


『最初の要求はリーワード諸島のタハア島から発信していたことが分かりました。しかし捜索部隊がその島をすぐに探したにもかかわらず、犯人の足跡すら見つけることが出来なかったのです』


― 当然だ。海の中から発信していたのだからな ―


 アッサンはにんまり笑うと、次の要求を何処から発信しようかと考えた。サブマリン(潜水艇)で島の近くまで行き、そこから発信すれば、奴等は島の上から通信していたと思い込むだろう。奴等が必死に島を捜索している間に、こちらは海の中を自由に行き来できるのだ。


「アッサン!」


 後ろで自分を呼んでいるシェランの事などお構い無しに、彼は机の上に広げた海図(チャート)を指で辿った。問題は金の受け渡し場所だ。サブマリンは4隻しかない。8つの家族から同時に金を受け取るには・・・・。



「ミスター・アッサン・フィエドロ・メルガード・アドレ!」



 シェランにフルネームで呼ばれ、アッサンはやっと彼女の方を振り返った。女は薄汚れたソファーに座って両手両足を組みながら怒ったように見つめている。全く、人質のくせに態度のでかい女だ。


「今からこの部屋の掃除をします。部下にほうきと雑巾、それから水の入ったバケツを持って来るように言って」

「掃除?何の為にだ」

「汚いからに決まっているでしょう?このままずっとここに居たら病気になってしまうわ」


 何を言い出すのかと思ったら掃除だと?毒蛇やサソリがウヨウヨ居る密林のジャングルに点在する隠れ家に比べたら、ここなど天国ではないか。


「掃除など必要ない」

「あなたは良くても私は嫌なの。ここに居る以上は快適に過ごさせてもらう権利はあるはずよ」

「権利だと?」


 アッサンは立ち上がるとシェランの側へ行き、彼女の腕を掴んで立ち上がらせた。


「人質に権利など無い。お前の命もお前自身も、この俺の手の平の中にあるんだ」

「いいえ、違うわ、アッサン。私の命も私自身も私のもの。だってあなたに命は奪うことは出来ても心まで奪うことは出来ないでしょう?」



 シェランはすぐ鼻先にある黒く縁取られた彼の瞳を、きりっとした目で見つめ返した。どんな脅しにも決して負けるものか。生徒を守る為にも・・・。


「では聞こう。お前の心を支配しているものは何だ?ライフセーバーという仕事か?あの生徒達か?それとも・・・お前の隣に座っていた、あの若い男か・・・?」



 ジュードの事を言われ、シェランは今まで保っていた冷静さを一瞬忘れてしまったようにカーッと顔が赤くなるのを感じて目を逸らした。


「彼は・・・生徒よ。それ以外に何も無いわ」


 アッサンはまるでシェランの弱点を発見したかのようにニヤリと目を細めると、彼女のあごを片手で引き上げた。


「では何故そのジャケットを脱がない?この間キャビンに戻ったとき着替える時間くらいあっただろう?」



 シェランはなんと返答していいか分からないまま、彼を見つめていた。三日もまともに眠っていないせいで頭がぼうっとしている。だから妙な事をこの男に突っ込まれるのだ。ここで弱みを見せたらただ殺されるのを待つだけになるような気がした。私はライフセーバーであり、彼等の教官なのだ。助かる為の術を捨ててはならない。



「今私の心を支配しているのは、いかにしてここに居る人質全員を助けるかという事。それだけよ」

「じゃあ、そのジャケットは脱いでもいいんだな?」


 アッサンが上着のボタンに手を掛けたので、シェランはその手を振り払った。だが彼は掴んでいたシェランの腕を引き上げ、もう片方の手で彼女の身体をすくい上げた。


 ソファーに押し倒されるのを覚悟した時、ジュードの顔が浮かんだ。そして彼と共にAチームの生徒達が、輝くような笑顔でシェランに笑いかけていた。


『がんばれ、教官。負けるな・・・!』


 

 高鳴る心臓と乱れる息を押さえ込むように、シェランはゆっくりと低い声で自分の上からジャケットの襟を掴んでいる男に言った。


「私は・・・B型肝炎よ。・・・妙な事をしたらうつるから」


 エバが言ったのはC型肝炎だったが、こういう場合には効果的なはずだ。だがアッサンは首をかしげて訝しそうな顔をした。


「B型肝炎?何だ、それは」


 そういえば彼は戦う事しか知らない男だった。肝炎の事など何も知らないのだとしたら、このまま押し切れるかもしれない。


「知らないの?エイズより怖い病気よ。キ・・・キスしたってうつるんだからね!」


 勿論ウソだったが、シェランは必死に訴えた。


「ほう。エイズより怖いのは、エボラ出血熱だと思っていた・・・」


 彼は本当は分かっているのか、それとも分かっていないのか、まるでシェランをからかうようにニヤッと笑うと、彼女の腕を引いてソファーの上に半身を起こさせた。


「お前は掃除が得意なのか?」

「良く分からないけど・・・掃除は嫌いじゃないわ」

「じゃあ道具を持って来てやる。但し、他の人質に接触するのは許さん」


 シェランが頷くと彼は立ち上がり、黒いカーテンに手を掛けた。


「お袋は掃除なんてした事のない女だったが・・・銃の手入れは得意だったな・・・」


 アッサンが出て行った後、シェランは両手でジャケットの襟元を締め、ホッとしたように溜息を漏らした。


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