第13部 消えた巡洋艦 【6】
― 南米ベネズエラ共和国 -
世界有数の原油産出国であり、石油が輸出総額の7割を占めている国である。首都カラカスは石油のもたらした富で一気に近代化を遂げた。多くの高層ビルが立ち並び、地下鉄なども整備された新しいエネルギーの溢れる都市だ。
そのカラカスから美しいカリブ海を臨むホテルの最上階で、1人の男がゆったりとソファーに腰掛け、ガラスの向こう側に広がる紺と深いグリーンに輝く海をながめていた。
少し開いた窓から吹き込んでくる心地よい風に、彼の濡れたようにつややかな黒髪が揺れ、柔らかな日差しが精悍な顔を照らし出しても、彼の瞳は決して緩む事はなかった。
一年前、ある決意をした時から彼の人生は180度変わった。彼は何の不自由の無い生活も、有り余るようなガロッディ家の財産よりも、唯一つの信念だけを選んだ。
そしてその為にまず、自分を一番愛し、信頼するものを裏切った。その人物に見放された後は、もう何も迷う事は無かった。莫大な資金を手に、まず自分と同じ志を持つ、戦略に長けた人間を探した。何しろ相手は世界一の海軍を持つ国家である。その辺の海賊共では話にならない。
南米中を探し回ったあと、メキシコでアッサン・メルガードの噂を聞き、以前コロンビアで革命軍を匿った事があるという男のつてで彼を探し当てた。
アッサンは戦う事しか知らない野獣のような男だったが、決して下劣な男ではなかった。人を殺す事に快楽を覚えるタイプでもなく、かといって己のやって来た事に後悔もしていない。彼はただ生まれた時から戦う事だけを教わり、そしてそれを純粋に実行しているだけなのである。
― 世界最強の軍と戦ってみたくないか。資金は全て私が出す ―
その言葉で彼は机の下で私に向けていた銃を引いた。それと同時に周りを取り囲んでいた男達からも殺気が消えた。私は彼等のパトロンになったのである。
それからはアッサンや彼の腹心の部下であるタラトと共に、あらゆる戦略を考えた。既にターゲットは決まっている。彼等が最も信頼するもの。巨大な空母や駆逐艦を守る鋼鉄の守護神。それも最新の武器とあらゆる防衛システムを備えた合衆国の誇り。それを占領し、沈めるのだ。
「タイコンデロガ級のイージス巡洋艦は乗員数が360名も居る。出来るか、アッサン」
「綿密な作戦。後は時期さえ選べば、たいした武器は要らない」
アッサンは戦略に関して、決して大言壮語は吐かない。彼が出来ると言えば出来るのである。
「だが、ベースライン4(CG65からCG73まで)では、最新のCEC(Cooperative Engagement Capability:協同作戦能力)がついている。これを使われたらまずいな」
「CEC?」
「デジタル・データリング・システムによって得た各種情報を統合して最適な攻撃方法を選択する能力の事だ。例えばA艦が敵を捉えたとすると、敵の一番近くに居るB艦の武器システムを利用して攻撃、しかも発射されたミサイルの誘導は決して敵に邪魔されない位置に居るC艦が行なうのだ」
アッサンは結局の所よく分からなかったようで、目を細めながら首をかしげた。
「・・・で、結局何がまずいんだ?」
「つまりいくら艦を征服できても、居場所などすぐに分かってしまうという事だ。まさか人質の乗っている自国の艦をいきなり攻撃はしないだろうが、一瞬でまわりは駆逐艦に囲まれ、上空にはF-15が常に戦闘態勢で飛び交い、海からは支援潜水艦に乗って海軍ご自慢の特殊部隊がやって来る。
いいか?『少しでも近付いたら人質を1人ずつ殺していくぞ』なんて脅しはあいつ等には通用しない。例え人質を全員殺しても、お前達を殺しに来るぞ。世間にはこう言えばいいのだからな。『米国の誇る海軍特殊部隊が突入した所、人質は既に犯人グループによって全員殺されていた』とね」
アッサンは表情を変えないまま椅子の背にもたれかかると、キューバ産の葉巻に火を点け、フーッと天井に向かって煙を吐いた。この葉巻を吸うたびにいつも思う。こんなうまいものを吸えないなんて、アメリカ人は不幸だ。
「人質の種類にもよるな。優秀な海軍兵の諸君だけでは確かにそうなるだろう。だがその前にまずそのわけの分からんシステムを破壊すればいい。誰にも気付かれない内に外部への通信手段を全て奪えば、何処にも助けは呼べない」
「出来るのか?」
「だから人は、俺達をゲリラと呼ぶんだ」
ガロッディは満足げに微笑んだ。ターゲットの人質は今までにないような最高の人質になるはずだ。だがアッサンは表情を緩めることなく彼等の間に置かれた海図を見つめた。
「だが、いずれにせよ奴等はやって来る。泥沼の戦いになれば勝ち目は無いぞ。俺達は逃げ場の無い沖の孤島に幽閉された囚人と同じだ。いくら巡洋艦を征服しても、それでは奴等に勝った事にはならん」
海図を見つめるアッサンとガロッディの間に沈黙が流れた。すると今まで一度も口を開かなかったタラトが机の上に置かれた巡洋艦の図面を手に取り、それを裏に向けて置いた後、声にならない声で何かを呟いた。
その時までガロッディは、この無口な男が口を開いたのを見た事が無かったが、タラトは口を利かないのではなく、しゃべれなかったのだ。
彼はまだFARC時代、敵である政府軍に捕まって拷問を受けた。味方を全て逃がした後、彼がただ1人の捕虜になったので、政府軍の総指揮官であるウキパ・デロイヤ将軍は彼から反政府軍の潜伏場所を聞きだす為、あらゆる手段をとることに躊躇は無かった。
しかしタラトは食料も水も一切与えられず、爪を全てはがされ、死んだ方がマシだと思える拷問や懐柔策にも決してその口を開く事はなかった。怒りに燃えたデロイヤ将軍はまるでぼろきれのように力なく横たわる彼の襟首を掴んで顔をゆがめた。
「もういい。そんなにしゃべりたくないんなら、お前の喉を焼いて一生しゃべれなくしてやる。どうせここから生きては出られない。ここは死の砦だ。お前の仲間は決して助けに来ないぞ」
彼の言葉どおり、FARCは捕虜を救出するのを諦めていた。当時ウキパ・デロイヤの軍営はコロンビアで最大であり、何よりここを預るデロイヤ将軍の捕虜に対する扱いの残忍さは、同じ政府軍のものでも目を背けるほどで、捕らえられたら最後、決して生きては出られないと誰もが知っていた。
それゆえ、もはや死んだも同然の仲間を助ける為に多くの犠牲を払う事は、数では絶対的に劣っている革命軍に出来るはずは無かった。
だが、アッサンだけは諦めなかった。両親にも黙って彼は思いつく限りの武器を体に巻きつけると、単身デロイヤの陣営に乗り込んだ。1人で行ったおかげで反対に敵に気付かれる事なく、タラトが捕らえられている中央作戦司令部に辿り着いた。
しかし、やっとタラトの姿を見つけた時、彼はとうとう見張りに気付かれてしまったのだ。身体に12箇所も弾丸を受けながら、喉を焼かれ死にかけている友を背負い、アッサンは山中深く逃げ延びた。そして以前FARCが潜伏していたジャングルの隠れ家でタラトを治療し、己の身体から弾丸を取り出したのだった。
その時以来、タラトは常にアッサンの側に居て、彼を守り続けた。そしてタラトの言葉を理解できるのもアッサンだけなのである。
「隠す・・・?だがな、タラト。タイコンデロガ級は長さが173メートルはある。そんなでかい船が、すっぽり入れる洞窟のある島なんて無いぞ」
「いや、待て。アッサン・・・・」
ガロッディはじっとアッサンとタラトの顔を見た後、ニヤッと笑った。
「無ければ作ればいい。鋼鉄で骨組みを組んでドームを作り、上から土をかぶせて島を作るのだ。出来ればエンジンでも付けて動く島にしたいものだな」
最後の“動く島”というのはガロッディの冗談であったが、アッサンは本気に受け止めた。
金さえ出せばアメリカには大きなプロジェクトを引き受けられる会社はいくらでもあるが、計画が漏洩する恐れもあるので、中国で巨大なドームを手がけた事例のある会社に依頼した。エンジンについては島に直接付けて中で操作できるようにしたかったが、余りに経費がかかる為、小さな4つの潜水艇をつくり、それを島に付けて移動させる事にした。
このサブマリンエンジンと名づけられた潜水艇は、アメリカ軍の潜水艦などを手がける会社に依頼して作らせた。
そして一年後、我々の計画を実行に移す時がやって来た。そう。この日の為に、私はお前を裏切ったのだ。
ガロッディはにっこり微笑むと、手に持っている酒のグラスをテーブルにおいて立ち上がった。部屋の奥へと歩きながら、壁際に備え付けられた鏡に気付いて立ち止まると、じっくりと自分の顔を覗きこんだ。
「もうすぐお前は目覚めるのだよ。カルディーノ・・・・」
艦の配管やダクトの中で、いつまでも逃げ隠れしているわけには行かないダートン大尉とアスレー中尉は、二人一組になって1人で居る敵を倒す事にした。・・・と言っても、敵も注意深くなかなか独りになる事が無いので、非常に効率が悪かった。それでもたった2人しか居ない彼等が出来るのは、地道に敵の数を減らしていく事だけだったのだ。
「もう朝が来たというのに、たった5人か・・・」
倒した敵の遺体を道具箱の中に隠しながらウェイが呟いた。
「でも敵も我々を探しているはずです。人質に危険が及ばないように外側から攻めて行くしかないでしょう」
「だがその内、我々をおびき出すために人質を使うかも知れんな」
「もしそうなったらどうしますか?」
それはもし・・・という方法ではなかった。味方の数が減った事に気付けば、当然使う手段だ。
「その時は私が出て行くから、君は死んだフリでもしていろ」
「大尉?」
デニスは驚いたようにダートンを見た。つまり彼は自分だけが生き延びて反撃していると思わせるから、君は生き延びろと言っているのだ。
「その役目は私がやるのが妥当だと思いますが」
「なぜだ?」
「力のあるものが生き残るべきだからです」
「いや、それは違うぞ、デニス」
ダートンが初めて自分を名前で呼んだのに気がついて、デニスはハッとしたように彼を見た。ダートンは頭が岩のように固いせいか、誰に対しても親しげにファーストネームで呼ぶ事はなかった。彼がそうしているのは、いつも彼とパートナーを組んでいるマーティン・ミラー大尉だけだ。デニスの事も必ずアスレー中尉と呼称まで付けて呼んでいた。
「我々は今パートナーなんだ。パートナーの場合、こういう事は年上が引き受けるものだぞ」
ダートンは早口にしゃべり終えると、デニスに背を向けて天井の空気口の中へもぐりこんだ。
思い起こせばデニスはチーム4に入ってから、ダートンとコンビを組んだ事は一度もなかった。仲間とはいつも楽しくやっていたいデニスは、いつ会ってもしかめっ面でお堅いダートンの事を、余りいいようには思っていなかった。
だがダートンは今、彼をデニスと呼び、パートナーだと言った。そして例え自分が犠牲になってもお前は生き残って戦えと言ってくれた。彼はデニスをパートナーとして信頼してくれているのだ。
「待って下さい、ウェイ・・・・」
デニスは照れくさそうに呟くと、ダートンの後を追って空気口に飛び付いた。
自分達をいずれ殺すであろう、ゲリラの為の食事など作りたくは無かったが、もし作りたくないと言えば、すぐに殺されてしまうだろう。
シェランはアメリアやエバ、キャシーと協力して ―と言っても、やはりエバは皿を並べただけだったが― やっと指示されたように食事を作り終えた。沢山の具を煮込んだシチューの大なべや、大盛りに盛られたパンを指定された部屋に運んでおけば勝手に兵が食べると言うので、シェラン以外の3人が運ぶ事になった。
そしてシェランは別の皿により分けたアッサンの分を運ぶのである。心配そうに見守るキャシーに「大丈夫よ」と告げて、シェランが料理の乗った皿を大きなトレイの上に並べていると、エバがシェランの手を握り締めた。
「教官。もしあの男に押し倒されそうになったら『私はC型肝炎よ。妙な事をしたらうつるから』って叫ぶんですよ」
「う、うん。分かった。そうするわ」
シェランが兵の1人とアッサンの元へ向かった後、残った3人ももう一人の兵に連れられて別の部屋に向かった。
「ねえ、エバ。C型肝炎ってそんな事でうつるの?」
「いいえ、滅多にうつらないわ。でもエイズじゃ余りにもウソっぽいじゃない」
「そうね。ああ、心配だわ。あの色黒サル男。教官に何かしないかしら」
エバとキャシーの会話は、アメリアの心を和ませてくれるらしい。彼女はにっこり微笑んで彼女達を見た。
「大丈夫よ。あの方はとても強い人だわ。何かあっても、きっと乗り越えられると思うわ」
アッサンの食事を持ってシェランが到着したのは、この人工島の一番奥にある部屋だった。どの部屋にもドアは無く、黒いカーテンで仕切られているだけだったが、アッサンの部屋も他にたがわず、そうであった。
シェランを案内してきた男がスペイン語で部屋の中に呼びかけると、アッサンも同じ言葉で答えた。男はカーテンを開けるとシェランに入るように顎で指示した。
中に入ると、アッサンが薄汚れた机の前に座っていた。部屋と言っても、岩をくりぬいた洞窟のような部屋だ。小さなランタンが2個、彼の机の上と壁際にある棚の上に置いてあるだけで、部屋の中は薄暗かった。
机の上には通信機らしきものがあり、アッサンは誰かからの連絡を待っているのだろうか、シェランが入って来ても振り向きもしなかった。
部屋の外から兵がカーテンを勢い良く閉めたので、シェランはドキッとして振り返った。彼女は食事のトレイを置いたら、すぐキャシー達の所へ戻れると思っていたのだ。シェランはきゅっと唇を噛み締めた。
恐れてなんていられない。どんな事になっても、もう一度彼等と共にSLSに帰るのだ。
いつまで経ってもアッサンが顔を上げないので、シェランは彼の後ろにあるテーブルの上にトレイを置いた。
「食事よ。絶対おいしいから全部残さず食べなさいね」
シェランの声に彼はやっと気付いたように ―当然気付いていたのだろうが― 顔を上げると、彼女の方を振り返った。
「そこのサイドボードに水が入っている」
彼はそれ以上何も言わなかったが、水をくれという意味だろう。シェランはサイドボードの上に伏せてあるグラスを上に向けて置いてから扉を開けた。てっきり酒などが入っているのかと思ったが、中には水の入ったボトルが一杯に詰め込まれているだけで、他には何も無かった。
「水でいいの?お酒が欲しいのじゃなくて?」
「周りを敵に囲まれた状態で酒を飲む奴は居ない。それに水さえあれば、食料が無くても多少命を永らえる事が出来る」
アッサンは立ち上がると、テーブルの前にある、これも又薄汚れた籐の椅子に座って今運ばれてきた食事を見下ろした。
「毒は入ってないだろうな」
「失礼ね。私はライフセーバーよ、そんな事をする訳ないじゃない」
「命の救護者?なんだ、それは」
ライフセーバーとはなんだ、と尋ねられた事が今まで一度も無かったシェランは、思わず声を詰まらせた。
「ライフセーバーを、知らないの?」
「知らん。俺が知っているのは、いかにして戦うか、いかにして生き残るか・・・。あとはあらゆる武器の使い方くらいだな」
それではまるで戦争しか知らない人間のようだ。
「本当にそれだけ?」
「それ以外に何がいるんだ?」
シェランはがつがつと食事を取り始めたアッサンの側で、彼を立ったまま見つめた。この人は一体どんな人生を送って生きたのだろうか。そしてどうしてこんな事件を起こしたのだろう。
「他にも一杯いるものはあるわ。愛は?お父さんとお母さんはあなたを愛してくれなかった?」
「親父とお袋?」
彼はニヤッと笑うと懐かしそうに上を向いた。
「あの2人は親と言うより同士だ。もう随分前に俺の目の前で死んだが、なかなか立派な死に様だったぞ。2人共体中に嵐のように銃弾を受けながら、命耐えるその瞬間までマシンガンを撃ち続けた。特に親父は凄かったな。『くたばりやがれ!政府の犬共!』と叫びながら、最後の最後まで笑っていた。きっとあの2人は本望だっただろう。生きたいように生きたんだからな」
シェランは信じられないような顔で彼を見つめながら首を振った。この人は何を言っているんだろう。本当に本心を語っているのだろうか・・・・。
「目の前で自分の両親が撃ち殺されていくのを見て、あなたは何とも思わなかったの?悲しくはなかったの?」
「悲しい?それは同志を失うのは悲しかったが、いつかはそんな時が来るのも覚悟の上だ。それにFARCには親の居ない人間なんか山のように居たぞ」
「そんな問題じゃないわ。他の人の事を言ってるんじゃないの。あなたの両親なのよ。あなたを生んでくれた、世界中で一番あなたを愛してくれている人達が死んだのよ。なのにあなたは本望だったなんて・・・」
シェランは興奮の余り、涙がにじみ出てくるのをぐっと押さえた。こんな時にこんな場所でこんな男に何を言ったって無駄な事は分かっていたが、海の底で水圧に押しつぶされながら苦しみもがいて死んでいった両親の事を思うと、どうしても我慢が出来なかった。もしその姿を目の前で見ていたら、自分も同じように死んでしまったかも知れない。
「あなたはそうやって自分の心をごまかしているだけだわ。パパとママが死んで悲しくないなんて、そんなのウソよ!」
「分かったような事を言うな」
アッサンはその印象的な瞳でシェランを睨むと、彼女の腕を引っ張り自分の前に引き寄せた。シェランの大きく見開かれた目に涙が光っているのを知ると、彼はまるで人間では無いような冷たい指で彼女の目の下に触れた。
「女の涙は同情を誘う時に使うものだ。お前はそうやって、俺の両親に同情する振りをして命乞いをしているのか?」
「誰が、あなたなんかに・・・・」
シェランは自分が震えている事を気付かれないよう、彼の瞳を睨み返した。
「私が泣いているのは、あなたが余りにもかわいそうだからよ。愛する人を失っているのに、あなたは自分の気持ちにも気付かない。余りにも哀れで、可哀想な人だわ!」
アッサンはムッとしてシェランを床に突き飛ばした。
「キャッ」
小さく叫んで床に倒れこんだシェランを彼は立ち上がって見下ろしたが、ふとドレスの裾からはみ出した足の所々に、血がにじんでいるのに気が付いた。連れてこられる時、呪いの靴を投げ捨ててからずっとはだしで歩き回っていた為、足の裏のあちこちに傷を作っていたのだ。
「他に靴は持って来てないのか?」
「艦のキャビンに履いてきた靴があるけど・・・」
アッサンは背中を向けると靴を取りに行くように命じた。
「但し、10分以内に戻って来い。でなければあの3人の内、誰かが死ぬぞ」
「そんなつまらない事と人の命を秤にかけないで。10分で戻ってくればいいんでしょ」
ムッとしながらカーテンを引くと、アッサンが「おい」と言って呼び止めた。彼はシェランが運んできた食事の皿からソーセージを挟み込んだパンを掴むと、彼女に投げた。
「こんなものを食べながら行けって言うの?」
「腹が減ると途中でこけるぞ」
シェランはぷっと頬を膨らませると、パンを胸に抱きしめて走り出した。彼女を見張っていた兵も後ろを追ってくる。10分あればキャビンで着替えも出来るだろう。シェランはとにかくドレスを脱いで、動きやすい服に着替えたかった。
シェランと入れ違いに入ってきたのはコメルネ・タラトであった。
「ネズミは?」
“今日中に始末する”
タラトの声は声と言うより、喉をヒューヒューと鳴らすような音であった。
“珍しく話をしていた”
「何にでも反応するから面白かっただけだ」
アッサンは再び椅子に座るとタラトにもパンを投げ、食事の続きを始めた。
“あの女が気に入ったか?”
「気に入った・・・・?」
アッサンはもう冷めてしまったスープを一気に飲み干すと、ニヤッと笑って椅子の背にもたれかかった。
「ここに居るアメリカ人は、全員海の底に沈むのにか・・・・?」
キャビンの部屋に飛び込むように走りこんだシェランは、急いでドアを閉めた。息を切らしながら持っていたパンをテーブルの上に置くと、すぐに靴を履いた。少し足がズキズキと痛むのを感じたが、治療している暇は無かった。早く着替えをしなければならないからだ。
シェランはジュードが着せてくれたジャケットのボタンに手をかけたが、ふと思いとどまった。ジャケットから彼の匂いがしたように感じたからだ。
このジャケットをジュードが肩にかけてくれた時、彼はシェランの腕をぎゅっと強く握り締めた。その時シェランには彼の『頑張れ』と言う声が聞こえてきたような気がした。
― 俺も一杯乗り越えなければならない事がある。だから一緒に頑張ろう。初めて出会った、最終試験のあの日のように・・・・ ―
レクターが事故に遭った時、どうする事も出来ずに泣いた後、彼が言ってくれた言葉は、あれからずっとシェランの励みになっていた。彼女はまるでそのジャケットを抱きしめるように、ぎゅっと両腕を握り締めた。
「アフロディテ・・・・」
頭の上から届いた小さな声に、シェランはハッとして上を見上げた。天井にある空気口の蓋をはずして、そこからアレック・ハワードが顔を出している。
「まあ、アレック。無事だったのね!」
「シッ」
彼はドアの方に目をやると外に見張りが居る事を告げた。さっき後を追ってきた兵だろう。
「シェルリーヌ。今は怖いでしょうが、安心してください。この艦にはシー・ホークというヘリが2機乗っているんです。それを奪って必ず助けを呼んできますから」
「いいえ、それは駄目よ。アレック」
彼は気を失っていた為に、この艦が今、巨大なドーム状の島の中に居る事をまだ知らなかった。シェランは手短にその事をアレックに伝えた。
「私が見た所、この艦を取り囲んでいる島は人工島だわ。所々から鋼鉄の柱がむき出していたから、それで天井や壁を支えているんでしょう。さっき外へ出た時後ろを振り返ってみたけど、入り口も完全に塞がれていた。シー・ホークのミサイルで破壊すればヘルは脱出できるかも知れないけど、天井がもし崩れたら、この艦も無事ではすまないと思うの」
いい方法だと思ったのに、それではここから脱出する方法は無い。アレックは今独りだけだ。天井を移動しながら様子を探ったが武装した兵を何人も見かけた。とてもではないが、たった一人で彼等を相手に戦って勝てる見込みは無いのだ。
「ねえ、アレック。ヘリで脱出は出来ないけど、他の使い方はあるんじゃないかしら」
落ち込んだように溜息を付いたアレックに、シェランは笑いかけた。
「彼等はまず最初に、私達全員の通信手段を奪ったの。多分ここから外部に連絡を付ける方法はもう無いと思うわ。でももしヘリが無事なら・・・・」
アレックは微笑むとシェランに向かって敬礼した。
「やっぱりあなたはアフロディテだ。必ずヘリの通信機に辿り着いて、援軍を呼びます」
「私がアフロディテなら、あなたはアレキサンダー大王ね。頑張って!」
シェランはテーブルの上に置いたパンを、アレックに向けて放り上げた。
(アレキサンダー大王:マケドニアの王、アレクサンドロス3世の英名。紀元前334年、一万八千のギリシャ軍で四万のペルシャ軍を打ち破った)
乗客達が囚われの身になってから2日目を迎えた。昨日シェランら4人の女性達が食事を作る為に呼び出された時、もしかしたら自分達にも食事が与えられるのではないかと期待した乗客もいたが、それはただ空しいだけであった。
彼等は食事どころか水も与えられず、死を待つだけの為に生かされていたのだ。既に空腹と喉の渇きは限界を超えていたが、彼等はただじっと押し黙って助けを待っていた。
巨大な巡洋艦がシージャックされたのだ。海軍が気付かないはずは無い。必ずいつか助けが来る。人々はその思いだけで、飢えも喉の渇きも凌いでいたのだ。
だがその日の昼になっても夜になっても、一向に助けがくる気配は無かった。まるで自分達の事など世界は忘れてしまったかのように、ただ時間だけが過ぎていった。
そんな状況は人々の身体だけでなく、精神にもかなりの影響を及ぼした。年をとった婦人の中には気分を悪くして倒れるものも居て、ジュードやマックス達は会場を任されているIN-1に頼んで、グループの中だけ様子を見に行く許可を得たのだった。
ジュードが辛そうな老婦人の背をさすりながら声をかけていると、突然隣のグループから女性の叫び声が起こり、皆は驚いて顔を上げた。兵が3人がかりで乗客の中の1人を押さえつけ、殴る蹴るの暴行を加えている。良く見ると倒れているのはウォルフであった。
彼は縛られた両手で頭をかばっていたが、その内意識を失ってしまったらしい。兵達にグループの中から引きずり出された時にはぐったりとしていた。
いくらアメリカ軍が憎いのか知らないが、無抵抗の人間にそこまでしなくてもと乗客は思ったが、兵達が口々にウォルフを罵倒している言葉を聞いていると、どうやら彼が怪しい動きをしていたらしい事が分かった。
ウォルフは逃げるチャンスを窺っている内、彼等の後ろの壁際に並べられた白いクロスが掛かったテーブルの下に、ナイフが一本落ちているのに気がついた。食事用のナイフでも時間さえかければロープを切るくらいは出来る。
ウォルフは見張りの兵が交代する時、人質から目が離れるのを見計らって、少しずつ後ろに下がって行った。しかしやっとそのナイフに手が届いたその時、1人の兵に見つかり、このような事態になったのである。
ウォルフは前に縛られていた手を後ろに縛り直され、体にも足にもロープをぐるぐるに巻きつけられた。しかもこのホールを任されているIN-1がヘレンの居るグループを見張っている3人の兵に命じて、彼女までグループの外へ引きずり出し、ウォルフと同じように戒めを与えると、彼等2人を別の個室に閉じ込めておくように命じた。
「冗談じゃない、断固拒否するぞ!大体こんな(敵に逃げる所を見つかるような)あほと一緒の所に居たら、あほがうつるではないか!」
ヘレンは最後の抵抗を試みたが、兵達は無言で彼女と気絶しているウォルフをホールから連れ出していった。
一体何の部屋か分からないほど、暗く狭い部屋に彼等は放り込まれた。部屋の天井には、ほの暗い緑色の電灯がポツンと灯っているだけだった。明るい場所からやって来たヘレンには中の様子はよく分からなかったが、自分のすぐ隣に気を失って倒れているウォルフの殴られて腫れ上がった顔だけは良く分かった。
その歪んだ顔を見ながらヘレンは歯をギリギリと噛み締め、彼より更に顔を歪めた。
このあほのせいで、すべての計画はおじゃんだ。会場に居なければ、人質の様子も分からないではないか。
ヘレンは「どうしてくれるんだ。このあほ、あほ、あほ!」と叫びながら、ウォルフの顔を靴で踏みつけてやりたかった。
「ヘレン・・・・シュレイダー大佐?」
自分とウォルフ以外誰も居ないと思っていた部屋の奥から男の声がしたので、ヘレンは驚いて、歪んだ顔のままその方向を振り返った。やっと少し暗さに慣れてきた目でヘレンが見たのは、人質と同じように両手を縛られたカルディーノの姿であった。
「ああ、よかった。ずっと1人でこの薄暗い部屋に閉じ込められていて、気がめいっていたのです」
「良かった・・・だと?貴様・・・・!」
ヘレンは縛られた両足に力をこめると、カルディーノの側ににじり寄った。
「一体誰のせいでこうなったと思っとるんだ!アッサン・メルガードみたいな危険分子と手を組みおって。許さん!私の部下の敵は絶対にとってやるからな!」
「ちょっ、ちょっと待ってください。それは私ではありません。私はずっとここに閉じ込められていたのです」
「何を言っとるんだ。あれはお前ではないか」
そうは言いつつも、ヘレンはふと妙な事に気がついた。確かおととい現れたカルディーノは、派手な金色の縁飾りのついたブラウスに紺のスーツを着ていた。だが目の前に居るカルディーノはパーティ会場から連れ出された時と同じ黒のスーツを着ている。胸についたきらびやかなブローチにも見覚えがあった。
別の服に着替えた人間がわざわざ又同じ服に着替えて、更に人質ぶってこんな所に閉じ込められるだろうか?もう正体はばれているのに・・・・。
「カルディス・エネルカナ・ガロッディ・シス・・・。双子の弟だろう?」
ヘレンの叫び声でやっと目が覚めたのか、ウォルフが倒れたまま呟いた。
「双子だと?」
カルディーノは言いにくそうにうつむくと「はい」と答えた。
「その双子の弟が何故こんな事件を起こしたんだ?」
「分かりません。彼とはもう1年以上会っていないので・・・」
「会っていないとはどういう事だ」
「話さなければいけませんか?」
「当たり前だ!」
カルディーノは仕方なくカルディスが家を出るきっかけになった事件を話し始めた。
1年前、カルディーノはイリーナ・ニールセンというアメリカ人女性と婚約をしていた。彼女はアメリカ以外に南米や中東の各地に石油コンビナートを持つ商社の社長令嬢だったので、ベネズエラの石油王と呼ばれるカルディーノにふさわしい相手だっただろう。
しかし弟のカルディスは大反対であった。
ベネズエラのみならず、南米の国々は現在反米の色を濃くしている。元々スペインやポルトガルに支配されていた南アメリカは独立したものの、今度はアメリカからの圧力を受ける事になった。
ベネズエラはその支配を逃れようとする国々の先頭に立って『アメリカからの自立』を訴え続けているのだ。
しかもベネズエラは世界代4位の産油国で、アメリカにとって最大の石油輸入国である。その優位な立場にあるベネズエラ大統領の歯に衣を着せない侠骨な発言や行動に、かの強大な国が眉をひそめないはずは無く、2002年から2003年にかけ2度起きた反政府派によるクーデターやリコール請求は、影でアメリカが反政府派を指示していると言う事実は否めなかった。
つまりアメリカは常にベネズエラに目を光らせているのである。そんなベネズエラにとって現在最大最強の敵である(勿論表立ってではない)アメリカの女性をガロッディ家に迎えるなど、親政府派である弟のカルディスには考えられない事であった。
しかし、兄のカルディーノの意思は固かった。再三にわたるカルディスや親戚の意見に耳を貸さず、イリーナをこちらの生活に慣れさせるという名目で、アメリカから呼び寄せてしまった。そうまでされると、もう誰もカルディーノに意見をする事はなくなり、あれほど結婚に反対していたカルディスも笑顔で彼女を迎えたのだった。
しかし結婚式の2週間前、事件は起きた。カルディスが自分は兄ではなく弟のカルディスだと名乗った上で、イリーナに乱暴しようとしたのだ。イリーナの叫び声で家の者が駆けつけ、正にベッドの上で彼女に襲い掛かろうとしているカルディスを取り押さえた。
イリーナは怒りの余り興奮してカルディスを口汚くののしり、手の付けられない状態であったが、当のカルディスは涼しい顔をして全く反省の色も無く笑っていた。そんな2人の様子を見て、当主のカルディーノは決断せざるを得なかった。彼は弟に金を与え、ガロッディ家から追放したのだった。
「何故、弟があんな事をしたのか分かりません。彼は小さい頃から頭も良く、事業の上でも私を良く補佐してくれました。どんなに実力があっても、いつでも当主の私を立て、決して自分は表に出ず、陰でずっと支え続けてくれたのです。彼を勘当するのは、それこそ身体の半分を引き千切られるような思いでした」
「それで、そのアメリカ人女性とは結婚したのか?」
カルディーノは暗い表情でうつむき首を横に振った。
「弟が出て行った後、私はとても落ち込んでしまって、だんだん彼女に対して気を遣う事が出来なくなっていたのでしょう。彼女は弟が出て行ったのを、私が彼女のせいにしていると言ってアメリカに戻りました」
ヘレンは大きく溜息をついてカルディーノから離れ、近くの壁にもたれかかった。結局、弟の思惑通りになったか・・・・。
「で、その弟にいくら渡したんだ?」
「は?」
「勘当する時、金を渡したんだろ?あんたの事だ。一生暮らしていけるくらいは渡したと思うが・・・」
カルディーノは考え込むように首をかしげた。
「どのくらいと言われても・・・・」
「まさか、計算できないほど渡したとか言うんじゃないだろうな」
ヘレンにギロッと睨まれ、カルディーノはうろたえながら答えた。
「か、彼にはガロッディ家の半分を継ぐ権利がありますから・・・。そうですね。このカリブ海の島が5、60個は買える位でしょうか」
「何だと!?」
倒れているウォルフまでがヘレンと一緒になって声を上げた。カリブ海の島が5、60個とは一体いくらなんだ?航空母艦が10隻は作れるほどか?
(空母を1隻作るのに40億ドルかかる)
ヘレンには何故この事件が起こる事になったのか、だんだん分かってきた。つまりその賢い弟はすべてを計算していたのだ。
ガロッディ家の当主はカルディーノであり、いくら兄の信頼厚い弟でも自由に動かせる金は限られている。彼は自分がこの家を出て行く事になれば、このお優しい兄上がそれだけの金を用意してくれると分かっていたのだ。ついでに気に食わないアメリカ女も追い出してやりたかった。
しかし何故だ?今まで兄の影に徹して彼を支えてきた男が、何故急に態度を変えたのだ?
ヘレンは弟の暴挙に訳も分からず、うなだれているカルディーノを見た。カルディスは何故愛する兄を裏切ったのだろう。それとも兄を支え続けてきたのは、全てこの日の為の演技だったのだろうか・・・。
そう思った時、ヘレンはふとある男を思い出した。どんなに憎もうと思っても、憎みきれない男・・・。
そうだ。今のカルディーノの姿は私の姿と同じでは無いのか?最も信頼するものに裏切られ、その理由すら知りえない自分にただ葛藤する。それがどれほど愚かだと分かっていても、カルディーノは弟を愛し、私は未だに彼が、自分を裏切ったのだと信じたくはないのだ。
ルイスがずっと仲間を心の底で裏切りながら生きて来たとは、とても思えない。いつしか彼の心が変わったのだとしても、我々はずっと命を預け合い、共に戦ってきたのだ。
カルディスもきっとそうに違いない。ほんの少し兄より遅く生まれてきただけで、兄の影に回らなければならなかった境遇を、決して疎んじてはいなかったはずだ。でなければカルディーノの事業がここまで大成するはずは無かった。
― 何故なんだ?どうして彼等は自分にとって、最も大切なものを裏切ったのだ? ―