第10部 漂流者 【2】
ジュードのおかげですっかり元気を取り戻したシェランは、もう両親の死んだ場所に行く事に迷いは無かった。
「明日ジュードと一緒に、パパとママが眠る海に花を供えてあげるね」
シェランは両親の写真に口づけすると、狭い寝台にもぐりこんで目を閉じた。
上半身が裸だった事に気付いた時のジュードのびっくりした顔を思い出したシェランは、又くすっと笑った。
彼と共に居ると、辛かった事や悲しかった事を全て忘れて笑い合えるような気がした。シェランと同じように愛する人を失った彼は、自分に精一杯のぬくもりを与えてくれるように思った。
「クリスマスのプレゼント。素敵だったな・・・」
生まれて初めて見る真っ白な雪が降り注ぐ中、彼は約束通り戻って来てくれた。
― メリー・クリスマス、シェラン。これはチームのみんなからのプレゼント。気に入った? ―
勿論気に入ったわ。ジュードのプレゼントも嬉しかった。カサブランカが好きだって言ったのを覚えていてくれて・・・・。
本当に最高のクリスマスだった・・・筈なのよね。最後の最後に雪で足を滑らせて、昼間の疲れもあって足がもつれて、もう少しで物凄い音を立てて地面に激突する所だったなんて。運動神経の良い彼が受け止めてくれなかったら・・・。
「そういえば・・・・」
シェランはうとうとと眠りに落ちていく頭を無理やり働かせて考えた。
― あの時ジュードはどうして私を抱きしめたんだろう・・・ ―
その答えが出ないまま、シェランは気持ちのいい寝息をかき始めた。
深夜、白い月の光が小さな丸い船窓から差し込み、ジュードの眠っているキャビンをうっすらと照らし始めた。
彼の部屋は上下2段からなる寝台と小さな洗面台、壁に埋め込まれたクローゼット以外は他に何も無い部屋であったが、このクラスの船のキャビンならこんなものであろう。ジュードは下の寝台で布団を頭からかぶって眠っていた。
音も無くキャビンのドアが開くと、二つの影が静かに忍び込んできた。背の低い小さな影とのっぽの影。それらはゆっくりとジュードの眠っている寝台に近付いてきて、息を潜めながら頷き合った。
「2人かい?モーガンは居ないんだな」
突然寝台の上から響いてきた声に、男達はびくっと肩を震わせて上を見た。吊り下げ型のトーチ(懐中電灯)を持ったジュードがベッドの端に座って彼等を見下ろしていた。
「アニイ、こいつ起きてるぜ」
背の低い男はその細長い腕でジュードが眠ったように細工してある下の寝台の布団をめくり上げると、隣に居る背のひょろ高い男を見つめた。
「兄貴は2人とも寝てるって言ってたけどな」
「兄貴ってモーガン・ロイドの事?君達は一体何者なんだ?」
「引き摺り下ろせ!」
背の高い男が叫ぶと、彼等はジュードの居る上の寝台に両側からよじ登ってきた。男達がすぐ側まで手を伸ばして来ると、ジュードはトーチをその場に置いて寝台から飛び降り叫んだ。
「シェラン!起きろ!」
ジュードの声にハッと目を覚ましたシェランが最初に見たのは、ニヤッと笑いながら冷たく光るナイフを彼女の喉元に突きつけているモーガンだった。
「寝込みを襲って悪かったなぁ、親切なお嬢さん」
ジュードはすぐにドアを出てシェランのキャビンに向かった。後ろからさっきの2人組みが「待て!」と叫び声を上げながら追ってくる。
「誰が待つか」
シェランの部屋に走り込むようにドアを開けたジュードだが、すぐに首を振りながら諦めたように両手を挙げた。モーガンに後ろから羽交い絞めにされたシェランが、首にナイフを付きつけられて立っていたのだった。
ジュードとシェランは両手を後ろ手に縛られ、まるで投げ捨てられるようにブリッジの端に座らされた。
さっき2人組みに摑まる時、両手を上げているにも関わらず、彼等はジュードを殴りつけてから縛り上げた。ジュードの赤く染まった頬を見て、シェランは自分自身を殴ってやりたいほど悔しく赦せなかった。
ジュードの言う事をちゃんと聞いていれば、こんな事にならなかったはずだ。おまけに自分があっさり人質になってしまった為に、本当に彼は手も足も出せなかった。
例えどんな事になっても彼だけは助けなければ・・・。
シェランはニヤニヤと笑いながら自分達を見下ろしている3人の男を見上げた。
「一体何なの、あなた達。何の目的で私達を襲ったの?」
モーガン・ロイド。 ―今となってはそれが本名かどうかさえ分からないが― は彼等の前でオートパイロットを解除し、別の目的地を入力した。
「お嬢さん。あんたは気付いてなかったろうが、俺達はマイアミの港であんたがこの船を用意している時から目をつけていたんだ。この船は相当値の張る船だし、あんた自身も金持ちのお嬢さんにしか見えないしな。そして昨日、あんたとこのガキを見た時、俺はピーンと来たね。これは金持ちのお嬢が年下の恋人を連れてアバンチュールを楽しもうって寸法だなってさ」
― 何がアバンチュールだ。喪服を着てそんな事するか! ―
そのバカバカしい発言と、さっきモーガンの手下どもに殴られた頬と顎が痛いのとで、ジュードはムカムカしてきた。
「船は売っぱらう。あんたの親からは身代金をがっぽり貰う。最高の新年が迎えられるぜ!」
モーガンの言葉に2人の手下は歓喜の声を上げた。
どうやら彼等は、いわゆる海賊というものらしい。時々こうした被害に遭う小型の船舶があると噂で聞いた事があったが、まさかそれに自分が遭遇するとは・・・。しかもたった3人のこんな小さな海賊団に。
小さな、と言っても彼等の腰には銃が入っているし、モーガンの側にはライフルも立てかけてある。さっき逃げた時、よく撃たれなかったものだとジュードは思った。
「親はもうとっくに死んだわ。残念だったわね」
墓参りを邪魔されたシェランはムッとして言った。
「ほう、じゃあんたを売っぱらおう。金髪の白人女はアジア辺りじゃ高値で売れる。おまけにあんたとびっきりの上玉だ。売るのはもったいないが、これも仕事だからな。男の方は・・・」
モーガンはシェランの隣に座っているジュードの顔を値踏みするようにジロジロと見た。
「残念だな。もう少し若けりゃ何とかなったが・・・。黒髪とスパニッシュな顔立ちは白人の変態親父にうけるんだが、ちょっと筋肉が付き過ぎてる。これじゃあ売るのも無理だし、ビデオも駄目だな」
ジュードは全身の毛が一瞬で逆立ったような気がして身体を震わせた。
「冗談じゃない!ポルノビデオや売春するくらいなら、大西洋に沈んで魚の餌になったほうがマシだ!」
「良く言った。さすが男の子だ。それじゃあ望みを叶えてやろう」
ジュードの言葉に赤くなってうつむいていたシェランだったが、2人の部下が立ち上がったのを見て、彼の前に身を乗り出した。
「ちょっと、ジュードに指一本でも触れてごらんなさい。ただじゃ済まないから!」
ジュードはびっくりしてシェランの背中を見つめた。大体そのセリフは男が言う言葉だろう。
ジュードは止めようとしたが、頭に血が上っているシェランは、自分を見下ろしている海賊に向かってまくし立てた。
「いい?ジュードはね。全米一のスペシャルライフセーバーチームのリーダーになる予定の男なんだから。彼に手を出したら絶対に許さないからね!」
一瞬、ジュードはシェランの言葉を冗談だろうと思ったが、彼女がチームの事で(ましてやこの状況で)嘘を言うはずは無かった。もしかしてこれがウェイブ・ボートでキャシーが言っていたシェランの夢なのか・・?
彼女の夢はずっと気にはなっていたが、まさかこんな形で知る事になろうとは思ってもみなかった。
今自分の命が危険というより、別のプレッシャーが肩の上にのしかかってくるジュードだった。
怒りに満ちた目で見られるのは慣れているモーガンであったが、こんな状況で「絶対に許さない」と言った女は初めてだった。
「その男を殺したら、どう許さないと言うんだ?」
「はあ?そんなの決まっているじゃない。私も彼と一緒に死ぬの。そうしたら、あなた達にはこの船を売った代金しか入ってこないわよ。どんなにいいボートだってどうせ中古なんだから、たいしたお金にはならないわ。それに比べて私は高いわよ。身体も丈夫だしね。どうするの?彼とセットじゃなきゃ売られてあげないわよ」
ジュードは溜息をつきながら、彼等の会話に割り込んだ。
「シェラン。自分で自分を売り込まないでくれ」
「ジュードは黙ってて」
シェランは教官らしく、ぴしゃりと彼の言葉を止めると再びモーガンを見上げた。
「モーガン。私はね、どんな仕事でもやる時はきっちりやり遂げるわ。でも彼が生きていなきゃ駄目。ジュードがこの世界のどこかでライフセーバーとして生きていなきゃ駄目なのよ」
どんな仕事をどうやり遂げるのか想像したくも無かったが、シェランの本気にジュードは何も言えずに黙っていた。モーガンはじっとシェランの顔を見た後、殺すのはいつでもできると判断したのだろうか、ジュードとシェランを別々の部屋に閉じ込めるよう部下に命じた。
「ラッド、お前はそいつを食物庫に連れて行け」
背の高い男がシェランを連れて行きながらもう1人の男に言った。
「え?食物庫?嫌だ、あんな暗くて狭い所!せめて前に居たキャビンにしてくれ」
ジュードが思わず叫んだが、ラッドと呼ばれた男はジュードの頭を「うるさい!」と言いつつその細い腕で殴りつけると、背中を無理やり押した。その様子を見ていたシェランは反対側に連れて行かれながら振り向いた。
「ジュード、ごめんなさい。ごめんなさい」
ジュードも振り返ると、泣きそうな顔のシェランに笑いかけた。
「オレの事はシェランが守ってくれるんだろ?」
「うん。絶対守る。大丈夫だからね、絶対にSLSに戻してあげるから・・・」
「早く歩け!」
ジュードが返事を返そうとしたが、ラッドに背中を強く押され、そのままシェランの姿は廊下の向こう側に消えてしまった。
まるで投げ込まれるようにジュードは食物庫の中に倒れこんだ。ラッドはそのままドアを閉め外から鍵をかけると、さっさと仲間の所へ戻ってしまったようだ。
細長い食物庫の両側には、ずらっと食品を並べる棚が並んでおり、余計狭さを感じさせた。入り口に近い棚にだけシェランが持ち込んだのであろう、ダンボールの中に野菜やアンチョビの缶詰などが入っていた。
「馬鹿な奴・・・」
この船のドアの鍵は全て閉じ込め防止の為に中からも開けられるようになっている。完全に開けられないようにするには、ノブの下にある鍵穴にシェランの持っているマスターキーを入れてロックしなければならないので、外から鍵をかけても無駄なのだ。
「手を縛っておいたら安全と思っているのかな?これならここからは抜け出しやすいな」
だが例え抜け出せても、武装している海賊とまともにやり合う事は出来なかった。こちらは丸腰なのだ。
モーガンがこの船に来た時も同じく何も武器を持ってはいなかったが、他の船に乗ってきた仲間があの武器を運び込んだのだろう。そうやって彼等は救助に来た船に乗り込み、船員が寝込んだ所を襲ってきたのだ。
確かにアジア近海に出没するような何艘もの武装船に乗って、いきなりマシンガンで襲って来るような海賊とは桁が違うが、武器も人数も少ない彼等にとってはうまいやり方だろう。
この船に居るのが3人だとすると、彼等が乗ってきた船を動かしている人間が居るはずなので全員で4人になる。4対1。しかもシェランが人質になっているのでかなり不利だ。
ジュードは暫く床に座って考えていたが、薄暗く灯る電灯を見上げて呟いた。
「とりあえず今度は奴等が眠りに付くのを待つか・・・・」
シェランはさっきまで自分が寝ていた隣のキャビンに閉じ込められていた。硬いベッドの端に手を縛られたまま座っていると、余りの腹立たしさに泣きたい気分になって来る。何が腹立たしいといって、あのモーガン・ロイドという男にころりと騙され、食事まで作ってやった事だ。
ジュードの言う通り、彼は先回りをしてシェランの船が来るまで自分の船に乗って食事でもして待っていたに違いない。そしてこの船を見つけてからボートに乗り移り、発煙信号を点けて、まるでずっと漂流していたかのように見せかけたのだ。
今思えばジュードが夜中にダイビングをしようとしていたのも、船の下に細工でもされていないか見に行くつもりだったのではないだろうか。レジャーダイブにしては真剣な顔をしていた。だからシェランは不安になったのだ。
しかも人質になったりしないわと言いながら、見事に摑まってジュードの足を引っ張ってしまった。考えれば考えるほど、悔しくて涙がにじんできたが、泣いている場合では無いと自分を奮い立たせた。ジュードを守れるのは自分だけなのだ。
シェランは立ち上がってドアに耳を付け、外の様子を窺った。
さっきジュードを連れて行ったラッドという男がやって来て、もう1人の男と話をしているのが聞こえた。
「チェスあにい。言われた通り、男の方は食物庫に閉じ込めたぜ」
「バカヤロウ。だからって離れてどうするんだ。この船はキャビン以外、全て中からも鍵を開けられるんだぞ。とっとと戻って見張ってろ!」
「へえい・・・」
ラッドはしょぼくれた声で返事をすると、今やって来た廊下を戻り始めた。
「おバカそうとは思ったけど、本当におバカだったのね、あの人・・・」
シェランは小さな声で呟くと、今度はドアと反対側の窓から外を見つめた。この船より少し大きな船が、後ろから付いて来るのが見えた。
「さて、どうやってあのお馬鹿さん達を騙してあげようかしら・・・」
何時間も座りっぱなしというのは随分疲れるものだ。それでもジュードはモーガン達が計画の成功に油断して寝静まるのを待った。彼はしびれた足を伸ばしてからゆっくり立ち上がると、食物庫の一番奥に行き座った。棚の下に隠すように置いてある小さなダンボールを足で取り出し、それを蹴ってひっくり返すと中から小さなナイフとライターが転がり出てきた。
「閉じ込められるとしたら、てっきりキャビンだと思ったからなぁ。ここにはこれだけしか置いてないんだ」
ジュードは残念そうに呟いた。彼はこうやって、もしもの時の準備をしていたのだ。
― 昨日が変えられないなら、せめて今日を守りたい -
その為なら、シェランに何と言われようと、どんな顔をされようと手をこまねいて後悔するのだけは嫌だった。
モーガンが何の目的でこの船にやって来たかは分からないが、最悪の場合を考えておくべきだろう。彼が丸腰なら反対にこの船に有る物を武器として使おうとするかもしれない。そう考えたジュードはナイフやライター、スパナ等の工具に至るまで全てをかき集め、各部屋に振り分け、自分にしか分からないように隠しておいたのだ。
ジュードは床に転がったナイフを後ろに縛られた手で拾い上げて「このナイフ、切れ味悪そう・・・」と呟きながら手首に撒きつけられたロープを切り始めた。時々手が滑って自分の手の平を傷付けてしまうたび、痛みと共にシェランの泣きそうな顔が浮かんできた。
本当は怖かっただろうに、彼女はジュードを必死に守ろうとしていた。
「決まっているわ。私も彼と一緒に死ぬの」
そう言った時は嬉しいを通り越して怖かった。絶対本気だと思ったからだ。
彼女は自分の夢に実に忠実で、必ずオレがAチームを全米一のライフセーバーチームにすると思っている。だからどんな事をしてもオレを守ろうとするんだ。
― 彼が生きていないと駄目。ジュードがこの世界のどこかでライフセーバーとして生きていなければ駄目なの ―
シェランの言葉が頭の中に流れてくると、ジュードは奥歯をぐっと噛み締めた。
「まだライフセーバーにもなってないのに、死んでたまるか!」
ジュードは切れ味の悪いナイフを捨てライターに持ち替えると、もう片方の手を握り締めた。
敵をうまく騙して通信室に行こうと思い立ったシェランだったが、どうやってうまく騙すのか考えながら、まだ同じ体勢でベッドの端に座っていた。
ここはやはり“女の色気”を使ってみるのが常套手段なのだろうが、周りの男性にいつも“大佐”だの“鉄の女”だのと呼ばれている自分にそんな物が存在するはず無いとシェランは思っていた。例えあったとしてもそれをどう使っていいかも分からなかった。
「はあっ、エバの方が余程色気があるのよねぇ。こんな時どうすればいいか聞いておけばよかった」
溜息混じりに呟いたシェランの頭に、ふと幼い頃見た両親の姿が思い浮かんだ。
理学博士だった母は研究者として色々な地域を飛び回っていたので、滅多に家族の食事を作った事が無く、シェランの小さい頃は通いのナニー(乳母)がシェランの世話や食事の準備などをしていた。
今思えばシェランが料理上手になったのも、彼女が大きくなってナニーが辞めてしまったので、他に食事を作る人間が居なかったからだった。
ところがたまに家に居る時、母のセルレインは母親らしい事をしてみたいらしく、料理を作ろうとするのだが、必ず何か事件を起こした。フライパンを火にかけたままにし、焼け焦がして使えなくしてしまったり、熱いやかんを素手で掴んで火傷をしてしまったり・・・。
とりあえずキッチンには救急箱が常に置いてあり、包丁を持ったら必ずと言っていいほど指を切る(シェランにはどうして自分の指を何度も切る人が居るのか分からなかった)母の為に絆創膏は必需品であった。
母が「きゃあああっ、シェラン!アルー!」と父と彼女を呼ぶたびに、彼等は飛ぶようにして母の元に行くのだ。
「指を切っちゃったのぉぉぉ」
泣きながら指を差し出す母に、父はすぐ指の血を口で吸い取った後、絆創膏を貼って「もう大丈夫だよ」と言いつつにっこり笑う。仕事の関係者と居る時は、きりりと引き締まった顔をして難しい話をすらすらしている母が、子供のように父に甘えている姿はとても可愛らしくてシェランは大好きだった。
「そうだわ。この手があったわね」
シェランはニッと笑って立ち上がると右手を握り締めた。
「題して“色気が無いなら甘えで勝負よ大作戦!”行くわよ、シェラン」
彼女はドアの外に見張りが1人しか居ないのを確認すると、ベッドサイドにある重たそうなチェストを足や肩で動かし始めた。
大きなあくびを繰り返した後、うとうと眠っていた見張りのチェスは、突然ドアの向こうから響いてきた何かが倒れる音と叫び声にびくっとなって目を覚ました。
「どうした!」
急いで鍵を開け中に飛び込むと、人質の女が倒れていて、その足の上に重そうなチェストが乗っているのが見えた。
「大丈夫か?」
チェスが慌てて駆け寄ると、シェランは涙を浮かべて彼を見上げた。
「あ、足が痛いわ。早く持ち上げて、お願い」
「あ、ああ・・・」
チェスは落ち着きのない顔で答えると、重いチェストをすぐに押し上げた。シェランが両手を縛られて起き上がることも出来ないようなので、彼女の手首を縛っているロープを切って解いた。
やっと起き上がったシェランが足を押さえながら泣いているので、彼は困ったように彼女を見下ろした。モーガンには女を絶対傷付けるなと言われていたからだ。
何と言っても大事な商品だ。久々の上玉なのに、怪我でもしていたらモーガンに怒られると思ったチェスは心配そうに聞いた。
「おい、大丈夫か」
彼がしゃがんで顔を覗きこんだ時、シェランはすうっとスカートの裾をめくり上げていった。チェスは一瞬で全身の血がカーッと熱く巡るのを感じた。今まで金が入る度に色々な女を見てきたが、こんなに白く透き通るような肌をした女が居ただろうか。
そのみずみずしい滑らかな肌の上に真っ赤な血が流れているのを見て、チェスの心臓は更に高ぶった。
思わず手を触れそうになったが、シェランの泣き声にハッと我に返った。
― くそぉ、手を出すなって言われて無きゃなぁ・・・・ ―
「痛いわ、痛いわ」
「きゅ、救急箱を持って来てやるから待っていろ」
そう言って立ち上がろうとしたチェスの腕をぎゅっと掴むと、シェランはにっこり微笑んだ。
「救急箱なんか要らないわ。あなたが舐めてくれたらきっと治る。ねぇ、口で血を吸い取って・・・」
チェスはシェランの色気にくらくらしていたが、シェランは内心ドキドキしていた。彼が乗ってくれなければ全てが無駄になる。モーガンが来ても失敗するわ。早く、早くしてよ。
シェランは更に身体を寄せると「ねぇ、お願い・・・」と甘えた声で言った後、懇願するように彼を見上げた。
モーガンには女に手を出すなと言われているが、本人の方からお願いって言っているのだからいいだろう。
チェスは興奮し切った顔でニヤッと笑うと床に手を付いた。
「よ、よし、いいぜ。舐めてやる」
チェスがシェランの足に顔を近づけ、彼の視線が自分からそれた瞬間、シェランはベッドの布団の下に手を入れ何かを取り出すと、それで思いっきりチェスの頭を殴った。
声も立てられずに倒れこんでいくチェスの顔に触れないようにシェランが足をよけると、彼は顔から床に音を立てて倒れこんだ。シェランは足に付いた血を拭き取ると立ち上がり、まだ震える手で持っていた鉄製の時計をベッドの上に放り投げ、高鳴る鼓動を沈めるように胸に手をやった。
「まだまだ、これからよ、シェラン。絶対にジュードを助けるんだから」
シェランは倒れているチェスをチラッと見てから外へ出て、そっとドアを閉めた。
暫く床に倒れこんでいたチェスが目を覚ますと、何故か心配そうな顔をしたシェランが自分の顔を覗きこんでいたのでびっくりして飛び起きた。
「あ・・・たたた・・・」
痛そうに頭の後ろを押さえるチェスにシェランは心配そうに言った。
「大丈夫?あなた、急に倒れるんだもの。びっくりした」
「お、お前が殴ったんだろうが!」
「まあ!何故私がそんな事をするのよ!」
シェランは怒ったように叫ぶと彼の頭の後ろに回って髪を上げ、自分が殴った場所を指で押した。
「いた!やめろ!痛いじゃねーか!」
「ああ、やっぱり・・・」
シェランは大げさに口を押さえるとその場にしゃがみこんだ。
「な、何がやっぱりなんだ?」
「あなた。タバコを1日に2箱以上吸うでしょう。それからお酒も毎晩のように飲んでいるわね。加えて不規則な生活にカロリーの高い食事・・・」
何故そんな事が分かるのか、気味が悪くなってチェスはシェランの顔を見た。
「時々、頭がふらふらしたり、動悸が激しくなったりしない?」
そんな風に言われると、そんな事があったように思うのが人間の性である。チェスの考え込んでいる顔を見て、シェランは一気に攻め立てた。
「大変よ。このまま放っておくと、脳梗塞、脳血管疾患(脳卒中)、くも膜下出血を起こしかねないわ。船を降りたらすぐに病院に行きなさい。いいわね」
「な、何を言ってんだ!この俺が脳梗塞なんかになるわけねぇだろう!」
「まああ!看護師と救急救命士、医学療法士の資格を持っている私の言う事が信じられないの?」
シェランはチェスの腕を掴んで立ち上がらせるとドアの外に押し出した。
「とにかくあなたは安静にしている事が一番だわ。そこの椅子に座ってゆっくり見張りでもしてなさい。いいわね!」
まるで医者のように偉そうに言い捨てると、シェランはドアを閉め、中から鍵をかけた。チェスはどうにも腑に落ちない顔で頭の後ろを撫でたが、とりあえず言われた通り椅子に座る事にした。
ライターの炎で火傷しそうになりながら、やっとの事で手首を縛っていたロープをはずすと、ジュードはすぐに立ち上がりドアの鍵をそっと開けた。しかし外に出た彼はいつの間にか戻っていたラッドと鉢合わせし、びっくりする事になった。
驚いたのはラッドも同じで、彼はすぐに腰の銃に手をやったが、顔面への一撃を食らってその場に伸びてしまった。
「自分より小さい奴を殴るのは好きじゃないけどね」
小さな溜息を付いた後、ジュードは男の銃を取り上げた。当然使う事は出来ないが、敵の武器は少しでも減らしておくべきだ。
そのずっしりとした重さと冷たい感触に、生まれて初めて銃を手にしたジュードは胸の奥がぞくっとするのを感じた。父は猟銃を持っていたが、ジュードも母も一度もそれに触った事は無かったし、当然父は触らせなかった。父の死後も鍵の掛かった物置の中に入っていて、誰も触れてはいなかった。
それでもジュードも男の子なので、こういう物に興味が無いわけではなく、銃の種類や使い方も勿論知っている。
ウェイブ・ボートでヘレンの銃を一目でマグナムと見抜いたのも、彼の好きなリボルバーの一種だったからだ。だが、ただ知識として知っているのと実際に使うのとでは訳が違う。これは人を殺す道具なのだ。しかし違う使い方も出来る。大切な人を守る為の道具として・・・。
それでもジュードは銃の安全装置を掛け直すと、それを背中からGパンの脇に突っ込んだ。そしてラッドを食物庫の中に引きずり込んで鍵をかけ、廊下を静かに進み始めた。
ジュードはモーガン達に気付かれないように海に入り、彼等の本船を奪い取るつもりだった。こちらに居る3人を相手にするよりは、本船を動かしている人間 -ジュードは1人とふんでいた― と戦う方が有利なはずだ。
相手がどんな強い敵でも不意を打てば、勝機はこちらにあると思った。だがその前にシェランを助け出し、彼等に気付かれないよう連れ出さねばならない。
ジュードは足音を忍ばせて、シェランが連れて行かれたキャビンの方へ歩いて行った。
「は?船が動いてない?そんなわけ無いだろう!」
突然後ろから響いてきた声にジュードは心臓が飛び出しそうになったが、すぐに側のキャビンの中に身を隠した。モーガンの声だ。
「だって兄貴。本当に動いてないんだぜ。後ろに居た俺はもう少しでぶつかりそうになったんだから」
ジュードがそっとドアの影から覗くと、モーガンと見知らぬ男が連れ立ってブリッジの方へ向かっている。男の方は話の内容からして彼等の本船を操船していた人間だろう。この船が何故か停まってしまったので本船を横付けしてこちらに乗り込んできたのだ。
「・・・という事はあちらの船は今、誰も居ない可能性が高いな」
これで敵の船を奪い易くなった。それにしてもこの船が動いていないとはどういう事だろう。
ジュードは彼等の後をそっとつけて行った。ブリッジの中ではモーガンがシステムの上を拳で叩きながら「何だ、これは!」と怒鳴っている。
「燃料が0じゃないか!。レガー、お前まさかぶつけたんじゃないだろうな!」
「そんな衝撃は無かっただろ?俺は知らねーぜ!」
「くそっ、これじゃとてもじゃないがバハマまで行けないじゃないか!」
― バハマだって?そんな所まで連れて行かれてたまるか・・・! ―
ジュードはすぐに身を翻してシェランの居るキャビンに向かった。彼等が船を乗り換える前に向こうの船を奪わなければならない。
シェランの居るキャビンの前にはチェスが見張りをしていたので、すぐに彼女が閉じ込められている部屋だと分かった。しかし、見張りのチェスはしっかりと目を覚ましていて、何かを考えているようだ。
― とりあえずあいつの気を逸らせないと・・・。古典的な手だけど、しょうがないな ―
ジュードはポケットの中からコインを取り出すと、彼に見えないように手先だけを出してなるべく遠くに放り投げた。コインが廊下を転がり落ちる音にチェスが思わず反対側を振り向いた瞬間ジュードは飛び出して行き、彼の後頭部を銃の柄で殴りつけた。
チェスが倒れた後、再び銃を奪って上着のポケットの中に入れると、ジュードはシェランの居るキャビンのドアを小さく叩いた。
「シェラン、居る?シェラン!」
ジュードの名を呼びつつ飛び出してきたシェランの手を掴むと、ジュードはすぐに走り出した。
「逃げるぞ」
「逃げるって、どこに?」
「あいつ等の船を奪うんだ。この船に居る奴等は追って来られない。何故だか知らないけど、船の燃料が無くなってしまって動けないんだ」
「ああ、それ。私がやったの」
その言葉にジュードは驚いて立ち止まった。
「燃料タンクの蓋を解放してやったの。海を汚すのは気が引けたけど、彼等を足止めしなきゃいけなかったから」
「何で?どうやって?今の今まで摑まっていたんだろう?」
「うふ。それはね・・・・」
シェランはしなやかな手で髪を掻き揚げると、ジュードの耳元で囁いた。
「ひ・み・つ」
「なん・・・だよ。それ・・・」
シェランは赤くなっているジュードに笑い掛けると「急ぎましょ。彼等に気付かれると困るわ」と言って、今度は自分が先に駆け出した。
モーガンは暫くシステムの状態を確認していたが、燃料タンクの蓋が開いているのに気付いて「誰がやったんだ!」と再び叫んだ。
「仕方ない。船はここに碇を下ろしておいて、後で燃料を持って来るしかないな」
彼は舌打ちするとレガーにチェスとラッドを呼んで来るように言った。彼等を呼びに行ったレガーは気絶した2人の仲間を助け起こしてモーガンの所に戻って来た。
「兄貴!あいつ等逃げやがった!」
チェスの言葉で、燃料タンクの蓋を開けたのが、自分が捕らえた男女の仕業だと知ったモーガンはライフルを手に取った。
「船だ!」
モーガンは3人の部下を引き連れデッキに飛び出した。自分達の船がゆっくりと離れて行くのを見て、彼等はすぐに銃を構えた。
ジュードに一発でのされたラッドは怒りの余り自分の船にもかかわらず、ブリッジからマシンガンを持ってくると力任せに撃ち始めた。まだ5メートルも離れていなかった船は彼等の攻撃ですぐに蜂の巣のようになっていった。
「キャアッ!」
シェランは舵を手放し、頭を抱えながらしゃがみこんだ。
「シェラン、オートパイロットにしてブリッジから出ろ。ここは危ない!」
「駄目よ。この船そんなもの付いていないの。物凄く古いし、船足も遅いわ」
「くそっ」
ジュードはあたりの物を手当たり次第ひっくり返し始めた。一応海賊船なのだから何か武器を積んでいるはずだ。
「あった!」
ブリッジの奥にある武器庫から手榴弾やマシンガンがごろごろ出てきた。
「ジュード、駄目よ!人殺しは駄目!」
「分かってるって」
ジュードは手榴弾の上部にある安全装置をはずすと、海の中へ放り込んだ。激しい爆発音と共にモーガン達の乗った船が大きく揺れ、彼等はデッキに倒れこんだ。
「よし、もう一丁!」
ジュードが再び手榴弾を掴もうとしたが、敵に応戦され弾丸の飛び交う中、慌てて船の中に逃げ込んだ。わき腹を銃弾がかすったが、今は気にしている暇は無かった。
「こうなったらライフセーバー式攻撃をお見舞いしてやるぞ」
ジュードはマシンガン等と共に出てきた、彼等が遭難したように見せかける時に使うであろう打ち上げ式の救難信号を両手に抱えると、敵に見えないように姿を隠しながらデッキの近くまでやって来た。
「えーと、どれがいいかな。おっ、これこれ」
ジュードが取り出したのはコメット落下傘付信号である。
「上昇高度300メートル、燃焼時間40秒、光度30,000カンデラの威力を思い知れ!」
横に向けて発火すると、赤い炎を巻き上げながら光の玉が飛び出し、後方の船目がけて飛んでいった。眩しい光と余りの勢いにモーガン達は叫び声を上げながら逃げ回った。
「よーし、次はコメット火せんだ!行けーっっ!」
デッキの方から聞こえる「よっしゃ、命中!」という声を聞きながらシェランは「ジュード、楽しそう・・・」と呟いた。
しかし、やがてそれも尽き、ジュードは匍匐前進でシェランの居るブリッジに戻って来た。
「ホントに遅いな、この船。まだ20メートルくらいしか離れてないぞ」
既にブリッジの屋根も半分が壊され、弾丸が頭をかすめ出していた。シェランは舵を固定すると、ジュードと同じように腹ばいになり、床に肘を付いて彼の所まで行こうとした。しかし銃弾が近くの床まで達すると、弾丸の雨の中、2人は動けなくなってしまった。
「ジュード・・・」
シェランが震える手をジュードの方に伸ばしてきた。ジュードもゆっくりと手を伸ばしてシェランの手と手の平を合わせ、ぎゅっと力をこめた。
「オレ達、SLSに戻れるよな」
「勿論よ。そしてジュードはライフセーバーになるの」
「全米一の?」
「ええ。全米一のライフセーバーよ」
彼等は互いを励ますように笑い合った。
先程ジュードの右わき腹と左の肩を弾丸がかすめた時の傷が、今頃になってズキズキとうずき出してきた。痛みと睡眠不足で頭が朦朧となってくると、屋根や床が壊れていく音さえ、だんだん遠のいていく気がした。
まるで眠るように目を閉じながらジュードはシェランの為に祈った。
― ああ、シェランの父さんと母さん。どうかシェランを守ってくれ。この人を同じ海で死なせないで。どんな事があってもこの手を放したりしないから・・・。どうか・・・・ ―
ここで自分達の船を取り戻さなければ、大西洋の真ん中で本当に遭難する事になってしまうモーガン一味は、わき目も振らず銃を撃っていたが、空中からいきなり自分の足元に銃弾を撃ち込まれ、びっくりして足元のずらりと並んだ弾の跡を見た後、空を見上げた。
目の前に、朝日を受けて黒く輝くヘリが、攻撃態勢を取って空中に止まっていた。彼等の乗った船の周りには4艘の大きな船が黒い制服を身にまとい、銃口を全てこちらに向けた男達を乗せてやって来ていた。そしてヘリの横腹と男達の制服の背中にはアルファベットの白い4文字が刻み込まれていた。
「何で・・・何でこんな所にSEALが居るんだ?」
モーガン達は真っ青な顔で呟くと、持っていた武器を全て床に投げ捨て、両手を挙げた。
海賊の本船にも武装した兵が乗り込み、船を停船させた。憤慨の表情でヘリから船に降り立ったヘレン・シュレイダー大佐は部下達が敬礼して立ち並ぶ中、大股で歩きながら船の中に入って行った。1人の部下が何かを耳打ちすると、ヘレンは頷いてブリッジの中に入り、床の上に倒れて気を失っているジュードとシェランを見下ろした。
「おやおや、仲のよろしい事だ」
目を覚ました時、ジュードは小さな部屋のベッドの上に居た。シェランが脇に座って自分を見つめている。
「・・・ここは?」
「医務室よ」
「怪我は?シェラン、寝てなくていいの?」
ジュードはまだぼうっとした顔である。シェランの船には医務室は無いのだが、それさえも良く分かっていないようだった。
「私は大丈夫よ。ジュードがずっと手を握っていてくれたから」
「ああ・・・」
ジュードはまだシェランの手を握ったままだった事に気付いて、彼女から手を離した。
「もう大丈夫だからね、ジュード。ヘレンが来てくれたのよ」
「シュレイダー大佐?何で?」
「私が呼んだのよ。早く来て、すぐ来て、今来て!って・・・」
やっと状況を飲み込めてきたのか、ジュードは笑いながら半身を起こした。
「良く来てくれたな。彼女が来る程の事件じゃないだろうに」
「当然でしょ?“あの男”が捕まるまで、私はヘレンにとって大切な手駒ですもの。何が何でも助けてもらわなきゃね」
まるでいたずらっ子のようにシェランは片目を閉じて笑った。
シェランのボートに燃料を入れさせると、ヘレンは彼等に会う事もせずに去ろうとしていた。そんなヘレンをジュードは呼び止めると、彼女の所まで走って行った。
だがジュードが礼を言う前にヘレンが「全く、あのわがまま娘め!私は会議中だったのだぞ!」と怒り始めたので、彼はまず謝罪の言葉を述べる事になった。そして怪我の治療や燃料の補給の礼を言った後、ポケットから小さなピストルを取り出した。
ラッドから取り上げた銃は、背中からGパンの脇に差し込んでいたので、SEALの隊員の誰かが抜き取ったようだが、チェスから奪った小さなピストルは、上着の内ポケットに入ったままだったのだ。
ジュードが差し出した拳銃の柄を取りながら、ヘレンはニヤッと笑って彼を見た。
「安全装置が入りっぱなしになっているが?」
「ライフセーバーは人を救う為に存在するのであって、人を傷付ける為に居るんじゃない。それにその安全装置を外す事は、オレの教官が許さないでしょう」
「フン、全くあの女はわがままな上に頑固だからな」
ヘレンは少し離れた場所で自分を見送っているシェランをチラッと見た後、SEALの船に乗り込んだ。
彼等の船が素晴らしいスピードで遠ざかっていくのを見送った後、船を動かし始めたシェランが、急にブリッジから叫び声を上げたので、ジュードはびっくりして飛び込んできた。
「何だ?“キャア”って!」
「な、何でもないわ」
左の人差し指を急いで右手の中に隠したシェランを、ジュードはムッとした顔で見た。
「さては、さっきの“ひみつ”・・・やっぱり何か危ない事をやってたんだな!」
「や、やってないわよ」
「ほお?」
ジュードはいきなりシェランの左手首を掴みあげた。
「何だよ、これ。血が出てるじゃないか!」
ジュードに責められて、シェランはおどおどしながら事情を説明し始めた。
「あ、あのね。へレンに連絡を付けるために、ちょっと足に怪我をした振りをしていて・・・。それで、その、足を切るのは嫌だったから指先をちょっとかじって・・・」
「かじったあ?」
「で、でもさっきまではそんなに出てなかったのよ。舵を握った途端、急にポタって・・・」
「何がポタッだよ。これはドバーって言うんだよ!」
ぷんぷん怒りながらジュードはシェランの指をぱくっと口にくわえ、そのままいつも着ているベストの胸ポケットから絆創膏を取り出した。
「全く救急救命士の資格を持ってるんだから、旅行に出る時は止血くらい持っておけよな」
ジュードは手際よくシェランの指に絆創膏を巻きつけると、にっこり笑って彼女を見た。
「よし。これでもう大丈夫・・・」
そう言いかけたが、シェランがかつて無いほど大きく目を見開いてその指先を見つめているので、ジュードもハッと気が付いた。
怪我をしている人間に行なうのはまず消毒である。傷口を舐めて消毒するなんて、救急救命以前の問題であった。
「ご、ごめん。偉そうなこと言って。いつも親父がこうやってたからつい・・・。これじゃ止血は出来てもばい菌が入るよな。すぐ救急箱を・・・」
シェランは自分の手を掴んだまま救急箱を取りに行こうとした彼の手を振りほどいた。
「これでいいわ」
「良くないよ。消毒をしないと」
「いいって言ってるでしょ?さあ、食事の用意をしないといけないわ。ジュードは試験問題を解くんでしょ?」
それ以上ジュードに何も言わせないように、シェランはさっさと歩き出した。
それからボートは3時間かけてやっと目的の場所まで辿り着いた。
「随分遠回りをしたけど、お花がしおれなくて良かったわ」
シェランは花束をジュードに渡すと、自分ももう一つの花束を両手に抱えて、甲板から深く青い海を見下ろした。
「パパ、ママ。ごめんね。こんなに遅くなってしまって・・・」
ここに来るのに8年もかかってしまった。深い海の底で眠っている両親の魂は、死の苦しみから解放されて安らかに眠っているのだろうか・・・。
「私、負けないわ。Aチームのみんなを立派なライフセーバーに育て上げるまで、どんな事があっても彼等を守ってみせる。だからここから見守っていてね」
海に花束を投げ込んだ後ふと隣に居るジュードを見ると、彼も同じように花束に顔を沈めて、なにやらぶつぶつと呟いている。
「シェランの父さんと母さん。このたびはオレがふがいないせいでシェランを泣かせてしまってごめんなさい。それから海賊の船でオレ達を守ってくれてありが・・・」
「ジュード?花に向かって何をぶつぶつ言ってるの?」
「な、何でもないよ」
ジュードは急いで花束を海に投げ入れた。二つの花束がゆっくりと波間に揺れているのを彼等は黙ってじっと見ていた。
「シェラン・・・」
呟くようにジュードが呼んだ。
「また来年、一緒に来てもいいか?墓参り」
「来年も一緒に来てくれるの?」
「うん」
透き通る風が、彼のくせのある黒髪を掻き揚げて行くのを見ながら、シェランはさっきジュードが治療してくれた指先が少しずつ熱くなっていくのを感じていた。