第1部 A HARD DAY 【3】
雨の日だろうと、嵐で海が大きな白羽の波を立てている時でも、石油採掘場にある採掘機たちは一定のにぎやかなリズムを刻み、黒煙を吐きながら、休む事無く働き続ける。だが人は24時間働くわけには行かないので、ここでは3交代制でシフトを組んでいた。
昼の1時を過ぎた頃、アーロンは少し遅い昼食を取った後、誰でも飲めるように設置してあるコーヒーメーカーの少し色の濃くなったコーヒーを紙コップに注いで、自分の仕事部屋へ持っていった。
彼はいつも書類を書いているデスクの椅子ではなく、海に面した窓の側に置いてある、ゆったりとした革張りのチェアに腰を落ち着けると、靴のままアームレストに足を投げ出した。
窓から見える空には雲ひとつ無く、海の紺と空の青の2色だけが眼前に広がっていて、それを見ながらアーロンはやっとくつろいだように肩の力を抜き、手に持ったコーヒーを口にした。
「チェッ、ワッツの奴。30分以上経ったコーヒーは捨てろと言ってあるのに・・・」
ワッツことワトリーは、このアルガロンの従業員の食事の世話を全て任せているチーフである。彼の作る料理はボリュームもあって従業員に人気なのだが、どうやらコーヒーの味には疎いらしく、時間の経った物でも残してあるのだ。
アーロンは気に入らないと思いつつも、いつもの習慣でそれを飲み続けた。コーヒーは苦いが、それ以上に苦い思い出は幾らでもある。1週間前、思わず叩いてしまった娘の頬。真っ赤に晴れ上がっているにも関わらず、全く怯える事無く自分を見上げて彼女が言った言葉・・・。
― パパは何を恐れているの?ママが死んだのはパパのせいじゃないのよ・・・ ―
あの後、アーロンは彼なりに反省して、レナに謝る言葉を考えたのだった。
― 殴ったりしてすまなかった。5THの件は何とか掛け合ってみるよ ―
何度もレナの顔を見る度、口元まで出かけるのだが、今度はあっちが怒り冷めやらぬといった体で、一緒に食事をしていても口をきこうともしない。そっちがその気ならこっちも知るもんか・・・と片意地を張ってしまう所が、父と娘の難しい所かもしれなかった。
「こんな時にお前が居てくれたらな・・・」
亡くなった妻のリリアンは優れた地質学者で、石油会社の研究開発員でもあった。油田開発に携わっていたその会社から派遣されてきた彼女と、まだ5THが出来上がる前に出会ったのだが、彼女は5THが完成するまでその会社で尽力を尽くした後、何の迷いも無く石油採掘技術者に転向し、アーロンと共に5THで暮らすようになった。
忙しくて結婚式も挙げられなかったが、仲間達が5THの中で祝ってくれた。
「石油まみれの人生を送ってきた私達にピッタリね」
そう言いつつ笑ってくれたリリアンを、もう5年も経つのにアーロンは鮮明に思い出すことが出来る。その度に涙を堪えなければならない事に疲れても、彼女を忘れることなど出来なかった。
「おやっさん!」
ドアの外から響いてきた声に、アーロンはドキッとして思わず持っていた紙コップを落としそうになった。ジョンが無線電話を持って開いたドアから中を覗いている。アーロンはそれを見て不吉な予感にかられ、思わず叫んだ。
「政府からか?」
5年前のあの日、掛かってきたのはアメリカ政府からの電話だった。5THに数個の爆弾を取り付けたと脅迫があったというのだ。すぐに従業員を避難させてくれと頼んだが、誰か一人でも5THを出たらすぐに爆発させると脅迫された、と政府の人間は言った。
そして脅迫者はこうも言ったのだ。
『但し、入る分には幾らでも入ってくれていいぞ。SEALでも爆弾処理班でも呼ぶがいい。取りに行けるものならな・・・・』
ジョンはいきなり政府からか?と聞かれて驚いたような顔で答えた。
「いえ、トニー・Jrからですよ」
トニーはレナや他の子供達をマイアミの学校まで送迎しているヘリのパイロットだ。と言っても、レナと同じくここから学校に通っているのは、レナを含めて4人しか居ない。レナと彼女の1つ下のジミーとミック。そして一番年上の15歳のメアリー。
今日トニーはマイアミに用事があるのでこちらには戻らず、そのまま子供達を乗せて帰ってくる予定になっているはずだ。
アーロンが電話に出ると、トニーの声はやけに落ち着きが無かった。
「すまない、アーロン。俺がマイアミに行っている間にヘリがとんでも無いことになっちまった。まさか、こんな事になるなんて・・・」
「落ち着けよ、トニー。どうしたんだ?ヘリに何かあったのか?」
どうやらトニーがヘリをヘリポートにおいてマイアミに行っている間に、ヘリが盗まれたらしいのだ。
「言いにくいんだが、見ていた人の話じゃ、ヘリに乗って行ったのは12,3歳くらいの子供4人だったらしい。多分ヘリを操縦しているのはレナだと思う。あの子しかヘリは飛ばせないから・・・」
そりゃそうだろうな・・・。アーロンは電話を持ったまま絶句した。ヘリを盗むなんて、そんなとんでもないことをしでかすのはあいつくらいだ。
「・・・で、どっちに行ったか分かるか?」
「北東だ。俺の感だが、あの子達5THに向かったんじゃないかな」
多分トニーの予想は当たっているだろう。一体5THに何をしに行ったのだ?しかもヘリまで盗んで・・・。
アーロンはとにかく子供達が戻ってくるかもしれないのでヘリポートに居てくれ、と指示を出すと無線を切った。彼等を追うにもアルガロンにはそのヘリ以外の飛行できるものは無い。ボートで行ったとしても、ヘリのスピードに追いつくはずも無かった。
「ええい、くそっ!あのバカ娘め!」
アーロンは思い切り毒づくと、チェアに勢いよく腰を下ろした。
空を切り裂くように飛び続けるヘリを自由自在に操りながら、レナは後ろの席に居るジミーに叫んだ。
「どう?船はちゃんと付いて来ている?」
「うん。大丈夫だよ。機関を制御しているコンピューターに入り込むのはちょっと手こずったけど、入っちゃったらこっちのもんだ。後は模型のボートを無線機でコントロールするようなものさ」
「でも、気を付けてね。乗っているのは生きた人間なんだから。転覆させたりしないでね」
彼等の中で一番年上のメアリーは、不安げに彼の小さな指が滑るようにコンピューターのキーの上で動くのを見つめた。
「大丈夫だって。ジミーは僕達の学年じゃ一番の秀才だぜ。まっ、その次は僕だけどね。何たってあの船を止めた接触型放電装置は僕の自信作だ」
操縦席の隣に座っているミックが自慢げに笑った。
「油断は禁物よ、ミック。とにかく目的を果たすまでは絶対に正体を知られちゃ駄目。相手の方が人数が多いんだからね」
レナは3人の友にそう言うと、自らの決意を新たにするように前を見つめながら呟いた。
「SLSから5THを取り戻すまではね・・・・」
受験生達の意思とは全く関係なく、船は前方を飛んでいるヘリを全速力で追い続けていた。彼等はどうすることも出来ずに、とりあえず船のブリッジに集まった。
「あいつ等、何者なんだろ・・・」
「テロかな・・・」
もしそうだとしたら、無事に戻れる可能性は極めて少ない。アイディアマンのジュードも今回は何も思いつかないようで、黙ったまま壁際に立っていた。ジュードの隣でショーンも押し黙ったまま唇を噛み締めていた。
「おい、何か見えるぞ。島みたいだ!」
ピートの叫び声に、全員がブリッジ前の窓に群がって船が進む方向を見た。確かに何かある。だが、島にしてはどうも形が変だった。
やがて近付くにつれ、その物体は全貌を顕わにしていった。
「あれ、石油採掘場・・・だよな」
ダグラスが呟いた。
何十本もある巨大な鉄骨に支えられ、3層から成るプラットフォームと高さ120メートルもあるクレーンがそれである事を示していた。だがそこには黒煙を巻き上げる採掘機の音は無く、死んだような静けさだけが漂っていた。
よく見ると建物の三分の二は破壊され、所々壊れて真っ黒に焼け焦げた鉄筋が今にも外れて崩れ落ちそうになりながら、海風を受けて不気味な音をたてていた。
「何だここ・・・」
「気味が悪いな・・・」
凍りついたようにその朽ち果てた建築物を見上げている受験生の後ろからそれを見ていたジュードは、更に後ろから袖口を引っ張られ、驚いたように振り返った。絹糸のような金色の髪がジュードの耳元に触れるほど近付くと、彼女はそっと彼に囁いた。
「勝機は私達にあるわ、ジュード。私に付いて来る?」
やがてヘリはゆっくりと建物の上を旋回し、頂上にあるヘリポートの上に着陸した。船の中からはよく様子が見えないが、ヘリの中から誰かが降りてくる気配は無かった。暫くその状態のまま時間が過ぎていったが、不意にヘリからさっきの金属的な男の声が響いてきた。
『一人だけここまで登って来い。いいか、一人だけだぞ』
やがてくせのある黒髪をなびかせながら、エバが一人で金属の階段を登り始めた。彼女はシェランに出来るだけゆっくりと登るように言われていたが、鉄骨の間を激しく吹き抜けてくる海風と、めまいがするほどの高さに本当にゆっくりとしか前に進めなかった。
「こういう所で働く人は、高所恐怖症じゃ駄目ね」
エバは出来るだけ下を見ないように、しっかりと手すりを握り締めながら登って行った。
その反対側、ヘリポートの後ろは絶壁のようになっていたが、緊急避難用の鉄梯子が真っ直ぐヘリポートまで続いていた。そこをエバ以外の受験生達が順番に連なって登っていた。
「おい、本当に大丈夫なんだろうな。こんな事をして・・・」
ジュードは自分のすぐ後ろを登って来ているシェランを見下ろした。
「あら、男のくせに一度決めたことを後悔しているの?」
「オレは別に構わないけど、他の奴等はオレが説得したんだ。責任感じるだろ?相手がもし武装してたらとか思ったら・・・」
「あら、責任感が強いのね。大丈夫。何かあったら、あなた以外の人は私が守ってあげるわ」
憎たらしい女だ・・・・。
ジュードはムッとして上を向いたが、更に下からシェランが追い討ちを掛けた。
「早く登って、ジュード。後ろがつかえているわ。先頭のマックスなんか、もう随分先に行っちゃってるわよ」
あいつは元消防レスキューなんだから当然だろ・・・と思いつつも、ジュードは先を急いだ。一人で行ったエバの事も気になる。幾ら自分から志願したとはいえ、怖いに決まっているのだ。
彼等の一番後ろから登っていたキャシーは息を切らしながら上を見上げた。仲間はどんどん先へ進んで行く。下は恐ろしくて見ることも出来ないが、きっともう海上から40メートルは登って来ているだろう。キャシーは水に潜るのは好きだが、高い所は苦手だった。
彼女の上を登っていたショーンがふと下を振り返ってみると、キャシーは10メートルも下で固まったように止まっている。
「あらら・・・」
ショーンはゆっくりと降りて行くと、キャシーに声を掛けた。
「キャシーちゃーん。どうしたのかなぁ?怖くなったんなら降りてもいいよ?」
こういう言われ方をするのが、キャシーは一番嫌いだった。
「女だからって、馬鹿にしないでよね!」
キャシーは力一杯鉄梯子を握り締めると、上に居るショーンを追い越して勢いよく登って行った。
「何だ。やれば出来るじゃん」
ショーンは「あーあ、スカートでないのが残念だ」とお決まりのセリフを吐きながら彼女の後を追った。
先頭のマックスがヘリポートに付く頃、エバも丁度ヘリの前までやってきていた。彼女は吹き付ける横風によろめきながら、ゆっくりとヘリの前まで行き、足元に置かれた無線機を拾った。
『それでSLSに連絡を付けろ。“5THを解放しろ”とな』
エバは無線機を見つめながら、マックスやジュードが一人ずつヘリポートに登ってくるのを視線の端で見ていた。今ヘリはこちらを向いていて、中に居る人間の注意も全て自分に注がれているだろう。全員が登りきるまで彼等の注意を引きつけておかなければならなかった。
「フィフスって何?」
エバはヘリの真正面に立って叫んだ。ジュード達が身をかがめながら徐々にヘリの後ろから回り込んで行く。
『お前がそんなことを知らなくてもいい』
「そうはいかないわ。何も知らないまま、交渉なんて出来ないわよ!」
既にジュード達はヘリの周りを取り囲み、中に飛び込むチャンスを狙っていた。エバは汗のにじむ手をぐっと握り締めた。しばしの沈黙の後、ヘリから返答が帰ってきた。
『5THはこの採掘場の名だ。SLSは訓練の名目でここを政府から買い取った。いずれは取り壊すことを条件に。だが、ここは我等の故郷、愛しい者達の眠る地・・・。お前達になど荒らさせは・・・・』
ジュードとマックスが両側からヘリのドアに手を掛けたその時、外の異変に気付いたメアリーが叫んだ。
「レナッッ!」
握っていたマイクを放り投げ、レナは急いでエンジンをスタートさせようとしたが、ジュード達がドアを開け、中に飛び込むほうが早かった。
無我夢中で取り押さえ、引きずり出したテロ集団 ―・・・と彼等は思っていた― が小さな少年少女の集まりだった事に、ジュード達は驚くよりも力が抜ける思いだった。自分達はもう充分大人だと思っていたし、これから人を救う立場になろうとしているのに、こんな子供に翻弄されていたと思うと何となく情けなかった。
2人の男の子と一番年上らしい少女は、何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返しながら泣いていたが、首謀者のレナだけは一向に反省の色も無く、自分達を取り囲んでいる彼等をにらみ上げて「あんた達なんかに負けないわよ!ここは絶対に取り戻してみせるわ!」と食って掛かっていた。
「レナ、あなたは自分が何をやったか分かっているの?」
透き通るような声が響いてきた時、今まで誰かれ構わず毒づいていたレナは、びくっと体を震わせた。
― 知り合いだったのか? ―
受験生達はびっくりしたように後ろにいるシェランを振り返って見た。道理で落ち着いていたはずだとジュードは思った。
「ヘリを見た時、まさかとは思ったけど、ここに到着して確信したわ。ここはあなたにとって庭みたいなものだものね。何故こんな事をしたの?あなたはここに居る16人の人生を決める重要な試験を妨害したのよ」
シェランに言われてレナは初めて涙を浮かべた。
「ごめん・・・なさい、シェラン。あなたが居るなんて知らなかったの」
どうやらこのレナという少女にとって、シェランは特別な人間らしい。その変貌ぶりは凶暴な山猫が、都会の飼い猫に変わったのを見るようだった。
「だってね。SLSはここを訓練用の施設にするつもりなのよ。ここには私のママや35人もの仲間達が眠っているのに。そして散々使ってその後は壊してしまうって・・・」
「そんな話を何処から聞いたの?」
「僕のママが言ってたんだ。ママはマイアミによく出かけるから色んな事を知ってるよ!」
ジミーが口を挟んだ。シェランは小さく溜息を付いて彼を見つめた。
「あなたはジミーね?こんなに大きくなって・・・」
シェランはレナの前に膝を付くと、彼女の顔を見上げてその両手で頬を包み込んだ。
「レナ。SLSが5THを買い取ったかどうか知らないけど、5年前の事件を彼等は忘れたりしないわ。ここであなたのママを含む36名もの人達が死んでしまった事も・・・。
何故なら、彼等はライフセーバーだから。自分が救うべき命を救えなかった、その記憶を消してしまったりはしない。いつだってそんな命の重みを背負っているから、彼等はどんな危険な海にでも出て行くの。分かる?だからあなたが思っている様な事には決してならないわ。そうでしょう?」
「シェラン、ごめんなさい。ごめんなさい・・・」
シェランはレナを抱きしめると、周りで呆然と成り行きを見ている仲間に言った。
「みんな、どうか許してあげて。この子達、ママや仲間のお墓を守ろうと必死だったの」
彼女達のやり取りを聞いていた受験生達には、もう怒る気力など失せていた。子供に翻弄されていた自分が恥ずかしかったというのもあるが、それよりもシェランの言葉にライフセーバーの真の心を教えられたような気がしていた。
― 自分が救えなかった人々の命を背負って、次の救助に向かう ―
どんなに救いたくても救いきれない命は、これから彼等がライフセーバーとして生きていく内に必ずあるだろう。それをしょうがなかったんだと切り捨てて生きていく方が、ずっと楽に違いない。だが、SLSのライフセーバー達はそれを決して忘れず、自らの心に刻み付けて次の救助に向かうのだ。それが彼等の目指す、ライフセーバーという仕事なのだ。
でもその前に、この最終試験に合格しなければ話にならないよな・・・。ジュードは思わず頭を掻いた。
理想ほど現実は甘くないのだ。きっとSLSは大西洋上で行方不明になった受験生を探しているだろうが、試験の最中に行方不明になるようなチームを認めてくれるとはとても思えない。かといってこんな子供達を連れ帰って、彼等のせいで行方不明になっていました、と言い訳をしても、信じてもらえるかどうか分からないし、恥の上塗りもいい所だ。
さて、どうすればいいかな・・・。ジュードが頭を悩ませていると、レナの携帯電話がけたたましく着信音を鳴り響かせた。
「あのバカ娘め!」
怒りで顔を真っ赤にしたアーロンが無線電話を切るのを、ジョンは不安げに見つめた。トニーからの電話の後、アーロンはずっとレナの携帯に電話を掛け続けていたが、一向に出てこようとしなかった。
当然と言えば当然だが、レナは丁度ジュードやシェラン達を乗せたライフシップを誘導しながら、5THに向かう途中だったのだ。ローター音の激しいヘリの中では、携帯の呼び出し音など聞こえるはずも無く、例え聞こえていても父からだと分かれば、レナは出なかっただろう。
「あのバカ娘!帰ってきたらぶん殴って・・・いや、謹慎だ!暫くここから出さないからな!」
そんなことで降参するような子じゃないけどな・・・。
ジョンはいつかレナが5THの為に何か行動を起こすのではないかと懸念していた。5THはレナにとって特別な場所だ。例えどんな姿になってもあそこは故郷であり、生まれ育った家であり、そして母が命を懸けて守った場所である。レナにとって5THは聖域なのだ。それを侵されたら・・・。
アーロンにもそれは分かっていた。だからこそ、13歳の娘が仲間を連れて何かしでかそうとしている事は、充分予想できたのだ。
― くそっ、どうすればいいんだ? ―
焦りからアーロンは、手にしたコーヒーの苦味も忘れて、それを一気に飲み干した。その時いきなり無線の呼び出し音が鳴り響き、アーロンは飛びつくように無線機を拾い上げた。
「レナか?」
『久しぶりだな、アーロン。娘はそこに居ないのか?それは残念だ』
スピーカーの奥から響いてきた、滑りのある低い男の声に、アーロンは聞き覚えがあった。いや・・・忘れるはずなど無い。5年前、ただ一度だけ聞いたあの声を・・・・・。
「お前・・・は・・・」
『覚えていてくれたか?だが君は私があの時最後に行った言葉を忘れてしまったようだな。今度は5THより大きな採掘場に移ったそうだな。どうだ?アルガロンは快適か?』
アーロンの声も受話器を持つ手も小刻みに震えていた。じっとりした脂汗が首筋を流れていくのを感じる。この男がここに電話をかけてきた以上、既に始まっているという事だ。5年前のあの日のように・・・。
「何故、俺達ばかり狙う?何の恨みがあるんだ?」
『ああ、アーロン。勘違いしないでくれ。私がこの5年間、何もしてこなかったと思っているのかい?ついこの間も、アラスカ北極圏の国立野生生物保護区で世界中から反対されているにも関わらず、地質調査隊が石油の調査をしていたのでね。彼等の基地を綺麗に破壊しておいたよ。これで暫くは北極グマも安心して子育てが出来るだろう』
男は事も無げに言った。
「その為に何人殺したんだ?10人か?20人か?」
「ほんの15,6人だ。気にするな。私の行為に一部の自然保護団体は拍手を送っているよ。天罰が下ったとね』
ああ・・・。冷たく氷に閉ざされた地で、いきなり命を奪われていく者達は最後に何を思っただろう。何故、我々が・・・?何故・・・?
この男には何を言ったって無駄なのだ。彼にあるのは、ただ己の真実と目的を果たすことだけなのだから・・・。
「お前は・・・神か・・・?」
『神?神ならこんな回りくどい事はしない。人間を滅ぼす時は一気にやってしまうだろう。そう。この地球ごとね。私はただの人間だから、一つ一つ努力していくしかないのだよ。大いなる力に対抗する為に・・・。アーロン。5年前に言ったはずだ。生き残ったのなら戻ってくるべきではなかったな。君はこの私と一生、戦い続けるつもりか?』
「そんなつもりなど・・・無い」
いや、本当はひねり殺してやりたい。地の果てまで追いかけても・・・。この男はリリアンを殺した男なのだ。だが今のアーロンにはこのアルガロンの仲間を守る事、それだけだった。
「俺の仕事はこれしかないから、ここに居るだけだ。頼む。俺はここに残るから、他の奴等は逃がしてやってくれ。皆、本土に家族が居るんだ。ただここに居たというだけで巻き込まないでくれ」
『アーロン。5年前に証明しただろう?私にはどんな泣き言も通らない。それが・・・私だ』
彼が冷たく言い放ったその瞬間、採掘プラットフォームから ―ドンッ― という重く響く音と共に火の手が上がった。ジョンがそれを見てオロオロしながらアーロンを振り返った。
「おやっさん!」
― くそっ・・・ ―
息を呑み、彼は目を閉じた。5年前、5THを焼き尽くしたあの悪夢が脳裏に蘇る。
『アーロン。15秒だけ時間をやろう。その後、全ての通信はシャットアウトする。何処にかけるか、ようく考えるんだな』
「待て!待ってくれ!」
『そんなに慌てることは無い。今日のはただのお遊びだ。常に私が側に居るのを忘れない事だな』
途切れた電話を握り締めたまま、アーロンはジョンの叫び声も聞こえないまま立ち尽くした。15秒・・・。どんなに短く切っても一度しかかけられない。どうする?政府か?SLS・・・それとも、石油会社に電話して全てに連絡を付けてもらうか?何処にかけたって取り次いでもらっている間にシャットアウトだ。
アーロンはとっさにリダイヤルボタンを押していた。