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SLS  特殊海難救助隊  作者: 月城 響
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第10部 漂流者 【1】

 クリスマスの次の日、ジュードは朝早くから自転車に乗ってシェランの家に向かっていた。今日もいい天気で、海も波も太陽の光を受けてキラキラと輝き、さわやかな風がジュードの頬を撫でていった。


 それにしても2日掛かる用って何だろう。


 なだらかなカーブの上り坂に入って、ペダルをこぐ足に力を入れながらジュードは腰を浮かせた。




 家の中の家具はこの間殆ど動かして模様替えは終えたはずだ。すると今度は外に違いない。何処から何処までが庭なのか分からない、あの広大な庭の草むしりだろうか。


 まさか2日も草むしりをしろとは、いくら鬼教官でも言わないと思うが・・・。




 暫くそのまま坂道を上り、下りの緩やかにカーブした道を走り抜けると、小高い丘の上に建つ白い屋敷が見えてくる。


 まさかあの家の壁を塗り直すとか・・・?


 それなら2日は軽く掛かる。いや2日どころでは済まないだろう。これは相当疲れる作業だ。


「壁塗りかぁ・・・」


 ジュードはがっくりと肩を落としてシェランの家のインターホンを押した。





「ジュード、ドアを開けて!」


 玄関の中からシェランの声がしたのでノブを引くと、目の前に沢山の花が現れた。びっくりしているジュードにシェランは両手に抱えた花束を渡すと、もう一つある花束を抱き上げ玄関を出てきた。


「シェラン?これ何?」

「何って、花束よ」


― それは見れば分かるが・・・・ ―


 ジュードはいつもより更に暗い服に身を包んだシェランの後ろに付いて車庫まで行くと、車の後部シートに花束を乗せ彼女の隣に座った。


 それにしてもシェランは機嫌が悪いわけでもないのに何故か無口で、何処に行こうとしているかも言わなかった。それに黒のジャケットに黒のロングスカートなど訓練校でも着てないほど地味である。まるで喪服のようだ。


― 喪服・・・? -


 そう思った時、ジュードはふと先月の終わり頃の事を思い出した。


「この間シュレイダー大佐が来ていたけど、シェランをわざわざ港まで呼び出したのは何か訳があったんじゃないのか?」

「ああ、そうなの。ジュードの前にあるダッシュボードの中に入っているわ。開けてみて」


 中には黒い小箱があったが、ジュードはそれに見覚えがあった。開けてみると中身はやはりウェイブ・ボートでシェランに送られてきたハリソン社製のダイビング・コンピューターであった。 


「今回の件の礼だと言ってヘレンが私とジュードにくれたのよ」

「オレに?オレは機動だし、キャシーか潜水の奴にやった方がいいんじゃないか?」


「私もそう言ったけど、ヘレンが“少年に渡しておけ。その内また使う事になる”って言ったの。きっとジュードにはウェイブ・ボートの件で感謝してるんだと思うわ」


 感謝している・・・?この間会った時はそんな風には見えなかったが・・・。

しかも“また使う事になる”とは不吉な言葉だ。それはまたあの男の事件にシェランを巻き込むという意味だろうか。



 結局、何故今日呼び出したのか明確な理由を聞けないまま、ジュードはそのまま黙り込んでしまったシェランとマイアミ港までやって来た。




 開放的な港の中を大きな花束を抱えて歩く男女の姿に -しかも女性の方は暑苦しい黒のスーツを着て― 今からレジャーに出ようかという軽快な姿の人々は注目していたが、シェランはそんな人々の視線も目に入らないようだった。



 やがて入り江に止めてあるプレジャーボートに乗り込むと、シェランは真水を入れた二つのバケツに花束を一つずつ差し込んだ。


「遠出になるから、水のタンクも一杯にしておいたわ」


 何気なく呟いたシェランの言葉を聞いて、ジュードは今から出かける場所が相当遠い事を悟った。


「一つ聞くけど、この船は誰が操船するんだ?」

「もちろん私よ。心配しないで。チーフオフィサー(一等航海士)の免許は持っているわ」




 チーフオフィサーというのはこの間エバが落ちた免許だ。彼女が聞いたらうらやましがるだろうが、当然シェランはエバの気持ちを考えて免許の事は何も言ってなかった。


 以前キャシーが「教官はね。ライフセーバーとして必要な免許は全て持っているのよ。だからここの教官連中は誰も頭が上がらないの」等と自分の事のように自慢していたが、これはもうライフセーバー以上である。


 入学当時シェランに“無資格”と言われて取れる限りの免許は全て取ってやろうと考えていたジュードだったが、とてもではないが一等航海士の免許など手が届くはずも無かった。


 ジュードはやすやすと狭水道を抜けて離岸していくシェランをチラッと横目で見た後、小さく溜息を付いてコーヒーを入れる為に給湯室へ向かった。




 甲板に出てコーヒーを片手にゆっくりと遠ざかっていくマイアミの港を見ながら、ジュードはさっきのシェランの言葉を思い出していた。


 このボートは300時間も航行が可能なタイプなので遠洋航海も出来るはずだ。水のタンクを一杯にという事はやはり遠洋まで行く気なのだろうか。それだと今日中に戻れなくなる。まさか泊まりって事は無いよな・・・。


 ジュードは手すりの上で頭を抱え込んだ。いくらシェランの頭の中が子供でオレの事を生徒としか見ていないとしても、こんな密室状態な所に男と2人で泊まる事に全く抵抗を感じてないのだとしたらちょっと問題だぞ。


 ここは一つちゃんと分かるまで話をする方がいいのかもしれない。シェランはオレの事を子供と思っているみたいだがオレは男なんだぞとか、シェランは女としての自覚が無いんじゃないかとか、この際だから今まで我慢してきた事を全部言ってやる。


 クリスやロビーにもこんな調子じゃ絶対ヤバイんだから。(特にクリスは)


 大体シェランはこういう事に疎いし鈍いし(自分の事は棚に上げている)おまけに訳の分からない所でいきなりこけたりするし、危なっかしくて目が離せないよ。やっぱり中身が魚だから陸の生活は苦手なのかな?



 ジュードが勝手にシェランを半人半魚にしてしまった所で、シェランが先程ジュードがコーヒーメーカーで落としていたコーヒーを入れて船の中から出てきた。彼女は甲板に置かれた白いプラスチック製のテーブルセットに腰を掛けると、かごに入ったクッキーをテーブルの上に置き、ジュードにも勧めた。


「操船は?」

「オートパイロット(自動操船)にしてきたから目的地まで殆ど触る必要は無いわ」

「ふーん。で、目的地って何処?」


 シェランは肘を付いて顎を手の甲に乗せると困ったように笑った。


「もう、分かってるんでしょう?」


― やっぱりそうか・・・ ―


 あの二つの花束はシェランの父と母の為に用意されたものなのだ。この間ヘレンが来た時にシェランの両親が死んだ場所を教えたに違いない。結構いい所あるじゃないか。あの重戦車みたいな・・・いや、SEALだから空母か駆逐艦の方がいいか。



 ジュードはシェランに良かったなと言おうとしたが、彼女の沈んだ顔を見て不思議に思った。


「やっと墓参りに行けるのに、うかない顔だな」


 シェランはコーヒーを一口すするとジュードから目をそらして海を見つめた。自分の気持ちをどう説明したらいいのか考えているようであった。


「おかしいでしょ?ヘレンに両親が死んだ場所も教えてくれないって言っておいて、いざ教えてもらったら行くのが怖くなるなんて・・・」

「怖い?」


「ジュード、気付いてた?私、両親が使っていた食器や部屋も全部そのままにしてあるの・・・」




 確かに部屋の模様替えをする時、両親の部屋のドアが開いていたのでちらりと見たが、彼等が暮らしていた頃のままにしてあるのは気づいていた。


「本当に変でしょう?もう8年もたっているのに、未だに父と母がこの世界から居なくなってしまったって信じられないの。ある日突然『ただいま、シェラン。ちょっと海に長居しすぎたよ』なんて冗談を言いながら戻って来てくれるんじゃないかなんて・・・。そんなこと有り得ないのに・・・」



 まるで泣いているように唇の端を震わせているシェランがどれ程両親を愛していたのか、改めてジュードは気が付いた。家の中に彼等の気配がすっかり消えてしまってもシェランは至る所に両親の写真を飾り、彼等と共に暮らして来たのだ。8年間も・・・。


「オレの親父も1週間行方不明だったんだ。その間オレとお袋はずっと待ってたよ。物音がする度に玄関に走って行ったり、電話が鳴ったら『父さん?』って呼んで出てみたり・・・。もう絶対ダメだって心のどこかで分かっているのに、諦められなかった。


 もしかしたらどこかの浜に打ち上げられていて、助かってるんじゃないか。そうだ。きっと明日には戻ってくる。1週間後に遺体を確認するまで、オレ達はずっとそう信じ、願い続けてきた。もし親父がシェランの両親のようにずっと行方不明だったら、オレもお袋もきっと待っていた。今のシェランと同じように・・・・」


 シェランは泣きそうなほど悲しい眼をしながらもジュードに微笑みかけた。


「やっぱりあなたに来て貰って良かった」


 彼女はテーブルの上に置かれた彼の手を握り締めた後、自分のキャビンに戻って行った。




 ついさっきまで懇々と説教をしてやろうと思っていたジュードだが、付いて来て本当に良かったと思った。あの様子では両親が沈んだ場所に行ったら、自分自身も飛び込みかねないだろう。


「もう、2日でも3日でも好きにしてくれ。いくらでも付き合うからさ」


 ジュードは諦めたように呟くと、椅子の背にもたれ掛かって大西洋と同じ青く透き通る空を見上げた。




 暫くキャビンにこもっていたシェランがそこから出て来た時は、もうすっかり元気になっていた。彼女は少し早いが昼食の準備を始めた。何しろ船の旅はあまりする事が無いので、食事が一番の楽しみなのだ。


「ジュード、出来た?」

「まだだよ!」


 ジュードはフライパンを豪快に振っているシェランの後ろにあるテーブルで、片手で頭を抱えながらペンを走らせていた。


「何だ?ボートシャーク(アオザメ)とサンドタイガー(シロワニ)、サーモンシャーク(ネズミザメ)の生態と海洋分布を述べよ?鮫の生態なんかライフセービングに関係あるのか?」


 ジュードはぶつぶつ呟いた。でももし救助に行った先で、人が鮫に襲われていたら確かに彼等の生態を知っておいた方がいいだろう。


「サンドタイガーは知ってるぞ。ダイバーに人気のある鮫だ。確か大西洋、地中海、紅海辺り・・・。生態は・・・と、顔は怖いがおとなしい奴・・・と」

「ジュード、それじゃあ答えになってないわ」


 シェランが山盛りに盛ったサラダを持って、彼を上から見下ろしていた。


「例えば体色はライトブラウン。腹は白く褐色の点がある。がっしりとした体つきで、第一、第二背びれは同じ大きさ。絶滅危惧Ⅱ類に指定されている・・・とか」

「そんな事まで知らないよ。見た事も無いのに・・・」


「あら、でもクリスが言ってたわよ。『ジュードは休みの間に図書室の本を全部読破してるんじゃないか?海に関する知識は凄いよ』って」

「金が無いから遊びに行けないだけだよ」


 ジュードはムッとして答えた。いくら褒め言葉でもシェランからクリスの話題が出るのは余り面白くなかったからだ。


「それからこうも言ってたわ。『彼は予習や復讐も力を入れているから、休み明けのテストはいつも高得点だ。今度ジュードにだけ特別問題を出してやろうかな』」


― 冗談だろ? -


 ジュードは更に腹を立てた顔をシェランに見られたくなくて彼女から顔を逸らした。大体クリスが何かと言うと『はい、Aチームのリーダー答えて』と授業中オレを指名するんじゃないか。答えられなかったら『チームのリーダーがそれじゃ困るぞ』だし、やらなきゃしょうがないだろう。


 これは絶対オレとシェランが近頃よく会っているから気に入らないんだ。そりゃあ確かにクリスの方がシェランと付き合いが長いから腹が立つのは分かるけど、毎日会う位いいじゃないか。どうせシェランはオレの事を少年としか思ってないし、後1年と半年もしたらオレは・・・・。


「ジュード」

「え?」

「どうしたの?世界の海難事故の起こりやすい場所よ。授業で習ったでしょ?」


 シェランはもう次の問題に進んでいたらしい。


 どうしよう。考え事をしていたらボートシャークとサーモンシャークの説明を聞きそびれてしまった。後で質問されたら困るな。


 ジュードは海難事故の良く起こる場所に印を付けながら思った。



「所でこのテストは何なんだ?やたらと広範囲だな」

「ああ、これはね。以前に行なわれた最終試験の問題よ。授業で役立つかと思って集めておいたの。ジュードが今解いているのは3年前、つまり今の3年生がくぐり抜けてきた試験よ」



 ジュードは眉をひそめながら、もう一度問題を見た。今だから分かる問題もあるが、入学する前の自分なら間違いなく落とされていただろう。当然Aチームもキャシー以外は殆どアウトだ。


 実地試験で良かったと心の底から思うジュードであった。




 勉学の後の食事はひときわおいしいものだ。特に今日は休みを返上して付き合ってくれているジュードの為に、シェランが心を込めて作っただけあって彼の好きな物が一杯並んでいた。


「うまい!この海老のサラダ。それからこのスパイシーなチキン。うまいなぁ!」


 そんなに慌てて食べなくてもいいのにと思いながらシェランはくすっと微笑んだ。


「それはバッファローチキンウィングって言うのよ。バッファローの名物なの」

「何にしてもうまいよ!」


 シェランは照れたように笑うと、蛸のカルパッチョにフォークを入れた。


「そうだ。お返しは何がいい?」

「お返し?」


 ジュードは何の事か分からないように顔を上げた。


「クリスマスプレゼントのお返しよ。そうだ。帰ったらマイアミのダウンタウンに見に行きましょうか。そうしたらジュードの好きな物も買えるし、それにAチームのみんなにもお返しがしたいわ。一緒に選んでくれる?」


 シェランはジュードがお返しを断るのを見越してAチームの名前を出した。こう言えば彼はきっとイエスと言ってくれるはずだ。


 ジュードはちょっと考えてから「じゃあ、鞄を買って。もう破れそうなんだ」とまるで弟が姉に甘えるように言った。


 確かにジュードの鞄はいつか破れそうでハラハラする。物を大切にするのは良い事だが、多分彼の場合は余計なお金が無かったのだろう。


「ええ、いいわよ」

「それから・・・」

「それから?まだ何か買って欲しい物があるの?」


 シェランも姉のように笑った。


「いや、さっき解いてた問題。まだ一杯ある?」

「ええ。家のコンピューターに保管してあるけど」

「じゃあ、休みの間中シェランの家に行って勉強してもいい?この問題を全部解いてみたい」


 シェランは教官冥利に尽きるその言葉に嬉しそうに叫んだ。


「まあ!やる気満々ね。いいわ。休みの間中、みっちり勉強を見てあげるからね!」

「うん。ありがとう、シェラン」


 これで休暇中のシェランは独占したぞ。クリスが教官の立場を利用して攻撃してくるなら、こっちも生徒の立場を思い切り利用してやる。


 クリスの悔しがる顔が頭に浮かんで、ジュードはほくそ笑んだ。





 食事が終わるとジュードはデッキに出て釣りを始めた。今夜のおかずにスズキのバターソテーなんかあれば最高だろう。釣れるかどうかは別として・・・。



 冬だというのに大西洋の太陽は一向に衰える事は無く、午後の日差しは益々ジュードの肌に照りつけた。全く魚の釣れる気配の無い釣り糸を見て、小さく溜息を付くとジュードは立ち上がった。


 こういう時はひと泳ぎするに限る。ついでに魚も取って来ようかな。銛がないかあたりを見回した時、船の前方から赤い光が見えたような気がしたので、ジュードは舳先に行って目を凝らした。



 ちらちらと光る赤い光と白い煙が波間に揺れている。自己発煙信号(救難信号の一つ。発火させて身近な水面に浮かべ、要救助船の位置を知らせるもの)だ。


 ジュードは急いで船の中に飛び込んだ。


「シェラン!救難信号だ!」

「救難信号?船の探査装置には何の反応も無いわよ」


 シェランの船には衛星対応の緊急遭難信号方位探知装置が付いている。本来なら発煙信号を使う前に遭難信号用の信号を送ってから、救助に来た船に船の位置を知らせる為の発煙信号等を発火させるはずであった。


 だがSLSの訓練生のジュードが発煙信号を見間違えるはずは無い。シェランが急いでデッキに出て確認すると確かに20メートルほど先の波間に、赤い光が要救助船の位置を知らせていた。


「ジュード!ライフプレサーバーの用意!」

「了解!」




 シェランはすぐにブリッジに行くとオートパイロットを解除し「ポート10(取り舵10度)」と言いつつ舵を握った。ほどなく要救助船を見つけたが、それは船と言っても良くこんな遠洋まで来れたものだと言うほど小型のボートであった。


 船をそのボートに横付けして中を覗き込んでみると、男が1人ぐったりとして倒れている。ぼさぼさの黒髪や汚れた衣服が何日も漂流していたのを物語っていた。


 ジュードはボートに乗り移ると、上から男の様子を窺った。


「どう?生きてる?」

シェランもその船に下りる準備をしながら聞いた。


 漁師を思わせる暗褐色の肌はかさかさに干からびて見えた。


― 死んでいるみたいだな・・・ -


 ジュードがその男の脈を見ようと腕に手を伸ばした時、男の目がカッと開いた。


「わっ!」


 てっきり死んでいると思った男の目が自分を見たので、ジュードはびっくりして後ろにしりもちを付いた。彼は驚いたように自分を見ている男女を見た後、ゆっくりと起き上がった。


「ああ、やっと助けが来たか・・・・」






 救助した男はモーガン・ロイドと名乗った。彼はマイアミのビジネスマンで、3日前久しぶりに自分のボートを出して釣りやダイビングを楽しんでいたが、ボートのエンジンが急に故障し、そのまま沖に流されて帰れなくなってしまったのだと説明した。


「それは大変でしたね。すぐにでもマイアミに戻って差し上げたい所ですけど、私達はどうしても行かなければならない所があるんです。早ければ今夜遅くにはマイアミに戻れますわ」


 シェランの言葉にモーガンはにっこりと微笑んだ。


「僕は構いませんよ、ミス・ミューラー。こちらこそ2人きりの所をお邪魔して申し訳なかったですね」


 ジュードとシェランは思わず互いの顔を見つめた。


「ちっ、違うんです。私達そんな関係じゃ。姉と弟みたいなもので。ね?ジュード」


 真っ赤になって否定するシェランをにっこり笑って見ると、ジュードはモーガンにシャワーを勧めた。



 3日間何も食べてなかっただろうモーガンの為に、シェランは食事を作り始めた。おそらく胃が弱っているので野菜等を煮込んだ温かいスープがいいだろう。



「シェラン・・・・」

 ジュードの声がすぐ耳元から聞こえて、シェランはびっくりしたように彼を振り返った。


「な、何?ジュード。どうかした?」


 彼はまるで辺りを窺うように見回してから声をひそめて言った。


「あいつ、なんだか怪しいって思わないか?」

「怪しいって・・・モーガンが?どうして?」


「彼はマイアミのビジネスマンだと言ったけど、ビジネスマンにしては陽に焼け過ぎてる」

「ジュードったら、マイアミで陽に焼けているのなんて当たり前だわ」


 シェランはすぐ側にあるジュードの瞳から顔を逸らすと、下を向いて野菜を刻み始めた。


「あれは普通の焼け方じゃない。まるで漁師のようにずっと潮風に晒されてきた肌だ。それにさっきシャワーを浴びている所を見たけど、随分鍛え上げた体つきをしていた」

「シャワー室を覗きに行ったの?」


 シェランは驚いたようにもう一度彼の顔を見た。


「着替えを持っていく時に見えたんだ。上と下は開いているだろ?ついでに彼の荷物を調べようと思ってね」

「荷物を・・・調べた?」


 シェランはびっくりしてジュードを見た。彼はいつからこんなに人を疑うようになったのだ?ウェイブ・ボートで信頼していた人に裏切られたからだろうか?


「シェラン。ここは密室と同じなんだ。そこに得体の知れない人間を入れる事がいかに危険かわかるだろ?あの男は何も持ってなかったんだぜ?車の免許どころか財布もだ。素性を示す物は何も。今時のビジネスマンが何も持たずに家を出るか?」


「忘れてきただけかも知れないわ。身体だってジムで鍛えているのかも・・・」


 シェランは胸の鼓動がだんだん早くなってくるのを押さえるように、ジュードの言葉に反論した。

何故彼はこんな事を言うのだろう。3日も海を漂っていた哀れな遭難者をどうして疑うのだろう。


「100歩譲ってシェランの言う通りだとしよう。じゃあ発煙信号は?あれはいい所5分間しか発煙しない。だがオレ達が行った時、モーガンは気を失っていた。つまり彼はオレが発煙信号に気付くほんの2、3分前までは起きていて、あれに火を点け海に浮かべた後、すぐに気を失ったという事になる。


 だがオレ達が行った時、彼はまるで船が近くまで来ていた事を知らないかのように言った。『やっと助けが来たか』じゃあ、彼は何故発煙信号を点けたんだ?まだあるぞ」


「ジュード・・・」


 ジュードはシェランに言葉を挟ませずに話し続けた。


「さっきオレはわざとシャワーを勧めたんだ。オレなら3日も飲まず食わずに漂流していたら、シャワーなんかよりまず水と食べ物を要求するね。『何でもいいから食べさせてくれ』今、シャワーを浴びている彼にそんな危機感を感じるか?」


「ジュード!」


 シェランは握り締めた手を彼の胸に押し当てると、悲しそうな顔で彼の顔を見上げた。


「あなたがルイスの事で傷ついているのは分かる。でもそんな風に人を疑ってばかりいてはいけないわ」


 ジュードは驚いたような、戸惑ったような瞳をシェランに向けた後、それ以上何も言わずにその場を離れて行った。





 モーガンの食事をテーブルの上に並べながら、シェランはさっきのジュードの表情を忘れられずにいた。彼を傷付けてしまっただろうか。ジュードはきっと私の事を心配して考え込み過ぎているのに・・・。


 ふと背後から人の気配がしてシェランはドキッとして振り返った。


「うまそうな匂いだ。僕の為に?」


 モーガンが頭からタオルを掛けてテーブルの向こうに立っていた。


「ええ、そうよ、モーガン。どうぞゆっくり召し上がって」






 夕方になると海上を吹く風も少し冷たく感じられる。そんなさわやかな風がくせのある髪を巻き上げ、頬を撫でて通り過ぎていくのを感じながらジュードはぼうっとして水平線を見つめた。


― ルイスの事で傷ついてる・・・? -


 確かにあの時自分で彼を追い詰めながらも、彼の口から真相を聞くまでは信じたくなかった。ルイスが本気で残りの爆弾を爆発させた時は、ここに居る全員を殺す気だったと知ってショックだったのも間違いない。だからオレが判断を誤っているっていうのか?


 ヘレンは確かにあの時、躊躇して彼を撃てなかった。10年もの彼と過ごして来た年月が、彼女の鋭敏な判断力を鈍らせたのだ。ヘレンの心の傷に比べたら、オレのショックなんて大したものではないだろう。


「シェランの言葉の方がよっぽどショックだよ・・・」


 彼女はまるで悪の道に走ってしまった生徒を哀れむような目でジュードを見ていた。


― そんな風に人を疑ってばかりいてはいけないわ・・・ -


 疑っているばかりでは無いと思う。でも疑わなかった為に取り返しのつかない事になるんだ。


「あの日のように・・・・」


 ジュードにとっての“あの日”はたった一日しかない。何度後悔しても取り戻す事の出来ない日・・・。


― 父さん、帰ろうよ ―

― まだ大丈夫。崩れやしないさ・・・ -


「昨日は取り戻せないんだ。だからオレは今日をどんな事をしても・・・」


 ジュードは何かを思い立ったように急いで船の中に戻って行った。




 夕食の時間になった。ジュードはシェランを見ようとせず、黙々と食事を口に運んでいた。


― やっぱり、怒ってるんだわ・・・ ―


 シェランは彼をチラッと見上げた後、再びうつむいた。どうしよう。かなり距離があって今日中には到着できない事を伝えないといけないのに・・・。


 こんな風に押し黙った彼と食事をするのは初めてで、なんだかいたたまれなかった。何か言おうとしても冷たい返事が返ってきそうで、怖くて話しかけられなかった。長い間ずっと1人で暮らして来たシェランには、こんな時どうしたらいいのか分からなかったのである。


 急にジュードがフォークを置いたので、シェランは彼がこのまま黙ってキャビンに戻ってしまうだろうと覚悟した。


「モーガンは?」

「え?」 


 予想外にジュードが話しかけて来たので、シェランはびっくりして顔を上げた。


「おなかが一杯になって眠くなったって。キャビンで寝ているわ」

「そう」


 ジュードはテーブルの真ん中に置かれたパンを取ると、二つに割りながらシェランに笑いかけた。


「考えてみたら何も持ってないという事は丸腰って事だし、それにこっちは2人なんだ。そんなに心配する事は無いよな」


 シェランはホッとしたように切り分けたバターを彼に差し出した。


「私の事を心配してくれてたんでしょ?」

「シェランが人質になったらオレは手も足も出ないからね」

「大丈夫よ。SLSの鉄の女は結構強いんだから」

「あれ?その名前、ヘレンにあげたんじゃなかった?」



 ジュードが冗談を言って笑い始めたので、シェランもやっと目的地には今日中に着けない事を彼に話すことが出来た。


 ジュードは「構わないよ。休みはまだ10日もあるんだから」と言った後、モーガンには目が覚めた頃を見計らってオレから伝えると告げて席を立った。






 日が暮れるとシェランはオートパイロットが正常に働いているかどうか確認し、自分のキャビンに戻って来た。モーガンは食事を終えて部屋に入ってから一度も出てこなかった。きっと疲労と安心感とで熟睡しているのだろう。


 ジュードも夕食の後からずっとキャビンに居るようだ。船はまるで海の上に居る事を感じさせないように物音一つせず静まり返っていた。





 両親が死んだという海域に近付くに従って、シェランの心もだんだん沈んでいくような気がする。彼等が死んだ場所に今更行って、私はどうしたいのだろう。2人がもう二度と戻って来ない事を自分の心に刻み付けたいのだろうか。家から持ってきた写真立てを手に取って、シェランは父と母の顔をじっと見つめた。




 17歳の時、マイアミの海で泳いでいたシェランをSEALが迎えに来たが、彼等の身分を聞くなりシェランは言い放った。


「私に協力して欲しかったら、パパとママを返してちょうだい。出なければあなた達になんか絶対協力しないわ」


 たかだか17歳の小娘も説得できない部下に業を煮やしてやって来たヘレンに対しても、同じように言い放った。


「あなた達が私の両親を殺したのよ。人殺しの手伝いなんか絶対にしないから」


 ヘレンは内心、はらわたの煮えくり返る思いだっただろう。だが彼女は任務の為に笑った。


「ああそうだ。私は軍人なのだから当然人殺しだ。そして今日から君もその仲間入りだな。自分しか救えない130人もの人間の命を見殺しにするのだから」



 こうして心ならずも5THの事件に関わる事になった。ウェイブ・ボートもそうだ。人の命を救う為なら敵のような彼等に協力したとしても、父と母は赦してくれるだろう。そう思いながらも心のどこかで両親に対して負い目を拭い切れなかった。


 私は謝りたいのかもしれない。パパとママに・・・。


 シェランの目に込み上げて来た涙が、両親の写真の上に音を立てて落ちた。


「明日ジュードの前で泣かないように、今の内に泣いておこうかな」


 そう呟いた途端、後から後から留めなく涙が零れ落ちてきた。




 15歳で両親を失うまで、シェランの人生はいつも光で満ち、輝いていた。父のクラブの会員や母の仕事の関係者で家はいつも誰かが居て笑い声が絶えず、少女の頃のシェランはみんなから愛され可愛がられた。両親が亡くなってもそういった人々が時折訪ねてくれていたが、3年も経つ頃には、シェラン1人きりの家に訪れる人はウォルター以外、殆ど居なくなった。


 それでも時折、彼等の墓に誰かが花を供えてくれているのを見ると、たまらなく寂しくなって夜独りで泣いたものだ。SLSの隊員になってからも随分年上で男ばかりの世界に馴染めず、辛くてベッドに入ると涙が出て止まらなかった。



 だが教官になってからのシェランは違った。彼女には守るものと目標が出来たのだ。シェランはまるで自分の子供のようにAチームの訓練生を愛していた。そして彼等を立派なライフセーバーに育て上げる事が、今のシェランの一番の目標だった。


 だから決して生徒の前では涙は見せないし、彼等の為に自分は強くなければならないと、いつも心に言い聞かせていた。



 それなのにウェイブ・ボートでジュードに泣いている所を見られてしまい、びっくりして大変な醜態をさらしてしまったように思った。おまけに彼がレイモンドに泣かされたと思い込んでいたので、余計困った事をしてしまったように感じた。


 ジュードは泣いていた理由をレイに帰って来いと言って貰って嬉しかったんだろうと思っているようだが、そんな事で泣いたりしない。確かにレイはそう言ってくれたが、あの時泣いていたのは・・・。


「違うのに・・・」


 シェランは思わず言葉に出したが、その理由を彼には言えなかった。いや、他の誰にも言う事なんて出来ない。ライフセーバーに憧れ、未来を夢見ている彼等には決して言ってはいけないのだ。




 狭い部屋で考え込んでいると嫌な事ばかり思い出してしまうので、シェランは少し夜風にでもあたろうとキャビンを出た。ジュードもモーガンも、もう寝台に入って眠ってしまったのだろうか。彼等のキャビンからは物音一つしなかった。


 細い廊下を通り抜けてデッキに至る出口を通ろうとした時、船の縁でじっと海を見つめているジュードに気が付いた。




 一体何を見ているのだろう。船が波を掻き分ける時に出来る白い波だろうか。だが夜の海のような彼の瞳は、もっとずっと深い海の底を見ているような気がして、シェランはふと不安になった。思い切ってジュードに声をかけようとしたが、彼は急にシャツを脱ぎ捨て、船の手すりに足をかけた。


「ジュード!」


 シェランの声に驚いて彼は手すりから足を離した。シェランは駆け寄ると、彼の腕を両手で握り締めた。


「シェラン?もう寝てたんじゃないのか?」


 シェランは彼の質問も聞こえていないように叫んだ。


「一体何をしているの?」

「何って・・・ちょっと潜ろうと思って。このD・Cの性能も試してみたいし・・・」


 ジュードは笑いながらダイビング・コンピューターをはめた左腕を上げた。


「駄目よ!素潜りは苦手なんでしょう?第一ナイトダイブなんて危険じゃない!」

「苦手だったのは1年の時の話だよ。それにウェイブ・ボートじゃずっとナイトダイブのようなものだったじゃないか」


「あの時はみんな居たわ。でもここは駄目。この海は嫌なの。行かないで、ジュード。行っては駄目よ!」


 シェランの目に涙が光ったような気がして、ジュードは驚いたように彼女を見つめた。爪が立つほどきつく握り締めている手はわずかに震えていて、まるで何かを恐れているようだった。


「シェラン?どうしたんだ。何かあったのか?」


 ジュードの手が頬に触れた瞬間、シェランはハッと我に返ったように後ずさりすると、彼を残して船の中に走り去った。



 オレが潜るのが泣くほど嫌だったのか?


 ジュードはとりあえず彼女を追いかけた。通りがかった廊下の隅に、シェランが両親の為に用意した二つの花束が暗がりの中で出番を待つように生けられているのを見て、ジュードはふと足を止めた。


― ここは駄目。この海は嫌なの。行かないで、ジュード・・・! -


 ジュードは花束の前で頭に手をやると「バカ野郎」と呟いた。


― 行かないで・・・ -



 あれは両親への言葉だ。シェランの愛する人達はこの海に沈んだのだ。もうすぐその場所へ行こうとしているのに、彼女の目の前で潜ろうとするなんて・・・。



 


 シェランはキャビンの中に飛び込むと、ドアを閉めるのも忘れて目の前のドレッサーに手をついた。


― 何てバカなんだろう。ジュードの前で二度も涙を見せてしまうなんて、教官失格だわ -


 自己嫌悪で再び涙が溢れてきた。彼がパパとママのように戻って来ないとでも思ったの?そんな事あるはず無い。それでも怖かった。この暗く深い海が同じ色の瞳をした彼を連れて行ってしまいそうで、シェランは止めずにはいられなかったのだ。


 彼女は肩を震わせながら顔を両手で覆った。




 鏡の前で小さくすすり泣いているシェランを見て、ジュードはどうしようもないほど後悔しながらキャビンの入り口に立っていた。シェランが泣いているのを見るのはこれで3回目だ。


 初めて見たのは、シェランは隠していたがキャシーが溺れた時、彼女の事を思ってい泣いていた。2回目はウェイブ・ボートでレイモンドの言葉によって。


 いずれにせよ、それは全て誰かの為であって、ジュードの為に流したものではなかった。だからもしシェランが自分の為に泣いてくれたら、それはきっととても嬉しい事に違いないとジュードは思っていた。


 だが違ったのだ。シェランが自分の事を心配して泣くのが、こんなに心の痛くなる事だったなんて・・。



「シェラン・・・」


 ジュードに声をかけられてシェランは急いで涙を拭き取った。目の前にある鏡のせいで彼に全てを見られていたとは気付かなかったが、泣き腫らした目は暗がりでもきっと分かってしまうだろう。シェランはなるべく平静を装って振り向かずに答えた。


「何?」

「ごめん。シェランの気持ちも考えずに潜るなんて言って」

「あ、謝る事なんて。私の方こそ変に騒ぎ立ててしまって、そんなに大した事じゃないのに」


 笑って振り返ろうとしたが、背中からジュードが両手で彼女の肩を握った。


「大した事じゃない・・・わけない。シェランの父さんと母さんの墓参りに付き添っているのに。もう向こうに帰るまで二度と潜るなんて言わないから。本当にごめんな」


 ジュードの両手から伝わって来るぬくもりは、きっと彼の優しい心なのだろうと思った。また目の奥が熱くなった時、シェランはやっと前にある鏡に気が付いた。泣き腫らした自分の顔のすぐ後ろにジュードが居て、彼の上半身が映っていたが、ジュードはさっきシャツを脱いだままの姿だった。


 シェランは急にカーッと赤くなって思わず下を向いた。


「あ、あの、ジュード。ありがとう。そんな風に私や両親に気を遣ってくれて・・・。でも、あの・・・その、服・・・服を・・・」

「え?」


 ジュードは何気なく下を見た後「わあっ」と叫んで彼女から離れた。


「ご、ごめん。寮じゃ男ばかりで気にもかけないから。ほんとごめん!」


 謝りながら逃げるように廊下を走り去っていくジュードを見て、シェランは赤くなった頬のままくすっと笑った。



 そんな彼等の姿をキャビンのドアの隙間から見ていたモーガンは、そっとドアを閉めると分厚い防水の窓ガラスから外の闇を見つめた。遠くから一瞬走った白い閃光に気が付いていたのは彼だけだっただろう。


 モーガンはそれに答えるように静かに笑った。


「まだまだ、夜はこれからさ・・・・」





 

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