第9部 夏の国に降る雪 【3】
― ニューオリンズ 12月22日 ―
ニューオリンズの町は、エバの生まれ育ったカリフォルニアのサンフランシスコとは随分違っていた。あちらこちらから香ってくる様々なスパイスのくせのある香り。黒人ミュージシャンがジャズを吹き鳴らすストリート。あちこちで公用語のように飛び交うフランス語やスペイン語。舌がしびれる程の辛い料理・・・。
最初はアクのあるこの町を余り好きになれなかったエバだが、キャシーの努力の甲斐あってか、又この街に来たいと思うようになった。
それでついつい長居をしてしまったのだが、今日はもう12月22日なのだ。そろそろ帰らないと実家の両親も心配しているだろう。エバは自分の前の席に座ってキャットフィッシュ(ナマズ)のフライを頬張っているキャシーにそれとなく切り出した。
「ねえ、キャシー。教官のプレゼントも買ったし、私もそろそろ家に帰ろうと思うの」
キャシーはハッとしたように手にしたフォークを置くと、うつむきかげんに答えた。
「そうね、もう22日だもん。ごめんね。長いこと引き止めちゃって・・・」
「ううん、そんな事無い。凄く楽しかったし、あたしもキャシーの生まれたこの町が好きになったし」
キャシーは嬉しそうに微笑むと「今夜はお別れパーティをしよう。腕を振るうわ」と右腕を振り上げた。
一晩でこんなに食べられるのかというほど食材を買い込むと、エバとキャシーはそれを両手一杯に抱えて帰って来た。キャシーの家が見える位置まで近付いた時、家の前に見慣れないライトバンが止まっている事に気が付いた。それを見てキャシーは思わず手に持っていた荷物をその場に落とした。
「キャシー、どうしたの?」
「ママよ!ママが帰ってきたんだわ!」
嬉しそうに家に向かって走り出したキャシーの後を、エバも荷物を拾い上げて追って行った。
― 何て素敵なクリスマスなんだろう ―
きっとキャシーには最高のプレゼントになるはずだ。エバが息を切らしながら家の前に到着した時、丁度キャシーも家の中から出てきた母親と出会っていた。懐かしさと嬉しさで泣き出しそうになっているキャシーとは対照的に、彼女の母はまるで他人を見るような冷たい眼をして、階段の上から娘を見下ろしていた。
「あら、久しぶりね。随分色が黒く逞しくなった事。SLSに入ったんですって?あそこはエリート校ですもの。あなたの頭が役に立ったのねぇ」
「ママ、帰って来てくれたんでしょ?弟は、ジョニーは何処に居るの?」
「冗談言わないで。なんであんな男の所に私が帰らなきゃならないの?ジョニーは新しいパパの所に居るわ。そう。私再婚する事になったのよ。それで正式に離婚届にサインを貰いに来たの。全く、あの男ったら、何度封書で送りつけても返してこないんだから」
キャシーの母は両手を大げさに広げながら階段を下りて来た。
「あんたも良かったじゃない。SLSには立派な寮が在るから、あの父親の顔を見なくて済むでしょう?」
「ひどいわ、ママ。確かにパパはどうしようもない所もあったけど、今は一生懸命やり直そうとしているのに・・・。そんな風に言ったらパパがかわいそう」
「かわいそう?」
母親はキャシーの側にも寄らず、とても煩わしそうな顔で彼女を見た。
「かわいそうなのは私の方だわ。あんな男とまだ夫婦だったなんてね。でもやっと縁が切れたの。ホントにせいせいしたわ」
手に持った離婚届をまるで見せびらかすように振る母を見て、キャシーは悔しさに唇を噛み締めた。きっと父にサインをさせる為に母は今と同じように、いやもっと酷い言葉で父を傷付けたのだろう。
この人はこんなに酷い人だっただろうか。キャシーの思い出に残る母は、優しくて笑顔のきれいな人だった。それはキャシーがそうであって欲しいと、心の中で勝手に作り上げた偶像だったのだろうか。
「そうね、おめでとう。やっとママは自由になった。パパと縁が切れて嬉しいでしょう?そして私との縁もね!」
彼女はチラッとキャシーを見たが、何も言わずに背中を向けると、さっさと車に乗り込んでエンジンをかけた。
「頭の良すぎる子は苦手だわ・・・・」
キャシーの母親の余りにも冷徹な態度に、エバはただびっくりして彼女達のやり取りを見ていた。
― 何なの?あの母親は。あれでも実の母親なの? ―
エバにはこんな酷い親がこの世に存在する事が信じられなかった。
キャシーは自分の心が傷ついた事よりヘルマンの方が心配になり、家の中へ入って行った。しかしそこで彼女が見たのは、以前母が出て行った時と同じように、酒をあおって机の上にうつぶせになっている父の姿だった。
「パパ・・・・」
自分を心配して背中にかけられた娘の手を、ヘルマンは煩わしそうに払いのけた。
「お前もどうせあの女と同じなんだろう。僕の事が邪魔なんだろう。だったらとっとと出て行け。あの女と一緒に行ってしまえばいいさ!」
「パパ。私はママとは行かないわ。言ったでしょう?ずっとパパと一緒に居るって・・・」
「嘘だ!」
ヘルマンはふらふらした足取りで立ち上がるとキャシーを指差した。
「女はみんな嘘つきだ。お前も一緒だ。お前はずっとあの女と一緒に出て行きたかったんだろう?あの女が出て行った後、お前はずっと窓から外を見ていたじゃないか。いつかあいつが自分を迎えに来てくれると願っていたんだろう。僕から離れたくてしょうがなかったんだろう!」
確かに最初の頃はそうだった。いつかは母が自分を迎えに来てくれる、ずっとそう思って待っていた。だが、待っても待っても母は帰って来なかった。自分が母に捨てられたのだと気付いたのは、彼女が出て行ってから1年たった頃だった。
「パパ。私もママに捨てられたんだよ。だから一緒に生きていこう。私、一生懸命頑張るから、ね?」
「もういい。もういらないんだ、そんな言葉は。お前だって出て行ったじゃないか。SLSなんかに入って、寮に入って、ここに居たくなかったからだろう」
「違うわ。SLSに入ったのは私の人生の為よ。いつまでもママを待って、自分の人生をダメにしたくなかったから。パパを見捨てるとか、ここに居たくなかったとか、決してそんなんじゃないわ!」
「いいから帰れ。SLSに行ってしまえ。フロリダだろうと何処だろうと好きにすればいいさ。出て行け!」
ヘルマンは酒の入ったグラスを掴むと近付こうとした娘に向かって投げつけた。とっさにキャシーは身をかわしたが、グラスは彼女の後ろの壁に当たって激しい音をたてて砕け散り、割れた破片が彼女の頬をかすめ飛んだ。
「キャシー!」
エバの叫び声が響いた。キャシーは頬に流れる血をぬぐい取ると、それをじっと見つめた。
「そう。そんなに邪魔なの。ママにとってもパパにとっても、そんなに私は要らない子なんだ。もういい。分かったわ。そんなに私が目障りなら消えてやるわよ!」
そのまま飛び出していったキャシーを追う前に、エバは力なく椅子に座り込んだこの男に、どうしても言ってやりたいことがあった。
「このバカ親父!キャシーがどんな思いで毎月あんたに手紙を書いていたと思っているのよ。ここに戻ってくるのがどんなに不安だったか分かる?例えあんたが振り向かなくても、あの子は一生あんたに手紙を送り続けていたわ。何でだと思う?愛しているからじゃない。それなのにあの母親といい、あんたといい、それでも親なの?あの子がどんな思いで生きてきたかなんて、何にも分かってないじゃない!」
それでもヘルマンがうつむいたまま立ち上がろうとしないので、エバは「もう、バカ!」と叫んで外へ飛び出した。キャシーを呼んで辺りを探してみたが、彼女の姿はもう何処にも無かった。
地元のサンフランシスコならともかく、ニューオリンズはエバにとって全く未知の世界で、キャシーの行く先など見当も付かなかった。彼女は途方にくれたように友の名を呟いて、その場に立ち竦んだ。
一方、太陽の国に残ったシェランは、久しぶりに生徒や授業から解放されて、のんびりと過ごしていた。年が明けてすぐ行う予定の潜水課のテストの準備も終わると、シェランには泳ぐか潜る以外に休日の過ごし方は無かった。
無論、カーナル・オブ・ザ・フィッシュの異名を持つ彼女にとって、一日中誰にも気兼ねなく水の中に居られるのはこの上なく幸せな事だろうが、クリスマスが近付くにつれてシェランの潜水量は減っていき、近頃は部屋の中で過ごしている時間が増えていた。
いつも夕刻になると届くキャシーからのメールも今日は来なかった。仲良しの2人からはニューオリンズの町で何を食べたとか、何処に行って何をしたとか、写真付きの詳しいメールが殆ど毎日入ってくるのだ。おかげでシェランはニューオリンズに行った事が無いのに、随分その街に詳しくなってしまった。
シェランはコンピューターを覗いてメールが届いてない事を確認すると、小さな溜息を付いて側の椅子に腰掛けた。クリスマスが迫ってくるに従って、だんだん落ち着かなくなってくるのは何故だろう。
「全く、ジュードったら。今日はもう22日よ。帰れないなら帰れないで、ちゃんと連絡ぐらいして来なさい」
そう呟いた時、急に電話の音が鳴り響いてドキッとした。
― やっぱり、帰れないんだわ・・・ ―
シェランは口を尖らせて受話器を取った。
「ハロー、シェラン。久しぶり!元気にしている?」
「メリーアン・・・?」
高校時代の友人の声にシェランはホッとしたように微笑んだ。
「ねぇ、今年もクリスマス・パーティをしない?又あの女の子、連れていらっしゃいよ」
「キャシーは今実家に帰っているの。今年はいつ?」
本部隊員だった頃はいつ呼び出しがあるか分からないので、クリスマスなどあって無きが如しであったが、教官になってからは長期の休暇がちゃんとある。隊員時代よりずっと教官の方が大変だとクリスも良く言うが、この長期休暇だけは特権であった。
「25日よ。シェラン、空いてるでしょ」
「え・・・」
友人に聞かれるまでも無く“空いている”と思われているのも何であるが、確かにシェランにはクリスマスを一緒に過ごす男性など今まで居なかった。
「ご、ごめん。25日はちょっと・・・」
シェランは言いにくそうに断った。
「それって、約束があるって事・・・?」
「う・・・うん・・・」
しばしの沈黙の後、電話口の向こうで集まっている女友達にメリーアンは叫んだ。
「みんな、ニュースよ!とうとうシェランにステディが出来たわー!」
それを聞いてシェランはびっくりした。
「ちょ、ちょっと、メリーアン?違うわよ。ステディなんかじゃないんだから。聞いてる?メリーアン!」
しかし電話口の向こうからは女の子達の騒ぎ声が聞こえるだけで、メリーアンの返事は無かった。
「おめでとう、シェラン!良かったわね!」
「ジェ、ジェーン?違うわよ。違うの!」
だが言い訳をする前にすぐ次の友人に代わってしまった。
「とうとうマイアミ高校の鉄の女を落とす男が現れたのね。紹介しなさいよ」
「だから違うって、ミラ・・・」
「ピーターやランス、クレーグやジョージ。みんな泣くわよぉ。シェランに憧れてた子、一杯居たからね」
「サ、サリー?」
女の子達の「頑張ってね。メリー・クリスマース!」という大合唱で電話は一方的に切られてしまった。シェランは大きな溜息を付いてベッドの端に座り込んだが、今度は机の上に置いた携帯電話の着信音にびっくりして立ち上がった。表示を見るとエバからだった。
「エバ、どう?そっちは。今日はメールじゃなくて電話なの?」
シェランは明るい声で呼びかけたが、電話口の向こうからは、泣きながら鼻をすする音が聞こえてきた。
「きょ・・教官、助けて。キャシーがどこかへ行っちゃったの。もしかしたら死んじゃうかも・・・」
「何ですって?」
途切れ途切れに話すエバの説明を聞きながら、シェランは必要なものを鞄に詰め込むと、電話を持ったまま飛び出した。
「それで、キャシーは何処に行ったか分かる?」
「全然分からない。あのバカ親父は飲んだくれて当てにならないし」
「分かったわ。すぐに行くから、そこを動いちゃ駄目よ」
シェランは電話を切ると車を猛スピードで発車させた。
休暇中の訓練校には殆ど誰も居ないが、それぞれの建屋の担当である教官は時々見回りに来る事になっていた。男子寮の寮長であるロビー・フロスト。本館の担当は3年の教官、ケーリー・アイベック。ライフシップやヘリも操船課や航空機課の教官が管理を任されていた。
その日、技術管理課の教官ミッキー・オーウェンは、ヘリやフローティング・スケーター(水上に着水できる飛行機)等の収められている建屋を1人で見回っていた。本来は同僚のウッドワースの仕事なのだが、熱が39度もあってとても起き上がれないと電話がかかってきたので、仕方なく休みを返上して出て来たのだ。
「マイケルの奴、本当に風邪なんだろうな。もし家族でクリスマス・パーティでもしていたら、ぶっ飛ばしてやるぞ」
独身で1人暮らし、恋人も居ないミッキーにとって、クリスマスなんてたいしたイベントではなく、ケーキやチキンを囲んで家族や友人達と楽しんでいる人々を横目で見ながらすごす、ちょっぴり寂しい期間なのであった。
彼は大きな鉄の柱が交錯する高い天井を見上げて「クリスマスなんて・・・」とぼやいた。しかし、建屋の入り口からタイヤの音をきしませ、赤い4WDが凄い勢いで突っ込んでくるのを見て、びっくりしたように立ち止まった。
「あの車は潜水の・・・・」
その先の名を言わない内に車から降りてきたシェランは、つかつかと彼の方に歩み寄って来た。
何でこんな所に彼女がやって来るんだ?まさか俺に会いに来たとか?きっとそうだ。だってもうすぐクリスマスだし、神様から可哀想な俺へのクリスマス・プレゼントに違いないぞ。
『お調子者ミッキー』と生徒からあだ名を付けられているだけあって、彼はかなり都合のいい解釈をしながら、以前から密かに憧れていた美人教官が足早に歩いてくるのを見つめた。彼女は彼の前に立つと、まるで天使のように優しく微笑みながら(ミッキーにはそう見えた)右の手の平を彼の前に差し出した。
えっと・・・。まさかプレゼントをくれとか?でもイブはあさってだし・・・。
ぼうっとした目で自分の手の平を見つめているミッキーに、シェランはイライラしながら言った。
「鍵を出して、ミッキー」
「か、鍵・・・?」
「ヘリの鍵よ。早く」
ミッキーはまだ夢心地でシェランに聞いた。
「ヘリを使うんですか?え・・と、許可証は・・・」
「そんな物を取っている暇は無いの。生徒の命が掛かっているのよ」
命が掛かっているなんて・・・。そんな大げさな・・・。
「許可証が無い人にヘリは貸せません。そんな事をしたら僕の責任問題に・・・」
いきなりシェランは彼の胸倉を掴んだ。ミッキーはその行為にびっくりして言葉を止めたが、彼女の怒った顔がすぐ目の前にあるのにはもっと驚いた。
「ミッキー。もしキャシーに何かあったら、私あなたを赦さない。そしてもしあの子が死んだりしたら、あなたを恨みながら海に沈んで、毎夜深海からあなたを呪い続けるから・・・」
美人が怒ると迫力があると言うが、これはもうそんな程度のものではなかった。本当にシェランの声が深海の底から聞こえてきたように思ったのだ。ミッキーはヒーッと叫び声を上げながらその場から逃げ出したかったが、鍛え上げられたライフセーバーの腕は、一度捕らえた獲物をそう簡単に逃がしたりしないのだ。
「か、鍵なら、こ・・・ここに・・・」
彼は震える手で腰にぶら下げた鍵の束を取り出し、その中の1本を差し出した。
「ヘ、ヘリは真ん中のを使ってください。燃料は満タンです」
「ありがとう、ミッキー」
シェランはにっこり笑ってミッキーの頬に感謝のキスをした後、一目散に走り出した。
航空機課の教官でも通り抜けるのは至難の技だというヘリ一台分の大きさしかない格納庫の入り口を、シェランが機体を傾けながら素早く通り抜けるのを見送った後、ミッキーはそのまま後ろに倒れこんだ。
もう責任問題なんかどうでもいいや・・・。
世にも幸せそうな笑顔を浮かべて、天使の唇が振れた頬に手をやると、彼は高い天井を見つめながら謳うように呟いた。
「メリー・クリスマース・・・」
エバはシェランに言われた通り、キャシーの家に戻って来た。飲んだくれて眠ってしまったヘルマンを横目で見ながら待っていたが、不安でじっとしては居られなくなりそうだった。
シェランはすぐ行くと言ってくれたが、キャシーと2人でここまで来るのに飛行機とバスで半日は掛かったのだ。その間にキャシーに何かあったら・・・。そう思うと居ても立っても居られなかった。
空を切り裂くような轟音が響いて来たのは、それから2時間後だった。聞き覚えのあるローター音にエバが外に出てみると、丁度ヘリが道路の真ん中に着陸した所だった。白と青のツートンカラーに紺色のSLSの文字。余りにも懐かしい機体だったが、エバはそれを見てゾッとした。
どう考えても無断使用に違いない。エバは又他人に迷惑を掛けてしまった事を後悔した。ローターが巻き起こす風の中、ドアから飛び出すようにシェランが走って来た。
「キャシーから連絡は?」
「ありません。あの、教官。道路の真ん中に停めるのはちょっとまずいんじゃあ・・・」
「SLSのヘリは天下御免よ!」
そんな法など存在しないが、今のシェランは誰にも止められない事は確かであった。
「バカ親父は何処?」
「奥です。ダイニングに・・・」
シェランは他人の家にズカズカ入って行くと、ダイニングテーブルの上でうつぶせになって眠っているヘルマンの襟首を掴んで叩き起こした。
「キャシーは何処?」
「知らないよ」
「知らないはず無いでしょう?父親なんだから」
ヘルマンは煩わしそうにシェランの手を振り払った。
「うるさい!知らないと言ったら知らないんだ。放せ!」
シェランは振り払われた手を腰に持ってくると、ヘルマンを見下すように鼻を鳴らした。
「知らないんじゃなくて、忘れてしまったんでしょう?今がどんなに辛くても幸せな時はあったはずなのに、あなたはそれさえも憎しみの為に忘れようとしている。自分だけが不幸だと思って、自分だけがかわいそうだと思って、キャシーの愛情も信じられなくなっているのよ」
シェランは後ろを振り向くと、エバを呼んで一緒にヘルマンの両脇を抱え、外に引きずり出した。
「何をするんだ!何処へ連れて行く!」
「忘れているようだから思い出させてあげるのよ。思い出すまで帰してあげないから」
シェランは足取りのおぼつかない彼を、ヘリの後ろの席に押し込んだ。エバがヘルマンの隣に乗り込んでドアを閉めると、ヘリは薄く灰色の雲が張った空へと舞い上がった。
「まあ。あれがニューオリンズの町ね。クラシカルで素敵だわ」
街の上空を飛びながら嬉しそうにシェランは言った。確かに下に居るのと、上から見るのとでは雰囲気も違って一興ではあるが、今からシェランが何をするのか考えるとエバは気が気ではなかった。
「それであなたはここの生まれなの?ヘルマン、ヘルマン?」
「テキサスだ!」
彼は酔って気分が悪いのと、この訳の分からない女の偉そうな態度に腹を立てながら怒鳴った。
「まあ、テキサス。それで?ここに出てきたのはいつ?」
ヘルマンは無視して答えようとしなかったが、シェランはもう一度質問しようとはせず、いきなり操縦桿を押し下げた。
「きゃあああっ、教官!」
「わああああっ!」
後ろの席でエバとヘルマンが叫んだ。シェランはヘリを建物すれすれの位置で反転させると、上空に戻って来た。
「ニューオリンズに出てきたのは、いつ?」
「は、は、は・・二十歳の時だ・・・」
息を切らしたヘルマンは冷や汗にまみれていた。
「そう。じゃあキャシーの母親に出会ったのは、いくつの時?」
その質問には絶対に答えたくなかった。ヘルマンは唇を噛み締めたまま横を向いた。あんな女の事、思い出したくも無い。
シェランはチラッと後ろを見ると、今度は機体を斜めに傾けながら徐々に下に降りて行った。
高い建物は余り見当たらない町であるが、そんな中に1つだけ高い建物がある。この街の中心街にあるジャクソンビル広場にそびえる大聖堂だ。広場にはいつも沢山の大道芸人やミュージシャン、絵描き等が居て観光客で賑わっていた。
そんな人々の頭上をかすめ、ヘリが一直線に大聖堂に向かっていくのをエバは声も立てられずに見つめた。
「何をするんだ、大聖堂だぞ。よけろ!当たる!わああっ!」
機体が大聖堂の壁と屋根にそって垂直に上がっていくのを広場の人々は大口を開けて見た後、大きな拍手と歓声を上げた。
「凄いクリスマスイベントだなぁ!」
「飛行機なら見た事あるけど、ヘリの航空ショーって初めてだわ」
しかし機体の横にSLSの文字が書いてあるので、なぜ海難救助隊がこんな所に居るのか不思議であったが・・・。
ヘリが再び上空に戻って来ると、エバはいきなりヘルマンの襟首を掴んだ。
「とっとと答えろ、このバカ親父!今度質問を無視したら、あたしがぶん殴ってやるからね!」
ヘルマンは今の一撃で胃の内容物が全て逆流しそうだった。彼は真っ青になりながら「に・・・22歳だ」と答えた。
「まあ、22歳。それでいつ彼女と付き合い始めたの?結婚しようと思ったのは何故?そうそう、プロポーズの言葉は?」
「何故って・・・」
何故結婚しようと思ったのだろう。仕事でこの街に出てきて2年目の頃が一番心細かった。里心が付いてきたのか、1人きりの待つ人の居ないアパートに帰るのが辛かった。
だがその頃、得意先の事務所で受付をしていた彼女と出会った。小さな仕事のミスなんか吹き飛ばしてくれるような明るくて快活な彼女の笑顔を見て、すぐに胸のネームプレスを確かめた。ジュリエッタ・ストレイト。彼女にピッタリの素敵な名前だ。
突然ヘリが急上昇を始めたので、ヘルマンの回想はそこで途絶えた。彼が更に青い顔で気持ち悪そうにしているので、エバはヘリに装備してあるビニール袋を取り出し、彼の顔の前に差し出した。
「吐くならこの袋に。何なら喉に手を突っ込んで手伝ってあげるわよ」
一般の救難士は救助された人の介護や、いざという時は機動や潜水の介護もしなければならない。それゆえ彼等は他のどの課よりみっちりとクリスに救急救命の技術を叩き込まれていた。
喉に手を突っ込んで・・・という言葉に、更に気分が悪くなったヘルマンだったが、それだけは嫌だった。彼が口を両手で押さえながら首を振った瞬間、今まで上昇していたヘリが突然力を失ったように、くるくると回転しながら落ちていった。
「わああああっっっ!」
― これはもう悪夢だ。悪夢でしかない ―
ヘルマンは吐きたいのも忘れて叫んだ。
「付き合い始めたのは出会って一週間目!僕の方から食事に誘った!プロポーズの言葉は“愛してる、ずっと一緒に生きて行ってくれ”だ!」
ヘリは急に息を吹き返したかのように落ちるのをやめると、平行に飛び始めた。そしてエバは自分の為にビニール袋を用意した。
「ふむ、いい言葉だわ。でも今度はそれをキャシーに言ってあげなきゃね。それで?キャシーが生まれたのは何年後?」
「2年後だ。僕が25歳、ジュリエッタが23歳だった」
「可愛かった?」
「ああ。僕と同じくせのある茶色の髪で、笑うとジュリエッタにそっくりだった。可愛かったよ・・・」
こうして話していると、ヘルマンの頭の中にどんどん昔の思い出が蘇って来るようだった。それは決して悲しい思い出ではなく、胸が苦しくなるほど懐かしく暖かな思い出だった。
初めてジュリエッタとデートする日、余りに舞い上がって左右別々の靴下を履いて行ってしまった。結婚の申し込みを受けてくれた時の彼女の顔は最高に綺麗だった。そしてキャシーが生まれ、僕の顔を見て笑った日の事。小さな手で僕の指を握り締めながら「パーパ」と初めて呼んだ、あの日の喜び・・・・。
「キャシーが小さい頃、家族でどこかへ行った?」
「あの子はとにかく泳ぐのが好きでね。3人で良くプールに行ったな。でも少し大きくなったらプールでは深さが足りないと言って、海に行くようになった」
そうだ。それから暫くして弟のジョニーが生まれ、ジュリエッタは息子にかかり切りになっていた。僕も仕事が忙しくて、キャシーやジュリエッタの事を気にかける暇もなくなっていた。
キャシーは頭がいいし、しっかりしているからと安心していたが、そういえば、あの頃からキャシーとジュリエッタの間は何か妙だった。キャシーは決して母親に逆らったりはしない子だったが、彼女に甘える事もしなかった。そんなキャシーをジュリエッタは時々「可愛くない子」と言っていたのを覚えている。
母と娘の関係がどんどん冷え切っていくのを僕は全く気付かなかった。そして、僕とジュリエッタの関係も・・・。
愛していない筈は無いのだ。来る日も来る日もキャシーは窓から外を見つめ続けて待っていた。母が自分の名を呼んで戻って来るのを・・・。キャシーはただ、嫌われたくなかったのだ。素直で頭が良くて、手間をかけない子。そんな子供を演じていれば、愛してもらえると信じていたのだ。
今だってそうだ。あの子は一生懸命、僕の前でいい娘を演じている。僕がどんなに愚痴をこぼして酷い言葉を投げかけても、あの子はいつも黙って聞いていた。一度だって母親の悪口を言った事はないし、ジュリエッタのように僕の事を“ろくでなし”と呼んだ事もなかった。
どうして気付いてやれなかった?何故もっと思いやれなかったのだろう。あの子がどんな思いで生きて来たのかを・・・・。
ヘルマンがやっとその答えに辿り付いた時「パーパ」と呼びながらにっこり微笑んだ赤ん坊の頃のキャシーの顔が目の前にくっきりと浮かび上がり、彼の目に涙がにじんだ。
「海よ。ヘルマン」
シェランの声に彼はハッとして顔を上げた。
「キャシーはここに居るんでしょう?幼い頃の思い出の場所。あなたとジュリエッタと3人で幸せに暮らしていた頃の大切な場所・・・。キャシーは何処に居るの?3人で良く行った場所は何処?」
ヘルマンはぼうっとした目で遠くに見える海を見つめると、海の側に建っている建物を指差した。
「あの白い建物。下がレストランになっていて、3人で良く行ったんだ。着替えてそのままビーチへ行けるから。大抵あのすぐ前の海に・・・」
ヘリが更にスピードを上げると、一瞬で足元に濃紺の海が広がった。
ただ広い海の中を白い波にもまれながら、キャシーはひたすら泳いでいた。頭上に響き渡る聞きなれた轟音も、キャシーの耳には入ってこなかった。
とにかく泳ぐのだ。何もかも忘れてしまえるくらい遠くに・・・・。
潜るのが得意なのに何故潜らないのか自分でも分からなかったが、潜ると大切なものを思い出してしまいそうで怖かった。
148フィートを潜る潜水の試験で応援してくれた仲間達の顔。
入学してからずっと一緒に色々な事を話したり、乗り越えてきた親友。
そしていつだって姉のように母のように温かく見守ってくれた教官。
彼等は今の私を見てどう思うだろう。親に捨てられた哀れな子。自分が惨めで情けなくて、キャシーはとにかく力一杯水をかいて、全てを忘れたかった。
シェランは頭上にSLSのヘリが来ているのも気付かずに、一心不乱に泳いでいるキャシーを見下ろした。きっとあの子は泣いているのだろう。
「あらあら大変。あのままでは沖に出てしまうわ。さすがキャシー。泳ぐのが速いわね」
ヘルマンがヘリの窓から覗くと、キャシーの頭が波間に見え隠れするのが見えた。
「き、君達、ライフセーバーなんだろ?あの子を助けてくれ。いくらキャシーでも沖へ出て波に浚われたら、戻って来れなくなってしまう」
オロオロしているヘルマンにシェランは平然として答えた。
「残念ねぇ。私達機動じゃないの。リベリングの使い方も知らないし、ましてや飛び降りるなんて出来ないわ。一旦陸へ戻って救助を要請しましょう」
「はあ?何を言ってるんだ?そんな事をしたら、あの子を見失ってしまうじゃないか」
それでもシェランは彼を振り返りもしなかった。
「でも、あなたはもうキャシーを失ってもいいと思っていたんでしょう?」
「そんな、そんなはず無いじゃないか。僕はあの子の父親なんだぞ。もういい。君達なんて所詮他人なんだ。あの子は僕が助ける!」
ヘルマンはヘッドホンをはずすと、勢いに任せてドアを開けた。途端に激しい風が彼の髪を巻き上げ、身体をぐらぐらと揺さぶった。足元から下は何も無い。そのずっと下の方に鉛色の海がうねりながら広がっているだけだ。
ヘルマンはぐっとつばを飲み込むと、後ろに居るエバを振り返った。
「君・・・!」
「は?」
「せ、背中を押してくれないか」
「あたしが?嫌よ、そんなの」
エバは大きく横に首を振った。
「頼む。足がすくんで動かないんだ」
「はあ?」
彼等のやり取りを聞いていたシェランがニヤリと笑って振り返った。
「押してあげなさい、エバ。思いっ切りね。早くしないと、キャシーを見失ってしまうわ」
エバは躊躇したが、命令とあれば仕方が無い。彼女は両手を前に突き出すと、目を閉じて本当に思い切り彼の背中を押した。
「うわあああぁぁぁぁっ!」
心の底から後悔しているような叫び声を上げながらヘルマンは落ちて行った。その声を聞いて、エバはふとある事を思い出した。以前キャシーと父親の話になった時、彼女は笑いながらこんな事を言ってなかっただろうか。
「私のパパってね、全然泳げないの。ママも弟も泳げるのにね。水の中に入っただけですぐ溺れちゃうのよ」
あの時は「うそーっ、キャシーのパパなのに?」なんて笑い飛ばしたが本当にそうだとしたら・・・。エバは急いで海面を見渡したが、かなり上空から着水したヘルマンの身体は、海に沈み込んでまだ上がって来てもいなかった。
「教官、どうしよう。キャシーのパパ、泳げなかった・・・」
「あら、そうなの?ヘルマンも言ってくれれば良かったのに」
シェランの返答にエバは面食らったように黙り込んだ。きっとシェランは例えヘルマンが“泳げないから無理だ”と言っても“そんな事は言い訳にならないわ”とか言いながら彼を突き落としただろう。しかもシェランはエバにドアを閉めさせると、さっさと陸に引き返してしまった。
もしヘルマンが死んだら私は殺人犯になるんだろうか・・・。
エバは泣きたいような気分で浜から海を見つめた。シェランも波打ち際で次第に波が高くなっていく海を目を細めて見ていた。
「大丈夫よ、エバ。あの子を誰だと思っているの?キャサリン・リプスは私の跡を継いで、SLS史上2番目の女潜水士になるのよ。ほら・・・戻ってきたわ」
シェランの指差す方向に、キャシーの小さな頭が波間に見え隠れしながら向かってくるのが見えた。ヘルマンを片手に抱えているのか、泳ぐのがいつもよりずっと遅いようだ。
「キャシー!」
エバは靴を脱ぎ捨てると、海に走りこみ泳ぎ始めた。
浜に戻ってきたキャシーはシェランを見て驚いていたが、彼女の命令によってエバと2人で心肺蘇生に入った。
ヘルマンは飛び降りてすぐ気絶してしまったようで殆ど水も飲んでおらず、4,5回繰り返しただけで目を覚ますと、再び「わああっ!」と叫んだ。どうやら彼の頭の中は、まだ空中を落ちている真っ最中だったらしい。
「パパ、大丈夫?」
娘に顔を覗かれてヘルマンはやっと我に返った。
「キャシー、お前が助けてくれたのか?僕の方がずっと重いのに・・・」
「大丈夫よ。パパの1人や2人、抱えて泳げなきゃSLSの潜水士にはとてもなれないもの」
「キャシー、お前は・・・」
にっこり笑ってくれた娘の手を握り締め、ヘルマンは口ごもった。
毎月キャシーから送られてくる手紙からは、彼女がどんどん人間として成長していく様子を感じ取れた。いつまでもこのままではいけない。やり直そうと思って初めて書いた手紙に、キャシーはちゃんと答えて戻ってきてくれた。
それなのにジュリエッタから正式に離婚をしてくれと迫られただけで、又その決意が崩れてしまった。そして娘を死ぬほど追い詰めてしまった。毎日、毎日努力して、こんなにも立派なライフセーバーになろうとしている娘を・・・。
キャシーの手を握り締めたまま、一言も言い訳できないヘルマンに業を煮やしたのか、シェランが側にやって来て、腰に手を当てへルマンを見下ろした。
「全く、助けに行った娘に助けられるなんて、本当にダメ親父ね」
「す、すみません・・・」
娘の同級生(とヘルマンは思っていた)であるこんな若い女性に頭ごなしに叱られたのは初めてだったが、ヘルマンに返す言葉は無かった。
「これで良く分かったでしょ?あなたみたいな父親にはね、キャシーみたいなしっかりした娘が必要なの。さっきヘリの中で思い出したセリフ。今度はキャシーに言ってあげるんでしょう?」
ヘルマンはぼうっとした顔でシェランを見上げた後、不思議そうな顔をしているキャシーを見た。
― ああ、全て思い出した。僕はお前達を愛していた。そして今でもお前を・・・・ ―
「愛してるよ、キャシー。ずっと一緒に生きていこう」
「パパ・・・」
シェランは抱き合って泣いている父と娘を見て、もらい泣きしているエバと微笑み合った。
ヘリを無断借用している事もあって、シェランはその日の内に帰ろうと思っていたが、キャシーのたっての願いで一晩だけ泊まる事にした。さすがにヘリは道路に泊めておく事は出来ないので、近くのヘリポートに置いてもらうことにした。
夜はシェランも手伝ってクリスマス・パーティの料理をテーブルに並べた。エバは勿論食べる方専門であったが・・・。沢山の料理を囲んで皆の会話も弾んでいる。
ヘルマンはシェランの事を娘の同級生だと思っていたので、チームの教官だと聞いてびっくりした。しかも彼女は、キャシーが毎日のように会いたいと言っていた伝説の女潜水士だった事に更に驚いた。
全く泳げない彼には、そんな魚のような人間がこの世に居るとは信じられなかったのだ。ましてやそれがすっと自分が否定し続けてきた女だとは・・・。
キャシーがSLSに入隊すると言った時も、出来るはずは無いと思っていた。だがキャシーはその言葉通り、難しい試験を全てくぐり抜け、まるで熱病にかかったように憧れていた女潜水士とも巡り会い、今その人に教えを受けている。
幸せそうにシェランと話しているキャシーを見て、ヘルマンは女性とは何と強い生き物だろうと思った。ずっとそれを認めたくなくてキャシーにも女はダメだと言い続けてきたが、事実、自分の目の前に居る3人の女性達は真っ直ぐな瞳をして、真っ直ぐに己の道を歩いているのだ。
そして中でも特に強いのがシェランだと思った。彼女に任せておけばキャシーは大丈夫だと確信できる。
「あ、あの、ミス・ミューラー。いえ、ミューラー教官。これからもキャシーの事を宜しくお願いいたします」
突然立ち上がってシェランに頭を下げた父を、キャシーはびっくりしたような目で見つめた。
「勿論ですわ。キャシーはいずれ全米一のチームを代表する、全米一の潜水士になるんですもの」
シェランは自信が無さそうに笑っているキャシーの横で立ち上がると、ヘルマンに右手を差し出した。
明けて23日、シェランはSLS訓練校まで戻って来た。キャシーはクリスマスまで居て欲しそうであったが、早くヘリを返さないとミッキーにまで迷惑が掛かってしまう。それにもしかしたらジュードが帰っているかもしれないのだ。
シェランはヘリを倉庫に戻した後、本館や男子寮の周辺を見て回ったが、彼が帰って来ている様子は無かった。家に戻って留守番電話を聞いても、誰からもメッセージは入っていなかった。シェランは気落ちしたようにベッドの端に座り込むと、見慣れた外の風景に目をやった。
「ジュード・・・戻って来るかな・・・・」
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