第8部 深海のダイヤモンドリング 【6】
ジュードの予想通り、通信が途絶えてから10分後、シェランは1,000フィートに手が届く所まで来ていた。通信が途中で途切れてしまった事で、海上では皆が心配しているだろうが、今更引き返すわけにはいかなかった。
1,000フィートを超えた辺りから、さすがのシェランも息苦しさを覚えた。肺が正常に機能していないような気さえする。
シェランは今まで窒素酔い(浮上できなくなったり、レギュレターを放したくなったりする)等の諸症状を経験した事は無い。今のこの状態がその初期症状ならもう既に危険信号である。
ディープダイブで怖いのは窒素酔いだけでは無い。酸素中毒にでもなれば、突然意識を失うのだ。
― これ以上潜って、戻れるのだろうか・・・・ ―
シェランは海の中で、生まれて初めて恐怖を感じた。父と母の眠る海に包まれているのが、シェランにとって何よりの安らぎだった。この中に居れば、まるで母の体内で眠る赤ん坊のように安全で守られている気がした。
だが今、シェランが浅い息を繰り返しながら思い出すのは、Aチームと過ごした地上での日々であった。
最終試験で初めて会った時から、まるで仲間のように彼等と共に生きてきた。入学したての頃、Aチームの半数以上の生徒が退学になりかけた時、自分も退職を覚悟した。
潜水課の試験は1年生にとって一番の試練だった。海の中で祈るような気持ちで待っていた私の所に次々と生徒達がやって来て、私に笑いかけてくれた。あの時のキャシーの顔を、私は一生忘れないだろう。
思い出せば出すほどシェランは泣きたいほど彼等に会いたくなった。だが彼女は首を振って、頭の中に浮かんだ生徒達の顔を打ち消した。
皆に会いたいなら、潜り続けなければ・・・・。彼等を守る為、そして3,500人の人々を守る為に、私はここに居るのだ。
シェランは次第に増してくる息苦しさの中で、ただ白いだけの無機質な柱を見つめながら更に深みを目指した。腕を目の前で曲げてD・Cを確認すると、丁度1,200に表示が変わった。
― 1,200フィート・・・ここが・・・ ―
辺り一面の暗闇。まるでこの世にたった一人で放り出されたような孤独感。のしかかってくる水圧と共に襲ってくる恐怖。
― 宇宙と同じさ。深海は未知の世界なんだから・・・ ―
「未知の世界・・・・」
シェランが小さな声で呟いた時、彼女の目の前を白っぽい何かが通り過ぎた。
それはレースの小さなハンカチのようにふわふわと波間を漂っていた。半透明に透けている体がわずかに発光し、ライトを照らさなくても肉眼で確認できた。
「まあ、クラゲ?それともイカの一種かしら・・・」
まるで自分を慰めるように現れたその生き物に、親しみを感じてシェランは手を伸ばした。それは指にまとわりついたかと思うと、さあっと離れた。
「あっ、待って・・・・」
思わず腕を伸ばしたが、その指先にある柱の上に何かが在るのに気が付いて、シェランは驚いたように手を引っ込めた。
たて15センチ、横10センチほどの金属製の箱が、上下2本のボルトによって柱に取り付けてある。箱の左上にある赤い小さなエレクトリック・バルブ(電球)が、まるで心臓の鼓動のようにゆっくりと点滅を繰り返していた。
シェランは全身の毛が逆立つのを感じながら息を吸い込んでその箱に触れてみた。分厚いグローブ越しでは何も感じられなかったが、とうとう見つけてしまったのだと直感した。あの男はやはりウェイブ・ボートを狙っているのだ。
これだけの柱を破壊するのに爆弾がひとつという事は無いだろう。柱にそって平行に泳いでいくと、5メートルおきに 10個の爆弾が取り付けられている事が分かった。昨日の男が取り付けたのだろう。
シェランはD・Cでアクアラングのエアーを確認した。とてもではないが10個もの爆弾をはずして海上に戻るほどの残量は残っていなかった。
だが一刻も早くはずさなければならない。もう一度来ている時間は無いかもしれないのだ。
シェランは潜水服の太ももの部分に取り付けてある工具セットのボタンをはずした。分厚いグローブで思うように手が動かなかったが、何とかドライバーを取り出すと、慎重に箱を取り外しにかかった。
ホープライト号のデッキの端に立って、ジュードは日差しが強くなってきた空を見上げた。
「風が強いな・・・」
空に浮かんでいる雲が、勢い良く西の空へ向かって走っていく。こんな日は海流も強く、さっき戻ってきたレクター達が、疲れ果てたような顔で何度も流されそうになったとぼやいていた。
― シェランは大丈夫なんだろうか・・・・ ―
ジュードは時間を確認した。海流もあるが、シェランのアクアラングのエアー残量の方が気になった。もうそろそろ戻って来てもいい頃だ。
通信室ではマックスが何度も呼びかけているが、まだシェランからの返事はなかった。待っているだけというのは、何てもどかしいんだろう。時間がじりじりと無駄に流れていくようだ。ジュードは海に向かってシェランの名を呟いた。彼の小さな声は、強い風にかき消されて消えていった。
1,200フィートの深海で9個目の爆弾を取り外したシェランは、他の爆弾を誘発しないよう、腰に付けた袋の中にそっと入れた。これを取り付けた人間も今のシェランと同じように余裕が無かったのか、思ったよりボルトが緩かったので、何とかエアーの残量がある間に全てはずせそうだ。
10個目の爆弾の最後のボルトが、静かに海の底へ沈んでいった。シェランはその黒い箱を落とさないように両手でしっかりと掴んだ。赤いランプは変化なく、ゆっくりと鼓動を繰り返している。このランプの点滅が消えた時、全ては終わるのだろうか・・・。
シェランが息を呑んでそれを袋に入れようとした時だった。急に海流が強くなって、彼女の体にぶつかってきた。その瞬間、シェランの体はまるで風に浚われる羽のように軽々と暗闇の中に投げ飛ばされ、その意識も闇の中へ消えた。
『教官・・・教官・・・』
シェランは訓練生達が自分を呼ぶ声で目を覚ました。今まで暗闇の中に居たはずなのに、周りは太陽の光に包まれて明るく輝いている。みんなは何処に居るのだろう。声がしたはずなのに、誰の姿も見えなかった。
なぜか身体がとてもだるくて、起き上がる事も出来なかった。胸の苦しさを覚えて、シェランは目を閉じた。
『シェラン・・・。違うだろう?ここは君の居る場所じゃない。君の生きる場所はここじゃないだろう?』
頭の中に響いてきた声の主をシェランは知っていた。懐かしくて優しい声・・・。
「パ・・・パ・・・」
シェランの頬に涙が流れ落ちた時、今度はマックスの声が響いてきた。
『教官。ジュードの奴、ずっとデッキから海を見てますよ。だから戻って来て下さい・・・』
ジュード・・・待っていてくれるの?今もずっと・・・。
『・・・官・・・教官・・聞こえますか?こちらホープライト号、聞こえますか?シェラン教官!』
ハッとして目を開けた時、シェランはやはり暗闇の中に居た。手に持ったままの黒い箱を見ると、まだ赤い点滅は繰り返されている。
『マックス・・・聞こえ・・るわ・・・私よ・・・』
「教官!」
マックスはスピーカーの向こうから聞こえてきた弱々しい声に返事をすると、すぐジュードを呼びに行かせた。
「シェラン、大丈夫なのか?エアーは残っているのか?」
『もうすぐ無くなるけど・・・大丈夫よ。それより爆発物を見つけたわ。10個ほどある。エアーが少ないから通信は終了する。あとは頼んだわ、ジュード』
そう言ってシェランは通信を切った。
「マックス、シュレイダー大佐に爆弾処理班を呼ぶように伝えてくれ。ショーン、再圧チャンバー船に移って、教官が帰ってきたら、すぐに医者に見せられるように手配を。ブレード達は他の船の訓練生をチャンバー船に集めて準備をしてくれ。オレは出来る限り潜ってキャシー達と教官を迎えに行く」
「了解!」
「ムリはするなよ、ジュード。5ノット以下だぞ」
走り出していくショーンに頷くと、ジュードは船のすぐ下に浮かべてある救助用の水中バイクに飛び乗った。
エレベーターの周辺を調べていたジーンを見つけたので、全員を集めるように頼み、ジュードは更に深みを目指した。シェランのエアーは完全に切れていると思っていいだろう。何処まで戻って来れるか。そして自分が何処まで潜って行けるか・・・・。
遠く霞む海の中で、キラキラと輝きながらダイヤモンドリングが浮かんでいる。シェランは途切れそうになる意識を奮い立たせて上を見上げた。既にエアーは無くなっていたので、アクアラングは手放していた。
素もぐりの経験の長いシェランの息も、もう限界だった。足はちゃんと動いているだろうか・・・。
酷い減圧症にかかると、下半身が麻痺する危険性がある。シェランはそんな人間を何人も見てきた。無論、それによって命を落としてしまった人も・・・。
もうすぐだ。もうすぐみんなに会える。まだまだ遠いウェイブ・ボートの光を見つめながら、シェランは輝く光の中、自分の方に向かって何かがやってくるのを見た。
何だろう。黒い大きな魚が私に向かって泳いでくる。いえ、違うわ。あれは生徒達よ。私の大切な教え子達・・・。
薄れていく意識の中で、シェランは訓練生達が揃ってやって来る幻を見ていた。キャシー、アズ、ヘンリーとザック。 ジーンも居る。3年生のメイソン、スチュワート、ダスティン・・・そして・・・・
「ジュード・・・・」
意識が途絶えて水中に力なく漂うシェランの身体を、ジュードは片手で抱きかかえると、ボートの先端を上に向けて浮上した。ウェイブ・ボートの真ん中で訓練生に出会ったジュードは、シェランを彼等に託し、彼女の腰に取り付けてあった爆弾の入った袋を持つと、SEALの爆弾処理班の乗っている船に水中バイクを走らせた。
途中後ろを振り返ってみると、キャシー達がシェランを取り囲み、ゆっくりと浮上していくのが見えた。
シェランを連れた訓練生が戻って来ると、待ちかねたようにレクター達が彼女を引き上げ、医務室に運んで行った。
その頃ジュードもSEALの船に到着していた。彼等はジュードから爆弾を受け取ると、彼を水中に残したまま、その場を離れていった。一般人を危険に晒さないようにする為である。
その船が小さくなるのを見送って、ジュードはシェランの運び込まれた船にボートを走らせた。水中バイクは浅い所ではまるでバイクのように早く走る事が出来た。
ピートやレクターに手伝ってもらって潜水服を脱いだ後、シェランの様子をマックスに尋ねた。さっき再圧チャンバーから出てきて、医務室で寝ているそうだ。
「医者が驚いていたぜ。『あれだけ潜っていて、再圧チャンバーに一度も入った事がないなんて驚異的だ。しかも1,000フィート超えて潜っていたのに、肺にもどこにも全く異常が無い。彼女の肺は深海魚と同じなのか?』ってね」
ジュードは笑いながら頷くと、医務室に向かった。奥に並んでいる三つあるベッドの一番右側でシェランはまだ眠っていた。そっと覗いてみると、顔色もいつもと変わりが無かったので、ジュードはホッと溜息をついた。
必死に爆弾を取り除いたのであろう、その白い指に手を重ねると「お疲れ様、シェラン教官」と言って、眠っている彼女に笑いかけた。
3日間に亘る緊張と、生まれて初めて1,200フィートも潜った疲れとで、シェランは丸一日眠り続けた。キャシーがずっと心配そうにシェランに付き添っていた。
次の日の朝、シェランがスッキリした顔で目覚めると、キャシーがベッドの側で疲れた顔で眠っていた。
2人が揃って朝食を取る為に所員の集まる食堂に顔を出すと、そこに集まっていたウェイブ・ボートの所員達から一斉に拍手が沸き起こった。もちろんその場に居た訓練生達も惜しみなく拍手を送り、シェランに笑いかけた。
真っ赤になって立ちすくんでいるシェランと、その後ろで誇らしげに手を叩いている、キャシーの自慢げな顔が印象的であった。
その後へレンは、ウェイトマン所長の所長室にシェランを呼んだ。ウェイトマンも彼女の勇気と行動にいたく感動したようで「あなたのような真のライフセーバーに出会えた事を光栄に思います」と言って、シェランの手を握り締めた。
赤くなって首を振っているシェランを冷めた顔で見つつも、ヘレンはこれでやっと生意気な小娘や小ざかしい訓練生を追い払えると内心ほくそ笑んだ。
「謙遜する事は無いぞ、シェラン。君は本当に良くやってくれた。これで私も上層部に良い返事を出せるというものだ」
「え?」
シェランは驚いたようにヘレンの顔を見上げた。
「この3日間でウェイブ・ボートの周辺は殆ど全て点検できた。あとはSEALの隊員だけで、ここを守る事が出来るだろう。本当にご苦労だったな。SLSの校長や本部長官にも後ほど礼状を出さなければならないな」
まるで解放されたように上機嫌で語るヘレンから、シェランは目を逸らした。
― つまり私達は、もう用済みって訳ね・・・ ―
それはそれでいい事だと思ったが、何かもやもやしたものがシェランの心を灰色に染めていくような気がした。
一昨日の夜に見た男はどうなったんだろう。捕まっていないどころか、正体さえ分かっていない。ヘレンは彼を部外者だと思っているようだが、もしこのウェイブ・ボートの内部に居るとしたら、私が取り除いた10個の爆弾だけで済まないのでは無いだろうか。
「でも、ここがまだ完全に安全になったわけでは無いわ。この間の男も捕まってないでしょう?」
「そんな事は我々に任せておけばいいんだよ。そうそう、いいことを教えてあげよう。プロファイルであの男は、一度失敗した獲物は二度と狙わないと出たそうだよ。もちろんそれを全て信じる訳にはいかないから警戒を続けるのだが、いい気味では無いか?君が彼を初めて失敗に追い込んだのだからな」
ヘレンの賞賛の言葉を聞いても、シェランの胸につかえるような感覚は納まらなかった。
“あの男は失敗した”とヘレンは言った。だが本当にそうなのだろうか。この間の男があの爆弾を取り付けたのが2日前の夜だとすれば、何故すぐにそれを爆発させなかったのだろうか?そして何故、私の前に姿を見せたのだろうか?
シェランはそれがずっと引っかかっていた。彼はもしかして私にあの爆弾を見つけさせたかったのでは・・・?
― 一体何故?何の為に・・・? ―
シェランの肌に、再び電流が走っていくようなピリピリとした感覚が戻ってきた。
― 駄目だ。まだ終わってなんかいない ―
シェランはにこやかにウェイトマンと話をしているヘレンの腕をぐっと握り締めた。
「ヘレン。訓練生は今日帰らせる。でも私はここに残るわ。まだ何も始まってはいないし、終わってもいないのよ・・・・」
訓練生はシェランが戻ってくるまで部屋で待機との命令が出ていたので、それぞれの部屋で久しぶりに1人を楽しんでいた。寮での生活は楽しいが、いかんせんプライバシーが無い。何処に行っても静かにくつろげる場所は余り無いし、唯一休息が出来る部屋もルームメイトと一緒だからだ。
だがジュードには1人を楽しんでいる暇は無かった。この間、アズと2人の姉の間でどんな話になったのか、あえて聞こうとは思わなかったが、あれから忙しくて彼とゆっくり話をする事も出来なかった。
すがるような目で自分を見つめていたのにどうする事も出来ず、彼を姉達と部屋に残してきた事をジュードは後悔していたのだ。例え何も出来なくても、話を聞くくらいは出来ると思ってジュードは彼の部屋までやって来た。
ノックをして名を名乗ると、アズはいつもの表情でドアを開けた。
「ちょっといいか?」
そう言って部屋に入ったものの、何から切り出していいか分からず、ジュードは部屋の隅に置かれた椅子に腰掛けた。
「この間はすまなかったな。姉弟間のいざこざに巻き込んでしまって」
まさかアズの方から切り出してくれるとは思わなかった。これなら少しくらい突っ込んだ話をしても大丈夫だろう。
「姉さん達とはちゃんと話し合えたのか?」
「ああ。あんな風に泣かれたのは初めてだったから、ちょっとびっくりしたが・・・。まあ、元来強い女達だからな。俺がどうしても残ると言うのを納得はしていないが、ひとまず引き上げてくれた」
「そうか。でも昨日シェランが爆弾を発見したし、今頃きっと安心してるんじゃないかな」
「その事なんだが、ジュード・・・」
アズは改めてジュードの名を呼ぶと、彼の向かい側に座って足を組んだ。
「多分、SEALはもう俺達を引き上げさせるつもりだと思う。今、教官とあの女大佐がミーティングをしているからな。きっと今頃ご苦労様なんて言ってるんだろうが、俺はここが完全に安全だと思えるまで、休暇願いを出してここに残ろうと思っているんだ」
ジュードは一瞬、椅子を引いて立ち上がりそうになったが、ぐっと腹に力を入れて堪えた。
完全に安全?それはいつなんだ?あの『私』という男が捕まった時か?そんないつになるか分からない話を持ち出すなんて、彼は休暇願いと言っているが、本当はSLSを辞めてもいいと思っているのだろうか。
「仲間を1人だけ置いて帰る事なんて出来ない。オレもここに残る」
ジュードはとっさに言ったが、アズは予想していた通りと言わんばかりに目を細めて微笑んだ。
「お前は本当に校規を読んでないんだな。仲間の為なんて、そんな理由じゃ休暇なんて認められんぞ。ジュード。お前は教官達と帰るんだ。機動救難士になるのが夢だったんだろう?それにお前はリーダーだ。リーダーが1人の為だけに動いてはいかん。皆がお前を待っているんだぞ」
ジュードはそれ以上何も反論できずに、アズの部屋を出てきた。何をどういっていいか分からないが、とにかくこんなのは嫌だ。何が嫌って、あのアズの悟りきったような顔が何より嫌だ。
1年以上毎日顔を合わせてきたが、あいつがあんなに優しげに微笑んだ事があったか?あれではまるで、2人の姉と共にこの海に沈むのを覚悟しているようじゃないか。
ムカムカしながら廊下を歩いていたジュードは、後ろから自分を呼ぶ声に立ち止まった。海軍の紺色の制服を着たルイスが、丁度エレベーターから降りてきたらしく、ジュードの部屋に一番近いエレベーターホールから出てきた。
「アーヴェン少佐?少しの間、お見かけしませんでしたね」
「ああ。パーティのあったその日の夜に、サンディエゴのSSC(Space and Naval Warfare Systems Center:宇宙・海軍戦闘システム司令部)に行っていて、今帰ってきたんだ。全く人使いが荒いだろう?所で何かあったのかい?歩き方が怒っていたぞ」
「え?そうですか?オレ、歩き方が偉そうなのかな」
ジュードは慌ててごまかした。彼はいい人だと思うが、SEALで少佐といえば、かなり上の地位の人だ。そんな人に訓練生同士の悩み事など打ち明けたりするのは迷惑だろう。だがルイスはそんなジュードの心を見抜いているように、優しく笑いかけた。
「俺の事はルイスでいいよ。少佐と言っても万年少佐でね。同期のヘレンにも見事に追い抜かされてしまった。まあ、あいつの昇進は異例だけどね」
確かにヘレンは異例の存在に違いない。SEALに入隊するだけでも大変なのに、あの若さと女性というハンディを乗り越えて大佐にまでなったのだ。
「シュレイダー大佐とは同期なんですか?」
「ああ。今の君達と同じだ。アナポリス海軍士官学校で出会ってね。一緒に潜ったり、浜辺を駆けずり回った中だ。そのせいか俺は未だにお偉いさんの前でヘレンなんて呼んでしまって、あいつに睨まれるのさ」
ジュードは思わず笑ったが、人の事は言えないことに気がついた。シェランの事をいつも呼び捨てにして怒られているのは自分も同じだった。
「いい仲間なんですね。オレも大事な仲間が居るんです。でもその中の一人が・・・。あの、オレ達もうお役ご免なんですか?」
「そうだね。もう爆弾も見つかったし、外側は全て調べ終えているからね。後は我々だけでやっていけると思うよ」
「そうですか・・・・」
ジュードが残念そうにうつむいたので、ルイスは更に尋ねた。
「こんな監獄のような場所から帰れるのが嬉しくないのかい?さっき会った本部隊員は飛び上がって喜んでいたがね」
「もう、何も起こらないのなら・・・訓練校に帰れるのは、とても嬉しい事ですけど・・・」
ルイスは一瞬目を細めて彼を見つめた。
「ここに・・・何か起こるとでも・・・?」
「いえ、そういう事ではなくて・・・。ただ俺の仲間が、ウェイブ・ボートに勤める2人の姉を心配して、ここに残ると言ってるんです。オレはあいつを1人では残していけないと思って・・・。そうだ。やっぱり1人でなんか置いて行けない。ルイス、シュレイダー大佐の部屋は何処ですか?」
「え?ああ、EAST21の3番の部屋だったかな」
「ありがとうございます!」
ジュードは頭を下げると、ビルの反対側に向かって走り出した。
「ははっ、思いついたらすぐ行動なんだな。面白い奴だ」
ルイスは首を振りながら呟いた後、ふとその瞳を曇らせた。
「いい仲間・・・ね・・・・」
ジュードが走っていくと、丁度ヘレンの部屋からシェランが出てきた。
「おっ、ラッキー。シェラーン!」
シェランはジュードの声を聞くと、ぱっと明るい表情になったが、彼が近くに来る頃にはふくれっ面になっていた。
「何がシェランよ。ちゃんと教官って呼びなさいって、いつも・・・・」
「いいから、いいから」
シェランの文句を途中で遮ると、ジュードは彼女の手を掴んで歩き始めた。
「ちょっと話があるんだ。立ち話もなんだから、シェランの部屋に行こう」
「え?」
シェランはドキッとして、彼の手から自分の手を引き抜いた。
「な、何を言っているの?女性の部屋に行こうなんて・・・」
「はぁ?シェランこそ今更何を言ってるんだ?自分の家に呼んで、あまつさえオレにベッドまで動かさせたのは誰だったっけ」
そうだった。今思えば何故そんな事を彼に頼んでしまったのか分からなかったが、とにかく自分に嘘を付いてまでエバとデートした事に腹が立った。
どうやらマックスやその他の事で世話になった礼に食事に行くだけだったのを、Aチームのあのおふざけ連中がデートのフルコースにしてしまったらしいのだが、それにしても私に嘘を付く事は無いだろう。いつもまるで仲間のように名前を呼び捨てにするくせに・・・。
エバと手を繋いで(ジュードは引っ張られていただけなのだが)あのにぎやかな店の階段を下りてくる姿を見た時、彼等がとても似合っている事に気が付いた。きっと自分がエバの代わりに居ても、姉と弟にしか見えないだろう。
当然だ。私は彼より四つも年上で、しかも人を教える立場にあるのだから。喧嘩になった時、エバを連れて逃げるように命令したのは、そんな自分の心のざわめきを消し去りたい為だったのかも知れない。
シェランは訳の分からない顔をして自分を見ているジュードを見上げた。何故彼を部屋に入れる事を躊躇ったのだろう。ついこの間まで、なんとも思わなかったのに・・・・。
「分かったわよ。行けばいいんでしょう?行けば・・・!」
「何を怒ってるんだ?」
「怒ってなんかいません!」
シェランは益々訳の分からない顔のジュードを連れて、自分の部屋の方へ歩き出した。
むくれた顔のままのシェランについて彼女の部屋に入ったジュードは、その広さと豪華さにびっくりした。
入り口からすぐはリビングになっていて、グリーンで統一されたソファーセットが中央に並び、部屋の隅には書斎まであった。その書斎の奥にベッドルームが別にあり、更にその奥は、ドレッサーの備え付けられたフィッティングルームになっていた。政府の関係者などが泊まる部屋だろう。
「凄い。オレ達の部屋と全然違う・・・」
「当たり前でしょ?私は招待されてここに来たの。あなた達は私に無理やり付いて来たんじゃない」
言われてみればその通りである。ジュードはムッとしたままのシェランをこれ以上怒らせないよう、つまらない発言は控える事にした。
「それで、シュレイダー大佐は何て?SLSはもう帰っていいって言った?」
「ええ、午後には迎えのヘリが来るわ。あなた達と本部隊員は戻るようにとの命令よ」
あなた達?普通、私達と言わないか・・・・?
「何?シェランだけ残れって言われたのか?」
「私が残るって言ったのよ。私はここが完全に安全になるまで見届けるつもりよ」
― 完全な安全・・・ ―
ジュードは溜息を付きながら、側のソファーに腰掛けた。やわらかくゆったりとした背もたれにもたれ掛かっても、心は落ち着かなかった。
「アズも同じ事を言ったよ。あいつ、1人でもここに残るって。でも完全な安全になるのっていつだ?あの男が捕まった時か?それっていつなんだ?」
「ジュード・・・・」
シェランは困ったように彼の名を呟くと、ジュードの前のソファーに座った。
「シェランには分かっているんだろう?ここはアルガロンと同じだ。5THのように完全に機能を失うまで、あの男は諦めないんじゃないのか?」
彼女は黙ってうつむいたまま、彼の言葉を聞いていた。
「シェランはあの夜見た男に心当たりがあるんだろう?だから大佐に言えなかったんじゃないのか?あの男がオレ達SLSだけが使う水中手話で話しかけてきた事を」
どう答えていいか分からず、シェランは唇を噛み締めたまま両手をぎゅっと握った。隠しているのは悪い事だと分かっている。そのせいで沢山の人の命が失われる事になったら・・・。
だからどうしてもここを離れる訳にはいかなかったのだ。
ジュードは今にも泣きそうな顔をしてうつむいているシェランの側に行って、彼女の隣に座った。
「シェラン。本当にレイモンドが、あの夜の男だと思っているのか?」
ジュードは直接彼女からそれを聞いたわけではなかったが、この状況で彼女が庇おうとするのは彼しか居ないと思っていた。
「分からないわ。でも、彼しか考えられないの。1,200フィートもの深海に潜って、爆弾を10個も取り付けるなんて・・・」
「それはSLSの中だけで考えたら、だろう?あの夜、あの男がオレ達に示した言葉は4つしかない。“お前達は”・・・“全員”・・・“海に”・・・“沈む”」
ジュードはあの夜の男と同じように、手話でその言葉を示した。
「これくらいならSLSの誰かとちょっと親しくなって教えてもらえば、誰にだって使える。SEALの隊員でも、ここの研究員でも。確かに1,200フィートは驚異的な深さだ。だが、SEALと同程度か、それ以上の装備があれば、実力のある人間なら行けるかもしれないだろう?」
ジュードの言葉は、今まで罪の意識に沈みきっていたシェランの心を、一瞬で明るくした。彼の言う通りかもしれない。あの男はSLSの内部に裏切り者が居ると思い込ませようとしたのかも・・・。
「その通りだわ、ジュード。ありがとう!」
シェランは嬉しそうに叫ぶと、彼の首に抱きついた。彼女の行動を全く予期していなかったジュードは、勢いに負けてそのままソファーに倒れこんでしまった。目と口を開けたまま、びっくりしたように固まっているジュードの顔を上から覗き込んで、シェランは嬉しそうに笑った。
「やっぱりレイじゃなかったのよ!ああ、心配して損しちゃった!」
彼の疑いが完全に晴れたわけでもないのに、シェランはすっかり元気になって、ソファーの上から飛ぶように立ち上がった。
「どうせ駄目って言っても、アズの為にあなたは残る気なんでしょ?ヘレンに帰還はもう少し先に延ばしてもらうから安心して」
珍しく肯定の台詞を述べると、シェランは上機嫌で部屋を出て行ったが、ジュードはまだ仰向けになってソファーの上に倒れこんだままだった。熱いくらいに顔が真っ赤になりながら、彼は小さく溜息を付いて呟いた。
「勘弁してくれよ、もう・・・・」
【予告】 第8部 深海のダイヤモンドリング 〈7〉
犯人はきっと内部に居る。そう判断したジュードはSLSの隊員や訓練生が引き上げた後、SEAL隊員やウェイブ・ボートの研究員をくまなく調べ上げる事にした。
爆弾を取り付けた犯人は、この中に居るのか・・・。そしていよいよ『私という名の男』の本当の目的が明かされる・・・・・。