第1部 A HARD DAY 【2】
ドライスーツに身を包んだジュードとアズマは、シェランの勧めで命綱を付けた救命帯を体に装着し、船の縁から下を見た。
港を出る時、暗緑色だった海が、まるで入るものを拒むように深い紺色に変化し、冷たい波を船の横腹に打ちつけている。
潜水に関してジュードは全くの素人だったが、女性2人に手伝ってもらってアクアラングを背負うと、後ろ向きに船べりに座り、アズマと互いの顔を見合わせた後、海に飛び込んだ。
シェランとキャシーは彼等の姿が消えると、すぐ縁に寄って海を覗き込んだ。彼等の姿はゆっくりと船の下へ向かっている。
ジュードが周りを見回すと、日の光が波間を通してキラキラと差し込んでいた。その光の間を抜けてゆっくりと船底へ向かった。
そして2人はすぐに、スクリューの回りに縦横5メートルもある網のようなものが絡まっているのに気が付いた。網といっても魚を取る網ではなく、金属製のように見える。金網の端には海に浮かべるように6個のブイが付いていたが、スクリューに絡まって網もブイも原型を留めていなかった。
船が止まった原因がこれなら取り除けばいい。アズマは下の方からゆっくりと浮上して金網に近付いた。
だがジュードは、まるで行く手を阻むかのように船底にまとわりついているその網状のものを見た時、さっき船上で見た様々なシーンが、まるで早送りのビデオを見ているように流れていくのを感じた。
― 一瞬で消えた電気 ―
― 動かなくなった計器 ―
― 外傷もないのに倒れていた乗組員 ―
全てこの金網が原因だとしたら・・・?
ジュードはハッとしたように急いで泳ぎ出すと、今にも金網を掴もうとしているアズマの右手を握り締めた。アズマはムッとしたような顔でジュードを見ると、彼の手を振り払った。
“何をするんだ。これを取らないと船は動かないぞ”
アズマが網を指差す。だがジュードは何度も首を振って海上に出ようと合図した。
海の上に顔を出したアズマは口からレギュレターをとると、隣に浮かび上がってきたジュードに文句を言い始めた。
「せっかく潜ったってのに、なんで邪魔をするんだ!あれを取り除かないと船は動かないぞ!」
ジュードはほんの4,5分潜っていただけで、ぐったりしてしまっていた。ドライスーツを着たのも初めてなら、アクアラングをつけて海にダイビングしたのも初めてだったのだ。彼は「とにかく船に上がろう」とだけ言うと、ライフシップの側まで泳いでいった。
ショーンと彼に呼ばれていたジェイミーが、船に上がるのを手伝ってくれた。シェランとキャシーが言われていた通り、ドライスーツを脱いだ彼等に毛布を掛けた。
彼等が戻ってくるのを待っていたように、電気の設備を点検していたハーディとレクターが、毛布をかぶって座り込んでいるジュードに駆け寄ってきた。
「配電盤を見たけど全部焼け付いてたんだ。何か雷でも落ちたみたいだな」
彼等の言葉に「やっぱりそうか・・・」と呟くとジュードは立ち上がった。
「何がやっぱりだ!ちゃんと説明しろ!」
イライラしながら叫んだアズマを溜息混じりに見ると、ジュードはそこに集まった仲間の顔を見回した。
「船のスクリューに金網のような物が撒きついていた。多分船の電気系統が全部やられたのもあれが原因だろう。さっきアズマが触ろうとしたのを止めたのは、まだあれが生きているかも知れないと思ったからだ。
あの金網がスクリューに絡まった瞬間、電気が船の金属部分を通り、計器や通信システムに流れた。乗組員達は計器からの放電に感電したんだ。だから外傷もないのに気絶していた。オレ達が無事だったのはこのデッキが木製だったからだろう」
ジュードの説明を聞きながら皆は顔を見合わせた。声を発する者もいなかった。一体何故そんな金網が船に絡まったのか、それは何処から来たのか、誰にも分からなかったし何をどうすればいいのかも分からなかったのである。
「とにかくオレとアズマで何とかあれを取り除くから、ハーディとレクターは続けて配電盤の修理をしてくれないか?但し、作業は必ずゴム製の手袋をつけてやってくれ。取り除いている間に又放電するかもしれない」
だが、ハーディとレクターは自信がなさそうに顔を見合わせた。家電ならともかく、電子部品が焼け付いているのだ。交換する部品も無く、工具も揃っていない。専門的な知識も無い彼等には、全く手の施しようが無かった。そんな2人にジュードは彼等の肩を叩いて笑いかけた。
「なあ、オレ達は確かに素人だ。だけどただの素人集団じゃない。2,000人以上の人間の中から、SLSが選び抜いた中の16人だ。だから力を合わせれば、きっと何かが出来る。こんな大西洋のど真ん中で決して終わったりしない。そうだろう?」
ハーディとレクターはやっと顔を上げてジュードに頷くと、船の中へ戻って行った。
ジュードとアズマが水中で感電しなかった事を考えると、金網は触れているものだけに放電することになっているか、もう機能を失っているかのどちらかだろう。
だがとりあえず、彼等は金目のものを一切付けずに行かねばならなかった。ドライスーツもファスナーが付いているので着用できない。もちろんアクアラングもだ。船べりにグローブと足にはめたフィン以外は下着一枚で座り込んだジュードの前にシェランが心配そうな顔で座った。
「やめた方がいいわ、ジュード。水中で放電したら大変よ。素もぐりの経験だってないんでしょ?」
「でも、あれを取り除かないと前には進めないだろ?大丈夫さ。何とかなる」
軽く答えたジュードにシェランは眉をひそめた。
「何とかならなかったらどうするの?水中で放電したら、例え金目のものを付けて行かなくったって間違いなく死ぬのよ!」
― 死 ― という言葉は、一瞬ジュードの胸の奥を鷲掴みにした。怖くないと言えばウソになる。ジュードは2メートル先の縁に、同じような姿で座っているアズマを見た。この話を聞いても、彼も降りる気は無いようだ。
「オレ達は何が何でも戻らなきゃならない。そして試験を再開するんだ。SLSに入る為に・・・」
「試験と命とどっちが・・・・・!」
シェランの声は、ジュードの立てた水音にかき消された。そのすぐ後、アズマも海に飛び込んだ。
完全防水のドライスーツは水の冷たさから身を守ってくれたが、秋口の大西洋の水はすぐに彼の体から体温を奪っていった。それでも何とか船底に辿り着くと、後から追いついてきたアズマと共に、金網を取り外しに掛かった。
何度も息継ぎをする為、海上に戻っては再び潜っていくジュードとアズマを船上の4人は不安げに見守った。
彼等が海に潜ってから20分が過ぎた。ジェイミーは低体温症の心配をしていた。
「大丈夫かな。これ以上あんな格好で潜るのは危険だと思うんだけど・・・」
「そうだわ。あれがあるかも・・・」
シェランはそう言って船の中へ入っていくと、暫くして予備の毛布と簡易カイロを持って出てきた。毛布の表面に簡易カイロをガムテープで貼り付け、その上からもう一枚の毛布を重ねる。これで受動的再加温を行なうのだ。
ジュードが11回目の息継ぎに現れた時は、もう既に40分が経過していた。
「ジュード、もういい。上がって来い!」
思わずショーンが叫んだが、「後もう少しなんだ!」と答えて、彼は再び潜ってしまった。
「まずいなあ。体温が30度以下になったら、受動的再加温じゃ効かなくなるぞ」
「その前に意識を失うわよ」
シェランはジェイミーの後ろで呟くと、上着のボタンに手を掛けた。
「どうするの?」
上着を投げ捨てたシェランにキャシーが聞いた。
「連れ戻してくるわ」
「じゃあ、私も行く」
「ばか!そういう時はやめろって言うべきだろ!」
ショーンが慌てて叫んだ時、船につけられた鉄梯子をジュードの手が掴むのが見えた。
「すぐに引き上げて!」
シェランが叫んだ。
船に登ってきた彼等を二人一組になって引き上げると、4人はすぐにジュードとアズマの体をタオルで吹き上げ、カイロ付きの毛布をかぶせた。2人とも全身がガクガクと激しく揺れるほど震え、唇は紫色に変色していた。
「大丈夫?しゃべれる?」
シェランがジュードの髪の毛をタオルでこすりながら訪ねた。
「う・・・ん・・・金網は・・・何とか・・・取り除いた・・・」
どうやら歯の根が合わないらしい。向うから同じように途切れ途切れにアズマも叫んだ。
「大体・・・お前が・・・何度も息継ぎに戻るから・・・時間が掛かったんだ・・・!」
どうやら2人とも意識ははっきりしているようだ。シェランは安心したように微笑むと「とにかく良く頑張ったわ。2人とも」と言ってジュードの体を毛布の上からこすり始めたので、アズマの面倒を見ていたキャシーとジェイミーも同じようにやり始めた。
「おい、ヘリだ!SLSから助けが来たぞ!」
マックスが勢い良くデッキに飛び出してきたので、ジュード達は驚いて空を見上げた。デッキに居た彼等は作業に夢中で気付かなかったのだが、確かに東の空に小さな影が見えた。やがてそれは、バリバリとお馴染みのローター音を響かせながら、徐々にその姿を顕にしていった。
「ヘリだ!」
「助けが来たぞ!」
船の中で作業をしていた者達も飛び出して来て、デッキの上から力一杯手を振った。全員が歓声を上げる中、ジュードの側に立っていたシェランだけは、そのヘリを怪訝な顔で見上げていた。
― 何故あのヘリは東の空から来たのだろう・・・。陸は西側なのに・・・・ ―
そしてそのシェランの懸念は正解だった。全体を黒く塗られたヘリには、所属を表す様な文字一つその機体に無く、彼等の上空に制止したまま、メインローターが巻き起こすダウンウォッシュを船の上に激しく吹き付けさせるだけで、一向に救助の人間が降りてくる気配は無かった。
さっきまで喜び合っていた受験生達も次第に何かおかしいと感じ始め、揺れる船の上で口々に不安の言葉を口にしながら上空を見上げた。
『SLSから助けが来たかと思ったかね?だとしたら随分おめでたい連中だな』
いきなり降ってきた金属的な男の声に、彼等はぎょっとして黙り込んだ。どうやら変声器を通して話をしているようだ。
『我々の作った接触型放電装置の効き目はどうだったかね?この程度の船なら、充分全ての電気回路を破壊してくれたと思うが・・・』
ジュードは隣に居たショーンと思わず顔を見合わせた。どう考えても味方じゃない。しかも、さっき必死に取り除いた、あの妙な金網をこの船にわざと絡ませたというのか?一体何の目的で・・・?
「お前は誰だ!」
マックスが叫んだ。
『我々の正体を知りたいなど50年早いな。SLSのひよっこ諸君。だが君達の置かれた状況と立場は説明しておいてやろう。君達がどれ程もがこうと、又電気系統を復帰させたとしても機関は回復しない。その船の機関は全て私の手元で制御できるようにしてあるからだ。無論、電話、ファックス、インマルサットなどの通信手段も無効だ。
君達は漂流者であり、救えるのはこの私だけだ。つまり君達の生命も未来も、全てこの私の手の中にあるという事だ』
相変わらず空を劈く様なヘリの音が周りの空気を振動させていたが、それさえも耳に入らないような重苦しい沈黙がデッキの上を包み込んでいた。
「つまり、私達は人質という訳ね・・・・」
小さく呟いたシェランの声に、ジュードはハッとして彼女の顔を見た。
誰もが青い顔をして得も知れぬ不安に心をかき乱されているというのに、彼女の瞳は全く恐れを抱いていなかった。それどころか、その唇の端は挑戦的に笑みを湛え、初めて彼女を見た時と同じように凛然と真っ直ぐにヘリを見つめている。
― 一体何者なんだ?この女・・・・ ―
この時ジュードは、まだ彼女の名前を聞いていなかった事に気が付いた。
正体不明のヘリが上昇し始めるのと同時に、機関が復帰する音が聞こえた。幾ら調べても機関を回復させることが出来なかったサムとダグラスが、悔しげに顔を見合わせた。
「機関を制御しているコンピューターに入り込まれてるんだ」
「クソッ、何とかならないかな・・・」
サクセスファリ号がヘリの後ろについてゆっくりと波を切り始めた。