第8部 深海のダイヤモンドリング 【1】
毎日厳しい訓練を続けているSLSの訓練生達も、あと一ヶ月もすればクリスマス休暇を迎えられるとあって、皆楽しそうである。
この間の“ラ・ドゥーア”での騒ぎは先輩達の教えによって、Aチームメンバーの胸の奥に思い出としてしまい込まれた。
11月も中盤に差し掛かった頃、キャシーの元に彼女の父親から手紙が届いた。キャシーは父を決して見捨てていないという証として、月に一度、父への手紙を欠かした事は無かったが、父から返事が返って来たのは、これが初めてであった。
キャシーが出す手紙には毎日の訓練や、仲間や教官の事を詳しく書き連ねてあった。家を出る時約束したように、男ばかりの中で女として精一杯頑張り続けてきた、その努力にやっと己の非に気付いたのか、父は手紙の最後を『今年のクリスマスは戻ってこないか?』という言葉で締めくくっていたらしい。
それでキャシーは訓練校に入校してから初めて、休暇を故郷で過ごす事になった。
一方ジュードは相変わらず金が無かった。・・・という事で、もちろんクリスマスも1人でSLSの寮に残る事になっている。おまけにシェランに嘘を付いた事がばれて以来、バイトの無い日は教官室の片付けだの、模様替え等を手伝わされていたのだった。
夕食を終えるとすぐに席を立ったジュードを、一緒に食事を取っていた機動の仲間がニヤニヤしながらからかった。
「ジュード、今日も教官室かぁ?」
「美人教官と2人でアフターレッスン。うらやましいなぁ」
ジュードはムッとして振り返った。
「な・に・が、うらやましいだよ。めちゃくちゃ人使いが荒いんだぞ、シェランは。今日なんかあの巨大な本棚を動かさなきゃならないんだからな。お前等なんか手伝ってもくれないくせに!」
ジュードは口を尖らせていたが、仲間たちは相変わらずニヤニヤ顔だ。
「邪魔しちゃ悪いだろ?」
「そうそう。大体あの大佐に嘘を付いたお前が悪い」
それを言われるとぐうの音も出なくなる。シェランにも『嘘付きジュード』と言われてしまった。元はといえば、ただの食事会をデートのフルコースに仕立てたお前等のせいじゃないか。
ジュードが恨みのこもった目で睨みつけるので、ネルソンが笑いながら彼の肩を叩いた。
「だがな、ジュード。これは良い傾向じゃないか?」
「何が?」
「確かに嘘を付いたのはまずかったが、それにしても尾を引き過ぎている。これは何だ。お前が嘘を付いた事よりも、エバとデートした事の方を怒っていると取れるじゃないか」
ジュードが訳の分からない顔をしているので、ネルソンは更に顔を近付け、右手の人差し指を立てると念を押すように囁いた。
「つまり、やきもちだよ。や・き・も・ち。分かる?」
ジュードは疲れたように、はあっと溜息を付いた。
「もういい。お前等と話していると、何でもかんでも恋愛関係にしてしまうんだから・・・」
ぼやくように言うと、彼は食堂を後にした。
本館3階にあるシェランの教官室のドアを開けると、彼女は本棚を動かしやすいように中の本を全て取り出している最中だった。ジュードも一緒に本を出してから、2人で重い本棚を動かした。・・・といっても、本棚は部屋の右側の壁から左側の壁に移すだけだった。
ジュードにすれば反対側から見たら同じなのにと思ったが、シェランは今のレイアウトに飽きたらしい。少しでも変化をつけたかったのだ。
彼女が本棚の棚をひとつひとつ拭き上げた所に、ジュードが本を戻していく。黙々と作業をしているシェランをジュードはちらっと横目で見た。
さっきのネルソンの言葉を有り得ないと思っていたが、よく考えてみると、確かに彼の言う事にも一理あるような気がする。教官にちょっと嘘を付いたくらいで、こんなに怒るだろうか。もしシェランが少しでもオレにそんな気持ちを持っていてくれたら・・・。
「ジュード、何?その本、貸して欲しいの?」
「え?」
ジュードは本を持ったままぼうっとしていたらしく、シェランは勘違いしたらしい。
「い・・・いや。難しそうな本だなと思って・・・」
ジュードは慌てて本を棚に押し込んだ。
「とにかく、これで全部終わりだろ?この本棚で終わりだって言ってたよな」
シェランはゆっくりと最後の一段を拭き終えると、にっこり笑って立ち上がった。
「嫌だわ、ジュード。まだ家があるじゃない」
「い・・・家?」
― あのコンサートホールみたいな巨大な家か? ―
ジュードは「冗談じゃないぞ!」と叫ぼうとしたが、その最初の一言を繰り出す前に、シェランの瞳が彼の瞳を捕らえた。
「まさかジュード。教官に嘘を付いた罰が、こんな事で許されると思っているのかしら?もし嫌だなんて言ったら、潜水の試験、全部0点にしちゃうからね」
ジュードは一瞬でも甘い夢を持たせたネルソンに「バカヤローッ!」と叫んでやりたかった。
― 何がやきもちだ!シェランがそんな可愛いものをやく女かどうか、考えたら分かるだろ! ―
これでジュードのバイトの無い日曜日は、シェランの家でボランティアと決定した。
クリスマスが近くなると、談話室や食堂など生徒のよく集まる場所にはクリスマスツリーが立てられ、窓や入り口にもクリスマスリースやLEDのライトが点灯する。しかし常夏のフロリダでは皆あまりクリスマス気分にはなれないようだ。
ジュードも去年、初めてここでクリスマスを迎えたが、暖かい南風の吹き抜ける談話室に置かれたツリーには、どうしても違和感を覚えずには居られなかった。
そんな不自然だが、かなり見事に飾りつけられたツリーを見ながら、ジュードがショーンやジェイミー達と外のテラスデッキでコーヒーを飲んでいると、Bチームのサミーがヘンリーやザックと一緒にやって来て声をかけた。
「やあ、ジュード。今日のバイトは休みかい?」
「ああ。鬼教官に強制的に休まされてるんだ。週3日までしか駄目だってね」
「それは君の体の為に言っているんだろう?」
サミーは笑いながらジュードの隣に座った。
「で?最近その鬼教官にこき使われてるんだって?日曜日は教官の家まで行っているとか・・・。リーダーは辛いよなぁ」
ニヤニヤ笑っているヘンリーやザックの顔を見て、ジュードは溜息を付きたくなった。
― 全く、みんな良く知ってるよ・・・ ―
黙り込んだジュードを気の毒に思ったショーンが、彼をフォローした。
「あんまり言ってやるなよ。こいつ、大佐に弟扱いされて悩んでるんだからさ」
「へえ、弟ねぇ・・・」
ヘンリーやザックは興味津々の顔である。又こいつらは、オレをダシにして盛り上がろうと思っているな?そう思ったジュードは、先に予防線を張っておく事にした。
「弟?違う違う。子供だよ、子供。弟ならまだ男として認められているけど、男とも思われてないんだぜ。大体、一人暮らしの家に男を入れるか?子供としか思ってないんだよ。あれは・・・」
「はあ・・・」
皆は目を丸くして聞いているが、正にその通りなのだ。おまけにベッドのある自室にも入れて、これをあっちに、あれをそっちにと、まるで引越し業者だ。別に男として見ろとは言わないが、もう少しこっちの気持ちも考えろよ、全く・・・。
「それはさ、ジュード。弟だの子供だの言う以前の問題じゃないか?」
ずっとジョンソン家の一員として見られなかったサミーには、ジュードの気持ちが良く分かった。確かにこの年でずっと子ども扱いされれば、プライドが傷つくだろう。
「僕が思うに、問題はシェラン教官の性格じゃないかな。つまり女としての自覚が無いんだ。彼女は教官としてはかなり優れた人だけど、中身はきっと子供なんだよ。自分が子供だから、ジュードの事も大人の男性には見えないんだよ」
シェランも随分な言われようだなと思ったが、彼女の教え子であるヘンリーとザックは深く頷いた。
「ああ、そうそう。確かにその通りだ。あの人はな、俺達でさえ子供と思っているぞ。年齢はそう変わらないのにな。だけど俺達から見れば、彼女の方が余程子供だぜ。いつもどんな時でも体当たりって感じだからな」
ザックの言葉にヘンリーが付け加えた。
「その通り。正に一直線って感じだな。そういう所は子供っぽいかなぁ。まっ、可愛いけどね」
ジュードもやっと彼等の言う事が理解できた。だが可愛いなんてものではない。彼女は正に体当たりで人を救おうとするのだから・・・。
「だからさ、ここはジュードが大人になって、子供っぽい教官を見守ってあげればいいんだ。放っておくと、とんでもない男に狙われちゃうかもしれないからね」
にっこり微笑んでジュードの肩を叩いたサミーに、ショーンとジェイミーは心の中で拍手を送っていた。
そろそろ外も暗くなって来たので、寮に戻ろうと彼等が立ち上がった時、頭上を凄まじい轟音を響かせながら巨大なヘリが通り過ぎた。どう見ても一般のヘリとは違うその姿に、テラスに居た訓練生達はみな顔を上に向けて、それが通り過ぎるのを見つめた。
「あれって軍用ヘリだぜ」
誰かが叫んだ。
― 軍用ヘリ・・・? ―
ジュードは嫌な予感が背中に走るのを感じた。まさか又アルガロンに何かあったのだろうか。
ヘリはかなり高度を落としていたので、SLSにやって来たのは間違いなかった。ジュード達は顔を見合わせると、ヘリポートに向かって走り出した。
訓練校のヘリポートは本部のそれと隣接しているが、決して本部隊員の任務の邪魔にならないよう、高い金網で仕切られていた。軍用ヘリなら間違いなく本部側のヘリポートに着陸すると思っていたが、その巨大なヘリがゆっくりと降り立ったのは、ジュード達が立っている訓練校側のヘリポートだった。
暗い鉄の扉が開き、下へ降りる階段が現れると、ヘリの中からまず1人の男性が降りてきた。紺色の制服がいかにも海軍の軍人を思わせた。その男性が深く被った白い制帽から覗くブルーグレーの瞳の鋭さに、一瞬ジュード達は寒気を覚えたが、その男の後ろから現れた人物にはもっと違う何かを感じた。
赤銅色に近いブロンドの髪をプロペラの巻き起こす風になびかせながら、ヘリの階段を下りてきた女性は、男と見間違うほど広い肩幅と、ごつごつとした顎のラインが目立っていた。
彼女はヘリポートの端で呆然と立っているジュード達に目をやると、辺りを照らすオレンジ色のナトリウム光の中で唇の端をにやりと歪め、彼等に近付いて来た。
サミーがこそっとジュードに耳打ちした。
「階級章が見えるか?あの女性、大佐だよ」
その男女が側にやって来ると、6対2なのにまるで壁のように見えた。彼等の身長は軽く190センチを越していたが、何よりも制服の下に隠し切れないような筋肉と、体中から湧き出すような威圧感が、まだライフセーバーにもなっていない訓練生を圧倒した。
「シェルリーヌ・ミューラーは居る?」
頭の上から覗き込むようにして女性が訪ねた。
「この時間なら、まだ教官室に居ると思いますが・・・」
「そう」
女性は、訝しそうに答えたジュードをまるで値踏みするように見ると、彼の名を尋ねた。
「ジュード・マクゴナガルです」
「ではミスター・マクゴナガル。我々を教官室に案内してもらえるかな?君達のカーナル・オブ・ザ・フィッシュの所にね」
突然の来訪者を伴って本館への道を歩きながら、ジュードは心臓の鼓動が少しずつ早くなっていくのを感じた。
彼等は友人のように互いの名を呼び合っている。女性の方はヘレン、男性の方はルイス。だが、会話の感じからすると女性の方が階級は上のようだ。彼等がもし海軍だとすると、以前アーロン達が来た時に話していたSEAL(海軍特殊部隊)なのだろうか。又アルガロンに『私という名の男』から何かのアクセスがあったのだろうか。
ジュードは本館3階のシェランの教官室の前で、そのドアを叩くことを躊躇った。本当に彼等を連れて来て良かったのだろうか。シェランはあの日、どんな事があってもアルガロンに居る大切な人たちを守り抜くと言った。それは例え命を賭けても、あの男と対峙するという意味に違いないのだ。
ドアの前で右手を挙げたまま考え込んでいるジュードを、ヘレンは無表情に見つめた。
「どうしたのかな?ミスター・マクゴナガル」
「教官に会わせる前に、一つだけ質問があります」
引き締まった顔で自分を見上げたジュードを、ヘレンはふと面白そうな子だと思った。彼の瞳は必死に何かを守ろうとしている者の目だ。へレンはそんな瞳に見覚えがあった。
「何かな?」
「あなた方の急なご訪問は、アルガロンに関する事ですか?『私という名の男』に関係している事ですか?」
「もしそうだとしたら、君は我々を彼女に会わせないつもりかな?」
ジュードはうつむいてゆっくりと息を吐いた。
「出来れば会わせたくありません。ですがあなた方も、そして彼女も止める事は出来ないと分かっています」
― そう。守りたいのはシェランね? ―
ヘレンは横を向いて微笑むと、少し後ろに居るルイスに言った。
「少佐、答えは?」
「半分は正解。半分は不正解」
「・・・だそうだ、ジュード。もし気になるのなら、君も一緒に話を聞く許可を与えよう。それならドアを叩いてくれるかな?」
ジュードは黙って後ろを振り向くと、シェランの部屋のドアをノックした。
軍から訪れた2人の使者を見たシェランの顔は、正に悪魔の降臨を見るかのようだった。それだけで充分、ジュードは彼等をここに連れて来たことを後悔した。
「久しぶりだな、シェラン。5THの件以来だから5年・・・いや、6年になるか。まさか君が潜水士を辞めて、こんな訓練校の教官になっているとは思わなかったよ」
「潜水士を辞めたわけじゃないのよ、ヘレン。あなたこそこんな時間にこんな所に来るなんて、お遊びが過ぎてSEALを首になったのかしら?」
これはどう見ても仲が悪いなんてものでは無い。この間、キャシーとレナの女の争いを見て怖いと思ったが、大人の女同士になると子供のようにキャーキャーわめかないだけに、もっと底知れない怖さがある。壁際で目を丸くして立っているジュードに、彼の横に居たルイスがそっと囁いた。
「仲が悪くてびっくりしただろ?でも本当は意外と仲良しなんだぜ」
― 仲良し?これで仲がいいなら、オレとアズなんか大親友だ ―
「少佐。口が過ぎると中佐への昇進が遅くなるぞ」
「はっ、シュレイダー大佐!」
ルイスは敬礼した後、ジュードに片目を閉じておどけたように笑った。さっきヘリから降りてきた時は、とても冷たそうな男だと思ったが、今のルイスの瞳はとても優しく感じられた。彼は心配しなくていいと言っているのだろうか・・・。
「シェラン。私がわざわざこんな辺鄙な所まで来たのは他でもない。君に仕事の依頼をしに来たのだ」
ヘレン・シュレイダー大佐は人に物を頼むというのに、後ろに腕を回したままニコリともしなかった。
「お断りよ。5THの事件の後、あなた方の依頼は二度と受けないと言ったはずだわ」
「シェラン。いくら君の御両親が8年前、軍の要請を受けた仕事で大西洋のどこかに沈んだとしても、それを恨むのはお門違いだと思うが?」
急にシェランの瞳から体温が消えた。心の中に6年前、海に捨てたはずの憎しみが沸き立ってくるのをシェランは隠し切れなかった。
― 彼等が両親を殺したのだ・・・ ―
ジュードは、震えながらヘレンを見つめて立つシェランを、ただ見守るしかなかった。そして、彼は知った。シェランの両親は軍から依頼された仕事によって亡くなり、遺体さえ帰って来なかったのだ。
「あなた達が両親を殺した。15歳の私から家族を奪い取ったくせに」
「軍は出来る限りの事はした。一週間以上にも亘って、懸命な捜索もした。だが見つからなかったのだ」
「あなた達はいつだってそう。『出来る限りの事はしたが駄目だった』でも、その過程は?結果は?何一つ教えてくれなかったじゃない。2人が何処に沈んだのかさえ教えてくれなかったわ!」
ジュードはじっとしていられず、震えながら恨みのこもった目でヘレンを見上げているシェランの側に駆け寄り、後ろから彼女の両腕を掴んだ。そして目の前に居るヘレンに懇願するように何度も首を横に振った。
それを見て、ヘレンも両親の事を持ち出したのは悪かったと思ったのだろう。大佐という地位と彼女の性格からシェランに謝る事は出来なかったが、静かに後ろへ下がるとルイスに話の続きをするように頼んだ。
「ミス・ミューラー。確かにまだ15歳のあなたから大切な方々を結果的に奪い去った事実は、言い訳の仕様の無いものでしょう。軍の機密上の問題で、あなたに何一つお伝えできない事も、心苦しく思っています。あなたが我々の事を赦せないのも仕方のないことだと理解できます。ですが今回の依頼だけは受けていただけないでしょうか。3,500人もの人の命が懸かっているのです」
「3,500人?」
シェランは思わずジュードと顔を見合わせた。
ルイスは手に持っていた海図を広げると、シェランの机の上に置いた。
「ジャクソンビルから250キロほど離れた大西洋沖に、ウェイブ・ボートと呼ばれる海洋学研究所があります。デイダーという民間の企業が出資して2003年に作られた研究所ですが、その規模と設備は研究所というより一つの都市と言っても過言では無いでしょう」
彼は説明しながら、ウェイブ・ボートの設計図を広げ始めた。八角形の傘のような形をした建物には、同じ八角形の飛行場がある。飛行場のすぐ下には何本もの支柱があって、その都市とも言える建物を繋いでいた。
飛行場の下に一本の線が引かれているのを見て、ジュードは「もしかして、この建物は海中にあるのですか?」と尋ねた。
「ああ、良く分かったね。建物の部分は全て海中にある。海上にあるのはこの飛行場だけで、上下移動できるエレベーターによって繋がれているんだ」
飛行場から約675フィート下にある建物は全長500メートルもあり、3,000フィートもある海底に一本の支柱を立てて支えられていた。30階建ての建物には全て窓が付いており、この中から見る海はさぞかし美しいだろうと想像できた。
「実はこの所、石油・天然ガス資源調査隊のテントや施設で、相次ぐ事故が起こっています。ベーリング海、アラスカのノーススローブ、オデッサ、パルハンドル、カスピ海・・・。いずれも合衆国が新たに資源調査を開始した場所で、7箇所ほど。死者は40人以上、重軽傷者を合わせると120人以上の人間が犠牲になっています」
シェランはじっとうつむいてルイスの説明を聞いていたが、犠牲者の数を聞いてぎゅっと手を握り締めた。
「“彼”なのね。そうなんでしょう?ヘレン。事故なんかじゃないのでしょう?」
ヘレンは壁際で彼等の様子を見ていたが、ゆっくりと靴音を響かせてシェランの側にやって来た。
「確証は無い。犯行予告も何も無いからね。あの男は脅迫なんかしない。調査をやめなければ爆破するなんていう前に、全てを滅ぼす。鮮やかで確実。だから誰も彼を捕まえる事は出来ないのだ」
「でもどうして彼がここを狙うの?海洋学研究所なんでしょう?」
「デイダーは総合商社だ。ウェイブ・ボートは名前こそ海洋研究所だが、海に関するあらゆる調査を行なっている。海底の土中深く眠る石油・天然ガス資源や鉱脈の発見、果てはカルシウム補給品として注目を浴びている天然珊瑚礁群。
いまや地上の殆どの資源が採掘、もしくは採掘されていなくても、何処に何がどの位埋蔵されているのか分かっている。次に世界が目を向けるのは海洋開発だ。海に眠る資源を巡ってどの国も必死になっている。
デイダーはアメリカ政府が出資を行なっている中でもかなりの企業なんだ。『デイダーは世界中の海を掘り起こし、合衆国を豊かにする』これがこの会社の企業理念。これ程あの男にとって目障りな会社は無いだろうな」
ヘレンは一息置くと、シェランをチラッと見た。彼女はうつむいて、じっとウェイブ・ボートの設計図を見ている。きっともう彼女は、自分の肩に3,500人の命の重みを感じているに違いない。そして自分がそこで何をすべきなのかを考えている。シェルリーヌ・ミューラーとはそんな女だ。
かたやジュードの方は、じっとシェランを見つめていた。彼の目には諦めと後悔の色が現れている。彼女の決意を聞いたら、この青年はどうするのだろう?
「ウェイブ・ボートはデイダーが、アメリカ政府から受けた多額の出資を元に、社運を賭けて作った施設だ。675フィートもの深さの水圧に耐えられる建物と窓。海上と研究所を繋ぐ200メートルもあるエレベーター。あらゆる環境下に耐えられる巨大な支柱。
もしこのウェイブ・ボートを失ったら、デイダーは確実に破産だろうな。世界中で働くデイダーの社員とその家族が路頭に迷う事になる・・・」
まるで脅しをかけるようにヘレンは言ったが、それは事実だった。でなければいくら上層部からの命令とはいえ、自分達を毛嫌いしている女に仕事を頼みには来なかっただろう。
「次に“あの男”が狙うってどうして分かったの?」
「分かったわけでは無いんだ。“あの男”に関しては、FBIもCIAも尻尾の片鱗さえ掴めていない。だからわずかな手がかりを集めてFBIがプロファイルした結果なんだ。『次はアメリカ有数の企業を狙うだろう。海洋開発に関してはトップクラスの会社で各国に支社を持ち、多くの人材が携わっている』・・・。
地上にあるデイダーの本社や施設は全て軍かFBIの手配が終わっている。そしてウェイブ・ボートはSEALにと、命が下ったのだ」
シェランはフッと微笑むと、自分より20センチ以上も上にあるヘレンの顔を見上げた。
― そう、この目だ・・・・ ―
ヘレンはさっきこの部屋の入り口で見たジュードの瞳を思い出した。6年前、5THで見たシェランの目と同じ、何があっても守りたいものを守り抜こうとする楔状の目・・・・。
「それで?さすがの海軍特殊部隊のトップダイバーも、この深さを潜るのは難しいと思ったのかしら?」
「深さだけじゃない。この大きさだ。我々はウェイブ・ボートの為だけに人員を割くわけにはいかない。勿論この深さにも手を焼いているな。爆発物を探しながら長時間潜っているには深すぎる。全く厄介なものを建てたものだ」
ヘレンは、勝ち誇ったように自分を見ているシェランの瞳をもう一度見た。
この尊大な女大佐は、シェランの事を当然良くは思っていなかった。両親の件で軍に深い憎しみを持っていたシェランは、6年前初めて会った時から、まるっきり敵を見るような目でヘレンを見ていた。
無論、誇り高き軍人気質の彼女は、まだ17歳の少女の心や思いなど、国家の崇高な任務の前では塵ほどの価値も無いと信じていた。だがその塵のような思いが、あの5THの死者を36名で留めたのだ。彼女が居なければ、あそこに居る人々は全員死んでいてもおかしくはなかった。
ウェイブ・ボートの件で上からシェルリーヌ・ミューラーの名が挙がった時、何故大佐であるこの私が、あんな小娘に頭を下げに行かねばならないのかと腹立たしく思う反面、その後ライフセーバーになったシェランに、もう一度会ってみたいとも思った。
― ライフセーバー・・・・ ―
彼女は本当にライフセーバーになったのだろうか。6年前と変わらない、抜けるように白い肌。男性だけでなく女性さえも振り向かずには居られない、そのコバルトブルーの瞳とそれを更に際立たせる絹糸のような白金に輝く髪・・・。
だが彼女を知る誰もが認めている。彼女ほどこの海を知り尽くしたダイバーは居ない。そして彼女ほど、この海に愛されている人間も居ないと・・・・・。
「ご想像の通りだ。SEALだけでは守りきれない。とりあえず人員が要る。それでSLSの偉大な潜水士と、SLS本部の潜水士の協力を要請しに来たのだ」
それでもきっと足りないだろう・・・。シェランはうつむいて考えた。675フィートもの深海で作業できるダイバーが本部に何人居るだろうか。例え潜れても、長時間の潜水は脳や身体に深刻な影響を及ぼす。SEALの隊員が手をこまねいているのだ。SLSのライフセーバーに何処まで出来るだろうか・・・。
「海上で彼等をフォローする船は何隻?ドクターは揃っているの?減圧症への対処は?SLSのライフシップの航行は許可できるの?」
「全て手配は出来ている。医師と再圧チャンバーを積んだ船も用意してある。この件の総責任者はこの私。君が望むのならSLSの全ライフシップの航行を許可しよう」
シェランが頷き、全てが進み始めようとしていた時、ジュードは彼女達の間に口を挟んだ。
「待って下さい。SEALの交代人員を除いて、常に海中で作業している人間は何人ですか?」
「25、6人ほどかな」
「本部隊員で675フィートの深さに潜れる人間は何人居るんですか?教官」
又、何を言い出すのだろう・・・。シェランは訝しげに彼を見ながら答えた。
「せいぜい10人程度ね」
ジュードはゆっくりと彼女達から離れると、振り返った。
「ウェイブ・ボートの周囲は単純に計算して1,570メートル、高さは約90メートル。つまり141,300平方メートルの面積がある。海上にある飛行場は196,250平方メートル。建物の更に下の全てを支えている支柱は3,000フィートもの海底まで延びている。これら全てをたった35人で守り抜くというのですか?」
やはり、面白い子だな。ヘレンはにやりと笑ってジュードを見た。
「では、何か他に提案でも?ミスター・マクゴナガル」
「もちろんです。ここにはプロのライフセーバーも顔負けの訓練生が揃っていますから」
シェランはいきなり彼の名を呼ぶと、その腕を掴んだ。
「馬鹿なことを言わないで!あなた達は・・・」
「訓練生だろ?だけど、ただの訓練生じゃない。SLSの訓練生だ。3年生は卒業したら実戦に出るし、オレ達Aチームは・・・」
ジュードはそこで言葉を切ってシェランの顔をじっと見た。
「あなた達Aチームは・・・何なのよ」
「伝説の潜水士が教官のチームだ。最強だろ?」
ジュードはニヤッと笑ってシェランに顔を近付けた後、ヘレンを見た。
「有志を募ります。お許しいただけますか?シュレイダー大佐」
「許可する」
「勝手な事を言わないで、ヘレン。彼等は私の生徒よ!」
ジュードは自分の腕を掴んでいるシェランの手が、わずかに震えているのを感じた。“絶対に行かせない”“危険な目に遭わせたくない”彼女が心の中で叫んでいるのが分かった。
「シェラン。SEALは実戦の戦士だ。事が起これば、彼等が何を優先するかはシェランが一番良く分かっているんだろ?」
シェランの脳裏に、海に沈むしかなかった両親の顔が浮かんだ。ただ、水圧に押しつぶされるのを待つだけの、短くて長い時間・・・・。どれ程苦しかっただろう。助ける為の努力をしたと言いながら、彼等は国家の機密を守る為なら平気で人の思いを踏みにじるのだ。
「人を救えるのはライフセーバーしか居ない。オレ達しか居ないんだ。もし爆発を防げなかったら、3,500人もの人間をたった10人で救えるのか?」
「あなた達の中で675フィート潜れそうな人は、数人居るか居ないかだわ。でも、彼等にとってもまだ未知の世界よ」
「未知の世界か・・・。でも人数はもう1人追加だな」
「ジュード!」
彼はこれ以上シェランに反対されないように、さっさと部屋から出て行ってしまった。
― 全くもう、何を考えているのよ、あいつは! ―
シェランは教官の言う事を全く聞こうとしないジュードに腹を立てながら、再びヘレンを振り返った。
「許可を取り消して、ヘレン。あの子達は絶対に連れて行けないわ」
しかしヘレンは何食わぬ顔をして、机の上にある設計図や海図を丸め始めた。
「無駄なんだろう?例え許可をしなくても、彼なら君の後を付いてくるぞ。だったらSEALにある最高の装備を用意してあげた方がいいんじゃないか?」
ヘレンの言い方はいちいち勘に障るが、確かに的は射ていた。シェランはムッとしながらヘレンに最後の攻撃をした。
「さすが、私より随分ふけていらっしゃる・・・いえ、年上であられる事」
「“随分”と“ふけて”は余計だな、シェランお嬢ちゃん。君も少しは成長したかと思ったが、17歳の頃からちっとも変わってないんだな」
ニヤッと笑いながらにらみ合っている2人の女性を前にして、早く次のSLS本部へ行きたいと願う、ルイス・アーヴェン少佐であった。