第7部 仲間 【1】
ジュードとのデート(エバはあくまで奢らせてやるだけよと言っているが)を一週間後に控えて、キャシーは大忙しである。エバの衣装ケースから服を取り出し、彼女を一番かわいく見せるコーディネイトを考えたり、服に合うアクセサリーを選んでみたりと、まるで自分がデートするみたいだ。
ショーンやジェイミー達はデートコースの選定中である。
「まずはショッピングモールでブティックめぐりだな。女は買い物に付き合って欲しいもんだ」
「昼はやっぱり人気のリヴァース・キッチンだろ。ここのトルティーヤは色々あって楽しめる」
仲間が勝手に、ただ食事に行くだけなのをデートのフルコースに変えようとしているのも知らず、ジュードはやっと貰えた初めてのバイト代が思っていたより多かったので、とてもいい気分だった。
「これでエバには好きな物を食わせてやれるし、このまま頑張って続ければ、クリスマスの頃にはお袋にカシミアのひざ掛けくらい買ってやれるぞ」
果たしてこの常夏のマイアミで、カシミアのひざ掛けが売っているかどうかは分からないが、ジュードはとにかく嬉しかった。それでとりあえず、談話室にある自動販売機でジュースを買った。途中からバイトを半分に減らしているので無駄遣いは出来ないが、これからはジュースくらい遠慮なく買えるだろう。
「珍しいな。ジュード、1人?」
後ろからサミーの声がした。彼も1人で談話室に来たらしい。
「ああ。やっとバイト代が入ったから、前から飲みたかったジュースを買いに来たんだ。新発売なんだって、これ」
ジュードが差し出したのは、もう2ヶ月も前に発売されたものだった。
「ジュード・・・・君、本当にジュースを買う金も無かったんだなぁ・・・。余りの苦労人ぶりに泣けてくるよ」
「そうか?」
ジュードは笑いながら答えると、2人でテーブルに着いた。
「最近何をやらせてもトップだって評判だぜ、サミー」
「ああ、それなんだけど、ちょっと疲れて来ちゃってさ。もう充分リーダーとしては認めてもらえたみたいだし、ヘンリーとザックも良くやってくれるんだ。だからそろそろ普通に戻そうかと思って」
どうやら長い間普通でいることに努めてきた彼は、普通で居る方が楽なようだ。彼の仲間は又サミーが何のとりえも無さそうな人間に戻ったとしても、いざという時にはその秘めた力を発揮してくれるのを知っているから、今まで通りいいチームワークが保てるだろう。・・・とすれば、サミーが楽なようにするのが一番いいはずだ。
談話室を覗いたクリスが、楽しげに話しているジュードとサミーを見つけて中に入って来た。
「ジュード、こんな所に居たのか?シェランがずっと探し回っていたぞ。やけに機嫌が悪かったが、お前、何かやったのか?」
「え?分かりませんけど・・・。すぐに行って来ます!」
ジュードは驚いたように立ち上がると、飲みかけのジュースも置いたまま、談話室を飛び出していった。
「ジュードって本当に素直ですね。嘘なんでしょ?シェラン教官が怒ってるなんて・・・」
「探しているのは本当だけどな。あいつを見ると、ついからかってしまいたくなるんだ」
ニヤッと笑いながら、クリスはサミーの前の席に座った。
「所で、君がAチームのリーダーと仲良しとは知らなかったな」
サミーはジュードと校庭で話した夜のことを思い出した。あの時彼が通りかからなかったら、サミーはもっと大回りをして、今もまだ悩み続けていたかもしれない。
「最近なんです。友達になったのは・・・。僕がリーダーの事で悩んでいた時に話を聞いてくれて。今まで誰にも、家族にさえ見抜かれたことが無かったのに、ジュードは言ったんです。
『君の何処が普通なんだ?』って。僕はもうびっくりして、まるでとてつもなく悪い事をして、それがばれた時のようにドキドキしました。でもそれでやっと、もう普通でいる必要はないんだと思えたんです。不思議な男ですね。彼は・・・・」
クリスはサミーの最後の言葉を聞いて、眉をピクリと動かした。
― 又、あいつか?何でいつもあいつなんだ? ―
ケインの時もシェランから一応知らせを受けていたが「潜水課の事は私に任せて」と彼女に言われていたので何も出来なかった。サミーの呪縛も本当は俺が解いてやる立場だった。だが彼は自分で解決したと思っていたのだ。それが又あいつだったなんて・・・。
自分の心に、ついこの間感じた、どろどろとした感情が沸き立ってくるのが分かって、クリスは戸惑った。まるで小さな黒いしみが広がっていくように、どんどん気分が悪くなる。これは一体何なのだろう。何故ジュードがシェランに関わるのが、こんなにも嫌なんだろう。
クリスは自分でも説明が付かないその感情を、心の底に押し込めるようにサミーに笑顔を向けた。
ジュードはこの時間、シェランの居る場所の見当が付かなかったので、とりあえず彼女の教官室に行ってみた。ノックをしたが返事はなかった。もうすぐ4時限目が始まるので、仕方なく校庭に戻ろうとしたが、運よくシェランが階段を登ってくるのが見えた。
とにかく先に謝った方が勝ちだ。こういう事は引き伸ばすと後々面倒な事になる。ジュードは階段を駆け下りると、中2階の踊り場ですぐにシェランに言った。
「ごめん、シェラン。オレ、何かやった?」
きょとんとしているシェランを見て、ジュードはクリスにからかわれたのが分かった。事情を話すと、シェランはくすくす笑いながら言った。
「彼は昔からそうなのよ。ふざけるのが大好きで、私の前でも冗談ばっかり・・・」
それを聞いてジュードは、彼等がフロリダ本部で4年、この訓練校で1年、ずっと同僚だった事を思い出した。
シェランとクリスが本部でどんな風に仕事をやっていたかなど、ジュードには分からない世界だった。それは彼等の歴史であって、自分には全く関係のない話だ。
クリスが本部隊員を辞めてこの訓練校の教官になったのは、彼が25歳か26歳くらいの時だろう。ライフセーバーとして一番活躍している年齢である。そんな時期に本部隊員にまでなった人間が、教官なんかに転向するには何か理由があるはずだ。
火災訓練の時、エバがライフシップで言っていた“クリスが本部隊員を辞めた理由”が本当にシェランを追って来たと言うのなら、彼の気持ちは歴然としている。クリスはシェランが好きなのだ。では、シェランはどうなんだろう。彼の気持ちを知っているのだろうか。いや、それより以前に彼等はもう・・・・。
「ジュード、聞いてる?」
シェランに顔を覗きこまれて、ジュードはハッと我に返った。
「え?な・・・何?」
「もう、やっぱり聞いてなかったのね。今週の日曜。お休みの日に悪いんだけど、ちょっと手伝って欲しい事があるの」
ジュードは何故か日曜という言葉にドキッとした。シェランの頼みなら日曜でも放課後でも手伝ってやりたかったが、今週末だけはエバとの約束が入っている。もう一ヶ月も伸ばしているのに、これ以上延期してくれとはとても言えなかった。
「ごめん。日曜は、その・・・」
エバとの約束があるんだと言いかけて、彼は言葉を途切らせた。
「バイト・・・バイトが入ってて・・・その、来週じゃダメかな」
「うーん、じゃ、いいわ。マックスにでも頼んでみる」
「うん、ごめん」
ジュードは投げ捨てるように返事をすると、すぐさま階段を駆け下りた。校庭では既にロビーが号令をかけ始めていて、遅れてきたジュードを叱りつけたが、彼にはその怒号も全く耳に入って来なかった。
― 何故、あんな嘘をついたんだろう・・・ ―
そう思うたび、酷い罪悪感が胸を締め付けた。エバと食事に行くんだって笑って言えばいいじゃないか。そしたらシェランは「まあ、そうだったの?頑張ってね、ジュード」なんて冗談めいた返事を返して「別にデートじゃないぞ」ってオレはふくれっ面で答えればいい。なのに・・・・。
色々考えている内に彼の頭も心の中もごちゃごちゃになってきて、居ても立ってもいられなくなった。
「申し訳ありません、教官。遅刻の罰に走ってまいります!」
ジュードはびっくりしたような顔をしているロビーに背を向けると、校庭の周りを走り始めた。
「リーダーになってから張り切ってるな、ジュード」
「デートで緊張してるんじゃないのか?」
ネルソンがにやりと笑って答えた。
操船課の授業を終えてエバが部屋に戻ると、キャシーが3年の先輩であるナタリー・ポートマンと一緒に居た。ナタリーは7月末に卒業して行った、たくましい女の先輩と共に隣の部屋に居たのだが、彼女が卒業してから1人で寂しいらしい。おまけに今年の1年生の女性受験者は全員落ちてしまったので、この女子寮には3人の女性訓練生しか残っていなかった。
エバが入って来たのに気付くと、ナタリーはそのひょろりと伸びた背を起こし、彼女の側にやって来た。
「おおっ、エバ。今度デートするんだってな!」
エバはびっくりした顔のまま固まってしまった。ニコニコしながらエバのベッドの端に座っているキャシーを見て「どうしてしゃべったのよ!」と攻め立ててやりたかったが、ナタリーの前ではそれも出来なかった。
「ち、違います、先輩。あたし、ジュードとは・・・」
「まあまあ、照れるなって」
ナタリーは長い腕をエバの肩にまわすと、キャシーの座っているベッドの側に連れて来た。
「ジュードは3年の機動の間でも評判いいぞ。弟にしたいタイプNo.1って感じだな」
「はぁ・・・・」
ふとベッドの上を見ると、まるでブティックに飾ってあるように、黒いタートルネックでノースリーブのカットソーと、白と黒のチェックのスカートが綺麗に並べられ、カットソーの胸には、金色のネックレスが飾られており、その上にお揃いのデザインのピアスがきちんと耳の位置に置かれていた。
「ま・・・まさか、これ・・・」
ナタリーは豪快に笑いながらエバの背中を叩いた。
「ははははっ。私とキャシーからのプレゼントだ。何と言ってもかわいい後輩の初デートだからな」
もうここまで来ると「絶対違います」と言って否定も出来ない。
「あ、ありがとうございます、先輩。使わせていただきます!」
「気にするな。それより日曜日のデート。結果、ちゃんと報告しろよ」
深々と頭を下げる後輩に、ナタリーはご機嫌で答えると、隣の部屋に戻って行った。エバはナタリーがドアを閉めるまで頭を下げていたが、そのままの状態でキャシーをギロッと睨み付けた。
「キャシーィィィ?」
「だってぇ、エバのクローゼットって、ろくな服が入ってないんだもん」
「あ、当たり前じゃない。SLSに入隊するのにオシャレな服なんか必要ないでしょ?」
「だからぁ、買う事にしたの。でも私だけじゃお金も足りないし、それでナタリー先輩に相談したのよ。ねっ、素敵でしょ?この服。それにこのピアスとネックレス。あなたの黒髪にピッタリだと思うわ」
嬉しそうに金色のピアスを耳の位置に持って来て、くるっと回転して見せたキャシーを見て、エバは溜息を付いてベッドに座り込んだ。
放課後、シェランはマックスを探して本館の中を歩いてみたが、彼の姿を見つける事は出来なかった。おまけに他のAチームの男子も見当たらなかった。
「さてはあの子達、又何か企んでるわね?」
Aチームが何かをやろうとする時には必ず、2階のミーティングルームAを集合場所にしている事をシェランは知っていた。
『ROOM−A』の表札の付いたドアをそっと開けて中を覗くと、ジュードとエバ、キャシー以外のメンバーが額を寄せ合って何かヒソヒソ話し合っている。シェランはいきなりドアをバーンと開けて入って行った。
びっくりしたのはマックス達で、飛び上がらんばかりに驚いた後、慌てふためいて床に広げた紙を後ろに隠した。ジュードが本当に好きなのはシェランだと分かっているのに、エバとのデート計画をシェランに知られるのは困るのだ。
「あら、今何を隠したのかしら?私に知られるといけないもの?」
「い、い、い・・・いえ、何も・・・何も隠してましぇん!」
ろれつが回らないほど驚いたらしい。今から頼みごとをするのに余り攻め立てるのも何なので、シェランはそれ以上聞かない事にした。
「所で、今週の日曜日、あいている人は居ないかしら?ちょっと力仕事を頼みたいの」
シェランは教官室の模様替えをしたかったのだ。重厚な本棚はとても1人では動かせないので、男の子に手伝ってもらいたかった。勿論お礼にお昼をご馳走してあげるつもりだった。
「マックス、どうかしら?」
「え?お、俺?え・・・とあの、日曜はちょっと用事が・・・」
「そうなの?じゃあ・・・」
シェランの瞳がマックスの隣に居るノースを捕らえたので、彼は慌てて立ち上がった。
「俺、日曜日はダメです。ジュードとエバのデートがあるし・・・あっ・・・!」
「デート?」
急にシェランの瞳から温度が消えた。
「バ、バカッ。ノース!」
「なにバラしてんだよ!」
ダグラスやブレードが慌てて彼の口をふさいだが、時は既に遅かった。
「なあに?日曜日にジュードはエバとデートをするの?」
シェランの声はまるで深い海の底から響いてくるようだった。マックスの隣でジェイミーが“何かうまい言い訳しろよ、副リーダーだろ?”と肘で彼の背中を叩いて信号を送っている。
マックスは首を小刻みに振りながら“こんな時に副リーダーも何もあるもんか。俺はジュードみたいに口がうまくないんだ”と目で訴えた。
「そうだったの。デート・・・ふーん?それであなたたちはお邪魔虫にも、わざわざそれを見守りに行くのね?全員で・・・・」
もはや口を開く事も出来ないで床にへたり込んでいる男達に、シェランは勢い良く背中を向けた。
「分かったわ。せいぜい温かく見守ってあげる事ね!」
バーンと音を立ててドアを閉めた後、シェランの眉間はまるで横向きのバネのようになっていた。
― 何なの?あの子達。私に隠れてこそこそと、まるっきり仲間はずれにしてくれちゃって・・・。おまけに何よ、ジュードってば!デートならデートって言えばいいじゃない。それをバイトだなんて姑息な嘘をつくなんて! ―
考えれば考えるほど、怒りが燃える炎のように心の中に湧き上がってくる。シェランは今すぐ海に向かって「ジュードのバカ!嘘つき!」と叫んでやりたかった。
取り残されたようにルームAの床に座り込んでいたメンバーは、青い顔で互いに顔を見合わせた。
「おこ・・・ってたよな」
「ああ。並じゃないぞ。あの怒り方は」
「きっと仲間はずれにされたと思ってるんだ・・・」
シェランの余りの怒りように、何か起こるのではないかと懸念していたAチームであったが、彼女はいつも通り授業を行なっていたので、何事もなく一週間が過ぎた。
やっと授業から解放された土曜日の放課後、ジュードは皆で夕食を食べている時にショーンからデートの計画書を渡され、思わず頬張っていたフライドチキンを噴き出しそうになった。
「な・・・何、これ・・・」
「何って、明日のスケジュールだよ。みんなで一生懸命考えたんだぜ」
放課後みんなの姿が見えないと思っていたら、こんなバカバカしい計画を立てていたのか?
「食事に行くだけが、何でこんな朝早くからショッピングに行かなきゃならないんだ?それに何だよ、このマイアミ水族館ってのは!毎日のように海に潜っているオレ達が、何で今更魚なんか見に行かなきゃならないんだ?しかもこの最後の“マイアミの夜景を2人で見る”って何だよ!まるっきりデートのフルコースじゃないか!」
フォークを握り締めて怒っているジュードに、ジェイミーが真顔で答えた。
「だって普段は訓練で潜ってるんだから、ゆっくり魚を見る余裕なんてないだろ?陸の上で見る魚ってのも一興だぞ?」
「そうそう、それにな。食事だけ連れて行って、ハイ、サヨナラじゃ、エバがかわいそうじゃないか。女のプライドが傷つくぞ」
「そうだ。礼をするつもりなら、ちゃんと楽しませてやれ。女性をきちっとエスコートできるようになってこそ、一人前の男だぞ」
ジュードに反論する隙も与えず、仲間達は矢継ぎ早にまくし立てた。説得上手な奴に口を挟ませてはいけないことを彼等は良く知っていた。こういう時は尤もな理由を並べ立てて、口数の多さで追い立てるのが一番だ。
「でも、これはちょっと・・・」
「安心しろ。お前が経済的に苦しくならないよう、格安で楽しめるプランを組んでおいたからな」
「俺達の友情に涙が出そうだろ?」
何が友情だ。こいつら絶対おもしろがっているに違いない。内心そう思ったが、もはやジュードに反論する一分の隙も残されてはいなかった。
次の朝、マックスとショーンはジュードがちゃんと起きているか確認する為、彼の部屋へ行った。実に念の入ったことであるが、普段楽しみの少ない彼等にはちょっとしたイベントのようなものなのである。
しかしジュードの部屋に入った2人は、あっけに取られたように彼を見つめた。ジュードがSLSの青いツナギを着て立っていたからだ。
彼によると、これはSLSの公式行事の時に着るツナギで、まだ3年生の卒業式に一度袖を通しただけだし、いわばSLSのタキシードのようなものだ、という理由であったが、他人が見れば、どう見ても自動車修理工場の従業員にしか見えなかった。
良く見に来たものだ。まだTシャツとGパンの方がマシだよ・・・。マックスは深く溜息を付いた。
「本当にジュードったら。洋服が無いなら僕に言ってくれなくちゃあ」
ショーンはいかにもお坊ちゃんらしい口調で言った後、ハンガーに吊るした洋服一式を手に持っていた紙袋から取り出した。ご丁寧にネクタイと靴まで持って来ている。その高そうなジャケットやピカピカに磨かれた靴を見て、ジュードは眉をひそめた。
「いいよ、そんな高そうな服。大体、訓練所に入るのに何でそんな服を用意してるんだ?」
するとショーンは、いかにも当たり前のように胸を張って答えた。
「卒業式の後の記念パーティで着るに決まっているじゃないか。3年後はもう少し体も大きくなってるかもしれないからって、ママが大き目のを買ってくれたからな。きっと今のジュードにピッタリだぜ」
3年後の卒業式のその又後のパーティの事まで考えているなんて、ショーンといい、その家族といい、根回しが良いと言うか何というか・・・・。ジュードにはやっぱり金持ちは理解できないと思うほか無かった。
その日の朝早くから、エバはキャシーにたたき起こされ、例の服に着替えさせられ、お化粧まで彼女から施されると、まるで追い立てられるように約束の場所にやって来た。
ジュードからは何の連絡も無かったが、本当にこんなに早く彼はやって来るのだろうか。最初の約束は確か11時だったはずだが、まだ9時にもなっていなかった。
潮風の吹きぬけるボードウォークはいつもなら散歩する人々が行き過ぎるが、日曜の朝だからだろうか、通る人は誰も居らず、エバは手すりにもたれ掛かりながら顎に手をやって溜息を付いた。
どうせジュードはTシャツとGパンで来るに違いないのに、自分だけ朝も早くからこんな格好をさせられて、これではまるで凄く期待しているみたいだ。エバはだんだん憂鬱になってきた。
あのジュードの事だ。もしかして訓練用のオレンジツナギを着てくるような、オトボケな事をするかもしれない。きっとそうだ。いくらなんでもこの姿で、そんな奴と一緒に歩くなんて絶対嫌だ。
勝手に想像を膨らませていたエバは、ジュードの「エバ!」という呼び声に、心臓が飛び出るほど驚いた。
「ごめん、待った?」
息を切らしながら走ってきたジュードは、エバの想像とは全く違っていた。仕立てのいいサマーツイードのジャケットを腕にかけ、グリーンがかった濃いブラウンの半袖のブラウスは、彼の日に焼けた肌に良く似合っている。
かなり抵抗したが、マックスとショーンに無理やり着せられてしまったのだ。だが、さすがにネクタイは、ここに来る途中ではずした。
いつもと様子の違うジュードに、エバは少し戸惑った。顔が赤くなったりしてないだろうか。
「え・・・と、ジュード。と、とっても素敵よ。別人かと思っちゃった・・・」
「そうか?エバも凄くかわいいよ。パンプスなんか履いたの、ここへ来て初めてじゃないのか?」
いつもと全く様子の違うシェランを見た時は、何も言えず呆然としてしまったくせに、エバの前では何故こんなにもすらすらと言葉が出てくるのか不思議に思いながらも、ジュードは彼女を伴ってショッピングモールへと向かった。
2人が去って行った後、ボードウォークから少し離れた植え込みの影に隠れていたマックスとショーンが顔を出した。マックスはポケットから素早く携帯を取り出すと、仲間の番号を入力して耳に当てた。
「こちら訓練所A班。ターゲットは無事出発した」
『こちらバルハーバーB班。了解した』
ジュードがエバを最初に連れて行ったのは、バルハーバーショップスという高級ショッピングモールで、ニューヨークの5番街にある高級ブランド店が殆ど全て揃っている。ここはエバが前から行きたがっていたモールであったが、もちろんこれはキャシーからの情報であった。
ジュードは当然、こんな場所は興味も無いだろうし「外で待っているから、好きなだけ見て来いよ」と言われると思っていたのに、彼は中までエバに付き合った。
彼女が「どっちの服がいい?」と2つの服を身体にあてながら聞くと、ちゃんと考えて答えてくれたし、何回フィッティングルームに着替えに入っても、外で待っていて、全ての服にコメントを出してくれた。
エバにはそれが、彼の気遣いなのだと分かっていた。さっきここへ入る時ジュードは「アール・デコではゆっくり買い物も出来なかっただろ?今日はゆっくり見られるよ」と言ってくれた。彼の言う通り、その日はあの嫌な男達に捕まってしまって、殆ど見られなかった。それをジュードは知っているのだ。
ほんの少し手助けしただけなのに、こうやって気を遣って礼をしてくれようとする彼の気持ちが、エバにはとても嬉しかった。きっとこの後ランチを食べて彼との最初で最後のデートは終わるのだろうが、今日の出来事はずっといい思い出として自分の中に取って置こう。
「エバ?どうした。足が痛いのか?」
「え?」
服を持ったままエバがぼうっとしていたので、ジュードは彼女が疲れたのかと思ったらしい。
「う、ううん。大丈夫。まだまだこれからよ!」
そして彼等は午前中、バルハーバーを歩き回り、ランチを取る為にそこを後にした。
「こちらB班。サム、ダグラス組。2人はそっちに向かったぞ」
『了解。C班、只今トルティーヤ試食中。大変うまい。どうぞ』
電話の向こうから聞こえてきた仲間の声に、ダグラスは思わず叫んだ。
「何食ってんだよ、レクター!俺達にも持って帰れ。どうぞ!」
『了解。トマトソースとかぼちゃの種ソース、どっちがいい?』
「どっちもだ!」
サムとダグラスは携帯に向かって同時に叫んだ。
バルハーバーから歩いて15分ほどの距離にあるリヴァース・キッチンは、多国籍料理の店として有名である。メキシコ料理は特に人気で、中でもトルティーヤという小麦粉やコーンフラワーで作った薄い生地を丸めたりした物を色々なソースに絡めたり、スープに入れたりする料理が人気を呼んでいた。
ジュードとエバは2階まで吹き抜けになった明るい店内の中央の席に座ると、トルティーヤ入りのスープとチレ・レジェーノ(チーズ入り唐辛子)、カルネ・アサーダ(メキシコ風ステーキ)とタンガリーチキン、ピラフ等を取った。
チーズが入っているのでそんなに辛くないだろうと思って食べたチレ・レジェーノはとてつもなく辛かった。2人は「うわっ、辛い!」と叫んで同時にジュースをがぶ飲みした後、顔を見合わせて笑った。
「こちらリバース・キッチンC班。なかなかいい雰囲気だぞ。どうぞ」
店の隅でD班に連絡をしながら、ブレードとレクターは次の料理に手を伸ばした。
2時間ほど経つと、ジュードが時計に目をやって「それじゃあ、そろそろ行こうか」と言って立ち上がった。エバは一瞬「え?」と言って顔を上げた。
ああ、もうそんな時間なのか。楽しい時間というものは、何て早く過ぎ去るのだろう。
ジュードに付いて店を出たエバの頭の中には、色々な言葉が浮かんでいた。
“とにかく、寂しい顔をしちゃダメよ”
“にっこり笑って、御礼を言おう”
“それでもって又行こうね・・・ってこれはダメか。彼が好きなのは教官なんだから・・・”
エバは意を決して礼と別れの言葉を言おうとしたが、ジュードは何故か帰る方向と反対の方へ歩いていく。
「ジュード、何処に行くの?」
「今からバスに乗ってマイアミ水族館に行くんだよ。3時からアシカとイルカとシャチのショーがあるんだ」
水族館?何故いきなりそんな話になったのだろう。
「ジュード、もしかして水族館に行った事ないの?」
「ないよ。オレ、シャチのショーが見たいんだ。凄くでかいんだぜ、シャチって。エバ、見た事ある?」
もちろんエバは生でシャチのショーを見た事があるので知っていた。地元のカリフォルニアには2時間も車で走れば、イルカやシャチのショーをやっている水族館が多くある。小さい頃、両親や兄弟と良く見に行ったものだ。だがエバは首を横に振った。
「ううん、見た事ないわ。楽しみだね。シャチのショー」
ジュードは気付かなかったが、物影から聞いていたブレードとレクターには、エバが水族館に行った経験があるのだとすぐに分かった。
「おい、エバのあの言い方・・・」
「考えてみればあいつ、カリフォルニアだもんな。水族館なんて腐るほどありそう」
「誰だ、水族館がいいなんて言った奴は・・・」
その頃マイアミ水族館に居るノースはくしゃみをしていた。どうやら自分が見たかったらしい。
ジュードが楽しみにしていたように、シャチのショーは迫力満点だった。イルカのように素早く飛んだり潜ったりは出来ないが、その黒と白の美しくも巨大な身体が空に浮いた後、水の中に落ちると、プールの水が殆ど外に出てしまうのではないかと思うほど、沢山の水しぶきが観客の上から降りかかった。それは観客席の5階まで降り注ぎ、客達は水を浴びながら歓声を上げ続けた。
ジュードが特に喜んだのは、3頭のシャチが順番にその全身を水の中から出し、プールに張り出した水の無い場所に上がってきた時だ。彼等は3頭揃うと、ピンと身体を張って尾を振り上げポーズを取った。
以前良く似たショーを見た事のあるエバだったが、小さい頃の事なので、大人になってから見るショーは又違う意味で楽しめた。彼女もジュードと一緒になって、シャチ達に拍手を送った。そして彼等の後ろでも、溜息をつくハーディの横でノースが嬉しそうに拍手を送っていた。
『さあ、それでは今からシャチ君が頭にキスをしてくれますよ。誰かして欲しい人は居るかなぁ?』
アナウンスの声に2頭のシャチがプールの中に戻り、真ん中に居た1頭だけが残った。勇気のある子供達が一斉に手を上げる中、ジュードも負けじと手を振り上げた。
「はい!はい!オレ!絶対オレ!」
しかし健闘も空しく、前の方に座っていた数人の子供達が選ばれた。
「くそお、もっと前に座っていれば良かった」
「あと10年若かったら良かったね、ジュード」
むくれているジュードにエバが笑いながら答えた。
マイアミ水族館は殆どショーを見るだけの施設のようで、ショーが終わった後、帰る人々に混じってジュードとエバも出てきた。
「じゃ、次。メトロムーバーだな」
「メトロムーバー?」
メトロムーバーとは完全無人の一車両しかない電車である。平日は25セントでダウンタウンを一周したり、北と南に向かう支線があるが、休日は無料になるのでジュードにはおあつらえ向きだ。
加えて車両の中も外も近代的で綺麗だし、窓も大きく高い位置を走っているので、ダウンタウンの様子を楽しむ事が出来た。
「今から行くと夕日が綺麗だぞ」
ジュードが言ったように、遠くに見える海と高層ビルの立ち並ぶ街という、自然と人の造形物の組み合わせは、とても美しかった。優しい薔薇色に染まっていく空にゆっくりと流れるように飛行機が飛んで行くのを見ていると、何だか夢の中の世界に居るような気がする。
隣で食い入るように外の風景を眺めているジュードを見上げると、彼も振り返って白い歯を見せながら笑った。
「そろそろ駅に着くけど、エバは何が食べたい?」
「え?でも、さっき奢ってくれたし・・・」
ジュードは微笑むと、少し腰をかがめてエバに顔を近付けた。
「さっきのはアペタイザー(前菜)。メインはこれから・・・だろ?」
目の前にあるジュードの顔を、エバはまるで時が止まったかのように見つめた。どうして彼はこんな嬉しい事を言ってくれるのだろう。
「どこでも・・・どこでもいいよ!」
エバは素早くうつむいた。心臓の音が急に早くなって、自分が真っ赤になっているのが分かったからだ。
ジュードがエバを連れて向かったのは、ネルソンお薦めのダイニング・バーで、マイアミでは老舗の一つである。ジャズやヒップホップの生演奏が常に流れ、いつも若者やカップルで賑わっていた。
色とりどりのネオンがきらめく店の前で、ジュードはもう一度、店の名前を確認した。確かにショーンから貰った計画書にあった『ラ・ドゥーア』という名が書いてある。
エバを食事に連れて来るのだから、もう少し落ち着いた感じの店だと思っていたのに、その店の雰囲気はジュードの想像とは随分違っていた。だが、このあたりでジュードの知っている店など皆無だった。
今まで余り訓練所から出た事のない彼は、仲間が作った計画書に従って行動するのが一番安全だったのである。
ジュードが店の前で困ったように看板を見上げているので、この店は彼の予想と違っていたのだとエバはすぐに気がついた。
「ネルソンお薦めの店だし、きっと間違いないわよ。彼、こういう所は本当に詳しいし、中は凄くいい雰囲気かもしれないわ」
エバがそう言ってくれたので、とりあえず入ってみる事にした。