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SLS  特殊海難救助隊  作者: 月城 響
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第3部 148F 【1】

 3月の始め、Aチームで行なわれたレクリエーションで、救急救命士の試験を受けた者は全員合格したと報告があった。他のチームも落ちた者は居ないらしい。生徒が充分喜びを分かち合った後、シェランは再び封筒から書類を取り出した。


「来月の始めには救急再圧員、送気員の試験があるわ。これを持っているのはショーンだけだから、他の者は全員受ける事。その後、私の潜水の試験を行なうわ。潜水課は148フィート、機動課は26フィート。これを合格しないと一般課に回ってもらうわよ。ちなみに一般は16フィートよ。皆頑張るように」


 喜びも束の間、ミーティングルームは水を打ったように静まり返った。正に先月のレクリエーションでシェランが言った『試験が目白押し』状態である。


「あー、良かった。私一般で・・・」

胸をなでおろしているエバの横でキャシーは「148フィート・・・」と小さく呟いた。








 特殊海難救助隊には、ライフセーバーをサポートする為の5つの課があった。


 技術管理課はライフシップ(救助船)や機動救難士が使うヘリ、一般の救難士が使用する消防艇、又ライフシップに装備されたフローティングスケーター(水上偵察機:水の上に降りることも出来る小型飛行艇)などの装備点検を行なっている。


 操船課、航空機課はそれらの船や航空機を操船、操縦するパイロットが居る。


 装備需品課はライフセーバー達が使用するライフプレサーバー(救命道具の総称)及び、救難ヘリに装備されるリベリング装置、カーゴスリング、ホイストなどの発注、点検を専門に行なっていた。


 海洋情報課が普段行なっているのは、海洋環境調査や水難事故などの多い場所をフロリダ大学と共同で調査したりするのが任務である。余り海難救助に関係が無いように思われるが、いざライフセーバー達が出動する事になれば、一番頼りになる課である。


 彼等は海上の何処にどんな風が吹いているのか、波の高さ、気象情報を瞬時に察知し、救助を行なっている船やヘリに連絡する。救助現場と要救助者の状況、風雨の状態により、ライフシップで行くべきか、ヘリを出動させるべきかを判断するのだ。

 



 そしてSLS訓練校には、それらの課に進む者を育てるシステムもある。操船課、航空機課、技術装備課、海洋情報研究課の4つで、操船課と航空機課は船やヘリを操船、操縦できるものを育て、技術装備課は技術管理課と装備需品課に入る者を、海洋情報研究課は海洋情報課にそれぞれ入隊する。


 操船課と航空機課は10名ずつ、あとは5名ずつの少人数であったが、操船課や航空機課は商船校や航空機大学を優秀な成績で卒業した者達で構成されている少数精鋭部隊で、研修期間は2年であった。



 彼等は技術研修館という別棟で居住及び勉学にいそしんでいるので、本館にある食堂以外は殆ど彼等の姿を見る事は無かった。


 だが船長への道を驀進中のエバは、操船課の授業も受けられるようにカリキュラムを組んでいた。他にもハーディとノースは最終試験の時、乗組員が全員倒れて機関も電機システムも制御できなかった経験があったので、エバに習って技術装備課の授業を受けていた。


 3人共一般の救難士を目指していたのでそういった時間が取れていたのだが、おかげで彼等は他のどの1年生より忙しいようだ。






 レクリエーションのあった週末、ジュードはエバに頼んで操船課の教官、ノイス・ベーカーを紹介してもらった。操船課の授業で使っているモーターボートを1日貸してほしいと頼みに行ったのだ。ジュードは来月行なわれるシェランの潜水試験の為に、日曜日は潜水の練習をしようと決めていた。彼はまだ、16フィートの壁を破れていなかったのだ。


 しかし、ジュードはムッとした顔をしてベーカーの教官室から出てきた。頑固な彼はジュードにボートを貸してくれなかったのだ。仕方なく潜水の授業で使用するアクアラングやフィン等の装備を持って訓練校を出ると、ジュードはノースビーチへ向かって歩き始めた。





 重い装備を担いで歩いていると、どっと汗が噴き出して来る。朝だというのにフロリダの太陽は、真昼のようにギラギラと頭の上から照りつけていた。


― ボートを借りられたら、港からそのまま沖へ出られたのに・・・ ―



 息を切らしながらふと見た入り江に、ふわふわの茶色の髪を後ろに束ね、ウェットスーツを着込んだ女性がボートに潜水装備を積み込んでいるのが見えた。


 キャシーだ。そうか、彼女も潜水の練習をするつもりなんだ。ジュードは急いでキャシーの所に駆け寄った。


「キャシー、オレも乗せて行ってくれよ。潜水の練習をするんだろ?」

「あら、ジュード。機動が日曜まで潜水の練習?熱心なのね」


 彼女はそう言いながら装備や荷物を全てボートに載せると、腰に手を当てて彼を見た。


「でも悪いけど、私は潜る時は一人で潜る主義なの。どうしてもボートで行きたいなら、操船課のノイス・ベーカー教官にでも頼むのね」


 ベーカーの名を聞いてジュードは眉をひそめた。ボートの側面を見ると、消えかかってはいるが確かにSLSの操船課の文字が残っている。


― あのヤロー、オレには絶対駄目だの一点張りだったくせに、女の子にはホイホイ貸したのか? ―


 ムッとした顔でボートを見ているジュードにはお構い無に、キャシーはふわりと軽くボートに飛び乗りエンジンをかけた。


「じゃね」



 轟音を響かせて、遠く去って行くボートを悔しそうに見ながら「ケチーッ!」と叫んだが、もちろんキャシーの耳に届くはずも無かった。ジュードは、はあっと溜息を付くと、ダイビングが出来るポイントを探す為、再び重い潜水装備を担いで歩き始めた。







 時間が経つにしたがって、いつも聞き慣れている波の音さえジュードには聞こえなくなった。益々高くなった太陽が、その有り余ったエネルギーを肌にぶつけてくる度、まるで体中の水分が全て放出されたかのように汗が噴き出してくる。ウェットスーツは上だけ脱いでいたが、何も着ていないせいで、肩から重い装備が何度も滑り落ちそうになった。


― もう、どの位歩いたかな・・・ ―


 白い砂浜が熱気のせいで歪んで見える。北部育ちの彼はフロリダの暑さに多少なれても、まだ好きになれなかった。


 砂に足を取られたジュードは、重い荷物をすべり落としてしまい、ついに力尽きたようにひざを付いた。大きな溜息を吐いて見上げた目に、白い泡を吹き上げながら岩にぶつかる波が見え、耳にやっとその波が岩に打ちつける音が聞こえてきた。


 岩と岩の間に生えている巨大な蘇鉄は、パイナップルのような形の大きな花をつけ、放射状に伸びた黒緑色の葉が太陽の光を受けてつやつやと輝いている。赤や黄色の花を一面につけたハイビスカスが、熱帯に君臨する女王のように、その周りで咲き誇っていた。


 しかしジュードはそんな花や木の美しさよりも、岩に打ち付ける波に目を奪われた。絶好のダイビングポイントだ。彼は今までの疲れも忘れて、装備を両手に持つと走り出した。岩の上から覗くと、深さもありそうだ。これなら後ろから入っても頭を打つことは無いだろう。


 彼はさっそくウェットスーツを着込むとフィンを足にはめ始めた。




「何をしているの?ここはプライベートビーチよ!」

 

 突然後ろから響いてきた声に、ジュードはびくっとして手を止めた。


― プライベートビーチ?じゃあオレは不法侵入をしてしまったのか? ―


 考えてみればさっきの蘇鉄や花の生え方は、どう見ても野生で手前勝手に生えている様子ではなかった。つまり個人の持ち物だったのである。


 ここはもう謝るしかない。ジュードは頭を下げたまま、後ろをすばやく振り向いた。


「すみません。プライベートビーチとは知らなかったんです。決して怪しいものじゃありません。SLS訓練生の・・・」

「ジュード?」


 先に名前を言われ驚いて顔を上げると、シェランが真っ白なワンピースを着て、左横に結わえた髪を風になびかせながら立っていた。


 何故シェランがこんな所に居るのだろうという事よりも、普段と全く様子の違う彼女に、ジュードは長い時間太陽にさらされていたせいで、全くの他人が彼女に見えているのかと思った。


 この開放的な街でいつもダークスーツに身を固めているシェランは、本部で呼ばれているのとは又別の意味で、“鉄の女”と呼ぶにふさわしいだろう。誰にも気を許さず、女性であることに甘えず、若さや美しさをひけらかす事もない。


 だが今、ジュードの目の前に居る女性は、肩紐に大きなリボンの付いたレースのワンピースに、淡いピンクの光に透けるシフォンスカーフを肩から掛け、時折吹いてくる海風に柔らかなスカートの裾をふわふわと揺らしていた。


 ここでクリスのような慣れた男なら『やあ、シェラン。今日は又一段と綺麗だね。特にそのリボンの付いたワンピース。とても良く似合っているよ』等と気の利いたセリフも出てくるのだろうが、本人いわく、女性に余り免疫の無いジュードは、普段の彼女から想像もつかない姿に何をどう言っていいのか分からず、ただぼうっと立っていた。


「ジュード?」


 下から顔を覗かれてやっと我に返った彼は、とりあえずここが彼女のビーチなのか尋ねた。


「そうよ。ほら、あれが私の家」


 シェランが指差した小高い岡の上に建つ家は、白壁に囲まれ、2階の真ん中に大きな勾配屋根を配したピラミッド型の建屋と、大小さまざまな形の窓が100以上もあるような大きな屋敷だった。


― あれが家?コンサートホールの間違いじゃないのか? ―


 ジュードは以前、試験でマイアミに行った時、ショーン達とバスの窓から見た巨大なホールを思い出した。


「シェランの親って・・・もしかしてマフィア?」

「まあ、ジュードったら、そんな事あるはず無いでしょう?」


 お腹を抱えて笑っているシェランは、やはりいつもよりずっと幼く見える。いや、22歳ならきっとこんな感じだろう。彼女は普段から立派な教官であろうと、常に己を律しているのだとジュードは思った。




 シェランは汗まみれになったジュードを見て、ミネラルウォーターを家から持って来てくれた。1.8リットルのペットボトルの水を一気に飲み干したジュードは、やっと生き返った気がして、早速シェランの許しを得て潜る準備を始めた。


「私は特別指導はしないわよ。試験は公平に行なわなきゃね」と言うシェランに「ひいきなんかしてもらわなくても、機動救難士には実力でなってみせる!」と豪語すると、彼は海に飛び込んだ。



 ブルーグリーンに透き通る水が、差し込んでくる陽の光に照らし出され、ジュードの周りに幻想的な世界を作り上げている。吐き出す空気の泡が立てる音と、アクアラングを通して呼吸する音だけが静まり返った世界に聞こえてくる不規則なリズムだった。


 ジュードは潜れる限界までは、決してダイビング・コンピューターを見ないでいようと思っていた。途中で見たら怖くなって潜れなくなりそうだったからだ。まだ陽の光が充分届くほどの深さなのに、彼は酷い圧迫感を覚えた。


― まだ・・・まだだ。まだ15フィートも潜ってないぞ・・・ ―


 水の圧力を感じる度に、ジュードには思い出す光景があった。暴風雨の中、まるで誘い込むかのように何度も打ちつけてくる波。命を繋いでいる小さな手はみるみる体温を失い、もはや感覚が無かった。何度も頭から潮水をかぶるたび、いっそこの手を離してしまった方が楽になるんじゃないかと思った。それでも彼は言ったのだ。


「その手を決して離すんじゃないぞ。ジュード!」



― そのせいなのか?あの時の経験のせいでオレは水を恐れているのか? ―




 一瞬目の前が真っ暗になった気がして、ジュードは思い切り空気を吐き出してしまった。溺れそうになりながら見たダイビング・コンピューターの目盛りは16フィートを指していた。


 海から顔を出した彼は、レギュレターと水中眼鏡を取ると、大きく深呼吸した。16フィートの壁は彼にとって、とても大きく厚かった。同じ機動救難士を目指しているショーンやネルソンは、とっくに26フィートの合格ラインを手にしているというのに・・・。


 ふと岸の方を見ると、さっき飛び込んだ岩の上にシェランが水着を着て立っていた。水着と言っても、スポーツジムで着るような太ももまで隠れる長いパンツに、肩は泳ぎやすいように出ているが、ファスナーを上げて首までしっかり覆える水着で、決して男性諸君の心を惑わすタイプのものではなかったが、それでもジュードはびっくりして叫んだ。


「シェラン?何て格好してるんだ?」

「泳ぐの!」


 答えと同時に、彼女の身体がふわっと空に浮いた。それはまるで青いバショウカジキが背びれを翻して海を飛び跳ねる様に似て、豪快でしなやかだった。潜った瞬間から一度も海上に姿を現す事無く、彼女はジュードのすぐ目の前に浮かび上がった。


「も、潜るんならウェット着ろよ」

驚いたように言う彼に、シェランは馬鹿にしたように目を細めた。


「あなたと潜るのに装備なんて必要ないわ」

「失敬だな!」


 ジュードが頬を膨らませて叫んだ時には、シェランはもう消えるように水の中に潜っていた。急いでレギュレターをくわえて後を追いかけたが、それは本当であった。


 フィンさえつけずに潜っているのに、ジュードは全く追いつけなかった。水圧も呼吸さえ出来ないことも感じさせないで潜っていくシェランは、まるで椅子に座ったような体勢で水の中で停止したまま彼を振り返りニヤッと笑った。


 更に深く潜る。黄色い魚達の群れと共に上がったり下がったり、縦横無尽に泳ぐ彼女を見て、ジュードは昔、水族館で見たペンギンを思い出した。


 地上ではよちよち歩きなのに、いざ水に潜ると、まるで魚雷のように素早く泳ぎ回り、仲間同士でぶつかり合うことも無い。シェランはそんなに早く泳ぐ事は無いが、アクアラングも付けずに上へ下へを繰り返して気分が悪くならないのだろうか。見ているジュードの方が苦しくなって、海上に顔を出した。


 シェランに見とれている場合ではない。彼女はきっと教えるつもりなど全く無く、ただ泳ぎを楽しんでいるだけに違いないのだ。ジュードは目の前を塞いでいる濡れた前髪を掻き揚げると、再び海の中に潜って行った。

 

 それから暫く潜っていたが、彼の記録は0.5フィートしか伸びなかった。もうとっくに昼を過ぎてしまったというのに、全く進歩の無い自分に嫌気がさしながら、彼は海上に顔を出した。おまけに昼食も食べずに潜っていたせいで空腹でめまいがしそうだ。辺りを見回したが、シェランの姿は無かった。


― まさか・・・まだ潜っているのか・・・? ―


 ジュードはあきれるより心配になってきた。殆ど息継ぎも無しに、こんなに長時間潜っていて大丈夫なんだろうか。彼はもう一度海の中に戻った。自分の事に夢中になっていて気付かなかったが、シェランは目の届く範囲には居なかった。もっと深く潜ったのだろうか?何の装備も無しで・・・?


 ダイビング・コンピューターの水深計は14フィートを示している。足元から下は青く霞んでいて良く見えなかった。ここは思ったより深いのかも知れない。


 ジュードは体中にまとわり付く様な水圧にゾッとしたが、もし彼女に何かあったのだとしたら、自分が助けに行く他は無いと思った。


 彼はアクアラングの空気残量を確認すると、更に下へ向かって潜り始めた。押し潰すように水が重くのしかかってくる。それでもジュードは周りを確認しながらひたすら手足を動かした。辺りは光を失っていく青い色だけで、シェランの姿は何処にも無かった。きっと何かあったのだ。早く助けに行かなければ・・・。





 そのまま暫く潜っていくと、やっと白い砂の海底が確認できた。砂の上にはごつごつとした黒い岩が点在し、その岩の上にいくつものカラフルな色のイソギンチャクが、獲物を待ちながら波の中で揺れ動いている。25センチ程の銀色に輝く魚が何百匹も群れを成して通り過ぎて行った後、その向こうに水に揺れる金色の髪を見た。



 シェランが立っている。いや、水の中なのだから浮かんでいると言った方が正しいのだが、彼女は確かに身体を真っ直ぐに伸ばし、海底から50センチほど浮いた状態で立っていた。ジュードが急いで泳いでいくと、彼女はにっこり笑って彼のダイビング・コンピューターを指差した。水深計のメモリは19フィートを示していた。

 





 やっとの思いで岸まで戻ってきたジュードは、軽々と岩に登って彼に手を差し出しているシェランに言った。


「何でシェランが白いのか分かった。一日中海に潜っているからだろう」


 シェランは微笑むと、空腹と疲労でぐったりしているジュードに「あそこまで頑張って歩いて。遅いランチが食べられるわ」と自分の家を指差した。


 シェランは足を拭くと、玄関からは入らず、家の中心にあるリビングのガラスドアから中へ入って行った。


 そこは海に面した壁部分が全てガラス張りになっており、大西洋がまるで壁一面に描かれた絵のように目の前に広がっていた。大きなリビングセットが2つ、距離をおいて並べてあるが、全く圧迫感を感じさせなかった。


 その部屋の端にはガラスとステンレスだけで構成された開放的なキッチンがあり、7、8人がゆったりと座れるほどの長いガラスのカウンターがその周りを取り囲んでいた。外から見た大きなピラミッド型の部分は吹き抜けになっていて、その三角の東側もガラス張りになっているので、朝はさぞかし眩しいだろうとジュードはポカンと上を見上げながら思った。


「その廊下を真っ直ぐに行って、最初にある部屋に入ったら右手にシャワールームがあるわ。私は自分の部屋のを使うから」

「え?」


ジュードは目が覚めたように天井から目を下ろした。


「一つのフロアに二つもシャワールームがあるのか?」

「やあね。一つの部屋に一つずつ。合計七つよ」


シェランは既に反対側の廊下を歩き始めていた。







 金色のシャワーヘッドから噴き出す心地よい湯の刺激を感じながら、ジュードはやっと一息ついたように呟いた。


「19フィートか・・・」


 16フィートの壁を破れずに悩んでいた彼にとって、今日は大進歩だった。きっとシェランはわざと姿を隠して協力してくれたのだろう。だがまだ、あと7フィート残っている。きっと潜れば潜るほど、水の圧迫感と、まるで世界から取り残されたような孤独感が襲ってくるだろう。後2ヶ月で何とか克服しなければならなかった。


 考えてみればアズやピート等の潜水士を目指している者達は本当に凄いと思う。レクターから聞いたが、キャシーは今131フィートしか潜れないと悩んでいるらしい。131フィート。桁が違う・・・。





 ジュードは止水栓を回して湯を止めると、壁に掛けてあったタオルを取って頭から掛けた。ホッとしたように溜息を付きながらシャワールームを出ると、その横には客用のルームウェアーがずらりと並べられていた。さぞかし客が多いのだろう。それもきっと潜水関係者ばかり・・・・。


 ジュードはその一つを取って袖を通しながら「コンサートホールじゃなくて、高級ホテルだな」と呟いた。


「あのリビングだって、オレの家の一階部分がすっぽり入っちまうぞ。大体一つのフロアーに七つもシャワールームがあるなんて掃除が大変じゃないか。金持ちってのは良く分からないな」


掃除は全て専門の業者が来てやってくれるなど、ジュードには想像もつかないことだった。






 廊下を戻ってリビングを覗くと、シェランが既に着替えを済ませてキッチンで何かを作っていた。彼女が後ろを振り向いたので、ジュードは恥ずかしそうに下を向いた。


「ごめん、借りた。着替え持って来てなかったんだ」


 実は行くことばかり考えて、帰る時の事まで考えてなかったのだ。こんなに遠くまで歩くつもりは無かったので、そのままウェットスーツを着て帰ればいいと思っていた。


「いいのよ。近頃お客様が来る事はほとんど無いから・・・」


 シェランはちょっと寂しそうな顔をすると、大きな白いプレートに山盛りのピラフとサラダを乗せて、カウンターに座ったジュードの前に置いた。


「たいした物は無いけど、シーフードピラフ。ジュード、嫌いじゃないでしょ?」

「うん」


 ガラスのカウンターは体重をかけたら壊れそうで怖いなと思いつつ、ジュードはピラフを頬張った。訓練校に入ってから食堂のバイキング料理しか食べてなかったジュードには、久しぶりの手料理だった。


「うまい!シェランって料理もうまかったんだ」

「そう?」


 シェランはわき目もふらずにピラフやサラダを頬張っているジュードを微笑んで見た後、自分も彼の隣に座って食べ始めた。


「久しぶりだわ。この家で誰かと一緒に食事をするの・・・」


 ポツリと呟いたシェランを、ジュードはハッとしたように見つめた。


 何となくここへ来た時からジュードには感じるものがあった。このカウンターの上にもリビングの飾り棚の上にも、シェランとその両親らしき人々の写真が所狭しと飾られている。


 父親はスラッと背が高く引き締まった体つきで、SLS隊員かと思うほど陽に焼けていた。水着の写真が多いので彼もダイバーなのだろう。母親はシェランとそっくりで、白い肌と輝く金色の髪が美しい女性だが、これも彼女と同じ、知的で凛とした雰囲気をまとっていた。


 しかしこの家の中には何故か彼等の気配を感じなかった。家族でくつろぐリビングにも、母親がいつも立っているはずのキッチンにも・・・。


「シェランの父さんと母さんは、外国にでも行ってるのか?」

シェランはじっとジュードの顔を見た後、カウンターの上の写真立てを手に取った。


「死んだのよ。7年前・・・・。この海で・・・・」

「死んだ?2人共・・・?」

「ええ。正確に言うと行方不明。遺体も上がってないの。だからお墓の中は空っぽよ」


 シェランの暗い横顔で、彼女がまだ両親の死から立ち直っていないのだと分かった。


「オレの親父も6年前に死んだんだ。担任だから知ってるだろ?」

「ええ。海での事故だったんですってね」


 シェランはジュードがSLSに入隊しようと思ったのは、その父の死が関係しているだろうと思っていた。父のように海で死ぬ人を少しでも救いたいのだろう。だからこそ彼はとても心配性で面倒見がいいのだ。


 さっき一緒に潜った時、シェランはジュードが16フィートまで行くと、急に身体がこわばって逃げるように海上に上がっていくのを何度も目にした。あれは潜水士が水圧に耐えかねて、パニックを起こす時に似ている。


 彼はまだそんなに深く潜っていないので、パニック症状までは出ていないが、水圧と次第に暗さを増す海、じわじわと迫ってくる孤独感に心が拒絶反応を起こしているのだ。


 だが最終試験の時、彼は生まれて初めて素潜りをしたというのに、全く恐怖を感じていなかった。いや、感じる暇は無かったのだ。15人の仲間の命を助けたい一心で・・・。


 それを思い出した時、彼はきっと誰かの命が危険に晒されていると思った瞬間、全ての恐怖を力に変える事が出来るのではないかと考えた。ジュードは自分では気付いていないが、きっとそういう特質を持っているのだろう。


 恐怖を感じない人間は居ない。だがライフセーバーはそれを力に変えて危険に立ち向かっていかなければならないのだ。だからこそシェランは海底で彼を待っていた。彼ならきっと辿り着くと信じていた。そしてジュードはとうとう16フィートの壁を破ったのである。





 シェランが手に持った両親の写真を見つめたまま黙っているので、ジュードは両親のことを聞いた為に落ち込ませてしまったのだと思った。おまけに自分の父親の話までして、更に落ち込ませてしまったのかもしれない。ジュードは残りのピラフに手を付けることも出来ずに、どうしたらいいのか考え込んでいた。


「ジュード」

「はっ、はい!」


 突然シェランに呼ばれてびっくりしたジュードは、思わず持っていたスプーンを投げ飛ばしそうになった。


「お母様は元気にしていらっしゃるの?」

「おか・・・お袋?うん。この間電話をしたら怒られた」

「まあ、どうして?」

「SLSの正式隊員になるまでは電話してくるなって。そんなの2年以上先の話だぜ?」

 

 ぼやきつつも、ジュードには何故母がそんな言い方をしたのか分かっていた。きっとジュードに余計な金を使わせたくないのだろう。


「それでもお母様、きっと嬉しかったと思うわ。母親はいつまで経っても子供の事が心配だって言うから」

「うん。早くお袋に心配をかけなくてもいい大人になりたいって思うけど、先は長いかなぁ」

「そんな事は無いわ。後7フィートですもの」

「その7フィートが長いんじゃないか」


 疲れた顔で苦笑いするジュードを笑って見た後、シェランは立ち上がった。


「それを食べたら車で送ってあげるわ」


 ジュードにはその言葉が一番嬉しかった。重い装備と濡れたウェットスーツを担いで、又あの炎天下の砂浜を歩いて帰る気力はすっかり萎えていたのだ。


「私は装備を車に積んでくるから、あなたはゆっくりしていて」

「いいよ、シェラン。オレが・・・」


立ち上がりかけたジュードの鼻を人差し指で押さえると、シェランは彼に顔を近付けた。


「最後まで食べなさい、ジュード」


 シェランがリビングを出て行った後、ぷっと頬を膨らませてジュードはスプーンをピラフに差し込んだ。


「子供扱いするなよな・・・」




 シェランはアクアラングやフィン等の装備を車の後ろに積み込むと、すぐ出られるように車を車庫から出しておいた。リビングへ戻って彼の名前を呼んだが返事が無かった。キッチンの方へ行ってみると、ジュードが空っぽの白い皿の横でうつぶせになって眠っているのが見えた。きっとお腹が一杯になって眠たくなったのであろう。


 シェランはまるで弟を見るように微笑んで「暫く寝かしておいてあげるわね」と言うと、自分が着ていたレースのカーディガンを彼の肩にかけ直した。








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