第2部 試練 【5】
SLSの本部はジュードの居る訓練校の南側にあって、訓練生が憧れるプロのライフセーバー達が毎日のように訓練に励み、事が起これば救難ヘリやライフシップで嵐の中へ飛び出して行く。
シェランが教官として訓練校へ移ってしまった今、ここには女性の姿は無く、再び男の聖域に戻ってしまったわけだが、来年の卒業生の中にたった一人女性が居るので、彼等は再び聖域が崩壊するか、それとも彼女が厳しい訓練に耐え切れず訓練校を出て行くか、賭けている真っ最中だ。
しかし3年の女子はモンスターダンプ並みのたくましい女性なので、どこかの支部の聖域が崩壊するのは時間の問題だと本部隊員達のもっぱらの噂である。
そんな45人の海の男達を一つにまとめているのが、SLS本部長官エルミス・バーグマンだった。今日の彼は非常に不機嫌で、彼専用の大きなソファーにその巨体を沈めながら、彼専用の大きなマグカップに太い指を通すと、たっぷり注がれた濃いめのコーヒーを飲み干した後、テーブルの上にドンと音をたてて降ろした。
「乱闘事件を起こしてたった3日間の謹慎?ふざけるな。お前、生徒に甘すぎるんじゃないのか?ウォルター」
最近黒い髪が銀色に変わって、益々渋みを増した(と自分では思っている)エダース校長は、バーグマンとは対照的な引き締まった身体に深い紺色のスーツを着て、何故か本部長官室に置いてある自分専用のロイヤルコペンハーゲンのコーヒーカップを口に運んだ。
「まあ、そう怒るなよ、エルミス。お前も1年のAチームを見たら気が変わるぜ?今時あんなかわいい子達がいるか?自分の仲間の為に全校生徒の3分の2の署名を集めたんだぜ。それもたった1日で」
「なぁにがかわいいだ。そんな甘い考えで、この本部のライフセーバーが勤まると思っているのか?ここにいるのはSLSでも生え抜きの連中だ。その1年Aチームが3年後、この本部に配属になる事は有り得んな」
「当たり前だ。卒業生はみな各支部にまず配属される。いきなり本部に欲しいなんて、新しい風でも呼び込みたいか?」
ウォルターは、本部にも色々有りそうだなぁと言わんばかりに、ニヤリと笑った。
「とにかく、そう怒るなよ。向こうさんも10も年下の子供に負けたなんて言いたくないらしくてな。そんな喧嘩はしてないし、知らないとおっしゃってる。それにお前だって訓練生時代、随分と暴れまわっていたじゃないか。俺が全部うまくもみ消してやったけどな」
今のエルミスからは想像も出来ないがこの2人、以前は同じチームで同じ機動救難士であった。もう30年来の親友であるが、変わったのはエルミスの体型だけでは無い。まるで石のような固い頭で優等生だったウォルターが、こんなに柔軟な男になるなんて、エルミスには思いも寄らなかった。
彼を変える事が出来たのは、シェランと彼女の両親であるミューラー夫妻だけだった。彼等との出会いが一人の男の人生を変えたのだ。
そして彼は残された親友の忘れ形見の後見になり、まるで娘のように見守った。40歳をとっくに過ぎた独身男が、いきなり15歳の娘の父親になるなんて、エルミスには想像も出来ないが、確かに彼はシェランを見る時、父親の眼をしている。ウォルターにとって、ミューラー夫妻の娘は元々自分の娘も同然だったのだ。
「又、お前はそうやってすぐ人に恩を着せる」
エルミスは訓練生時代に戻ったかのようにふくれっ面をして上を向いた。
「ああ、恩でも何でも着せてやる。何たってあの子達はうちの人魚姫の宝物だからな」
「人魚姫?ああ、シェランか。彼女の担当なのか?そのAチームは」
「ああ、そりゃもう、大変な入れ込みでね。最終試験の日、大怪我を負って入院した彼女の見舞いに行ったんだ。そしたらあの子、動くことも出来ないのに俺を見ると、頬を高潮させてこう言ったんだ。『ウォルター!凄いのよ、あの子達。私の・・・そしてSLSの宝物を見つけたわ。あの子達ならなれる。全米一のスペシャルライフセーバーチームに!』ってね」
エルミスはその太い指で頭を押さえた。
「そりゃ、教官になって初めてのチームだから思い入れが強いんだよ」
ウォルターは愛用のコーヒーカップをテーブルに置くと、下からエルミスの顔を覗きこんでニヤッと笑った。
「どうかな?SLSの鉄の女が選んだんだ。案外本当になるかもしれないぜ?」
― 鉄の女 ―
確かにあの子は鉄の女だ。どんなに深く潜っても恐怖を感じる事が無い。どんな熟練したダイバーでも水の圧迫感と孤独に負け、時には水中でパニックに陥る事がある。だが彼女には恐怖が無いから、あのとてつもない水圧の中、誰よりも深く潜っていける。
彼女は巷で言われているColonel Of The Fish(カーナル・オブ・ザ・フィッシュ:魚の大佐)ではなく、Born In The Sea(ボーン・イン・ザ・シー:海から生まれた子)だとエルミスは良く思ったものだ。
「まっ、どうなるか分からんが、3年後を楽しみにしておくよ」
エルミスが本部長官室の窓から見える青い海を見ながらそう言ったので、ウォルターは満足げに微笑みながら、コーヒーのおかわりを薄く透き通るデンマークの名器に継ぎ足した。
SLS訓練校の本館の裏側には別館と呼ばれる3階建ての建物がある。ここは女子が入校してくるまでは殆ど物置として使われていたが、今は4人の女生徒がここで暮らしている為、2階にはシャワールームやロッカーなどが備え付けられ、全体を綺麗に改築された。
今では女子寮と名前が変わったこの建物は、彼女達と寮長であるシェラン以外は、校長といえども男性は立ち入り禁止であった。3階にある3つの部屋のうち2つは、2年と3年の女子が使用していて、その隣はエバとキャシーの部屋である。
その女子寮のすぐ隣は、SLS本部の訓練場になっていた。本部より訓練校の方が一段上にある為か、彼女達の部屋から憧れのライフセーバーが毎日訓練に励んだり、友達と語らいながら歩いている姿が良く見える。
エバはそんな憧れの先輩隊員を見るのが好きらしく、よく窓から外を覗いているが、実は将来有望な本部隊員の中から更にいい男を物色しているらしい。
だが今日の彼女は下を歩いている隊員を見るでもなく、ただぼうっと空を眺めていた。キャシーは退学にならずに済んでホッとしているのだろうと思い、彼女の横に行ってそろそろ暮れ始めた見慣れている風景に目をやった。
夕日が辺り一面をオレンジ色の世界に変えている以外は、いつもと変わらない波の音とさわやかな風が、2人の髪を揺らしていた。
「あいつ、カッコよかったね・・・」
赤く色付いていく空を見上げながら、不意に呟いたエバの言う“あいつ”が誰なのか、キャシーにはすぐに分かった。
「なあに?エバ。惚れちゃった?」
顔を下から覗かれて、エバは慌てて首を振った。
「と・・・年下は好みじゃないわ」
「たった二つじゃない。それにあいつ、見かけより大人だし・・・」
それを聞いて、エバはおずおずとキャシーに尋ねた。
「キャ・・キャシーこそ、ジュードの事、す・・・好きなの?」
キャシーは柔らかな自分の髪を掻き揚げると、エバよりもっと遠い目をして空を見上げた。
「まさか・・・。それに私には憧れの人が居るからね・・・」
キャシーはその憧れの人に入学説明会の日に再会した。彼女が会いたいと願い続けてきた伝説の女潜水士が、親友になれそうだと思っていたシェランだった事に、キャシーはその日溢れる涙を抑える事が出来なかった。
それ以来、彼女はシェランの潜水の授業の前には休憩も取らずに海に向かい、既に泳いでいるシェランと共に過ごした。キャシーにとってその20分間は、誰にも邪魔されずに憧れの人を独占できる貴重な時間だったのだ。
キャシーの先輩にあたる2年と3年の女子は一般の救難士を目指しているので、もしキャシーが潜水士になる事が出来れば、シェランに次いでSLS史上2番目の女性潜水士の誕生となる。それはキャシーにとって今一番の目標であり、彼女の全てだった。
「ああ、明日からやっとシェラン教官の訓練が受けられるわ。幸せ・・・」
「みんなが地獄の特訓って言っているやつ?あんた変わってるわね」
ノースビーチの白い砂浜は今、赤みがかったオレンジ色一色に染められ、浜に打ち付ける波までその色に染まっていた。人の少ないこの浜を通るのは、釣りから帰る人々くらいで、砂浜のあちこちに点在する、ごつごつとした黒い岩だけが波音を聞いているようだった。
そんな岩の上に、夕日の色より更に赤い上着が無造作に投げ置かれていた。シェランは波がすぐ側まで押し寄せてくるような岩にもたれかかってハイヒールの靴を脱ぐと、じっと入日に染まった海を見つめた。
「ほんとによかった・・・」
これでジュード達はこれからの自分の行動に責任を持ち、自粛するようになるだろう。とても悩んだが、結果的には良かったのだ。
「それにしても・・・」
シェランは、校長の机の上に置かれた封筒の中身を思い出して頬を膨らませた。
「何なの?ウォルターったら。自分だけいい子ぶっちゃって・・・」
多分彼は最初から彼等を退学にするつもりなんて無かったに違いない。彼はそういう性格だったことを今更ながら思い知らされた。心配して走り回っていた自分はバカみたいだったとシェランは思った。彼女は急に立ち上がると海に向かって文句を言い始めた。
「教官だから仕方なくあんなことを言ったけど、本当は私だってみんなの頭を抱きしめて『良くやったわ。あなた達は女の子を守ったのよ。立派な紳士だわ』って言ってあげたかったのに!」
「それはやめた方がいいと思うぞ」
側には誰も居ないと思っていたシェランは、びっくりして後ろを振り向いた。いつの間にかジュードがシェランのいる岩の後ろに立っていた。
「聞いていたの?」
「聞こえてきたんだ」
ムッとしているシェランの顔を見ずにジュードは答えた。
「なぜ私がみんなを褒めてはいけないのよ」
オレが言ってるのはその前の『みんなの頭を抱きしめて』のくだりなんだが・・・と思いつつ、彼はシェランの横にやって来ると、彼女が今もたれかかっていた岩の上に座った。
「とにかく・・・もう、やめろよ?あんな事・・・」
「あんな事って・・・?」
「クリスは友人だから快く引き受けてくれたんだろうけど・・・ロビーや他の教官に・・・」
ジュードは言いにくそうに口を閉じたが、再び続けた。
「泣き落としとか・・・色々・・・。自分の“女”を利用するなんて、そんなの嫌なんだろ?」
シェランは驚いたように、うつむいたままのジュードを見た。彼が談話室の前の廊下で、何故心配そうな顔で名前を呼んだのか・・・。シェランにはやっと分かった。
「そんな事、あなた達が心配しなくていいのよ。私は担当教官なんだから」
「教官だからやめてくれって言っているんだ。俺達の為に自分を犠牲にする必要なんて無い」
「犠牲になんかしていないわ」
「してるよ。レナの時もそうだった。どうせ頭で考えるより先に身体が動いてしまうんだろ。だけど、そんなのは駄目だ。もしこの先俺達の身に何かあっても、決して自分を犠牲にして助けようなんて思わなくていい。シェランはもっと自分を大切にすべきだ」
― なによ、生意気に・・・ ―
普段はどの生徒の前でも、決して教官としての態度を崩す事の無いシェランだったが、ジュードと居ると、時々友達か仲間のように感じてしまう時がある。最終試験の時もそうだった。
病院に彼が見舞いに来てくれた時、帰る間際に彼が残していった言葉は、ベッドの上に起き上がることも出来なかったシェランの憂鬱な気持ちを、一気に吹き飛ばしてくれた。教官1年生のシェランは彼等と共に学ぶ為、ここに来たのだ。
「何がシェランよ。ちゃんと教官と呼びなさい」
「シェランがそう呼んでって言ったんじゃないか」
「あれは・・・!」
シェランは反論しようとしたが、どうしてもムキになってしまう自分に気付いて口を閉じた。おまけに口論では絶対負けそうだ。シェランはもう一度岩の陰に腰を下ろすと両膝を抱え込んだ。
「エバとキャシーに約束したの。どんな事をしてもあなた達を守ってみせるって。絶対退学なんかにさせないって・・・」
夕日が消えていくにしたがって、シェランのうつむいた顔が少しずつ翳っていくのを見ながら、ジュードは彼女を探し出した本当の理由を思い出した。こんな話をしに来たのではなかったのだ。
「ごめん。違うんだ。『俺達の為に危ない事をするな』じゃなくて、シェランがもう危ない事をしないでいいように俺達が・・・」
ジュードは隣に座ったシェランの瞳が、自分を見つめているのが鼓動の高鳴りと共に苦しくなって、思わず眼をそらした。
「オレ達が・・・ちゃんとするから。もう二度とこんな問題が起こらないように。それを言いに来たんだ」
シェランはうつむいたジュードの横顔を見ながら微笑んだ。
「ありがとう。心配してくれてたのね」
そんな風に素直になられると、どうも調子が狂うのか、ジュードはまだシェランの顔を真っ直ぐに見られなかった。
「いや・・・心配というか、今回の件は俺達のせいだし・・・。それに、誤解したら困るだろ?ここの教官連中なんか、クリスを除いて女に免疫なさそうだし・・・」
「まあ、自分は随分と免疫がありそうな言い方ね」
からかうように言われて、ジュードは真っ赤になって答えた。
「無いよ!だから分かるんじゃないか!」
シェランはくすくす笑いながら肩をすくめた。
「誤解なんかする筈無いでしょ?みんな立派な大人なんだから」
ジュードは余りにも男心が分かっていないシェランをびっくりして見つめた。どうやら免疫が無いのは彼女も同類らしい。でなければ『男子生徒の頭を抱きしめて・・・』なんて発言が出るはずは無いのだ。
教官は大人で生徒は子供、と彼女は思い込んでいるみたいだが、年齢だけ見れば、マックスは彼女より一つ上だし、ネルソンは同じ22歳だ。
― 頭なんか抱きしめたら、大変なことになるぞ。間違いなく5,6人は鼻血吹いてぶっ倒れるな ―
ジュードは思わず頭を抱えそうになったが、何も分かっていないシェランにこれ以上何を言っても無駄だと思って立ち上がった。
「もう暗いんだから、早く帰れよ」
シェランは背中を向けて寮に戻っていくジュードを思わず呼び止めた。
「ジュード、明日からちゃんと授業に出るのよ。遅刻したら駄目よ」
その一言に彼はむっとして立ち止まった。
― 遅刻?一度だってオレは遅刻なんかした事ないぞ ―
「当たり前だ。3日間の遅れを取り戻さなきゃならないんだからな。大体、入校式の晴れの日に遅刻してくるような奴に、そんな事言われたくないね」
一瞬、息を呑んで黙り込んだシェランは、彼に背を向けてうつむいた。その姿に自分の言っていることが図星だったと分かったジュードは、再び彼女の側の岩の上に手を付いてシェランの顔を覗きこんだ。
「おかしいと思ったんだ。教官を紹介する時は普通Aチームからするよな。だがあの日はCチームから始まった。つまりAチームの教官がまだ来てなかってことだ。シェラン、あの時カーテンの裏で靴を履き替えてただろう。随分と息を切らしてたもんなぁ・・・」
ぎゅっと唇を噛み締めてひざを抱え込んだシェランの顔を見て、ジュードはドキッとした。まるで今にも泣きそうな顔をしている。そんなに酷い事を言っただろうかと思ったが、ふと入校式の2週間前に、彼女が背中に深手を負って入院していた事を思い出した。
「まさか、当日まで入院してたとか・・・言うんじゃ・・・」
シェランはまるで言い訳をするように小さな声で答えた。
「先生にはまだ退院したら駄目って言われたけど、やっぱりみんなに一言謝りたかったし・・・」
「そんな事・・・!」
ジュードは思わず声を上げそうになったが、一息置いて気を落ち着かせた。
「そんな事は入学してからでも言えるだろう?」
「だってどうしてもおめでとうって言ってあげたかったんだもの。それにまだ名前もちゃんと名乗ってなかったし・・・」
全くこの人は・・・。ジュードはあきれたようにシェランを見下ろした。ベッドで寝返りもうてなかった人間が、たった2週間で回復するのは確かに早すぎる。
何が鉄の女だ。ただ無鉄砲なだけじゃないか・・・。
ジュードはこれからも何かあるたびに、シェランが自分の身を省みずに行動を起こすかもしれないと思うと怖かった。そんなのはオレの親父だけでいい。
「それで、傷の具合はもういいのか?」
「ええ、もうすっかり。私ってベッドの中に居るより海に居る方が調子がいいのよ」
シェランの笑顔はそれが偽りでない事を示していたので、ジュードは「そうか、ならいい」と言いつつ立ち上がり、寮へ帰って行った。
彼が去った後、急に辺りが暗く静かになったような気がして、シェランは再び膝を強く抱きかかえた。
「偉そうに言ったかと思えば心配したり、そうかと思えば何だか怒っちゃってるし・・・ジュードって良く分からないわ・・・」
シェランは小さく溜息を付いた後、星の瞬き始めた空を見上げた。
読んで下さってありがとうございました。
【予告】 第3部 148F
救急救命士の試験も終わり、初めての試練も乗り越えたジュード。
次は一番の難関である潜水の試験がある。フィートは長さの単位で、148フィートは約45メートルに相当する深さだ。潜水士はこの深さを潜れないと潜水士にはなれなかった。自分の限界とも言える深さに挑戦する潜水士候補生達。そして機動救難士を目指すジュードも、26フィート潜れなければならなかったが、彼にはどうしても潜れない理由があった。
ジュード、そしてシェランに次いで2番目の女性潜水士を目指すキャシー。まだ一度も148Fを潜った事のないレクター。彼等はこの難関の試験を乗り越えることが出来るのか・・・・・。