第19部 I Wish ―願い― 【9】
次の日、久しぶりに晴れ渡った暑い日差しの中、機動の訓練生達は本部隊員に監視されながら、甲板掃除に駆り立てられていた。
「オラオラ、腰が引けてるぞ!ジェイミー!」
「何やってるんだ、ジュード!それでもリーダーかぁ!?」
甲板の端から端までデッキブラシを持って走り回っているマックスとショーンは、すれ違い様に苦々しげに言葉を交わした。
「くっそー、あいつら。いつかガーンって言わせてやるからな!」
「頼むぜ、おぼっちゃま!」
「こらーっ!!マックス!ショーン!しゃべってないでとっとと走れー!!」
2人はフンと鼻を鳴らすと逆方向に走り出した。
一般も相変わらず食堂掃除をやらされていた。
「全く冗談じゃないわよ」
エバはぶつぶつ言いながら、食堂の机を拭き上げている。男達は濡れたモップで椅子をどけながら床掃除だ。
「あれ?」
ふとサムが手を止めて、窓の外を見た。
「何止まってるんだ、サム!」
一般の本部隊員に怒鳴られて、サムは再び手を動かし始めた。それでもなお窓の外が気になるので、気付かれないように外を見ていると、遠くからこのライフシップに近づいてくる何かが見えた。
「まさか・・・あれ・・・」
おなじみの迷彩色に二基のローターを上部に備え付けた輸送用の軍用ヘリが、激しい爆音を響かせてライフシップの前方からヘリポートのすぐ上に止まった。ヘリポートにはすでにSLSのヘリが止まっていたが、全くお構い無しにそのヘリの向こう側に大きな軍用ヘリは着陸してしまった。
皆があっけに取られたように見守る中、濃紺の軍服に真っ赤な赤銅色の髪をなびかせたヘレン・シュレイダー大佐が、2人の部下を従えてヘリの階段を降りてきた。
機動の本部隊員の一人がヘリの巻き起こすダウンウォッシュに倒されそうになりながら彼女に近付いた。
「一体何なんだね、君たちは。何の許可もなしにライフシップに着陸するなんて」
ヘレンは全く悪びれる様子も無く彼を一瞥すると、周りをぐるっと見回した。
「君がチームのリーダーか?」
「私は機動のキーマン・バートレットだ」
「リーダーじゃない者に話は無い。リーダーを呼んで来い」
あまりの不遜な態度にキーマンは歯をぎりっと噛み締め、鼻にしわを寄せたが、すぐにニコラスを呼びに甲板を降りていった。
Aチームの訓練生達も、手にデッキブラシを持ったまま呆然とヘレンを見つめている。
「ほほう、これがSLSの合同訓練か。確かに足腰の鍛錬にはなるかもしれんな。今度SEALでも考案してみよう」
ヘレンは嫌味を言いつつ、ジュードに近付いてきた。
「実に掃除夫の格好が似合っているな。これだけ磨けば随分と甲板も綺麗になった事だろう」
「ええ、おかげで掃除が上手くなりました」
ジュードはニヤッと笑って答えた。
「私がリーダーのニコラス・エマーソンだ。君たちは何だね」
ニコラスがキーマンやエドガーと共に甲板に上がってきて、低いかすれ声で尋ねた。
「ほう?私を知らないと?君は確か潜水じゃなかったか?ああ、そうか。675フィートも潜る自信が無かったのでウェイブ・ボートには来ていなかったんだな」
ニコラスの額に青筋が立つのを、ヘレンは小気味良さげに目を細めて見た。
今にも彼女に殴りかかっていきそうなニコラスの腕を掴んで、エドガーが彼の耳に彼女がSEALの大佐である事を告げた。
「海軍大佐がここに何の用だ」
「ふむ、私の親友がこの船で訓練をしているというのでな。ちょっと近くを通りかかったので見に来たのだが・・・。SLSの訓練とは掃除夫の真似事をいうのだな。いや、実に愉快だ」
ヘレンの嫌味に益々磨きがかかり、ニコラスの額の青筋がもう一つ増えた所で、知らせを受けたシェランが甲板に上がってきた。
「ヘレン!」
駆け寄ってきたシェランに、珍しくヘレンは笑顔を向けた。
「シェラン、なにやらトイレ洗剤の臭いがするが、まさか君までトイレ掃除をしていたんじゃないだろうな」
「ええ、その通りよ。教官も一緒にしなきゃならないの」
「ほう?本部の教官に対する扱いは随分と低レベルだな。もしかしてこれはイジメって奴じゃないのか?」
イジメという言葉をヘレンが随分強調して言ったので、さっきから彼らのやり取りを見守っていた訓練生達はヒヤッとした。
「そんな事は無いわ。これも訓練の一環ですもの。でも来てくれて嬉しいわ。もう帰ってしまったのかと思ったから」
昨日あんな形で分かれてしまった事をシェランは少し後悔していた。ヘレンとはなかなか会う機会が無いからだ。
「せっかく来たんだ。コーヒーでも入れてもらおうか」
へレンはぐるりと首を回すとエドガーに向かって命令した。
「おい、そこの目の細い奴・・・確かウェイブ・ボートに来ていたな。私とシェランの為にコーヒーを入れろ。私は少し濃い目が好みだ」
「こ・・・んの・・・!」
エドガーは細い目を白黒させてニコラスを振り返った。
「残念ですが、大佐殿。今は訓練中だ。お引き取り願おう」
「訓練中?これが訓練なら基地のクリーニングマシーンは全部訓練中ということになるなぁ、そうは思わないか?アスレー中尉」
「Yes, Sir!(その通りです。大佐!)」
「まぁ、実力の無い奴に限って、他人の才能を妬んでくだらないイジメなんかをするものだ。そうは思わないか?アレック」
「Yes, Sir!(その通りです。大佐!)」
ニコラスはこぶしを握り締めて額に青筋を立てていた。しかし、自分の立場を利用する事に関してヘレンの隣に出られるものはここには居なかった。
ヘレンは昨日ジュードからシェランが本部を辞めたいきさつを聞いて、虫唾が走るほど腹が立った。自分の立場を利用して若い女性をいじめる奴なんて、反吐が出るほど嫌いだ。
「まあ、SLSではイジメも訓練の内と言うのなら仕方が無いな。そろそろ引き上げてやろう。ニコラス・・・といったかな?ミスター・エマーソン。シェランは私の親友だ。それから私は本部長官とも親しい。海軍大佐であるこの私がだ。それを忘れない事だな」
一瞬ニコラスの顔色が変わったのをヘレンは確認したように目を細めると、ジュードの側を通りながら呟いた。
「クッキーの借りは返したぞ」
「はい。これで今日からSLSの訓練生は、みんな大佐のファンですよ」
「フン、くだらんな」
ヘレンは一瞬だけニヤリと笑うと、そのままヘリに向かって歩き始めたが、甲板の入り口からニコラスを呼ぶ男の声に立ち止まった。その男は通信室の人間で、彼の声は非常に緊張していた。
「ニコラス、すぐに来てくれ!本部から緊急連絡が入っている!」
本部からの緊急連絡と聞いて、シェランとヘレンは顔を見合わせた。この近くにあるのは・・・・。
ニコラスが「訓練生は全員そのまま掃除を続けろ!」と叫んだが、ヘレンが「少年も来い」と言ってくれたので、ジュードもシェランやヘレンと共に通信室に入る事が出来た。
ニコラスが取った緊急回線の電話をヘレンが横合いから奪い取った。
「私は海軍特殊部隊のヘレン・シュレイダー大佐だ。事情を説明しろ」
本部の通信士は少々驚いた様子であったが、すぐに報告を始めた。
『1100時、アルガロンの周辺海域を巡回中の船が採掘場に向けて航行してくる一隻の潜水艇を発見しました。停船信号を出しましたが一向に速度を落とす気配は無く、一定の速さでアルガロンに近付いています』
「潜水艇?魚雷じゃないのか?」
『潜水艇の大きさや形からその可能性もあるかと思われましたが、現在5.6Kt(Ktはノットの単位、約10Km/h)を保っているので、その可能性は低いと思われます』
「それでどのくらいの深さを航行しているんだ?」
『約500フィートです』
「画像を送れるか」
『デジタル画像なら転送できますが』
「すぐ送れ」
画面に映し出されたのは本当に魚雷のような形をした小さな船影だった。
「5.6ノットとは随分中途半端な速さだな。よほど早く泳げる人間なら追いつけそうだ」
へレンのその言葉を聴くまでも無く、シェランには分かっていた。これは私を誘っているのだ。彼が・・・・・。
500フィートの深さと5.6ノットの速さ・・・。
― 君なら来れるだろう? ―
ルイスの声がすぐ側で聞こえたような気がした。
『船の前後には上下左右に4つのスラスター(プロペラ)があり、上部にビューポート(覗き窓)の付いたハッチがあります。自航式潜水艇のようにも見えますが、詳しい事は分かっていません』
「アルガロンまでの距離は?」
『現在、アルガロン南西8Km地点』
「後1時間も無いぞ!」
通信士の一人が叫んだ。シェランはへレンから電話を取り上げた。
「“あの男”から、アーロンに電話は?」
『ミスター・ベネディクトは何の連絡も無いと・・・』
シェランはへレンの顔を見上げた。今度こそ、あの男はアルガロンを破壊する気だ。騒ぎを聞きつけて他の隊員や訓練生も心配そうに通信室を覗いていた。
「猶予はないわ。ヘレン、潜水服はヘリに積んである?」
「何かあった時を憂慮して、あの時の潜水服を積んであるぞ」
「さすが、ヘレン。誰かボートを出して。すぐに行かなくては」
シェランの決意を聞いて、ヘレンはすぐに命令を下し始めた。
「デニス、お前がボートを操船しろ。SLSはすぐにライフシップでアルガロンの作業員を脱出させる。ニコラス、他の船にすぐ連絡しろ。機動はこの船のヘリを残して2機でアルガロンに行き、女性や子供を先に救出する。アレック、我々のヘリも出すぞ」
「はっ」
憎々しい女大佐の命令になど従いたくも無かったが、彼女の判断は非常に的確だったので、ニコラスは彼女に言われた通りに他のライフシップに連絡をつけた。
「教官!」
甲板へ走っていくシェランにノースが叫んだ。
「この船の通信回線は4578です。ジュードのは知っていますね」
「ええ!」
シェランは走りながらジュードを振り返った。彼はぎゅっと唇を噛み締めたままシェランを見た後、小さく頷いた。
シェランを乗せた6人乗りのボートをデニスが操船し、近づいてくる潜水艇へと向かって勢い良く発進した。それとは逆方向にライフシップは進み始める。Bチームのライフシップがアルガロンに到着した時はもうAとCチームのライフシップがアルガロンの船着場に到着していた。
「慌てんでもいい!まだ時間はある!」
本当は時間など無かったが、事故を防ぐためにアーロンは慌てないように従業員達を誘導していた。
「おやっさん!」
人々の中からジョンが飛び出してきた。アーロンを手伝うためだ。
「何やってるんだ、ジョン。お前も早く逃げろ!」
「俺はおやっさんと最後に行きます。それよりレナは?」
「レナ?迎えに来たSLSのヘリで先に行ったんじゃないのか?」
「それが生活プラットフォームに誰か残っていないか見に行くって、さっき・・・」
「何だと!?」
シェランを乗せたボートは、アルガロンから7Km程離れた地点で止まった。シェランはすでに潜水服を着込んで準備を整えている。
「ここからまっすぐ下に潜れば潜水艇に着くと思うんですが・・・」
はっきりと潜水艇の位置を確認しながら来たわけではないので、デニスは少し自信がなさそうに言った。
「大丈夫よ。ライフシップに残っているノースと連絡を取りながら行くから」
シェランは潜水服のヘルメットにダイビング・コンピューターのイヤホンケーブルを取り付け、テンキーで“4578”の番号を入力した。
シェランがヘルメットを被ってデニスに潜る合図を出した。
「お気をつけて、アフロディテ。作戦の成功をお祈りいたします!」
デニスが敬礼をするのと同時に、シェランは身を翻して海に飛び込んだ。ウェイブ・ボートで着たことがあったので、潜水服は以前よりも体に馴染むような気がした。
「ノース、聞こえる?私よ。潜水艇の詳しい位置を報告して」
『了解』
待ちかねていたノースからすぐに返事があった。
『現在潜水艇はアルガロンから7.53Km地点を潜行中。真っ直ぐアルガロンに向かっています』
それを聞いたシェランの後ろに、まばゆいばかりの水泡が上がった。シェランが潜るスピードを上げたのだ。やがて、次第に暗さを増していく海の中で、小さな光が動いているのが見えた。それを見た時、シェランは確信した。
やはり、私を誘っているのだ。でなければ潜水艇の位置が分かり易くなるのに、わざわざ明かりを点けているはずがない。
潜水艇は横に船体を安定させる為の小さな羽根が両側に着いており、海上でも走行できるような仕組みになっていた。長さはおよそ6メートル。
「やっぱり潜水艇で5.6ノットは随分速い速度だと思ったけど、エンジンが別についているわ」
シェランは一通り潜水艇の外部を調べたが、爆弾らしきものは無かった。後は中に入るしかないが、海中でハッチを空ける事は不可能だろう。それでも何とか中に入れないかビューポート上に付いているハッチを力任せに引っ張り始めた。
すると急に潜水艇の下部につけられたエンジンが起動する音が聞こえ、潜水艇は徐々に速度を増しながら浮上し始めた。シェランは振り落とされないように潜水艇に上からまたがり、ビューポートにしがみついた。
生活プラットフォームでレナを探していたアーロンとジョンだったが、もうここには誰も居ないようだ。
「全く、何処に行ったんだ!あのバカ娘!」
アーロンはたまらなくなって叫んだ。レナの気性から考えて、母親と同じように最後までここに残っていそうな気がする。
「もしかしたらもうここには誰も居ないので、他の従業員達と船に乗っているんじゃ・・・」
「だといいんだが・・・ジョン、お前は先に船に行ってろ。俺はもう少し探してから行く」
「じゃあ、俺も居ます。レナがおやっさんの娘なら、彼女は俺の妹だ。だから最後までちゃんと探します」
「ジョン・・・しかし・・・」
アーロンは呟きながら周りを見回した後、凍りつくようにプラットフォームの端につけられた非常用の階段を見つめた。短い髪を潮風になびかせて、レナが階段の踊り場から自分を見つめて立っている。そのすぐ横に均整の取れた顔と体つきの男が、まるで死神のように冷たく微笑みながら、レナの頭に銃を突きつけて立っていた。
「レ・・・レナ?」
「久しぶりですね、5THの件以来ですか。ミスター・ベネディクト。いや、アーロンと呼びましょうか。“あの方”と同じように・・・」
「あんたは・・・確か・・・SEALの・・・」
名前までは思い出せなかったが良く覚えている。5THの事件の時、体格のいい女性将校の、まるで彼女の影のように後ろに従っていた男だ。
「君は“あの方”の声を聞いている。だから生き延びる事は許さないよ・・・」
ニコラスのBチームとアルガロンの中で、人々が脱出する手伝いをしていたAチームのメンバーは、潜水艇がアルガロンに到着する予定の20分前にはライフシップに戻ってきた。ジュードは機動のメンバーにヘリをすぐに飛ばせるように準備をさせ、ノースのいる通信室にやって来た。
「ノース、シェランから連絡は?」
「ジュード!」
通信機の前にいたノースとハーディ、そして船の位置を確認していたエバが、蒼い顔をして彼の名を呼んだ。
「大変だ、教官がハッチを空けようとしたら、潜水艇が速度を上げて浮上し始めた。予定より早くここにぶつかるかも知れない!」
「くそっ」
ジュードはノースにシェランと連絡が着いたら自分のD.C(ダイビング・コンピューター)に番号を変更するように言って、急いで通信室を出ようとした。
「何を勝手な事をやっているんだ?」
ジュードの行く手を塞ぐように、通信室の入り口に立っていたのはニコラスだった。彼は相変わらず冷たく無表情な目でジュードを見ていた。
「お前らも何をしている。誰が通信士の真似事をやれと命じた?ノース、ハーディ、エバ。すぐにアルガロンに戻って要救助者を誘導しろ。訓練生が勝手な行動を取るのは許さん」
「リーダー、オレ達はシェラン教官を助けに行きます」
ジュードはニコラスを睨みつける様に見た。
「あれを助けるのも我々の仕事だ。お前達訓練生は許可無く救助をする事は許されていない」
「命令違反は承知の上です。でも今、教官を助けられるのはオレ達しか居ない」
「思い上がるな。実戦を経験したことも無いくせに、お前等訓練生に何が出来ると言うんだ?」
「たとえどんなに技術があっても、あなた方にシェランを助ける意志があるとはとても思えない!」
一瞬、ジュードとニコラスは互いに宿敵を見るかのように睨めつけ合った。
「完全な命令違反だ。どうなるか分かってるんだろうな」
「審問会でも退学でもお好きなように。あなたには全てを賭けて誰かを救おうとする人間の気持ちなど、一生分かりはしないでしょうから」
ジュードは吐き捨てるように言うと、後ろを振り向いて叫んだ。
「ハーディ!ヘリの操縦を頼む」
「了解!」
ハーディもニヤッと笑いながらニコラスを一瞥すると、ジュードの後についてデッキへと上がっていった。
「許さん。絶対に許さんからな・・・」
ニコラスは拳を握り締め、暗い瞳で彼らの後姿を睨み据えた。
海上では既に要救助者を乗せたAチームとCチームのライフシップが、アルガロンを離れていく所だった。
「マックス、準備は?」
「いつでもOKだ!」
マックスがヘリの中から顔を出して叫んだ。ジュードはD.Cのテンキーですばやく“4578”を入力すると叫んだ。
「ノース!シェランから連絡は?」
『まだだ。潜水艇はどんどん速度を上げて浮上してきているぞ。現在11Kt。コンピューターで浮上してくる地点の距離を割り出した。アルガロン南西およそ1Km地点だ!急げ!時間が無いぞ!』
ハーディはすでにヘリのエンジンを掛け、ジュードを待っていた。ジュードはヘリに飛び込んだ。
「離陸する!!」