8、
完全に腐り蛆が湧いてしまっている牛肉の塊。発酵しきって中身が無くなってしまった悪臭漂う牛乳。それに気持ち悪い程に芽が出た苺のパックなど。
開いた冷蔵庫の中身は、随分と個性的なラインナップであった。
異臭は酷く、小さな虫も彼方此方で飛び交い巣を作っている。特に苺なんかは毒々しい紫色の何かが発芽しており、到底このまま苺が成るとは思えやしない。
ある意味腐界と言っていいほど、荒れている冷蔵庫の中。
「何かありましたか?」
非常に気味の悪い冷蔵庫の中身を物色している僕に、彼女がそう問いかけてくる。
「いや、冷蔵庫の中は腐りきって最悪の状態だよ。食料として機能してそうなのは、このコーヒー豆ぐらいかな」
冷蔵庫の隣に大袋で置かれた高級なコーヒー豆を手に取りながら、肩を竦めて僕はそう答える。その言葉を聞いて彼女は、少し納得した様子でカシャリと鎖を鳴らした。
「私の父はコーヒーを自分で挽くのが趣味なんです」
まあ、私には味の違いが判らないんですけど。苦笑しながら小声でそう付け加える彼女。そんな彼女の様子に僕も小さく苦笑する。
この部屋を暫く物色してみたが、使えそうなモノは刃渡りは二十センチを少し超える程度の包丁と、後は鉄で出来た鍋ぐらいの様でだった。
リビングなどにも何かないかと探してみたが、これと言ったモノはない。あるのは兎の血の跡ぐらいだろう。
とりあえず、手に入れた鍋を装備して、包丁を武器に構えてみるが、やはり随分と間が抜けているような気がする。まあ、一般家庭に刀や拳銃といったモノは普通は無いので仕方がない気もするが、これであの夜の住人に勝てる気はあまりしない。
そういうのも、孤独な男や声多き少数派などのイメージが強いからだろうか。
「他に何かないかな?」
心許無い包丁の重みを感じながら、僕は彼女に尋ねる。彼女は少し考えるような仕草をしたが、やがて否定気に鎖を鳴らす。
「その、すみません。特に思いつかないです」
とても申し訳なさそうな口調の彼女に、僕は慌てて首を振る。
「いや、そりゃ普通はそうだよね。僕も家で探したって画材ぐらいしかないから」
少しお道化た調子で笑い、僕は暗くなりそうだった雰囲気を変える。そんな僕に、彼女も暗くなりそうだった空気を変えクスクスと笑みを浮かべ、そして尋ねてくる。
「そうなんですね。あ、じゃあ、画家さんなんですか?」
「いや、……、まあ、画家っていうか、なんというか」
彼女の疑問にうまく答える事が出来ず、僕は言葉を濁す。
「あっ、そういえば父はコーヒーだけじゃなくて、美術館巡りも趣味だったんです」
地雷を踏んでしまったという認識があったのだろう。彼女はすぐに話題を変え始まる。そして、そこでふと思いついたように言った。
「あっ、でももしかしたら、父の部屋に何かあるかも」
「お父さんの部屋?」
鸚鵡返しに尋ねる僕に、彼女は大きく頷く様な仕草をする。
「はい、そうです。アウトドアな趣味もあったので、もしかしたら何かあるかも」
「それは確かにそうかもしれないね」
僕は頷き、彼女の車椅子を押して、すぐに彼女の父親の部屋へと足を向けた。
***
薄々感じていたが、彼女の家はそれなりのお金持ちなのかもしれない。
彼女のお父さんの部屋に入った時、僕はそんな感想を抱いた。
白を基調としたシンプルな机に、黒革張りの大きなソファー。そして、高そうな材木で出来た大きな本棚。その他綺麗に並べられた高級そうなインテリアの数々は、その持ち主のセンスと財力をこれでもかと見せつけているような気すらしてくる。
まあ、それもこの赤い蜘蛛の巣さえなければだけど。
部屋の中を見渡しながら、僕はそんなどうでもいい事を考える。
「あの、どうですか?」
クローゼットに収納されていたアウトドア用品を漁っている僕に、彼女が再びそう問いかけてくる。そんな彼女の言葉に、僕は改めてアウトドア用品へと視線を向ける。
ごちゃごちゃと多量に押し込めらえれているアウトドア用品の数々。例えば、テントやバーベキューコンロ、テーブルと椅子のセットなどなど。それぞれ3セット以上はありそうだ。お、これは確かソーセージ作る装置じゃなかったっけ?
森の中でも快適暮らしが出来そうな数々の品。カタログを片っ端から購入したようなそれらを物色しながら、僕は目をつけていた使えそうなものを取り出す。
「このテントの杭とかは使えるかも。後はこの十徳ナイフとかかな」
先の尖った杭と、ナイフやドライバーなどがセットになっている十徳ナイフ。それらをクローゼットの中から取り出して持ち上げてみる。
とても軽く投擲しても威力は殆ど無さそうだな。長さもないので、かなり接近して力いっぱい殴らないと無意味だろう。
正直言って、気休めでしかないな。
あまり使えそうにないそれらを見ながら、僕は心の中でため息を吐き出す。うーん、ほかには何かないだろうか。
「お、この炭とかも使えないかな? 火をつけた奴を投げつけたり」
「確かに、それは強そうですね」
ごっそり出てきた炭の束を見ながら、僕はそう考える。そんな僕に彼女はどういう想像をしたのか、どこか頼もしそうにかしゃりと鎖を鳴らす。
そんな彼女に、小さく笑いながら僕は更に部屋の中を物色する。
「それにしても、君のお父さんはどんな仕事してるんだい? 高そうな商品ばっかりだ」
「えっと、……なにか輸入関係の何とかって言ってましたけど」
雑談として呟く僕の言葉に、彼女は少し考えながらそう答える。
「あんまり知らないんですよね。お父さんの仕事について」
どうやら仕事の内容に関しては、あまり詳しくないらしい。それに父親はいつも遅く帰ってきて、朝にはいないので最近は喋る機会そのものもなかったそうだ。まあ、このぐらいの年頃ならそんなものなのかもしれない。
それにしても、輸入関係とは確かに、儲かりそうなワードだ。僕もあんまり詳しくないけど。
「じゃあ、この使ってなさそうな物は、商品かもしれないな」
「そうかもしれないですね!」
クローゼットの奥の方にあった使えそうにない品々を見ながら呟く僕に、彼女は少しだけ楽しそうにそう答える。そんな彼女を見て、僕は少しだけ首を傾げる。
「……君は、もしかして楽しんでる?」
「えっと、そういう訳ではないんですけど」
僕の言葉に、彼女は少しだけ言い辛そうな口調でゆっくりと答える。
「なんだか人と話すのが、すごく久しぶりな気がして。それにこうやって何か探すのは、探検しているみたいで、その……」
言葉を濁しながら答える彼女に、僕は小さく苦笑する。その言葉は少しだけだが、理解できるような気もする。それが、これほど狂気渦巻く夜の街でなければ特に。
それにしても、人と話すのが久しぶり……か、
「でも、中学校でも友達と喋ったりはしてるんでしょ?」
「うーん、それがあんまり覚えてないんですよね」
首を捻るようにかしゃりと鎖を鳴らしながら、僕の問いに彼女が答える。
「学校で友達と喋ってたし、部活とかもやってたんですけど、何だかそれが凄く昔のよな気もしてるんです」
自分でもよく判ってなさそうに、そう答える彼女。そんな彼女の言葉に、僕もよく分らずに首を傾げる事しかできなかった。
その後、しばらくこの部屋を捜索したが、使えそうなモノは特になかった。