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7、






「リビングから一番近い扉。確かにそこは私の部屋で合ってます」


 兎が逃げた先を伝えた時、彼女は俯いた暗い口調でそう答えた。そして同時に先程起きた兎のぬいぐるみの出来事も聞き、俯く様に鎖を鳴らす。


「……ミミちゃん、何が、何が起きているの」


 沈んだ声で呟き、涙を噛みしめる彼女。


 持っていた兎のぬいぐるみが動き出すというファンタジーな出来事を体験した彼女ではあるが、実際は血に濡れた気の狂った兎だ。それに彼女自身の立場も考えたら、訳も分らないこの状況に、泣きそうになってしまうのも無理はない。



 だが、それでも兎が持ち逃げした銀色の鍵の事を考えれば、希望が潰えた訳ではない。


 その事を彼女に伝え、元気づけるように励ましながら、僕は改めて扉の前に立つ。


「君の部屋、開けるよ」


 念のために彼女にそう告げて、僕は彼女の部屋の扉を勢いよく開ける。



 ──、ぐっ、

 その瞬間、腐った魚介の様な吐き気を催す生臭い臭いが、僕たちを襲う。

 僕は思わず手で鼻を押さえ、彼女も気持ち悪そうな声をあげる。目すら染みるような臭い爆弾に、痛む目を擦りながら部屋の様子を観察する。


 そこにあったのは、やはり赤黒い蜘蛛の巣だった。


 ただの赤黒い蜘蛛の糸ではない。

 一番の問題は幾重にも厳重に張り巡らされた糸の中心、部屋の中心。そこには、一匹の巨大な蜘蛛が鎮座していた。


 足の大きさを入れれば全長は一メートルは優に超えるだろう。八本の足は枝の様に細く、人間の髪のような毛がびっしりと覆っている。更にその髪の毛は一本一本意思があるかのようにミミズのように気持ち悪く蠢いている。


 だが、最も特筆するべき場所はそこではない。


 人間の頭部だ。


 蜘蛛の身体があるべきその部分に、五十センチ程の人間の頭部が存在しているのだ。人間の頭部に細い蜘蛛の足が生え、苦悶の表情を浮かべたその口から赤黒いあの蜘蛛の糸を吐き出している。

 間違いない。夜の住人だ。


 孤立する防衛本能、と僕は名付けている。


 公園の片隅や、橋の下など暗く狭い場所で血の様な赤色や退色した青色など、様々な色の糸で巣を作り、ただじっと固まっているだけの夜の住人。その表情は常に苦しい何かに耐えるようであり、口からは大量の糸を吐き出し、糸で身を守っている。


 今までは、僕が無視されていた事もあり、特に害のない夜の住人であったのだが。



 改めて孤立する防衛本能へと目を向ける。


 蜘蛛の身体である顔は、悪夢でも見ているかのように、目を瞑りながら、唇を強く噛みしめている。手足を縮め、身体を守るようにその場から動かない。

 今のところ、害はない。でも、嫌な予感はひしひしと感じる。


 孤独な男や声多き少数派など、今まで害のなかった夜の住人が襲ってきているのだ。孤立する防衛本能が襲ってこない保障など何処にもない。


「あの、どういう状況なんですか?」


 黙って考えていた僕に、彼女が小声でそう尋ねてくる。そんな彼女に現状を説明しように口を開きかけた時、僕はそれを見つけた。


 兎のぬいぐるみだ。


 部屋に張り巡らされた糸に引っかかったのか、身体を蜘蛛の糸に絡め取られてその場でもがき苦しんでいた。それも部屋の中心、孤立する防衛本能のすぐ近くで、だ。当然、その手にはあの銀色の鍵も存在している。


「君の兎のぬいぐるみが居たよ。蜘蛛の巣に引っかかってる。でも、蜘蛛の化け物も近くにいる」


 出来る限り簡素にそう説明する。その説明を聞き、彼女は鎖を鳴らして答える。


「じゃあ、早くミミちゃんを助けないと」

「ちょ、ちょっと落ち着いて」


 逸る気持ちを堪え切れず鎖を鳴らし続ける彼女に、僕は慌てて少し落ち着く様に伝える。


「幸いな事に蜘蛛の化け物は動いてないから、此処は慎重に行動しないと」

 最悪、あの蜘蛛が目覚めかねない。


 現状を彼女に教え、僕は少しだけ考える。あの兎のぬいぐるみがいる場所まで行くには、この蜘蛛の巣の中を突き進まなければならない。だが、突き進みながら蜘蛛の巣を避けるという器用なことはできそうにない。


 少しだけ考えて、僕は張り巡らされた糸に僅かに、本当に少しだけ触れてみる。


 ぴくりっと今まで微動だにしていなかった孤立する防衛本能の足が動く。そして静かに目を開けそうになるのを確認し、僕は慌ててその手を放すと、孤立する防衛本能は再び動かなくなる。


 そして、再び苦悶の表情を浮かべる。


「……これは、」


 ある意味、予想していたが、状況としては最悪に近い。

 どう考えても孤立する防衛本能を起こすのは悪手だろう。もはやどうしようもなくなれば、このまま無策に突入して蜘蛛が目覚める前に、兎のぬいぐるみを奪還する事もできるだろうが。その場合、その後の逃げ場がなくなってしまう。


 マンションの外は巨大な蛇、一階にはマネキンの首の集合体がいるのだ。この場所でも夜の住人が目覚めてしまえば、安全な場所は何処にもなくなってしまう。


 そうなれば、孤独な男にされたように僕も彼女も無慈悲に殺される可能性が高い。


 だからと言って、蜘蛛の巣を避けるなど難しい。張り巡らされた糸を触れずに、兎のぬいぐるみに近づくなんて、さっきの兎のようにすり抜け等を使わなければ不可能だ。


「──、どうするべきか」


 腕を組み考えながら、僕は彼女に現状の説明を行う。それを聞き、彼女は少し考えた後、こう言ってくる。



「トリモチとかどうでしょうか?」

「まあ、無くはない方法だけど」

 難しいだろう。長い棒もないし、肝心のトリモチもここにはない。そもそも、棒を蜘蛛の巣に触れずに兎のぬいぐるみまで通す事自体が不可能に近い。


「そ、掃除機で吸い込むとか?」

「いや、それじゃ結局蜘蛛の糸が反応する筈だ」

 触れないという意味ではそもありかもしれないが、触れなくても蜘蛛の巣を吸い込めば蜘蛛は反応するだろう。それに、あの位置の兎のぬいぐるみを吸い込むには掃除機のパワーは心許無さすぎる。


「逆に入り口じゃなくて、窓の外から入るとか」

「窓の外は蜘蛛とは比べ物にならない化け物がいるからね」

 これは無理というよりやりたくない。窓の外に本当に監視する目がいるのか分らないが、それを確かめる為にカーテンを開ける気にはならない。開けたら最後、再び目が合い、マンション崩壊が起きる事だって考えられる。


 その他にも沢山の案を挙げてくれる彼女。だがどれも机上の空論というか、現実味のない案でしか浮かんでこない。全く打開策が浮かばない僕よりはマシなのだろうけれど。


「じゃあ、こう、何か蜘蛛を倒す方法を見つける! とか」

「……、そうだね。現状、妥当な案としてはそれか」

 最終的に彼女と話し合って出た解答は、そういうものだった。


 殆ど無策で突っ込むのと変わらない案だが、それでも倒す準備を出来る限り行い、討伐できる可能性を挙げようという結論だ。


 つまりは、バットで殴るとか、何か硬いモノを投げて攻撃するとかである。随分と原始的な方法になってしまうが、情けない事にそれ以外の方法が思いつかないのだ。蜘蛛の化け物に勝てるのか。そもそも、夜の住人を倒すという事ができるのか。不確定要素が多々あるが、それもやってみるしかない。


「とりあえず、何か武器になるものを探そう」


 気持ちを切り替え、思考を吹っ切るように僕はそう口に出すと、彼女の車椅子を押す。


 現状、このマンションにある部屋は【LDK】【夏稀の部屋】【妹の部屋】【父親の部屋】【物置】の五部屋らしい。まあ、後は風呂とかトイレとかもあるそうだが、そこには石鹸やトイレットペーパーぐらいしかないだろう。


 さて、何処を探しに行くか。一部屋一部屋見て回ってもいいのだが、とりあえず彼女に何か思いつくモノがないか尋ねてみる。


「うーん、武器ですか? あるとしたら台所の包丁とかですか?」


 首を捻るように鎖を鳴らしながら、そう答えてくれる彼女。


「まあ、一番無難な武器と云えば、やっぱりそれだよね」


 彼女の言葉に頷き、僕は彼女の車椅子を押しながら、リビングへと向かう。

 いや、向かおうとして、全身の血の気が引く様な感覚を覚える。


 ──ッ!?

 そのまま、一瞬だけ目の前が真っ暗になり、思わず前に倒れこみそうになる。彼女の車椅子を掴み、何とか踏みとどまる。


「えっ? ど、どうしたんですか?」

 突然、押された感覚に彼女が戸惑い驚いたように尋ねてくる。


「い、いや、大丈夫。何でもないよ」

 くらくらする身体を無理やり叱咤する。そして心配そうな彼女に、僕は小さく首を振ると出来るだけ冷静な声で答える。だが、なんとなく身体に力が入らない感覚がする。

 長年、この夜の街を彷徨っていると覚えるこの感覚。


 もう、目覚める時間が近づいてくるのだろう。


 けれども、今目覚める訳にはいかないだろう。ふらつく身体で足を動かし、僕はリビングへと向かっていく。






 残された夢の時間は、もう少ない。




次回から探索開始です。

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