6、
この音楽は何だっただろうか。僕も子供の頃に聞いた事のがある。
確か魔法の国に迷い込んだ少女の不思議な出来事を歌ったものだった筈だ。その少女は奇妙で摩訶不思議な体験をした後に目が覚めると現実に戻っていた。
だが、彼女の場合はどうなのだろうか。
鎖に縛り付けられている彼女へと視線を戻す。物語の少女とは違い、両手足を縛り付けられ、冒涜的で狂気的な悪夢の世界へと迷い込んできてしまっている。そんな彼女の持っている兎のぬいぐるみが、この音楽を流すというのは随分と皮肉的だ。
それにしてもこのヌイグルミは随分と長く音楽を奏でているな。そう考えて耳を澄ますと、どうやら同じ部分を永遠とループして流しているようだ。
「……壊れてるのか?」
小さく首を傾げ、兎のぬいぐるみをひっくり返して触ってみる。お腹の部分にしこりがある。どうやら、此処を押す事で音楽が奏でる仕組みになっているのだろう。もう一度だけ、その部分を押してみる。
その瞬間、ぬるっとした嫌な感触が手を伝う。
「──、うわっ!?」
何事かとその手に視線を向けると、そこには粘度の高い血液のような赤黒い何かが手を伝っていた。思わず奇声をあげ、僕は兎のぬいぐるみをその場に落としてしまう。
べちゃっという音を立て、フローリングの床に兎が落ち、弾ける。
赤い液体が床にぶちまけられる。
兎が水風船のようにその場で弾けたのだ。
まるで最初から綿ではなく液体だけが入っていたかのように、中身が全て弾け飛び、その場に残るのは赤く染まった兎の皮と、赤黒い液体だけ。それがドロドロと蠢き、床に気味の悪い水たまりを作り出していた。
だというのに、兎のぬいぐるみは皮だけの姿になりながら、まだ歌を歌い続けている。
「ど、どうしたんですか?」
奇妙で摩訶不思議な状況に汚れた手を拭う事もせず固まる僕に、彼女がそう尋ねてくる。
「い、いや、兎のぬいぐるみが。」
これは何と答えるべきだろうか。弾け潰れた兎のぬいぐるみを前に、僕は適切な言葉が出てこずに口ごもってしまう。君のぬいぐるみは血をぶちまけて潰れたよとは、さすがに口が裂けても言えないだろう。
まるで悲劇的な惨殺が起きた後のような状態になっている兎に視線を向ける。
兎から流れてくる音は、水没した影響かくぐもった音に変わり、そしてノイズが多く走り出す。
「え、え? 何か起きてるんですか?」
気味の悪いノイズ音が多く鳴り始め、彼女も異変に気づいてしまう。そんな彼女に何か言わなければと口を開こうとした時、兎の歌がぶちっという何かを引き千切った様な音とともに唐突に止まった。
一瞬の静寂。
僕も彼女も、当然兎も何も喋る事ができず、不気味な静けさだけがその場に残る。
「な、なにが……」
静寂を破り、彼女が僅かに口を開いた瞬間、耳を劈く様な激音が響き渡る。
《きゃはああああああああああああああああああああああああ!》
それは電子音と人間の声、そして獣の咆哮を足したかのような気が狂うような絶叫。背筋を凍らせ、恐怖を直接植え付けるような狂気的な嗤い声だった。
思わずその五月蠅さに耳を塞ぎ、周囲を見渡す。しかし、誰もいないし、何も起きていない。いや、そんな筈はない。あれほどはっきりと聞こえた声が幻聴である筈はない。
改めて、部屋の至る所へと視線を向ける。
すると、動くモノを見つける。いや、でも、そんな筈は、ないだろ。
思わず頭を振るが、そこで動いているモノは変わらない。そんなバカな、赤黒い兎のぬいぐるみが動くなんて。
《やあやあやあやあやあやあ、やっと顔を出してくれたんだね。きゃはあああああ》
中身が爆ぜて無くなった兎のぬいぐるみは、皮だけになった小さな身体でゆっくりと立ち上がった。目から赤黒い液体を流し、小さな二本の足でしっかりと立ち上がり、此方を見上げる。そして、口を大きく歪めて嗤った。
体長は三十センチぐらいだろうか。僕の膝よりも低いその兎は、あの魔法の国に迷い込んだ少女の曲を口ずさみながら、べろりと捲れた身体を強引に繋ぎ合わせる様な仕草で、その身体を元に戻していく。
「だ、誰なの?」
耳にするのも抵抗がある狂ったかのような兎の不気味な歌声に、彼女は怯えた声を出す。その不安気な言葉を聴き、兎は嬉しそうに顔を釣り上げて笑う。嗤う。
《おいらが誰かだって。おいらはおいらだよ。夏稀ちゃん、君が名付けてくれたんだろ。夏稀ちゃん、おいらは君を待っていたんだ。夏稀ちゃん、ねえ、夏稀ちゃん、夏稀ちゃん夏稀ちゃん夏稀ちゃん夏稀ちゃん夏稀ちゃん夏稀ちゃん夏稀ちゃん夏稀ちゃん》
「ひっ……」
皮を全てつなぎ合わせた兎は、継ぎ接ぎだらけになった身体で彼女に狂った笑みを向け、壊れたように彼女の名を告げ続ける。その狂気的な発言に、彼女は身を竦めるような動きをするが、実際は鎖を僅かに鳴らすだけだった。
《ああ、あああああああああああ、可愛そうに。可愛そうに、夏稀ちゃん。君は錆び切った鎖で繋がれ、気持ちの悪い言葉に縛らた。ああ、可愛そうに。動くことすらできない最低なお人形の夏稀ちゃん。ああ、可愛そうに、可愛そうに、きゃはあああああ》
「だ、誰なんですか? そこに誰かいるんですか!?」
鎖を鳴らし、威嚇するかのように叫ぶ彼女。その彼女に、兎のぬいぐるみは目から、口からどろりと赤黒い液体を垂れ流しながら、それを気にせずに上機嫌に答える。
《だから、おいらはおいらだよ。君が名付けてくれたんだ。君が幼稚園の頃、近所のお祭りで、おいらが欲しいと泣いてくれただろ。その時から、おいら達はずっと一緒だった。そうだろ? そうさ。おいら達はずっと、ずうううううううううううううううううううううううううううううううううと一緒だったんだ》
壊れた人形のような動きで奇妙なダンスを踊りながら、朗々と歌うようにそう告げる兎のぬいぐるみ。そんなぬいぐるみの言葉に、彼女は驚いた様な声をあげる。
「え? ……、ミ、ミミちゃん、なの?」
《可愛そうな夏稀ちゃん。味方のいないこの街で心が磨り減り無くなるまで、この街で君は殺され続ける。無残に、悲惨に、惨めに、憐れに、凄惨に、絶望的に、狂気的に。ああ、可愛そうな夏稀ちゃん、あああ、可愛そうなお人形さん》
「何を言ってるの、ミミちゃん!? 一体何が起きてるの!? ねえ、私を助けてくれた人はどこ!?」
叫ぶように兎のぬいぐるみに話しかける彼女。そんな彼女の言葉に、兎は首を振り子のように左右に傾げながら答える。
《何が起きているか、それは君が一番知っているだろう。夏稀ちゃん。でも、君が一番知らないんだよね、夏稀ちゃん。君は一番の被害者であり、加害者であり、共犯者であり、傍観者であり、第三者なんだから。ねえ。ねえねえねえねえねえねえねえねえねえ、そうだよねえ、そこのお兄さん》
「……っ」
いきなり話しかけられ、僕は言葉を詰まらせる。
唐突に始まった状況に、唯々呆気にとられ、先程までから今までずっと傍観する事しかできなかった。
正直、理解が追いつかない。
此処は既に僕の知っている夜の街ではない。狂気的な言葉を呟き、狂笑を叫ぶ生物はいても、この兎のように知性を持って喋りかけてくるモノはいなかった。
言いようのない恐怖が心を支配する。だが、それでも僅かな期待も胸に浮かんでくる。
こいつは何を知っているのだろうか。
もしかしたら、何か情報を知っているのかもしれない。
彼女の現状を打破する方法を。この夜の街についてを。夜の住人についてを。僅かな可能性に賭け、僕はこの小さな狂った兎に話しかける。
「君は、彼女について何か知っているのかい? 知っていたら教えてほしい」
出来るだけ落ち着いて出来る限り丁寧に尋ねる。その言葉に兎は何が琴線に触れたのか、大げさに大声で嗤いその場を転げまわる。
《きゃはあああああ! 積極的だねお兄さん! もちろん知ってる! 知ってるともさ! 何が知りたい!? 子供の頃の夢? 友達の数? 家族との会話? 男性経験の有無? 学校での出来事? それとも、パンツの色かしら?》
「ちょ、ちょっと!? 何言っているのミミちゃん!?」
煽る様に嗤いかけてくる兎に、彼女は唇を震わせてそう抗議する。
「いやいやいやいや、そうじゃないって。僕が知りたいのは、なぜ彼女がこの夜の街にいるのか。どうすれば、彼女の鎖は外れるのか、だって」
僕も思わず大きく首を振り、兎に向かってそう質問を投げつける。すると、兎はぴたりと嗤い転げていた身体を止め、赤く潤んだ瞳で僕を見上げる。
《どうしてここに? ねえ、お兄さん知らないの? この年頃の女の子は現実という敵から殴り尽くされ、死という言葉に安堵を感じ、空想という穴に落っこちて、不思議な国へとやってくるものだよ? それが普通。何の不備もない思春期な少女の在り方なのよ》
「いや、そういう話をしているのでは」
いきなりよく分らない話を始める兎に、僕は小さく首を振る。そんな僕に兎はニヤリと口を歪めて嗤う。
《いえ、いえいえいえいえいえいえいえ、そういう話。ねえ、夏稀ちゃん。そうよね、夏稀ちゃん。この年頃の女の子はいつも自分に鍵をかける。傷つかないように鍵をかけ、傷ついた心に鍵をかけ、言えない本音に鍵をかけ、嘯いた建前にも鍵をかける。そして、ほら、これがその鍵。うげえええええええええええええ》
そう言って兎のぬいぐるみは、口の中に手を突っ込むと、苦しそうな呻き声をあげる。そして、しばらく喉の奥でごそごそとした後に、勢いよく手を引き抜く。その手には、銀色に光る大きな鍵が握られていた。
「なっ、え?」
「ど、どうしたんですか!?」
いきなりの出来事に驚き、そう声を出す事しかできない僕。その僕の声に驚く彼女。そんな僕たちを置いて、赤黒く染まった兎のぬいぐるみは高々と喉の奥から取り出した銀色の鍵を僕へと見せつける。
《どうだいどうだい、綺麗だろ。夏稀ちゃんの鍵なんだ》
「──っ! それ、もしかして」
彼女の鍵。その言葉に、一つの可能性を思いつく。そして、彼女の鎖を強固にとめている大きな南京錠へと視線を向ける。もし、この鍵が、彼女の南京錠の鍵なら。
「その鍵を《おっと、時間だ。残念無念もう時間。楽しい時間はすぐに過ぎ、残ったのは別れの挨拶。まだまだ語る気持ちは強くも、ぐっと堪えておいらは行くんだ。ばいばい、さよなら、また会う日まで。兎は慌てて走るもの》おい、兎!」
鍵を渡してくれと頼む言葉を遮り、そう兎は言うと壁に掛けられている時計に目をやりそう言って何処かへと走って逃げ出そうとする。
だが、逃がす訳にはいかない。
小走りで駆けて行こうとする兎に、僕は手を伸ばすが、ひょいっとその手を避けると《ああ、遅刻だ遅刻》と歌いながら、部屋の廊下の方へと走っている。
「ちょっと、待て兎!」
慌てて立ち上がり、僕は兎が走る後を追おうとする。すると、兎は一瞬だけ振り返り、にやりと笑うと、リビングから一番近い部屋の扉に、まるで溶け込むかのように吸い込まれていった。
其処に残されたのは、部屋の扉だけ。
「おい、待て!」
急いでその扉に入ろうとした時、その扉に掲げられている表札が目に入る。
そこには、僕でも読める字でこう書かれてあった。
──【ナツキのヘヤ】、と。