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5、




 蜘蛛の巣。部屋に入った途端、まず、それが目についた。

まるで別の世界に変わったかの様に、鳴り響いていたマンションの悲鳴がぴたりと止まる。代わりに訪れたのは耳が痛い程の静寂。照明は豆電球というのか、玄関が赤々と色付き、すんと漂うのは黴のような臭いだ。


 玄関に置かれているのは適度に揃えられた運動靴や革靴。それに長年使い込まれた形跡のある一輪車に玄関マット。更には下駄箱の上には萎れて枯れた花も添えられている。

 扉の中は想像していたよりも違和感の少なく、一部を除きごく普通と言ってもいい玄関であった。少なくとも扉を開けた瞬間に夜の住人が襲いかかってくるという最悪の想像は外れてくれたらしい。



 だが、そんな普通の玄関に覆い被さる非日常が嫌という程に主張をしてくる。

 蜘蛛の巣だ。



 それもただの蜘蛛の巣ではない。血の様に赤く染まった気持ちの悪い蜘蛛の巣が何重にも織られ、玄関にある全ての物に覆い被さっている。それはまるで陳腐なホラーハウスの様な飾りつけであった。

 ふと、彼女に視線を向ける。突然鳴り止んだマンションの地鳴りに疑問を抱き、彼女は怯えた様に顎を引き、丸まるように身体を縮まらせていた。


 少し中の様子も確認するか。

 状況を確認した後、僕はそう考え、躊躇しながらも赤黒い蜘蛛の巣を指で触ってみた。粘り気は強いが、ただの蜘蛛の糸と変わらない。それにこの糸を出した蜘蛛がやってくる訳でもなさそうだ。

 一先ず、問題はなさそうだ。そう判断した僕は、部屋の中へと入る為に、一歩前に進む。



「お邪魔します」



 まるでこの部屋の持ち主であるかと主張する程に存在する蜘蛛の巣。気持ちの悪く粘つくそれを手で払い抜け、何となく小声でそう断りを入れてから、土足で玄関を上がる。


「お、お邪魔します」


僕の言葉を聞いたからだろうか、彼女も少し戸惑った声でそう呟く。そんな彼女に、僕は小さく苦笑を浮かべながら、ゆっくりと慎重に部屋の奥へと足を進める。


警戒しながら入った部屋は、そこも一部を除けば普通の部屋だった。


散らかった机の上。室内に干された洗濯物。可愛らしいヌイグルミ。大き目の掛け時計。少し前までこの場所で人が生活をしていたと言われれば信じてしまえる程の生活感が溢れた部屋の中。

けれども、その部屋を真っ赤で分厚い蜘蛛の巣が覆い被さり、血が滴り落ちるかのような気味の悪い空間を作り上げていた。



ああ、なんて気持ちの悪い空間だ。



現実離れした異様な光景に、思わず僕は息を呑む。

心を蝕み、人を冒涜する為だけに存在するかのような部屋に、僕の頭の中のスケッチは止まらなくなる。良い。是は良い。素晴らしい世界だ。


何と言っても、是までの夜の街に殆ど存在しなかった人間味。人間が生活していた様子が、しっかりと残されている。



 だが、血が滴るような紅い蜘蛛の巣がそれら全てを凄惨な世界へと作り替えている。

 まるで、この部屋の住人が惨殺されたかのように。けれども、生温い殺人現場等とは根本的に異なる此の風景。


欲を言えば、ここに夜の住人が存在していれば、それはそれは冒涜的で狂気的な世界が、構図が出来上がっていただろう。そうだな、この場所にいて最も栄える夜の住人は、諦観する狂人とか、蜘蛛の巣だから孤立す──、



「あ、あの、ここは何処ですか?」

「えっ、あ、此処かい?」



 違う思考に捕らわれてしまっていた僕を、彼女の言葉が正気に戻す。思わずしどろもどろな返事をしながら、頭の中で開いていた夜の住人の図鑑を直ぐに閉じる。

何を考えていたんだろうか。今は、夜の住人についてなど考えている暇はないだろうに。


誤魔化すように一度咳払いをすると、彼女の問いに答える。


「うん、多分、何処かの誰かの家の中、かな。蜘蛛の巣が凄いけど、化け物はいないね」


 周囲を見渡すと直接的に危害を加えてきそうなものは何もない。部屋の中はただ静かに時計の針の音だけが、響いているだけだ。彼女もどうやら安全な場所に漸くやって来られた事を理解し、安堵の息を吐き出す。


「よ、良かった。良かったです」



 泣きそうな声で僅かに身動ぎする少女。そんな彼女の姿に、思わず僕は小さく笑みを浮かべる。彼女自身、僕以上に訳の分からない状態でこの夜の街に放り出されたのだ、彼女の心を縛り上げていた恐怖は計り知れないモノなのだろう。

だからこそ、ようやく訪れた急速にまた涙腺が緩んでしまったのだろう。



「これで、ちょっと落ち着けるね」



蜘蛛の巣が張られた少し高級そうなソファーに、そのまま腰を下ろし僕は呟くようにそう彼女に言った。そして、僕自身も安堵のため息を大きく吐き出し、ゆっくりと背をソファーに預ける。

思えば、この夢を見始めてどれ位経っただろうか。

 声多き少数派、街を監視する目。彼らから、夜の街から逃げ続け、僕の体力と精神力はがりがりと削れ続けていた。


 感覚的には、もう少しで夢から覚めそうなのだけど。

もう一度長く息を吐き出す。背中を預けたソファーは柔らかく、夢の中にいるにも関わらず、気を抜けば眠ってしまいそうになる。もう一度立ち上がる気力も起きない程に──、



その時、何処からか音が鳴る。

電子音。


安心しきっていた身体が、弾かれたように飛び上がる。慌てて音が鳴る方へと視線を向けると、四時を指している時計が音楽を鳴らしていた。時計の下に備え付けられた男と女の人形がクルクルと踊りながら、何処かの民謡を奏でている。


「……時計の音」


 身体を跳ね起こして反応する僕に、少しだけ驚いた様な声で彼女がそう呟く。取り乱していない彼女を見て、僕は何となく恥ずかしくなる。



「いや、すまないね。ちょっと警戒のし過ぎかな」

「えっ、いや、そんなことは」


がりがりと頭を掻きながら呟く僕に、彼女は慌てて首を振るようにそう答える。


「まあ、丁度休憩も出来そうだし、ここらで情報交換でもしようか」

とりあえず、先程の出来事で眠気も吹っ飛んでしまった。まだ僅かに強い鼓動を訴えかけてくる心臓を落ち着かしながら、僕は彼女にそう提案する。


「情報交換ですか?」


僅かに首を傾げるような仕草をしようとする彼女。そんな彼女に、僕は頷いた。


「そう。まだ僕たちは名前も知らないし。それに、君の話も聞きたいしね」


 その言葉に彼女も納得してくれたのか、縛られた身体でうんうんと微妙に頷いてくれる。


「そ、それもそうですね。あの私の名前は、紙原 夏稀といいます」



鎖で縛られながらもぺこりと頭を下げるような動作を行う彼女。だが、実際は僅かに首が動くだけだったようだ。代わりにギシリと錆びた鎖がこすれる音が響く。

 そんな彼女の自己紹介を纏めると、こうであった。


名前は紙原 夏稀。中学二年生との事だ。


 両親と双子の妹との四人暮らし。僕が住んでいるこの街とは、大きく離れた県のマンションに住んでいる。更にはこの夢を見る前は、結構有名な進学校に通っていたそうだが、その辺りの記憶は何故かあやふやになっているとの事だった。


 更には、僕の住んでいる街には足を踏み入れた事は一度もないらしい。

 趣味はテニス。部活もテニス部に入っており、そこそこ良い成績を残している様だ。話を聞く限り品行方正、文武両道といった文句の付けどころがない中学生だったようだ。



 だからこそ、なんでこんな夜の街に身体を縛られてやってきているのかも、全くわかっていないようであった。

それどころか身体を鎖で縛られている事すらも理解しておらず、その事について彼女に尋ねると、「えっ、鎖って何ですか?」と素っ頓狂な声を上げていた。


現状、どうやら彼女が理解しているのは、自身の生い立ちと、身体が痛いほど締め付けられ殆ど身体を動かせない事と、視覚が塞がっている事だけだった。



 何も分からないというのが、現状。いや、それが分かっただけでも進歩なのか。


 分かったのは、まあこんな所だろうか。



 少しだけ予想をしていたが、特に変わった所の無い自己紹介。こんな悪夢を見始めた理由は分らず、身体の鎖を解く方法も浮かばなかった。

 

 鎖をどうにかする為に、鎖を引き千切る事も考えたが、それで分かったのは鎖が異常に硬い事と僕が非力であるという事実だけ。これなら車椅子の方を切断した方が早そうだが、そんな道具も何処にもない。鎖をつないでいる南京錠を引き千切る事もできやしない。



 手元にあった兎のぬいぐるみを手元で弄りつつ、僕は考える。彼女の現状打破の観点からいうと、現状手詰まり感が拭いきれない。

 何が起きたのか。どうなっているのか。これからどうすればいいのか。その全てが欠片も分らないという状況は軽く詰んでしまっているだろう。せめて、彼女の南京錠の鍵がその辺に落ちていれば、何とかなるかもしれないが。



「──、あの」



 自己紹介を聞き終え、兎のぬいぐるみ片手に考え込む僕に、彼女が声をかけてくる。


「ん、どうかした?」


 首を傾げる僕に、彼女は小さく笑いながら、尋ねてくる。


「貴方のお名前を聞かせて貰ってもいいですか?」

「ああ、ごめん。情報交換の途中だったよね」



 少しだけすねたように唇を柔らかく曲げそう尋ねてくる彼女に、自己紹介の途中で思考が逸れていた事を思い出す。どうにも僕は考え事を始めると、周りが見えなくなってしまう体質のようだ。

 一度だけ誤魔化すように咳払いをし、改めて彼女に向かって改めて自己紹介を始める。


「えっと、僕の名前は──、ッ」

 そう答えようとした瞬間、電子音が響く。しかし、それは先程の時計よりは小さな電子音。子供が喜ぶような有名な童謡を奏でる電子音であった。



 驚きよりも先に、その音の出所を探そうとして、すぐに見つける。僕の手の中にあった兎のぬいぐるみだ。

 兎のぬいぐるみのお腹の中から、音楽が響いているのだ。



「おっと、このぬいぐるみか」

「……、ミミちゃん?」



 僕がそう呟くのと、彼女がそう呟いたのはほぼ同時だった。言葉の意味が分からずに首を傾げる僕に、彼女は驚いたような口調で答える。


「ミミちゃん。ミミちゃんです。私が持ってた兎のぬいぐるみなんです。お腹を押すと、この音楽が流れて」



 ぬいぐるみの音楽を聴きながら、そう説明をしてくれる彼女。この家に置いている物と偶然同じ物を持っていたのだろうか。ふとそんな風に考える僕に、彼女はぶつぶつと小さく呟くように考えながら、首を振る。


「いえ、それにさっきの時計の音。ここってマンションの八階なんですよね」

「そうだけど、それ「だったら、そこのリビングのテレビの上の壁、そこに絵が飾ってませんか!?」」



 答えるよりも先に彼女が、興奮した様子で尋ねてくる。

 その勢いに押され、僕は近くにあるテレビの上へと視線を向けてみる。すると、そこには確かに林檎の絵が飾られているのを見つけた。


「ああ、あるよ。お皿に盛り付けられた林檎の絵だね」

「──、やっぱり」



 何が言いたいのか分らない僕に、彼女は小さく頷くとこうはっきり言った。



「分りました。ここ、私の家です」


 彼女の声が響く。


「え?」


 彼女のその唐突な言葉に、僕はまるで迷路にでも迷い込んだかのような倒錯感を覚えた。

 まるで虚ろな夢物語が急に現実味を帯びたかのような、強い違和感。そして、理解ししまう。導かれるようにやってきたこの場所の意味を。

 夢が現実に干渉するだけでなく、現実が夢に干渉し始めているのだろうか。僕の頭では、何がどうなっているのか分らない。


 唇を震わせる彼女から視線を兎のぬいぐるみへと移す。




 兎のぬいぐるみはまだ歌を歌っていた。





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