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2、





息が詰まる。


夢か現か。ぼんやりと存在する世界の中。


喉に物が詰まった様な息苦しさだけを、感じる。

手足を動かそうにも、まるで水中に沈められたかのように身体は重くて鈍い。息を吸おうにも肺は空気を入れる事なく、吐き出すことすらままならない。

鈍い締め付けられる様な痛みが身体中を駆け巡り、もがき苦しむ身体を蝕んでいく。


ここは、どこだ。苦しい。痛い。



目を開けようにも、ぼんやりとした暗闇だけが映されており、目の焦点が定まらない。何かを考えようにも、ただただ苦しさと痛みだけが脳内を支配していく。


助けてくれ。誰か、ここから、此処から出してくれ。

鉛の様に重くなった身体を無理やり動かし、身体に空気を入れようと苦しみ続ける。動けない。辛い。助けてくれ。助けてくれ。助けてくれっ!


かはっと喉に詰まっていた空気が、外へと漏れ出た。同時に身体が、バネの様に身体が跳ね起きる。空っぽの肺を湿った埃っぽい空気で身体を満たし、荒い息のまま、慌てて周囲へと視線を向けた。




暗室用のカーテンで締め切られた、薄汚れた四畳半のアトリエの中。


此処は絵具の匂いが充満する僕の部屋の中であった。

数秒の空白の後、肺の中に溜まっていた気持ちの悪い空気を限界までゆっくりと吐き出す。目に映った情景と額から頬へと伝う汗で、ようやく目が覚めた事を確認できた。


最悪の目覚め。いつもの目覚めだ。いや、今日はいつもよりも酷いか。


身体の節々に痛みが走る。四肢は氷に漬けたかの様に冷えているにも関わらず、頭だけは火で炙られたかのように熱を持っている。

肉体の状態が最悪である事を改めて確認し、一度だけ頭を振り、粘つくような眠気とダルさを振り払う。そして、引き摺る様に身体を動かし始める。もはや、身体は何かを思考する前に、その慣れ親しんだ準備を行っていた。


これから行うのは毎朝続けている僕の日課。目覚める前の儀式と云っても過言ではないモノだ。

黒の絵具。まだ覚醒しきっていない頭で、枕元に用意してあったそれを容器に吐き出し、そこに大きめの筆を沈める。


染み入る黒をただ見つめながら、もう一度だけ大きく深呼吸。


──、そして、一閃。 一閃。また、一閃。


堰を切ったように、白いキャンパスへと筆を叩きつける。

右へ左へ、上下左右。ただただ黒を塗りつける。白に塗りたくる。あの夢の中にこびりつく煮詰まった闇を、白の世界へとぶつけていく。


まだ夢と現が曖昧な脳内。夢として忘れそうになるこの記憶を、外へと吐き出していく。

これが、朝一番にする僕の日課。鮮明に記憶に残っている状態をキャンパスへと書き出す。スケッチをとるのだ。


だから、想い出す。思い出せ。自分へと命じる。

この世の物とは思えない冒涜的なあの構図を、吐き気のするあの映像を、精神を破壊するあの匂いを、背筋が凍りつくあの表情を、奇妙で奇怪なその全てを。夢から覚め、現へ向かう世界の中で、僕はキャンパスへと描き殴る。



既に見える世界は黒い筆と、キャンパスだけとなり、僕という存在さえ闇の中へと溶け消える。


ああ、描こう。さあ、描こう。気味の悪い彼らを。描き殴ろう。


夢の世界が脳裏を埋める。そこには恐怖や不安などの感情はなく、ただただあの夜の街が頭の中に広がり続ける。見るものを拒むような闇の街が。身体を締め付け、気味悪く嘲笑うあの表情が。そして──、

そして、ふと手が止まる。──、思い出した。あの少女だ。



休まずに動き続けていた手が止まってしまう。


黒く歪んだ世界の中に、僅かばかりの灯りが奔る。

想い出した。不条理な世界の中で、闇を照らしながら現れたあの不可解な存在を。身体を締め付けられ、喋る事すらままならなかった彼女の姿を。異様な姿であるにも関わらず、美しく感じたあの少女を。


彼女は、一体何なんだ。


思考がずれる。止まってしまった筆は黒いキャンパスへ向かう事もなく、ふと暫く触ってもいなかった白い絵具が目に入る。それを見つめながら、ただただあの少女を想いかえす。

夜の街の住人、ではないだろう。あの姿は見た目こそ狂気的であったが、住人達とは根本的に違う存在だった。だが、ただの少女ではない筈だ。


あの世界は夢ではあるが、ただの夢ではない。少なくとも、僕はそう確信している。


何年もの間、眠りにつく度に、招かれるあの狂った夢の街。

現実と夢と狂気と絶望。それらを混ぜて造り上げた異質な夢の世界。それが唯の夢である筈がなく、同時にそこに唯の少女が存在するなど有り得る筈がない。

もう一度思い返す、彼女の姿を。鎖で縛られ身動きを封じられた肉体。誰にも押されていない車椅子が独りでに、彼女を夜の街へと連れ出していた。


思考する。思案をし続ける。しかし、答えなど出るはずもない。


無意味な思考は深みに嵌り、黒い絵具が畳へと滴り落ちることなど気にも留めず、僕は夢の中の出来事を想いかえす。

車椅子で現れた彼女に、僕は声を掛けた。そして、彼女は答え、そして、



そして、そして、


そして、





ぞわりと背筋が凍る。嫌な汗が再び頬を伝い、握った筆が急に重くなるのを感じる。そうだ。思い出した。赤く肉片に変わった彼女を。


彼女は、あの時、潰された。


まるで西瓜でも叩き割るかのように、中身が弾け、残骸すら殆ど残さずに、潰されたのだ。

 思い出す、はっきりと。あの強い現実感。血しぶきがアスファルトを濡らし、彼女の肉片が周囲を赤く彩る。その一部始終が、まるで目の前でもう一度起こったかのように、フラッシュバックする。

それだけではない。彼女を潰した後、あの赤く滴った拳で僕も──、



恐怖。吐き気。痛み。身体を突き抜けるように、負の感情が爆発する。 

気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。


堪えられない程の吐き気が、全身を駆け巡り僕は慌てて洗面所へと走る。


思い出すのは、眼前に迫る拳。そして、腕を振り下ろす夜の住人。

 思い出してしまう。僕へと拳を振り上げた夜の住人の表情を。彼は一切の感情を持たず、ただ邪魔な虫を潰すかのように、僕を殺した。僕は、殺された。殺された。殺された。殺された。


胃の中を全て吐き出し、胃液すら出なくなった頃にようやく吐き気が収まる。動転し続けていた精神を、大きく息を吐くことで僅かばかり落ち着かせ、僕は洗面台へと向かった。

頭から冷水を被り、少しだけ意識をすっきりとさせた僕は、鏡へと視線を移す。



すると、そこには青い顔をした自分の姿が映っていた。


「……おい、嘘だろ」


 ただ、それは比喩としての青い顔ではない。



 まるで巨大な何かに殴られたかのように腫れ上がり、顔の半分が内出血で青く染まっている。

鏡に映る自身の姿に、僕は乾いた声を漏らすことしか出来ない。

昨日の夜にはこんな事はなかった。朝目覚めた時も、何かにぶつけた記憶がない。心当たりがあるとすれば、あの夢の街での最期の出来事。


「いやいや、それは有り得ない……だろ」


 思考を吐き出した言葉で打ち切る。夢の世界が現実に、干渉する。そんな現実離れした現実。

まだ夢の続きにいるかのような出来事。理解は追いつく筈もなく、もはや乾いた笑いすら喉から漏れ出てくる。


その声は歪にゆがみ、引きつる表情を浮かべる僕自身と目が合う。其の顔はまるで他人に見える程に腫れ、顔色は蒼白に染まっている。


だけど、一瞬だけ。



本当に一瞬だけ、鏡の中の自分は異様な笑みを浮かべたように見えた。


何か、今までとは違う何かが起きている。


夢と現と、絶望と。全てが混ざった世界が一歩僕に近づいてくるのを感じた。






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