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1、




 夜の街を、夢でみる。

 烏の濡羽に覆われた夜空は、ただただ重く暗く、街へと圧し掛かる。此処は僅かばかりの月明かりでさえ降り注ぐ事の無い、深い深い闇の中。それは何処までも、何処までも永遠と続く暗さが居座る、不思議で不気味な夢の街。

 一寸先すらも見えない程に濃密で真っ暗な悪夢の中。僕はいつも赤く錆付いた懐中電灯を握り締めながら、街の中を歩き続けていた。

心許ないその手元の明かりは、薄ぼんやりとだけ街道を照らし、黒く染まった街中に僅かばかりの色を燈しながら、ゆらりゆらりと揺れている。


──、なんと気持ちの悪い街だろう。


 赤黒く燻んだアスファルトに、けたけたと嘲笑う木々の騒めき。曇天の様に湿った生温い風は、まるで細く濡れた指先の様に、僕の頬を撫で通っていく。


 ──、此処は一体、何処なのだろうか。


明かりも燈らず、人間が何処かへと消えた住宅街。暗く見下ろすだけの無灯の街灯。僕が子供の頃から住み慣れている街並みに酷似しているにも関わらず、根本的に何かが違う。酷く恐ろしい何かを固めて創ったような異形で異様な街並み。


──、どれ程この悪夢に魘され続けているだろうか。


夢にも関わらず、五感全てを強烈に襲う悍ましい現実感。不気味な何かに呑み込まれる恐怖。粘ついた汗と、壊れる程に脈動する心臓で目覚める朝は、もう何年も続いている。

 何度も考える。此処は、一体何処なのだろう、と。いや、そもそも此処は一体何なのだろうか。どれだけ思考したとしても、答えはこの闇の様に浮かび上がる事はない。

 けれども、それでも一つだけ言える事がある。

 この夢は僕の物ではない。この暗闇に覆われた夜の街は、彼ら夜の住人のモノ。


ほら、揺らした懐中電灯の先に、彼らが映る。


爛々と輝かせている瞳は赤く狂気を映し、人のモノではない手足は闇よりも暗く、滲んだ絵具の様に身体と闇の境界を持っていない。そして、冒涜的で狂気的な不気味な身体を、彼らはうねらせ、引き摺り歩く。

辛うじて人の何かを模したのだろうと判断できる形の彼らは、にたにたと底冷えする様な笑みを浮かべ、何かを求めるように人間が消えた夜の街を徘徊し続けている。


 ひたひた、ひたひた、と。


幸いなのは、彼らが僕に興味を持たない事だろう。何年も魘される夢の中で、僕は彼らに襲われた事は一度も無い。それどころか、僕の方へ視線を向ける事もなく、ただ懐中電灯の光を嫌そうに見つめるだけ。

だからこそ、僕は落ち着いて彼らを観察する事が出来ていた。

今、おぼろげな光に照らされているのは、左手が捩れ折れている夜の住人だ。

右手は細く長く伸び、自身の胴をぐるぐると巻きつけている。両目からは赤黒い涙を流し、口だけは歪な笑みを浮かべ続ける。そして、曲がった左腕で何かを招くように動かしながら、震える様に徘徊を続けている。


孤独な男、と僕は名づけている。


この夜の街では、目にする事が多い住人。電信柱よりも背が高いモノや、子供の様に低いモノなど個体差は様々だが、其の全てが何かしらで自身を縛りつけ、目で泣き、口で笑っている。

目の前に現れたのは四メートル程だろう。其の巨体は圧倒的で威圧感があるにも関わらず、今にも消えてしまいそうな程に希薄な印象さえも受ける。

暗闇へと溶け込みそうな其の姿を、僕は懐中電灯の光を当てながら繁々と観察する。身体の造りや、動かし方など彼が何処かへと消えてしまう前に、しっかりと頭のノートに書き留めていく。

身体や表情だけではない。暗闇を歩く構図や、其の個体が持つ独特の気味悪さ、悪意を煮詰めた其の色。それら全てを、頭の中で咀嚼し、しっかりと記憶する。



それは、彼らを描く為。

眺め続けていれば気が狂いそうになる其の正気ではない姿を、ぞくりと背筋から何かが零れ落ちる感覚を感じながらも、ただ無心に僕は其の姿を見続ける。


全ては、描く為に。

 一度、絶望し、全てを諦め捨てたあの世界にまた戻る為。誰にも求められず、消えていった僕という存在を、もう一度だけでも蘇らす為。

其の為だけに、夜の街を僕は歩く。

其の為だけに、彼らの姿をキャンバスへと描き殴り続ける。

ああ、そうだ。其の不気味さを絵に込めよう。気持ち悪さをしたためよう。だから、

 だから、其の為だけに僕は毎日キャンバスに吐き気を催す暗黒を塗りつけ、叩きつける。


 僕と云う存在の為に、

 其の為だけに、描く。街を、夜を、彼らを、描く、描く描く。描く、狂ったように描き続ける。ああ、描こう。ああ、嗚呼ア描く。描く。描いて、描いて、描いて、


どれ程に時間が経っただろうか。長年の感覚からそろそろ目が覚めるのではないかという所で、僕はふと違和感を感じた。

是は何の違和感なんだろうか。

違和感の正体に、最初は気付くことすら出来なかった。だが、それでも強烈に訴えかけてくるこの違和感。異常な程に異質な此の世界で感じる異質感。

ぞわりと背中が逆立つようなその感覚に釣られ、僕は周囲を見渡す。

空は相変わらず黒く染まり、コンクリートの壁やアスファルトの地面は血の絵具をぶちまけたかのように赤黒く染まっている。遠くへと視線を向ければ、黒く爛れた脂肪だけを集め固めた様な身体を引き摺る様に歩く異形な姿の夜の住人が歩いている。

何処も問題のない何時も通りの異常な光景。違和感があるとすれば、いつもより彼らの姿が見えやすいぐらいであり──、その瞬間、弾かれたように僕は空を見上げ、そして愕然となる。



僅かだが、明るい。


眩しい。


思わず思考が止まり、その状況に呆然と見つめてしまう。


降り注ぐように、灯りが、街灯から光が漏れていた。

今まで其処にあるだけで、意味など存在していなかった街灯から光が漏れているのだ。その光は通常の街灯より弱々しく、空から零れ落ちる様な月明り程ではない。この街から夜を祓う程の輝きでもない。

けれども、それでも懐中電灯の様な小さな灯りよりは、確かな灯りがそこにはあった。

何故と考えるよりも前に、綺麗だ、と思ってしまった。


目を奪われるとは、この事を云うのだろう。

どれ程感動的な映画を見た時よりも、どれ程気味の悪い住人を見た時よりも、強烈に揺さぶられる感情。冷え切った身体を温めるような安堵や安心感に似ていて、けれどもそんな生温さとは次元が違う煮え滾るような感情。


そう。これは、渇望。どす黒く燃えるような渇望だ。


まるで砂漠を彷徨い続ける遭難者が強烈に水を求めるのに似た、心の底からぐつぐつと滲み続けるような感情。街の何処にも存在しない純粋で美しい光。ああ、欲しい。純粋にそう思う。欲しい。是が欲しい。欲しい、欲しい欲しい。欲シい。欲シイ。あああああああああああああああああっ。

思考が全て埋め尽くされる程の衝撃。自分自身でも信じられない心への衝撃。筆舌に尽くし難いほどのただただ強烈な衝撃が僕を襲う。


それ故に、何かが近づいてくるのに僕は気付くのが遅れる。


からから、からから。いつの間にか、何かが転がる音が何処からか聞こえ始めていた。

僕がそれに気づいた時には、それは僕に近づいてきていた。

錆びて歪んだ自転車を無理やり動かすかのような軋んだ音。錆びた歯車が空回りする音。それらの耳障りの悪い音が、それでも規則正しく転がるからからという音が、此方へと近づいてきていた。


 一体何の音だ。懐中電灯を音の方へ向け、目を凝らす。

懐中電灯の灯りが暗闇の先を照らし、僅かばかり視界を広げる。

灯りを燈す街灯は僕の頭上以外も幾つか存在していたが、その間隔は遠く少し先の暗闇までは消える事がなかった。それでも四つか五つ程は街灯に火は灯っている。

音の主はすぐに姿を現した。暗闇に向けた灯りに照らされ、現れた。


錆びた車椅子。


廃棄された長年雨風に曝されたように錆びれきり、シートも剥がれてしまっている程のみすぼらしい壊れた車椅子。そして、粗大ゴミの様な車椅子の上に、乗せられていたのは、一人の美しい少女。

綺麗な輝きを放つ少女だ。一目見ただけでも分かる。夜の住人とは圧倒的に違う彼女。

まず目に付いたのは、闇に染まる事もない白いワンピースと綺麗な肌。そして、それ以上に目立つ彼女の柔肌を容赦なく締め付け、縛り付けている赤く錆びた鉄の鎖。


そう。あれは、鎖だ。


まるで、彼女の全てを奪うかのように付けられた鎖は、白い肌を容赦なく穢し、薄赤く染めていく。その鎖は足元から彼女の顔にまでおよび、身体を僅かにでも動かす事が出来ない程に幾重にも巻き付けられている。


特に酷いのは、彼女の目。


目の上にはひと際太く、そして錆び切った鎖が執拗にも回され、決して取れぬように南京錠が幾つも嵌められていた。鎖で覆い尽くされたその頭は、彼女の表情さえ殆ど隠してしまっている。

 そして、僅かに表面に出ている唇は、まるで耐えるように強く噛みしめられていた。


 異様な姿。異常な姿。

 だが、美しい。それは、思わず感嘆のため息が零れ落ちそうになる程に。


 街灯からの光を浴びる縛り付けられた彼女の姿に、僕は何よりもまず芸術性を見出していた。

悪意を固めた世界の中で、黒に染まらずに存在する彼女の美しさ。異常の中に存在する異常。正常ではない世界に持ち込まれた正常さ。それは、どんな芸術よりも美しく歪であり、そして尊さすら感じる芸術の極みの一端。そう言わざる負えない程の美しさが、そこにはあった。


「君、は?」


彼女へと駆け寄りたくなる衝動を必死に抑え、僕はただそう尋ねる。全てを鎖で封じられ、視界さえ存在しない彼女。だが、彼女は僕のその言葉にピクリと身動ぎを見せた。

聞こえている。僕の声が、彼女には聞こえている。


ごくり、と喉がなる。


一体どうなっているのか、僕には分らない。もはや、夜の住人の観察など頭にはなく、ただ彼女を知りたいという気持ちだけが強く心の中に燈り始める。


「き、君は、誰だい?」


 痛い程に鼓動する心臓を宥め、僕はもう一度彼女に声をかける。


「誰か、いるんですか?」


 噛みしめられていた唇から、くぐもった声が漏れ出る。その声は弱々しく衰弱しており、僕には助けを求めるように聞こえた。

だから、僕は彼女に答える様に頷き、叫ぶ。


「い、いるよ。僕は此処に──っ!?」


 その瞬間に、世界は途切れた。彼女が掻き消え、夜の街は闇に染まる。

スイッチを切ったかのように、静寂と暗闇が周囲を包み込む。

目に映ったのは、夜の住人だった。

住人が腕を振り上げ、彼女に向かって振り下ろす。たった、それだけで彼女はトマトを潰したように、ひしゃげ潰れてしまう。


え?


声すら喉の奥でしぼみ、今の出来事を理解しきれない。そんな僕に構う事無く、街灯は消え、再び何事も無かったかのように、この街に闇が訪れる。

手元の懐中電灯が照らす、その場所には無残に拉げた車椅子と、赤く染まったアスファルト。


ああ、アアあぁああアア嗚呼ああぁぁぁああっ!


何が起きたのか、頭が理解しきれない。ただただ、その場に立ち尽くす事しかできない。

彼女を潰した住人はにやついた笑みを浮かべ、ゆっくりと僕へと近づいてくる。


「あ、……あああ」


 分らない。理解できない。どうなっているんだ。

予定外。予想外。理解の範疇を超えた出来事に、僕はただ口から呻き声のようなモノを漏らす事しかできない。だってそうだろ。こいつ等は僕のことなんか、見ていない。この異様な世界で、僕等は安全に行動できる。ずっとそうだったじゃないか。どウシテ、オカシ。何カガオカシイ。ナニカガ、クズレタ。コノセカイノ、ナニカガ──、


何も分からず、崩れ落ちる僕に、夜の住人はにちゃりとした笑みを浮かべ、再び手を振り上げる。




そして、虫でも潰すかのように僕へと──、










 あ、




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