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九、黒衣の君とゆめくうかん


 イツセに冗談はなかった。だけれど、イワレヒコにとって最も憎む相手の心を視るなど、相手を許すのと同義である。とても受け入れられた言葉ではなかった。

 

 ナガスネヒコの心になど触れたくもない。イワレヒコは隠さず顔をしかめた。


「本気ですか?」

「冗談でこんなこと言わない」

「たちの悪い言いつけですね。どうして奴の心を……」


「ワカミケヌ」


 兄の厳しい声が突き刺さる。


「今だけ、言うことを聞きなさい。……祖国の永い繁栄を望むのなら」

「……どういうことです。私が兄さんの言葉に背いたら、日本は滅びるとでも?」

「乱暴にいうとそうなる」

 イツセはあっさり答えた。


「これはひとつの分岐点なのだ。お前がナガスネヒコを許し、共にあろうとすることが、お前のいた日本を守ることにつながる」

「素晴らしいですね。まるで予言者だ。未来をみたかのように仰せとは恐れ入ります」

「あまり詳しく言うことは禁じられているから深くは言えんが……その通りさ。俺は未来を知っているのだよ」

「そんなことがありえるんですか」

「ここはそんなことが可能なのさ」


 だって現実にはないという空間なんだからな、とイツセはにやりと笑う。

 イツセの言葉の真偽は、眼鏡を外してイツセの目を視ればすぐにわかる。イワレヒコはそれを試そうとしたが、イツセにやんわり止められた。眼鏡をはずそうとしたら、イツセがそっとイワレヒコの目を覆ったのだ。


「ナガスネヒコをただの敵と見なして切り捨てた場合、ナガスネヒコは闇に堕ち切り、日本にあだなす存在として君臨するだろう。そして恨み憎しみ怒りをばらまいて、人々や神々の心をけがしてゆく。いがみ合い貶め合い切りつけ殴り付け叩き落とし血を流し……。お前、そんな日本を見たいか?」

「丁重にご遠慮します」

「だろ? なら聞き入れておきなさい」

「……だけど」


 イワレヒコはイツセを敬愛していた。兄を愛していた。だから兄の言葉にはいままで従っていた。どんな従者のおもねりよりも、兄のお叱りひとつがイワレヒコには心地よかった。

 ナガスネヒコが絡まなければ、イワレヒコは素直に聞き入れただろう。そう、ナガスネヒコさえいなければ。


 いつまでも駄々をこねる弟を見ても、兄は怒りを見せない。

「ワカミケヌ。お前が苦しいのはよくわかる。お前がナガスネヒコをそれほどまでに憎むのも、ひとえに俺を好いてくれるがゆえだと分かる」

「兄さん……」

「受け入れがたい頼みをしていることは承知の上なのだ。なぁ、ワカミケヌ……俺を思うなら、今だけこの理不尽な叱責を聞き入れてやってくれ」

 イツセが、そっとイワレヒコから手を離す。遮られた視界が戻った。

 イツセの微笑が、なんだか悲しげだった。裸眼ではそれしか視えない。


「お前は、俺を思うがゆえにナガスネヒコを憎むんだろう? 俺はお前に好かれていることがとても嬉しいが、そのためにお前が誰かを憎んでいるのは、俺の本意ではないよ」

「……」

「ワカミケヌ、お前ならよく分かっていると思うだろう。俺が言ってることなんてお前にとっちゃ今更なことだろうが……憎悪し続けるのは苦しいぞ」

「分かっております。私だって、できることなら憎んでいたくなどありません。ですが心の問題なんてそう簡単に決着がつくものではないでしょう。貴方が私の腕の中でかくれられてしまったのを見届けてから、私の心はもう休まらなくなってしまった。その穴埋めに何かを憎まずにはいられないいのですよ」

「……ワカミケヌは、苦しいんだな」

「苦しくないはずがないでしょう。この世で最も愛するあなたを殺されて……。私だけが遺されてしまったのだ」

「すまんかったなぁ。すべては俺の油断から始まっちまったもんな」

 イツセは苦笑する。自分のことなのに、まるでひとごとのように笑って話している。一番苦しかったのはイツセのはずなのに、イツセはそれを微塵も感じさせない。


「兄さんは、悔しくないのですか。本来なら、貴方はここにいる必要なんてなかったのに。ころされてしまったのに。ナガスネヒコに奪われたのに……」

「言ったろ。それもこれも俺が油断したから生まれた結果なんだ。最初はちょっと悔しかったけど、今はもう笑って話せるようになったよ。ここも居心地よくてさ。気の合う仲間とのんびり話すこともできるし、暇さえありゃ書見も盤上遊びもできるしな」

「……? ここには、兄さん以外の誰かもいるんですか」

「いるよ。俺と同じような立場の者もいる。お前のように、現実からここへと一時的に飛ばされてきた者もいる。いろいろだ」

 だからさ、とイツセはイワレヒコの眼鏡を取り上げる。


「馬鹿な兄貴の言うこと、今だけ聞いてくれ」


 な? と困ったように頼まれては、イワレヒコも反論ができない。結局、自分は兄のこういうところに弱かった。


「しかたありませんね」

 イワレヒコは眼鏡を取り返す。かけ直して、イツセを見つめ返した。

「最初に申し上げておきますと、兄さんのお言葉通りにできないかもしれません。私は今でもナガスネヒコが憎いから。……ですが、肝に銘じておきましょう」

「ありがとうな、ワカミケヌ。お前にはさぞつらかろうが……俺の為日本の為と思って、ナガスネヒコの心に寄り添ってほしい」

「……試しては視ましょう」

「さすがワカミケヌ。……ああ、今はもうイワレヒコなんだっけ」

「いいんですよ、ワカミケヌで。そちらのほうが、私も心地いいですから」

「そりゃよかった。……さ、長話もなんだから、もうお前を現実に帰してやらねばな」

 その明るい言葉は、イワレヒコに少しだけ暗い気持ちをおとす。

 ここは現実ではない。どこにもない幻想の空間である。

 だが、それでもイワレヒコはイツセと会って話ができるこの空間に、居心地のよさを覚えていた。

 別れはいつかやって来る。そんなことは分かっていた。分かっていても、その時がくることが耐えられない。


「私も、できることならここにとどまりたいです。とどまって、いつまででも兄さんと話がしたい」

「俺もさ。だけどお前には帰る場所があるだろう。それを放棄しちゃいかんよ」

 お前は初代のみかどなのだから。そう言ったイツセは真面目だった。真剣な眼差しは厳しくもあり、駄々をこねるイワレヒコを無言で叱る。イワレヒコは、分かっていても悲しげな表情を隠すことができない。


 それを知ったイツセは、すぐにまたいつもの兄に戻る。


「ワカミケヌ。俺はな、この空間でさ、お前の世界を見ていたいんだよ」

「……?」

「お前が守り続ける、美しい日本を、だ。それが俺の秘かな楽しみでもある。……頼んだぞ、あちらのこと」

 さあ、とイツセが背中を押す。少しつんのめって、イワレヒコは足を踏ん張らせた。


 イツセはまっすぐ、イワレヒコの視線の向こうを指さした。イワレヒコはそれを追うようにして、目の前の道を見据える。

 ものの見事に何の変化もない。大きな柱が横で規則的に並んでいて、果てはどこにあるのかわからない。

「あちらが出口だ」

「何処まで行けばいいんですか。まるで先が見えない……」

「ただひたすら、真っ直ぐ歩いていけば自ずと帰れる。……ただし、後ろを振り向くなよ? 歩き始めたら前だけ向いて歩き続けろ。絶対に後ろを振り向いてはならない」

「参考までに……振り向いたらどうなるのですか」

「二度と帰れない……らしい」

「不明瞭ですね」

「俺にもよく分からん。ただ、振り向いてはいけないという暗黙の了解みたいなものがあるのだ。それだけは絶対におかしてはならぬと、ここで過ごしているうちに心が理解してゆくのさ。理屈はわからん」

「さようで……」

「だから、ワカミケヌ。俺との約束をたがえるなよ? お前をここへ閉じ込めておきたくはないからな」

「肝に銘じておきます。……では、また会える日を夢見て、兄さん」

 イワレヒコは微笑んで、歩き出す。


 振り向かない。歩き始めたら、もう前だけを見ていなければならない。

 後ろを振り向いたらどうなるのだろう。きっと恐ろしいことが起きるのだ。具体的にはわからない。わからないから怖いのだ。


「振り向かずに、言葉だけ聞いてくれ、ワカミケヌ」

 背後から兄の声がする。イワレヒコはその言葉に従った。ただ、歩を少しだけゆっくりにする。


「だいじょうぶだ。お前なら、今回の怪奇を、一番良い方向へ解決することができる。俺は信じているよ」

「……兄さん」

「恐れられ蔑まれたおまえの力を、信じなさい。そうすれば間違えないから。俺のようにはならないから」


 兄が言う自分の『力』が何を言っているのか、イワレヒコには分かっている。だけれど、どうして今それを言うのかは分からなかった。

 イワレヒコは兄の言いつけ通り、振り向くことはせず、ただ前を歩き続ける。

 終わりはどこにあるのかわからないまま。不思議と疲れは感じずに。



「若様!!」


 はっと我に返ると、目の前には久米がいた。

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