五、黒衣の君とにぎはやひ
「にがさないよ」
遠くにいるはずなのに、ナガスネヒコの声が間近で聞こえた。
イワレヒコの心臓が急に早鐘を打つ。不意打ちに動揺してしまう。
斬り伏せたはずの幽霊たちは、元の形に戻っていた。
ヤタは空を飛んでいるから、ぎりぎり幽霊の手から逃れることはできる。
だがイワレヒコは別だ。
地に足をつけ、足場と視界の悪さでいつもの調子を出せずにいる。
斬っても時間が経てばもとに戻る幽霊が二十あまり。フツミタマで斬ってそれなのだ。
それをいちいち何度も斬り続けていたら、イワレヒコの体力もあっという間に消耗する。
幽霊が、イワレヒコの体にまとわりついた。
「ぐ……っ!」
足に小さな子供の霊がしがみつく。胴を這うように、女の霊がまとわりつく。実体などないはずなのに、触れられた部分が氷のように冷たい。背筋がぞくっと震えた。
「わ、若様!」
「ヤタ、逃げて! 村へ降りて久米を!!」
でも、というヤタの戸惑いなど聞いている暇がない。
拘束されたイワレヒコは、フツミタマを抜くどころか足を動かすこともできない。
じっくりとナガスネヒコが近づいてくる。
楽しそうに、子供のように微笑むナガスネヒコは、右手を空にかかげた。
「のまれちゃえ」
天から、黒く濁った何かが降って来た。風のような滝のようなそれは、あっという間にイワレヒコに降り注ぎ――
イワレヒコを飲み込んだ。
「若様ああああぁぁぁぁ!!」
イワレヒコは、ふと目を覚ました。
瞼を開いたはずなのに、視界は暗い。ひやりと冷たい布が、目を覆っている。この処置をしたのは久米だろう。
自分は粗末な布団に寝かされている。ほのかに、茶の匂いがした。数人の人々の、緊張した息遣いが耳に届く。
布を取ろうと手を動かすと、「若……!」と久米の声が横からした。
瞼を軽く閉じながら、イワレヒコは布を取る。ゆっくりと上半身をおこした。それを手伝ってくれた大きな手は、久米だ。
「……久米、眼鏡取って」
「ここに」
久米が眼鏡をイワレヒコにつけさせた。イワレヒコはようやく瞼を開く。
見慣れぬ場所だった。周囲をぐるっと見回すと、質素な一室であると確認できた。部屋にいるのは久米。傍らには、篠が心配そうにこちらを見つめている。
改めて、自分はひどい状態だと気づいた。
外見に大した怪我こそないものの、体が鉛の用に重い。考えるのもおっくうだ。だるくて体を動かすのが面倒になってきた。
いつも整えている黒髪はところどころ乱れ、手がわずかに震える。足はだらんとしていて踏ん張る気力もない。
イワレヒコは、だんだんと先ほどまでのことを思い出してきた。
天敵のナガスネヒコが放った暗闇をまともに食らった。全身に闇を浴びてしまったのは覚えているが、それ以降がなかなか思い出せない。
「肝が冷えました」
「……え」
「ヤタが必死で若様を背負って、篠の家まで運んで来たんですよ。貴方の顔、まるで死人のようでした」
「ヤタが……。そう……。幽霊たちは」
「結界を張っておきました。私が即席で張ったその場しのぎのものですが、ないよりはましでしょう」
「わかった。苦労をかけたね」
「いえ……。しかし、一体何者が」
「若様」
部屋に、ひとりの男が入って来た。
その男は、たいそう白い肌をしていた。先を切り揃えた長い黒髪は艶を帯びていて、肌にはいっそ不似合いなほどの美しさがある。
こげ茶の着物を着た青年は、女と見間違うほどのあでやかな顔立ちをしている。心配そうにイワレヒコを見下ろす彼は、初代の八咫烏であった。
「白磁?」
「ご無事でしたか」
イワレヒコが白磁と呼ぶ初代は、抑揚のない声でイワレヒコを気遣う。
「若様がこれほどまでに打ち負かされるなど……正直驚きです」
誰にやられたのですか、と白磁が問う。久米も、その謎が知りたかった。
イワレヒコは、弓の腕こそ壊滅的であるが、こと剣技に関しては他の追随を許さない。一閃にしてすべてを斬り伏せるその技はめったに使われない。だが、剣を抜けば、たちまちにして妖怪や異形、物の怪や土蜘蛛を裂く。その技は雷の如く、瞬く間に放たれる。
そんな男が、ここまで手ひどくやられるということは、相手が相当の手練れか、そうでなければイワレヒコが極限までに油断していたかのどちらかだ。――後者はあり得ない、とイワレヒコを知る者は誰しもわかっている。
イワレヒコは気だるげに、言葉を紡いだ。
「ナガスネヒコだ」
え、と白磁の息が止まった音がした。久米が、右手に力を込めたのが、イワレヒコには分かる。
「あの樹から、ナガスネヒコが現れた。幽霊を操っていたのは、ナガスネヒコで間違いないだろう」
「しかし、ナガスネヒコは、」
久米が反論する。
ナガスネヒコは死んだ。ニギハヤヒという、天つ神によって。
イワレヒコを最後まで認めようとしなかったナガスネヒコは、親族ともいえるニギハヤヒに、信仰していたニギハヤヒに殺された。
そしてナガスネヒコは、闇へと落ちた。彼の遺体は結局見つからなかった。
「わかっているよ、久米。死んだはずなのにどうして生きているんだろうって言いたいのだろう」
イワレヒコは眼鏡を外して、久米を見上げる。久米が一瞬だけ目を見開いた。
今のイワレヒコには、久米が何を考えているかがよくわかる。先に紡いだ言葉の通りのことを、久米は心中でかけめぐらせていた。
「若、お戯れもほどほどに」
「ごめんごめん」
そう言って、イワレヒコは眼鏡をかけ直す。
「……そうですか、ナガスネヒコが」
白磁が、少し沈んだような声でつぶやいた。白磁はナガスネヒコを知っている。ニギハヤヒと仲の良い彼は、ニギハヤヒを通じてナガスネヒコのことを聞いていたし、何より東征の際イワレヒコを導いたのは白磁なのだ。白磁のかつての上司であるカモタケは、自分が行くのを面倒がって白磁を派遣した。何より、イワレヒコも白磁により導きを望んでいた。
「あれが油断したかと思っていましたが、そうではなかったらしい」
白磁は安堵している。その理由が、イワレヒコには何となく分かっていた。
「若様っ!!」
騒々しく襖を開けて、ヤタがやってきた。
幼さの残るその青年は、額から汗を流し、肩を上下させ、息も整えずに、今にも泣きそうになりながら、イワレヒコを見つめていた。
イワレヒコと目が合って、ヤタはへたりとその場に座り込んだ。
「ヤタ」
「わ、わかさま……」
イワレヒコは床から出て、ヤタに歩み寄る。イワレヒコがあと一歩で触れられる距離に近づいたとき、ヤタは姿勢正しく土下座した。ごちん、と額が床に当たる。いつの間にか、久米が篠を伴って一室を去った。白磁とヤタは、ここに残る。
「申し訳ございません……! 俺、若様を、若様を導くことが、できないで……それだけでなく若様を危険な目に……」
ヤタの声が若干震えている。八咫烏は導きのほかに主人を危険から守る役目を負っている。それを果たせなかった自分に対して、強い責任を感じているんだろう。
気の毒そうに、白磁がヤタの肩を撫でる。
「ヤタや、気にすることではないよ。若様から話を聞いて分かった。私がお前の立場であっても、同じような失態になっていたと思う」
「じい、ちゃ……」
ヤタがおそるおそる頭を上げる。初代ヤタガラスであった白磁は、二代目八咫烏――ヤタの祖父だ。
「ヤタは面識がなかったのだね。若様を襲ったナガスネヒコという男は、私でもてこずる。……いや久米坊やにミチ坊やを以てしても、あの男をやり過ごすのは困難だったろうよ」
「でも、でも……! そんなの言い訳だ、俺は八咫烏なのに……八咫烏は、どんな相手でも若様を導かなければいけないの、に」
「ヤタ」
イワレヒコが言葉を遮った。泣きそうなヤタの頬を優しく撫でる。びくっ、とヤタが震えた。怯えた瞳が、イワレヒコを見上げる。
「君のおかげで無事に逃げられた。ありがとう」
イワレヒコは微笑んでそう言った。お世辞でも嘘でも何でもない。イワレヒコの本心だった。
ヤタがいなければ、イワレヒコはナガスネヒコの手に落ちていた。だが、ヤタが死に物狂いでイワレヒコを守ったから、どうにか生き延びていられたのだ。
「わか、さま」
「それより、君の方こそ怪我をしているんじゃないかな。君も休みなさい。……本当に、君には頭が上がらない」
ぼろぼろと、ヤタが涙を流す。また頭を下げた。ごちんっ、と額が床に当たった。嗚咽で言葉を上手く出せない。イワレヒコはヤタの背中をさすってやった。
ヤタは白磁に任せ、別室に休ませた。彼ら八咫烏と入れ替わる様に、一人の男が入室した。
齢は始終ほど、骨ばった体つきに、きらっと光る眼差し、縹色の着物を着たその男の名は、ニギハヤヒと言った。
「よう、若」
「ああ、ニギハヤヒ。ご無沙汰しております」
床で考えごとをしていたイワレヒコは、懐かしげにニギハヤヒを見上げた。ニギハヤヒは、イワレヒコの傍らに腰を下ろす。
「珍しいこって。若様ともあろうもんが、ここまでこっぴどくやられちまうとは」
ニギハヤヒはつとめておどけて言ってみる。
その気遣いを壊すように、イワレヒコは自分をここまで追い込んだ敵の名をこぼした。
「ナガスネヒコ」
一瞬、ニギハヤヒの息が詰まった。
イワレヒコはニギハヤヒを一瞥する。
眼鏡をかけていても分かる。
ニギハヤヒは、明らかにナガスネヒコの詳細を知っている。