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一、黒衣の君としろいゆき

 雪が降っている。

 屋敷の庭で、弓の的をぼんやりと眺めていた青年――カムヤマトイワレヒコは、ふとそれに気づいた。


 従者の久米が弓の練習場から離れている間、イワレヒコは弓を引くことができない。久米をはじめとする従者にそうきつく言い聞かされているからだ。

 きつく言い聞かすのは、イワレヒコの弓の腕がまるで絶望的だからだ。弓の名人である久米がいくら手とり足とり懇切丁寧に指導しても、イワレヒコの弓の腕は少しとして上がることがない。

 イワレヒコもそれを自覚しているから、従者たちの言葉に従っていた。今、久米は寒いからと、暖かい羽織を持ってきますと屋敷の中へ引っ込んだばかりだ。イワレヒコはそれを、庭を眺めながら待っている。


 そうしていると、白い粒のようなものが空から降りて来たのだ。ああ、と思って空を仰いだら、ちらちらと雪が降っていた。もうそんな季節なのだ。


 カムヤマトイワレヒコ――日本の初代帝である彼は、すでにその位を退いている。現在は都に屋敷を構えてのんびりと隠居生活だ。


 橿原に陵をいただいているが、神子であるイワレヒコは一旦隠れた後、神としてまた日本に降り立った。彼についてきた従者や妻も、イワレヒコが造化三神にかけあって神格化してもらった。


 イワレヒコの屋敷にいるのは、一部の人間を除いてほとんど八百万の神の一柱である。神として現れ、人間の傍に寄り添うことをイワレヒコは選んだ。彼に付き従う者たちも、それにならっている。



 雪が、イワレヒコの艶やかで真っ直ぐな黒髪に落ちて来る。庭先にすっと飛び出たイワレヒコは、首の痛みも忘れて雪に魅入る。

 イワレヒコが異国の商人から譲り受けた眼鏡という視力矯正の器具にも雪が舞い降りる。視界が少しだけ遮られた。


 漆黒の装束に身を包んでいるせいか、白い雪が身に降りかかると目立つ。あっという間に、イワレヒコの全身が白の斑で染まった。

 黒髪に黒衣、手を包む手袋も黒、異国の職人ドワーフというらしいに造ってもらった靴も黒。瞳の色はやや濁った黄緑(これは祖先である天照からずっと変わらず受け継いでいる色だ)だが、それはじっと見なければその色と分からないほどで、ほとんどの者は黒色と見違える。黒色ではないところといえば、その瞳のほかには眼鏡の縁くらいだ。縁は銀。


 全身がほとんど黒でおおわれているイワレヒコを、神々や人間、妖怪たちは、畏敬と憧れと親しみを込めて『黒衣の君』と呼んでいた。


「若様」

 背後で、とても穏やかな声がした。久米だ。

 イワレヒコは振り向く。そこに、生地の厚い羽織を肩腕に抱えた大久米が、ぎょっとした表情で立っていた。

「若っ! 何をされているんですか!」

「何って、雪見」

 慌てている久米とは対照的に、イワレヒコはのんびりしていて、しかも久米に微笑を向けるほどに余裕があった。

「だったら中でごらんなさい! まったくもう……!」

 イワレヒコより頭一つ分ほど背の高い久米は、聞こえよがしにため息をついてイワレヒコに降りかかっていた雪をさっさと払った。

 羽織を無理やりイワレヒコにかぶせて、「さあ」と屋敷に引っ張り込む。ぐっと掴まれたはずの左腕は痛くない。おそらく久米は、イワレヒコを痛めつけない様細心の注意をしている。久米ほどの狩人であれば、人間の腕程度、軽くへし折れる。


 屋敷の中にイワレヒコを避難させて久米はようやくイワレヒコから手を離した。

「まったく……見ているこっちが寒いです」

「嫌なら見なければいいじゃないか」

「そういうわけにもまいりませんでしょうが。あんたに万一風邪でも引かれたら、八百万の神々に申し訳が立ちません」

「久米は真面目だねぇ」

「貴方の腹心として当然です。……それはそうと若様」

 急に、久米の声が真面目になる。さっきまでのおせっかいな従者としての声じゃなかった。イワレヒコの忠実な『イヌ』の声だった。

 イワレヒコは、久米がこの声になる時を知っている。イワレヒコはきゅっと、表情を引き締めた。

 瞼を閉じて、眼鏡を外す。溶けた雪で濡れた眼鏡を、黒手袋で拭う。


 眼鏡をかけ直し、久米に問う。

「で、久米? 今度はどんな事件が持ち込まれたのかな?」



 まずは身を整えてきなさい、という久米の言い付けにより、イワレヒコは一旦自室に引っ込んだ。

 屋敷の一番奥の寝室が、イワレヒコの自室である。妻の五十鈴姫と同室だ。

 イワレヒコは箪笥から布やらかえの服を引っ張り出す。服を畳に放り投げる。着ていた黒衣も脱いで放り投げた。畳がじんわり湿る。

 眼鏡を外して、瞼を閉じる。黙々と髪を布で拭う。少しはましになっただろうかと指先で前髪をいじる。うん、よし。そう頷いて眼鏡を手に取る。

 布で眼鏡のガラスを拭って、すぐにかけ直す。ようやく瞼を開いた。

 ズボンは無事だ。上着を変えるだけでいいだろう。イワレヒコは新しい黒衣を羽織って、布も着ていたもとの黒衣もそのままに、自室を出る。


 客間に向かって歩いていると、白髪の少年と鉢合わせた。背丈はイワレヒコの胸ほどしかなく、少女と見違えるほどの童顔を持つ。屋敷の雑務雑用をほとんど取り仕切る高倉下(たかくらじ)だ。

「あっ、若様」

「高倉か。今、久米に呼ばれているんだ。何かしらないかい?」

「ええっと、くうちゃんから……ですか。さきほど、お客様がいらしていたようなので、おそらくそれなのではないかと」

「客? 今日、約束してたっけ?」

「いえ、本日は誰とも会う予定はありません。たぶん……というか絶対、『依頼』でしょう」

 まだ声変わりしていない優しい声色で、高倉下は答えた。『依頼』という単語に、やっぱりね、とイワレヒコは心中で納得した。

「わかった、ありがとう。お客は客間かな?」

「はい。お待たせしてありますので、お話を聞いてあげてください。僕はお茶をお持ちしますので」

「うん。頼むよ」

 そう言って、イワレヒコは高倉下と一旦別れる。


 客間は屋敷の中心にある。訪れる客を出迎えたり、そこで屋敷の者たちと食事したり団らんを楽しむ場所だ。

 イワレヒコは一度身だしなみを確認してから、客間の襖を開けた。


 洋室となっている客間には茶色のテーブルが置かれており、そのテーブルを挟むように少しの細工をこしらえた椅子に座っている者が二人。久米と、おそらく客人だろう。


「お待たせしました」

「ああ、若様。こちらへ」

 久米がすっと席を立ち、イワレヒコに席を差し出す。自分が座っていた椅子はそっと距離を置かせて、空席であったそこにイワレヒコを座らせた。久米はイワレヒコの後ろで、柱のようにじっと控えている。

 

 イワレヒコは席につき、向かいにいる客人を改めてうかがった。

 年は自分と同じほど(イワレヒコは見た目だけならば二十代ほどの青年である)の男だ。身なりはきらびやかではないにせよ、乱れがなく整っている。きゅっと結った髪にほつれはない。居住まいもなかなかで、背筋が自然にのびている。やや肩に力が入っているのは、緊張しているからだろうか。


「お待たせして申し訳ありません。私がイワレヒコです」

 イワレヒコは一礼する。それにつられて、男もお辞儀した。

「こちらこそ……急な訪問にご対応いただいて、助かりました」

「いえ、そのような。そういった訪問の対応も、我々の『仕事』のうちです」

 イワレヒコは微笑んでそう答える。柔和な表情で、優しい声で相手に語りかける。これで少しは相手の緊張も解けるだろうか。

「ありがとうございます、イワレヒコ様。あ、僕は(しの)と申します」

「では篠、君の『依頼』を聞こうか」

 そこでイワレヒコは、篠からすっと視線を横へ流す。ちょうど、高倉下がお茶を持ってきたところだった。

 高倉下は微笑んで、篠とイワレヒコにお茶を差し出す。そしてすぐに引っ込んだ。



 ――『依頼』。イワレヒコの屋敷には、しばしばそういったものが飛び込んでくる。

 それを連れて来るのはだいたいが人間であるが、たまに八百万の神々や妖怪、果ては異国の悪魔や小人族といった者たちからも受け取ることがある。この際、種族はさておくとして。


 その『依頼』というのは、隣の村までのお使いであったり要人護衛であったり、八百万の神々からは眷属(ペット)探しであったり力比べであったりと多種にわたる。

 

 だがそれはほんの一端に過ぎず、主として舞い込んでくるのは、人知を超えた怪奇が絡んだ事件である。

 夢枕に立つ奇妙な女に首を絞められる、化け猫に食い殺された、首のない人間が夜道を歩いている、娘が禍禍しい刀に取り憑かれて人間を斬っている――怪奇の絡んだ事件は枚挙にいとまがない。大概は物騒で武器でものを言わす必要がある。


 イワレヒコを中心に、この屋敷に住む神々は、そういった『依頼』をこなす。それが仕事なのだ。

 その仕事と見返りに、彼らは少しの信仰を頂く。信仰とわずかの金銭が、イワレヒコたちを食わせてくれるのだ。


 おそらく、篠の『依頼』も怪奇絡みのものだろう。そうでなければここまで篠が深刻な顔をすることもない。いなくなった猫を探してほしいとか、怪我した子供の面倒をみてほしいとか、そういった怪奇とは縁のない依頼をしにきたとは、イワレヒコには思えなかった(かといって、彼にとって猫さがしや子守りが軽い依頼であるとはつゆほども思っていない)。


「えっと……」

「どうしたかな? 隣の久米がこわいかな?」

 イワレヒコはにっこり微笑んで、篠にそう語りかける。言われた久米は半眼でイワレヒコを睨み下ろした。篠は一瞬きょとんとして、イワレヒコの言った意味をようやく理解した。そして「いやいや違いますから!」と必死で否定した。

「すまないね、久米はこれが地顔なんだ。つまり怖いのは素なんだ。耐えられないなら向こうむかせるけど」

「いえほんと違いますってば」

「そうかい? 違うのならいいけど」

「若様、お戯れもほどほどに」

 久米がひくひくと頬を引きつらせてイワレヒコに忠告する。イワレヒコは、はいはいと軽くあしらう。あっ、この声と顔はいい加減真面目にしないと弓の的にされる顔だ。


 イワレヒコはわざとらしく咳払いする。

「……すまなかったね、篠。ここの刺青が怖さを強調していて怒り顔のために怖さ三割増しの狩人のことは一旦無視してくれていい」

「若様、『依頼』の詳細を聞き終えたらあとで"おしおき"ですから」

 久米の限界に自ら触れてしまったらしい。イワレヒコはそれ以上軽口をたたくのをやめた。

「篠、ごめんね。真面目に聞くよ」

「いえ……あの、お気になさらず」

 篠は困ったように笑って答える。

 久米が聞こえよがしにため息をついた。

「……客人、主人が多数無礼を働いて失礼した。本題に入っていただけるだろうか」

「あ、はい……。えーと……」

 イワレヒコに遠慮していた篠が、ようやく真面目な話題を切り出す。

 

 今一度居住まいを直して、篠はイワレヒコを真っ直ぐ見つめた。その真剣なまなざしに、さっきまでふざけていたイワレヒコはすっと表情を引き締めた。


 篠が言う。



「その……村の近くに幽霊が出始めたんです」

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