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物語  作者: 出門 陸
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死期を知る 第四部

 春休みに入ってから一週間。

 通い始めて二週間以上に経つ廊下を歩く。部屋に行く途中で彼女の死期を感じた。残された時間は、あと十日ぐらいだろうか。実感はないけれども、確かに時間は過ぎていっている。

 見慣れた病室の扉を叩くと、

「どうぞ」

 という返事があった。

 中に入ると、彼女はいつものようにベッドに腰かけていた。

「おはよう」

 彼女が僕に言った。

「そう言うには、ちょっと遅いんじゃない?」

 少し冗談めかして言う。

「それじゃあ、おそよう」

 彼女は言った。

「何それ?」

「さぁ?」

 彼女の言葉に、僕は肩をすくめる。二人で軽く笑いあった。

 ベッドの近くに立て掛けてあるパイプ椅子を組み立てると、それに座る。改めて部屋に視線を巡らせてみると、違和感に気がついた。何だろうか、と注意して観察してみる。

 気づいた。

「…この部屋、時計がないね」

 だから彼女は僕に『おはよう』なんて言ったのかもしれない。

「うん。なくたって、困らないから」

 確かにそうだ。彼女は一日中ここで過ごしている。時計なんて、あってもなくても変わらないだろう。

 ふと、彼女の表情が翳った。

「…それに、ね」

 日ごとに痩せていくその顔に陰が乗って、一層弱々しく見える。

「時計の針が刻む音を聞いていると、それに合わせて自分の死が近づいているんだなって思えて、どうしても不安になるから」

 僕はそんな表情は見たくないけど、何て言葉をかけたらいいのか分からない。言葉を必死に探す。

「…ごめんなさい」

 彼女が消え入りそうな声で言った。

「どうして謝るの?」

「だって、せっかく来てくれたのに、私が変なことを言うから雰囲気が暗くなって……」

「別に気にしなくてもいいよ。気を遣って言いたいことを言わないよりは、思っていることを口にした方がいいよ。その方が自分のためだし、僕は雰囲気がどうこうとか、そんなことは気にしないから。だから、寂しかったら『寂しい』って言ってもいいんだよ」

 彼女は照れくさそうに苦笑した。

「なんだか最近、励まされてばっかりな気がする」

「そうかな?」

 たぶんね、と言うように彼女はうなずいた。

 そんなことはないよ、と言うように僕は首をかしげた。

 僕らの間に言葉はない。でも、その静けさが、逆に心地よかった。

 彼女の顔に向けていた視線を下ろすと、手元にある本に気づいた。

「…その本」

「うん。宮沢賢治の“銀河鉄道の夜”」

 僕が一番最初にここに来たときに彼女が持っていた本だ。あれから、二週間ぐらい経つ。

「もう、ずっと昔に読み終わってはいるよ。でも、このお話が好きだから、何回も何回も読み返しているの」

 僕は昔読んだときの記憶を思い起こした。透明で、きらきらして、とてもきれいな話だった気がする。

「僕は最後の、ジョバンニとカムパネルラが『あの人たちの本当の幸いのために』って言う場面が好きかな」

 とても単純で、純粋な言葉。短いけれども、これを言うのはとても勇気が要ることだと思う。

「……“幸せ”、ね…」

 その単語を、彼女は噛み締めるようにつぶやく。

「あなたの幸せを、私は計れないよ。私の幸せを、あなたは計れない。誰かのためを思ってやったことが、結果としてその人を不幸にしてしまうことだってある」

 彼女の言葉は、僕に向かって発されているけれども、自分に内面に語りかけているように思えた。

「だから、誰かを幸せにするっていうことは本当に難しいことだと思う」

 なぜ彼女がこんなことを言ったのかは分からない。でも、聞かなかったことにできるほど軽いものではなかった。

 僕は目を閉じた。

「誰も他人の不幸なんか願わない。他人を不幸にしようとする人はいない。それでも、世界には不幸な人がたくさんいる」

 これは、事実だ。この事実が存在するのが、現実だ。

「幸せってさ、総和が一定のものではないんだ。自分が幸せになったら他人が不幸になるような、そういうことはあんまりないと思う。でも、他人を不幸にしないと得られない幸せもあるんじゃないかな」

 たとえば、就職試験とか。誰かを押し退けないと、自分の欲しいものは手に入らない。

 それに、水にも食料にも資源にも、何にだって限りがある。たぶん、今この星で生きているすべての人を支えられるほど、自然は大きくない。

「等しく幸せになる権利を誰もが持っているよ。でも、幸せになれる能力をみんなが持っている訳じゃないんだろうね」

 だから、幸せになりたくてもなれない人がいる。逆に、幸せになってほしい人がいても、その人を幸せにできないかもしれない。

「だったら、悲しいね」

 たった一言、彼女はつぶやいた。

「生きることは悲しくないけれど、生きていると悲しいことが多いかな。悲しくてもどうにもできないことがたくさんあって、それでもっと悲しくなる」

 これが人の限界なのかもしれない。できることなんてほとんどなくて、できないことばかりなんだ。

「でも、そこで考えることをやめたらいけないよ。悲しくて嫌になっても、“誰かの幸せのために”っていうことを考えて、行動しなきゃ」

 この言葉の暖かさに、僕は驚いた。彼女の言っていることの方が、僕の思っていることよりも正しい。

 さっき彼女は『自分は僕に励まされている』と言ったけれども、僕だって彼女に励まされているんだ。

「昔は、自分のために行動していたよ。でも、今となっては誰かの幸せのために行動していたらよかったって思う。…だって、そっちの方が格好いいでしょう?」

 彼女は冗談めかして無邪気に笑った。

「そんな理由?」

 そんな彼女に、僕は呆気にとられた。

「それに、そうすれば他の人の心にきれいな姿で残れる。…そういう意味でも“誰かの幸せのために”っていうのは、尊いんじゃないかな」

 とても俗っぽい理由だった。でも、それでもいいと思う。それが、人間なんだから。

「人は神様じゃない。できないことはある。でも、それが“できることをやらなくてもいい”言い訳にはならないよ」

 彼女の声は、言葉は、もう死が近づいてきているのに、どこか力強かった。

「できることがあるんだったら、本当に小さなことでもいいからやってみなきゃ。そうしないと、何も変えられないし、何も変わらない」

 なぜ、自分の命の終わりが近いのに、他の人のことを気遣えるんだろうか。

「ほんの少し、ちょっとだけでもいいから、そうやって世の中を良くしていけたら、それってものすごく素敵なことだと思わない?」

 こんなまっすぐな考え方や生き方ができる彼女のことを、素敵だと思った。そして、彼女の死期を感じて、それを変えることなんてできなくて、それで悲しくなった。

 でも、それでも、前を向かなければいけない。ついさっき、彼女はそう言ったじゃないか。

「散歩にでも行かない?」

 だから僕は、努めて明るい口調で言った。

 その言葉に彼女は、申し訳なさそうに

「…もう、外出はできないの。禁止されているから」

 と言った。僕は、自分の浅はかさを呪った。

 そんな僕に彼女は、

「でも、病院の中を散策するぐらいは大丈夫だよ。だから、行こう?」

 と言ってくれた。

 僕は、ベッドのそばに畳んであった車椅子を広げた。

「ごめんなさい。車椅子に乗せてもらえる?」

 僕は、体重を預けてもらってから抱き上げた。

 彼女の体は軽くて細くて華奢で、それでいて温かくて、まだ生きているんだな、と思った。

 壊れ物でも扱うように、そっと車椅子に乗せた。

「それじゃ、行こう」

 僕は言った。あまり重さの変わらない車椅子を押す。

 昼下がりの廊下は薬品の匂いでいっぱいで、僕は自分がどこにいるのか、改めて自覚した。

「病院の中って、あんまり歩いたことないな」

 自分が病院にいるんだと気づくと、ふとそんなことを思って、口に出してみる。

「病院に来たことがそんなになかったから?」

「まぁね」

 幸いにも僕は、今まで大きな事故や病気を経験してはいない。おかげで、本格的に病院に足しげく通うようになったのは、この二週間ほどが初めてだ。

「病院って特殊なところだと思う。人の生死を人が変えられる場所だから」

 そうではない、と感じた。

 僕には、人の行動で他人の死期が変わった記憶はない。僕が知っている範囲では、人は人の死には無力だ。

 でもそれは、僕以外の誰にも確かめられなくて、僕だけが正しいと思っている考えだ。

 人間の感覚や思考は他人と共有できない。それをもどかしいと感じることも、助かったと感じることも、きっと同じぐらいある。

「…そういえば、治療とかは?」

 彼女の死期は、誰かが変えられたのだろうか。ふと確かめたくなった。僕の考えは、間違っているのだろうか。

 少なくとも僕は、何も変えられなかった。

「昔何回か受けたけど、あんまり効果はなかったかな。もう今は、手術ができるぐらいの体力も残っていないみたいだし」

 受けた治療も無駄だったと、彼女は言った。結局、変わらなかったということ。

 でも、どれだけあがいても何も変えられないのなら、それはあまりに悲しすぎやしないだろうか。何も変えられないのに、ここにいる人たちは死力を尽くしているのだろうか。

 僕には、自分の考えが本当に正しいか確かめる手段はない。他の人たちは、こんな考えを理解すらしないだろう。それが普通だ。

「誰も何も恨むつもりはないよ。この病気も含めて全部が“私”なんだから。ただ、運が悪かっただけかな」

 当たり前のことのように彼女は言った。つまり、病気とか無駄になるとかそういうことを全部受け入れていた。

 こう考えることができるようになるまでに、一定どれだけの時間と覚悟が必要だったんだろうか。

「昔病気が見つかる前は?」

 何の気なしに聞いた。ふと、前に見た写真が脳裏によぎった。

「……昔はみんなと仲がよかったけど、だんだん疎遠になって、今ではもう、どこでどう過ごしているのかも分からない」

 彼女の視線がうつむく。僕は自分の失言に気づいた。

「…ごめん」

「いいよ。仕方がないことだから。だって、私はずっと病院にこもりっきりだけど、普通の人はそうじゃないもの」

 そう言う彼女の背中は、何かとても重いものを独りで背負っているように見えた。

「“永遠”なんて、どこにも存在しないよ。人間が永遠に生きられないんだから、全部いつかはなくなる。“永遠の友情”も“永遠の愛”も、全部嘘」

 淡々と紡ぎ出す言葉は、その背中に背負っているものと同じぐらい重たかった。

「だから私はね、『こんな日々がいつまでも続きますように』じゃなくて、『最後には笑っていられますように』って祈るんだ」

 でも、その重さに負けない強さがあった。この細くて軽い体のいったいどこに、それだけのものがあるのだろうか。

 何の考えもなしに押していたので、廊下の端まで来てしまっていた。引き返そうと思ったときに、ドアが開いたままの部屋が近くにあることに気づいた。

 そっと覗いてみると、空の病室だった。部屋の奥には開けっぱなしの窓があって、抜けるような青空が見える。涼しくて気持ちのいい風が吹き込んでいる。窓際には、一輪の花が生けられた小瓶があった。

 彼女がいなくなったら、あの病室はきっとこうなる。それも、もうあと二週間もしない内に。

 この病室に誰がいたのか、どんな状況だったのかなんて、僕には分からない。それでも、誰かがいた場所がぽっかりと空いているのは寂しい光景だった。そこにいた人の欠片すら残っていなくても、なぜか。

 花びらが散った。植物の命がどんなものかは知らないけれど、目の前の花瓶に生けられている花は、確かに死を迎えつつあった。

 種を残すこともなく、こんな無機質な空間でただ咲いて、ただ枯れる。

 入院している人の気持ちを明るくするために切られたこの花は、何のために生きていたのだろうか。

「…人はどうして、生きるんだろうね」

 もうすぐそばまで迫った死を感じながら過ごしていた彼女が行き着いた疑問だろう。

 言葉として表現したかったけれど、迂闊なことは言えない。それどころか、何を言えばいいのかすら分からない。

「……」

 この疑問に答えられるだけの重さが、僕にはなかった。悲しかった。

「私は、自分がまだ死んでいないから」

 彼女の答えには残酷に思えるぐらいに何もなかった。

「…それだけ?」

「だって、自分が生きることに何の価値があるんだろうって考えても、分からないもの」

 考えてみれば、確かにそうだ。僕のために何かをしても、僕がいなくなればそれはなかったことになる。僕が死んだあとには彼女の生きた価値は失われる。

 これは、彼女が強さの裏に抱えていた迷いなんだろう。何とかしたいと思った。

「だったら、僕のために生きてほしい。君が死んだら、僕が悲しいから」

 それで口をついて出た言葉は酷いものだ。詭弁にすらなっていないと、自分でも思う。

 そもそも彼女の死期を感じているのに、いったいどの口がこんなことを言えるのか。

 彼女は嬉しそうに笑っていて、ものすごく悲しげな表情をしていた。

「でも、私は何もしてあげられない」

「いてくれるだけでいい」

 なおも食い下がる。

「私はもうすぐ死ぬ。それすらできなくなる」

 ふと見せる寂しげな表情。何かを悟ったような、そんな雰囲気があった。なまじ聡明だから、彼女は自分の死を、その先を見通せるんだろう。

 たぶん、どう言葉を重ねてもそれは否定できない。

 だから僕は、

「それでもいいよ」

 そんな彼女を肯定した。

「いつかは消えてなくなるんだったら、それは無駄かもしれない。でも、無駄を積み重ねていくことに意味がある。生きるのって、そういうことじゃないかな」

 それが、僕が彼女から学んだことだった。

 死ぬ前にノートを取るなんて、無駄以外の何物でもない。

 でも、無駄だからといって、それが無意味とも無価値とも限らないんだ。

「そうだね。その無駄の中のほんの一部にでも価値が生まれて、それが後世に残ったら、それでいいんじゃないかな。人が生きた証って、それぐらい曖昧なものだと思う」

 彼女もそう言った。

「誰も気づいていなくたって、きっと、どこかに何かが残っている。言葉で伝わる歴史には残らなくても」

 彼女から僕は影響を受けた。僕が誰かに与える影響は、きっとそれで変わっている。そうやって、人から人へ伝わっていくものはあるんじゃないだろうか。 

「それが、生きることの価値なんじゃないかな?

「………」

 僕の言葉を彼女はゆっくりと飲み込んでいた。

「生きることに価値がないって思うのは、たぶん、それが見えないからなんだ。でも、見えないものも、知らないことも、確かに存在している」

 彼女はこの間そう言った。僕もそう思う。

「…そうは言っても、それは確かめられない」

 彼女の声は不安そうだった。本当に存在しているかなんて分からないからだろう。

「そうだね。でも、信じることはできるよ」

 裏を返せば、それしかできない。だったら、そうするしかないんだ。

「……信じる、ね」

 彼女は、何度かうなずいた。

「…そういえば、人の気持ちも、自分の存在も、信じる外ないんだね」

 そういうことなんだ。

「僕らが普段送っている日常は、誰かを、何かを信じないと、きっとうまくいかない。……信じるしかないんだ」

 それが、生きるために必要なことだから。

「…だったら、信じてみるのも悪くはないかな」

 彼女の黒髪が、窓から吹き込む風に流れる。

 その横顔を見ながら、僕はいったいいつまで彼女への気持ちを持っていられるだろうかと思った。きっといつかは、彼女のことを忘れてしまう。

「…人の気持ちは、変わるんだよね。いつかは」

 僕はつぶやいた。

 僕の気持ちを変えたくない。変わってほしくない。でも、時間が経てば変わってしまうんだろう。

「……変わらなくても、変えなきゃいけないときもあるよ。たとえば、人が死んだときとか」

 いったい誰のことを指しているのか。誰のことも指していないのか。彼女も、分かっているのだろうか。

 僕はその真意を測りかねる。

「たとえばね、好きっていうのには、二つの感情があると思う。自分のものにしたいって気持ちと、その人に幸せになってほしいって気持ち。両方とも“好き”だから生まれる気持ちだよ」

 ぽつりぽつりと、彼女は言葉を落としていく。それを、こぼさないように拾っていく。

「でも、私はね、最後の最後には“その人に幸せになってほしい”って思いたい。だって、誰も死んだ人のものにはなれないもの」

 僕も彼女も、言葉には出していないけど、きっと同じことを考えているんだろう。

「生きている人は日々変化していくし、歩き続けないといけない。でも、死んだ人はもう何の変化もしないよ。ずっと同じところで立ち止まったまま。それが、現実」

 それは、もうすぐ死ぬ人が言うにはあまりにも悲しすぎる。

「でもね、生きている人はそう簡単に人の死を受け入れられるわけじゃない。今まで一緒に歩いてきた人を置いていけるほど、人は薄情ではないから」

 彼女は、そんなに悲しさに負けていなかった。乗り越えるだけの強さがあった。

「だから、人はお葬式をするんだと私は思う。人の死を、自分の中で整理するために」

 それが、余計に悲しかった。

「お葬式はね、死んだ人のためじゃなくて、生きている人のためにするの」

 そこまで強くなくてもいいんだよ、と言いたかった。

 そう言う強さは、僕にはなかった。




 話し込んで喉が疲れたので、休憩コーナーで自販機でジュースを買って飲むことにした。彼女は、ホットカフェオレ。僕は、アイスコーヒー。買ってきて手渡す。

「お金はいいよ」

 僕は言った。

「…そんな、悪いよ」

 彼女は申し訳なさそうな表情だった。別に、たったの百二十円なんだけど。

「いいから。受け取って」

「………」

 そう言ってもなお、じっと考え込んでいた。律儀な正確なんだな、と思う。

「…じゃあ、これは僕からのプレゼント。それならいいでしょ?」

 見るに見かねたので、そう言った。こうやって理由を作らないと、遠慮してしまうんだろうな。

「…ありがとう」

 その言葉を聞いて、彼女は一瞬驚いたような表情を見せた。それからうつむいて、とても大切そうに、両手で缶をしっかりと持った。

 僕は自分の缶のプルタブを引いた。プシュ、と小気味のいい音がした。飲むと、なじんだ苦味とコクと香りが広がった。飲み下すときのささやかな冷たさが心地よかった。

 彼女はさっきと同じ姿勢で缶のプルタブを見つめていた。

「飲まないの…?」

 僕の言葉を聞いて、彼女はプルタブを開けた。パキリ、と金属の蓋が切り取られる音がした。

 蓋を開けても、彼女は飲もうとはしなかった。

「この缶一つにも、ものすごくたくさんの工夫がつまっているよ。そんな工夫を考えた人のことなんか誰も知らないし、工夫にすら気づかない人も多いかもしれない」

 缶の方を見つめたまま、一言一言をゆっくりと言う。

「でも、これって“より良いものを作ろう”とか“人がもっと快適に使えるようにしよう”っていう思いの積み重ねでしょう? とっても素敵だと思わない?」

 そこで視線を上げて、僕の方を向いた。とても明るい表情だった。

「…そうだね。気づいていないだけで、そういうものはたくさんあるんだろうね」

 僕は椅子に座った。ちょうど彼女と向き合う格好になる。

「あなたの周りの世界は、あなたが思っているよりもちょっとだけ優しいよ。きっと世界って、そういうものだと思う」

 窓の向こうに広がる風景を見る。彼女の言葉が正しいんだろうと思えるような、それぐらい穏やかな陽気だった。

 彼女がようやく、缶に口をつけた。両手で持って、一口ずつ飲む。

 缶を口から離して、ふぅ、と息をついた。

「…おいしい」

 にっこりとはにかんだ。その笑顔に、どきっとした。

 口許を隠すようにコーヒを飲む。冷たさのおかげで、動揺がおさまっていく。

「これ、飲む?」

 少し気分が落ち着いてから、そう聞いた。

「……うん」

 コーヒーの缶を手渡して、彼女からカフェオレの缶を受け取った。飲んでもいいよ、と彼女は言った。

 カフェオレを飲もうとする。鼻に近づけたときに甘い匂いがした。口をつけたときに感じる柔らかい甘さと口当たりに、安心感を覚えた。

「…ねぇ」

 彼女がつぶやいた。

「何?」

 僕の問いかけに、しまった、という顔をした。

「……な、何でもない」

 そう言うと、コーヒーに口をつけてちびちび飲み始めた。それで、缶から口を離すと、

「………ありがとう」

 と言った。

「…どうしたの?」

 思わずそう聞いてしまう。さっきから、発言に脈絡がない。

「…いや、えっと、気にしないで。そういう気分だっただけ、だから…」

 視線をそらして、歯切れ悪く彼女は言った。

「分かった。じゃあ僕からも。ありがとう」

 『分かった』と口で言ったものの、何のことだかよく分からなかった。それでも、お礼を言った。

 お互い缶を戻した。何の言葉もないまま、向き合って座った。視線を合わせると、彼女が小さく笑った。僕も笑った。

 結構な時間そうしていたと思う。

「……静かだね」

 彼女が言った。

「……静かだね」

 僕も言った。

 声には出さなかったけど、僕は思った。

 ───こんな日々がいつまでも続きますように。

 この願いが叶うはずないことを、知っていたのに。


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