記憶喪失 Part.1
目が覚めた。
白い天井、蛍光灯が見えた。
背中向きに重力を感じる。
どうやら自分は寝ているらしい。
少し鼻につく匂い。
半身を起こすと、窓辺に花瓶がおいてあった。
きれいな花が一輪活けられていた。
気味が悪いほど白い部屋にいた。
ふと感じた違和感。
ここはどこだろう?
どうして僕はここにいるんだろう?
思い出せない。
思い出せない。
今までのことが、全く思い出せない。
何を食べていたのかも。
誰を知っていたのかも。
どこに住んでいたのかも。
自分が、誰だったのかも。
思い出せない。
僕は、誰なんだろう?
それからは、いくつかの出来事があった。
僕が起きているのを白衣を着た人が見つけた。
その人からいくつか質問を受けて、答えた。
そのあと、別の白衣を着た人が来て、僕の調子や気分を訊ねた。
答えられることには答えたけど、知らないことは知らないと言った。
しばらくしたら、見知らぬ女性がやってきた。
僕の顔を見て、驚いたような表情を一瞬作って、泣き出した。
それから、知らない人間の名前を呼びながら僕にすがりついてきた。
見知らぬ女性にすがられながら、これが自分の名前なのか、と思った。
どうやら僕は、記憶喪失らしい。
自分が記憶喪失であることは、しばらくしてから正式に医者らしい男から説明を受けた。隣にはさっきの女性もいた。彼女はどうやら僕の母らしい。
僕は事故で頭を怪我して、記憶がなくなったんだそうだ。記憶が戻るかどうかは分からない、と。
それを聞いたときに、僕はあまり衝撃を受けなかった。大体、予想はついていたから。
でも、女性は違った。再び泣き出したのだ。
彼女が泣くのはなんでだろう、と思った。
もちろんそれは悲しいからだろうけど、何が悲しいんだろうか。
僕が記憶をなくしたことだろうか。
それとも、もう昔の僕に会えないかもしれないからだろうか。こっちの方がもっともらしい気がする。
僕が記憶をなくしたことは、彼女が泣く理由にならない。他人のなくしものにはせいぜい同情しかできないし、人間は同情だけでは泣けない生き物だから。
きっと、もう昔の僕に会えないかもしれないと想像して、それで悲しくなる。だから、涙が出るんだろう。
それなら、泣いたっていいかもしれない。
泣くより他にできることはないのだから。
僕は、目覚めてからの約一週間を病院で過ごすことになった。
その間に入れ代わり立ち代わりたくさんの人がお見舞いに来てくれた。
大体の人の反応は僕の予想通りで、僕が記憶喪失だということを改めて確認したあとに、「お大事に」とか「頑張れよ」と言って帰っていった。
ここで一つ疑問なんだけど、この「頑張れよ」って、何を「頑張れよ」なんだろうか。
僕が記憶を取り戻すこと? それとも、記憶がなくなってこれから生きること?
まぁ、言った本人もそこまで考えてはいないだろうし、僕自身どっちでもいいんだけど…。
こういう挨拶みたいな言葉って、ほとんどの場合、言葉そのものには意味がない。
「おはよう」って言っても、“おはよう”という単語には意味がなくて、「おはよう」と言うこと自体に意味がある。挨拶って、そんなものだろう。
病院にいた間は、特にやることもなかったから、こんな考え事をして過ごした。
始めの頃は記憶を取り戻そうと頑張ってみたけど、なんとなく“これは無理だ”って、分かった。
医者は「分からない」と言っていたけど、たぶん、これから僕の記憶が戻ることはない。ずっと、このままだろう。それはもう、諦めて受け入れるしかない。
ということを、頭では理解している。
でも、理解することと受け入れることは別だ。今までの自分が積み上げてきた時間や経験が、全部リセットされてしまったのは、正直言って、相当辛い。
辛いというか、悲しいというか、苦しいというか。
まるで、今まで自分が存在しなかったかのような感覚。
自分という存在が世界に否定されたような、そんな気さえする。
たぶん僕は、これからずっとこんな気持ちや感覚のまま生きていくんだろう。
でもこれは、他の人には理解してもらえない。僕一人で抱えて生きていくしかない。
そう考えると、僕は、孤独だった。
退院してから僕は、しばらく自宅で過ごすことになったらしい。
でも、“自宅”と言われても、僕の知っている場所ではなかった。それでも母だという女性は家のなかを見せて回り、昔のことをしきりに僕に話した。
たぶんそれは、彼女自身が僕に昔のことを思い出してほしいからだろう。“今の僕”を彼女は認めていないのだ。
もしかすると、僕が記憶を取り戻したいんだと勝手に考えていて、その手助けをやっているつもりなのかもしれないけど……。
それは、僕のためにやっているんだろうか。ひょっとすると、彼女自身が“昔の僕”を望んでいるから、こうやっているんじゃないだろうか。
僕自身は、“昔の自分”を取り戻すことを諦めかけている。
それは、ある意味での自分のための行動だ。
今の僕には、二種類の自分が存在する。
記憶をなくす前の自分と、なくしたあとの自分。
この二つは、不連続だ。
今の僕にとって“記憶をなくす前の自分”は、一種の別人になっている。
「昔はこんなことがあったよね」なんて言われても、それこそ他人の伝記と何ら変わりがない。実感が湧かないのだ。
たぶん、“僕”だってこんな風になるなんて全く想像もせずに生活をしていたんだろう。
でも、何かの弾みで“自分”がなくなってしまうことがある。たとえば今の僕のように。
僕達が確固たるものだと思っている“自分”っていうのは、思いの外不安定で、簡単になくなってしまうのかもしれない。
極端な例でいくと、“死”とか。“自分”が完全に失われてしまう。僕のような“記憶喪失”だって、その一例だ。
それなら、“自分”すら不安定でなくなってしまうのなら、僕は何を信じて生きればいい?
自分すら、頼れないのだとしたら……。
しばらくの“自宅”休養のあと、僕は学校生活を再開した。と言っても、僕の実感としては、学校生活は“今までしたことがない体験”なんだけれども。
朝早く起きて、着替えて、そして学校に行く。きっと昔は“日常生活”としてこなしていたんだろうけど、今の僕には、全てが初めての体験だ。
早い時間に学校に着くと、昔“自分”が通っていたと教わった教室に入った。
中にはもう数人の生徒がいて、僕の顔をみると驚いたような表情を見せた。
でもそれを笑顔で取り繕うと、一人が“調子はどう?”などと尋ねてきた。僕が“体はもう大丈夫。記憶は戻ってないけど”と言うと、それに頷いて、それっきり。
それ以上の会話はない。
向こうは僕に何かを言おうとして、それでも何を言えばいいのか戸惑っているんだろう。下手なことを言って地雷を踏むのを恐れているのかもしれない。
気を遣いすぎて気詰まりしているような、そんな雰囲気。
沈黙。
これから学校に来る度にこんな目に遭うのかと思うと、うんざりする。
こんな調子で朝の時間を僕は過ごした。ここにいる人が僕を扱いあぐねる理由は分かるけど、それで僕の苛立ちが軽減されはしない。
学校という場所に早くも嫌気が差してきた。
と、もうすぐ授業が始まろうというときに生徒がわらわらと入ってきた。
その内の一人の男子生徒が、僕の隣の机に座る。
「えーっと、記憶喪失なんだっけ?」
それから、何の躊躇いもなくそう聞いた。
「うん、まぁね」
「そうか、お疲れさん。何か俺にできそうなことがあったら言ってくれ」
「どうも」
それで会話は終わり。そのとき、先生が入ってきた。
授業はほとんど頭に入ってこない。色々なことが頭から抜けているようで、理解するために必要なピースはあまりにも不足していた。
ぼんやりと授業をやり過ごし、どうやら昼休みになったらしい。
昼食の時は、みんな思い思いのグループで固まっている。僕は、そのどれにも入ることができなかった。
そのとき、朝僕に声をかけた生徒が一人で食べているのに気づいた。
「一緒にいい?」
「どうぞ」
というわけで、僕は椅子を持っていて彼の机で食べることにした。
「なぁ、正直どんな感じ?」
彼がおもむろに尋ねてきた。
「何が?」
「記憶なくなってから。言いたくないんだったら言わなくてもいいけどさ」
こうやってずけずけと聞いてくる人は今までいなかったから、ちょっと新鮮だった。
「……うーん。目覚めたら今までの自分がすっかり消えてなくなっていたというか…。朝起きたら自分が別人になっていたような感じ?」
どうにもこの感覚をうまく言葉では表せない。
「グレゴール・ザムザみたいなもんか?」
「何それ」
「カフカの『変身』だよ。朝起きたら毒虫になってたおっさん」
「僕は毒虫じゃないけどね」
「こりゃ失礼」
そう言って彼は肩をすくめた。
「まぁ、考えようによっては毒虫よりも面倒なんだけど」
「というのは?」
「自分がどうすればいいのか分からないこと」
「あー…つまり、ゲームの途中でいきなり初期能力まで戻ったような感じか?」
「うーん、まぁね。周りの人は“僕”を知っているんだけど、それと今の僕自身がかけ離れているんだよね」
「今の世の中そんなことはざらにあるぜ」
彼はちょっとおどけてそう言った。
「どういうこと?」
「"person"にaを足せば"persona"になるってことさ。芸能人とかがその代表なんだけどな」
彼が何を言っているのかよく分からない。たぶん、彼の中では常識なんだろうけど、僕にとってはそうでもない。
「……はぁ」
「ま、他人と生きていくのは大変ってことさ。たぶんそれに気づくのが“大人になる”ってことなんじゃないか?」
「さぁ……。それはよく分からない」
僕は正直にそう言った。
「正直に言うと、俺もよく分からない」
そう言って彼はおどけたように笑った。
それからの一週間が、僕が学校になじむのにかかった時間だった。
“昔の自分と今の自分は違う”ということをそこはかとなく言えば、誰もその話題に触れないようになった。馴れ馴れしく話しかけてくる人はいなくなった。
たぶんこれが、一般的な行動なのだろう。合理的だと思う。
不用意に周りと関わりを持たず、できるだけ摩擦を減らす。リスクや抵抗がもっとも少ないやり方だ。
だから僕は、このクラスの中で孤立していくのかもしれない。でも、それでもいいと思う。
僕も、摩擦や抵抗はなるべく減らしたい。初対面とほとんど変わらない赤の他人に自分のことについて語られるのは不快だったから。
そういう風に、他人との関わりを薄めることで学校になじんだ一週間を僕は過ごした。
というように薄っぺらい自分の今までを振り返っていたとき、
「……あの」
といきなり呼びかけられた。振り返ると、一人の女子生徒が僕をじっと見ていた。
僕は続く言葉を待ったけど、彼女はじっとうつむいていた。なにかを言おうとしているけど言い出せないような、そんな感じ。
「…えっと、誰?」
何気なく僕は言った。
その言葉を聞いた瞬間彼女は大きく目を見開いて、そして悲しそうな顔をして僕から視線をそらすと、
「……ごめんなさい」
そうつぶやいて走り去った。
居心地の悪い沈黙だけが残った。
彼女はいったい誰なんだ?
Part. 2に続きます。