猫さんじゃないの
被害妄想なら、その方がずっといい。頭がおかしいのだと後ろ指でも何でもさせばいい。でもきっと違うの。
誰もいない。何もない。そんな生活がほとほと嫌になって、わたしは生まれてはじめて学校をさぼってしまった。でもきっと、関係ない。だって、いてもいなくても同じなのだから。
家だってとても冷たい。家族って、家の族って書くけど、一体何なの。一つの家に数人の人間が集い、寝食を共にすればいいの?でも、そんなに水準を落としても、わたしの家には家族は住んでいないみたい。いや、住んではいたみたいだけど、数年前にいなくなってしまったみたいだ。家の中にいるのは三人の人間。仕事ばかりしている男の人と女の人。それとわたし。でもきっとそれが当たり前。だって所詮、どこまで行ったってわたしはわたしだし、個人は個人なのだから。
いつも冷たいの
誰といても
何をしていても
ため息をついたら、ついたぶんだけ幸せが逃げると言うけれど、本当かな。これ以上わたしから逃げていく幸せって何?
どれくらい歩いたのだろう?ここはどこだろう?知らない町…。でも、もういいの。何も考えずに、続いていく道をたどって行くって決めたんだから。
「あ、ママ見て、きれいな白いネコ!」
男の子が買い物袋を持った母親であろう人の手をひっぱりながら大声で叫んだ。
「あら、本当。きれいな猫ね。野良猫なのかしら」
そんな親子の何気無い会話にさえも苛立ちを覚えてしまう。いつからこんな人間になってしまったのだろう。今年の夏辺りに、『母親』の背が小さくなったことに気づいた。私の背が大きくなったことに気づくのにそう時間はかからなかったっけ。
体だけ成長して、心はどこかに置いてきてしまったのだろうか。最近は、誰といても人の荒を探している自分がいる。そして全てに期待をしなくなってしまった。人間にも、物にも。返してもらえないのだから、期待したぶんだけわたしの気持ちが損をする。そんな風に覚えてしまったのかな。
喉の乾きを感じたわたしは、すぐ近くに見つけた自動販売機に近寄り、小銭を入れた。ただ、それは失敗だったかもしれない。飲みたいと思える物がない。またため息をついた。幸せが逃げたかな?
人生に妥協は必要だ。そうだ、期待なんてしていない。
わたしは指をのばし、温かい缶コーヒーのボタンを押した。
ガラガラ ガッシャン
聞き慣れた音が頭に響いたのと同時に少しかがんで手をのばし、缶を取り出そうとした。でもいくら探しても缶がない。
落ちる音は、習慣的に頭に響いただけで、周囲には響いてなかったのかもしれない。また少し苛立ちながらも、自動販売機を見た。まだボタンが鈍い光を放っているから、押す力が弱かったのだと思い、再度ボタンを押した。今度は頭にも音は響かなかった。それから少しおかしくなったかのようにボタンを連打した。
一向にでてくる気配がない。それでもわたしは押し続けた。
何分たっただろうか?まだわたしはボタンを押し続けている。でも、期待しているわけじゃない。
やっぱり失敗だった。これからは機械にさえも頼れなくなるのだろうか。
ただ、最後にもう一度どだけ押してみたい、押さなきゃいけない、そんな衝動にかられた。決して期待しているわけじゃないんだけど、あと一回だけ。
心臓がドックンドックンと脈打つのをはっきりと自覚しながら指をボタンに近づけた。どうしてだか、指か震える。
押した!どうにか指をのばし、というか指が震え使い物にならなかったため、腕の方をのばした。指が温を感じさせないボタンに触れ、少しへこんだ。
―――――――――
やっぱり…。
失敗だった。
またため息をついた。
きっと幸せが逃げた。
ニャー
びくっとして音のする方へ視線を落とすと、そこには白い猫がちょこんと腰を下ろしていた。大きなクリクリした青い目でわたしを見ている。
わたしは激しく混乱していた。
「君が缶コーヒー?」
自分でも意味がわからない。
白い猫は相変わらず青い目でこちらを見ていた。
「いや、ごめん。なわけないよね。あー あれ!物ちがいした。忘れて」
慌てながら、何事もなかったかのようにわたしは、歩き出した。百歩譲って機械に期待していたとして、そんな自分のいた空間から少しでも離れたかった。
「ほら、やっぱり期待なんてするだけ損なんだ」 そう呟いた。
後ろを意識しだして数歩歩いた。ふり返ってみた。そこにはまたあの青い目があった。
「君もヒマだね。白いけど青い猫さん」
言い終えて、またすぐに歩き出した。猫だもの。気まぐれな猫だもの。すぐにどこかに行くだろう。安易にそう思っていた。
夕暮れだ。空が薄く色づきだした。今頃、学校の友だちは何をしているだろう。おざなりだけだと思っていたが、なんだか気になるものだ。誰かの風景が見えるわけもないが、ふとふり返ってみた。わたしが歩いてきたであろう、道だけが続いている。
はぁ、そしてあの猫がいた。
「まだいたの?」
当たり前だけれど、白い猫は何も喋らず、応えず、といった様子だ。ただ、青い目を見開いている。なんだかその輝きが痛い。
ただ続く道を歩くと決めたのに、時々ふり返ってみたくなる。そしてふり返るとそこには道と猫。何度繰り返しただろう。
「君もしつこいね。一体何なの?何がしたいの?何してるの?」
白い猫は、青い目でわたしを見つめるだけ。
青い目に背中を向けた。
「………もうついてこないで」
全速力で走った。それはとても久しぶりで、逃げることよりも追うことに使いたかった程で。
逃げていることへの自覚はあるの。でもどうしたらいいのかわからない。
髪が濡れてる。最初は汗だと思った。でも、周りの人の動きで、雨が降っているのだと気がついた。 雫が滴る。
…どうしよう
どうしたらいい?
わたし―――
何がしたいの?
どこに行きたいの?
何が欲しいの?
「いやっ」
自分の声が頭に響く。聞きたくない。そんなの聞きたくない。
うずくまり、耳に手を当て、目をぎゅっと閉じた。
トクントクン
胸の高鳴りの音。でもわたしの心臓は、走ったせいでバクバク言ってる。じゃあ、誰の音?
あの白い猫が背後から近づくのがなんとなく気配でわかった。
やっぱり。目を開くと目の前にいた。
「…もうついてこないでって言ったのに」
しぼりだすように声を出した。
猫は首を傾げた。
「何よ」
周りにいた人たちは屋内に避難してしまったのだろうか。わたしと猫だけが雨に打たれている。 猫は一瞬目を閉じ、次の瞬間にわたしに披露するかのようにその場でジャンプしてみせた。
「何がしたいわけ?」
猫は少しさみしそうに目線を落とした。
「…だからもう何なの?」
猫は小さな前足を器用に動かし、近づいてきた。わたしの膝に頭をこすりつけ、次の瞬間自らの身軽さを使い、わたしにとびかかった。その勢いで、しゃがんでいたわたしは、しりもちをついてしまった。
「痛ったぁ…」
猫はわたしのお腹の上に四足で立っていた。わたしが上体をおこし、地面にベッタリと足をつけ座るようすると、膝の上に静かに乗ってきた。
気づけば猫は、さっきまでの全てを見透かすような目から、包み込むような柔らかな優しい輝きになっている。言葉を発せずにはいられなかった。
「…何?」
猫は体を震わせ、しぶきを上げた。とんでくる雫が目に入っても、猫から目が離せなくなっている。 猫は静かに動きだし、先程のように体をこすりつけてきた。私のお腹に。そして軽く満足したのか定位置を確保し、寝転んだ。唖然とする私を、時折チラチラと青い目で見る。
ああ、君は…
「…側にいて欲しいのは『君』じゃない」
猫は首をのばしまっすぐ見ている。
「絶対に冷たいし。だから…」
涙がこぼれていることに気づいた。本当にこわいね。自分と向き合うって。
「…君じゃないのに」
ずぶ濡れの冷たいわたしは、ずぶ濡れの冷たい猫を強く抱きしめた。
「…君じゃないのよ。本当に」
声が震える。
本当に強く抱きしめた。しめ殺してしまいそうだ。本当に。本当にありがとう。
今日はよく晴れた日になった。
たぶん成功だ。
深呼吸をしてみた。
きっと、幸せがやってくる。
感想などいただけたら嬉しいです。