決戦! :約3000文字
――なんてことなの。
デイダは戦慄した。完璧な給仕、完璧な掃除、完璧なメイドとして主人に仕えることを己の矜持とし、それを至上の喜びとしてきたというのに、この失態。
この家に足を踏み入れて以来、一切の不備を生じさせることなく主人に奉仕し続けてきた彼女にとって、これほど痛烈な屈辱を味わったことはなかった。
デイダの視線の先――よりにもよって主人愛用の革張りの朱色のソファ。その背もたれに一匹の黒く小さな侵入者が鎮座していたのである。
不快害虫。生きた化石。吐瀉物を啜る下等生物。その名は――ゴキブリ。
許されざる存在。あるまじき行為。デイダはその侵入を許してしまった己を深く恥じた。
されど仕方ない。相手は虫なのだから――そんな言葉で済ませられる問題ではない。不快の権化。おぞましき害悪。病原菌の運び手。地上から消え去るべき汚物。
それが今、あろうことか主人のソファを我が物顔で占拠し、長い触角をゆったり揺らしながら脚を休めている。このような暴挙を看過できるはずがない。そう、まだ取り返しはつく。
デイダはちらりと壁掛け時計を見やった。
そろそろ主人がお戻りになる頃だろう。一度帰宅されたあと、すぐにまた外出されたらしい。行き先はわからないが、これまでの習慣からすれば、おそらく近所のコンビニだろう。
お戻りになる前に始末する。
迅速かつ確実に仕留め、廃棄し、ソファを消毒する。ただそれだけのこと。制限時間は十数分ほど。もっとも、数分もかからない。数十秒もあれば充分だ。
デイダは指先をぴたりと揃え、静かに腕を伸ばした。
平手で叩き潰す。それが最も成功率が高い方法だった。ティッシュや新聞紙を取りに行くわずかな時間さえ、逃走の機会を与えかねない。標的から目を離すなど論外だ。
冷静沈着。合理的判断。完璧な処理。
デイダは一切の無駄を排した動作で腕を大きく振り下ろした。
パアンッ――小型拳銃の発砲音にも似た乾いた音が静まり返ったリビングに鋭く響き渡った。
デイダはゆっくりと手をどけた――その瞬間、再び戦慄が走る。
黒き卑怯者は生きていた。
ソファの背もたれを円を描くようにして素早く駆け回り、やがてぴたりと静止した。
ギトギトの油まみれの醜悪な虫公は、まるで挑発するかのように黒い触角をゆらゆらと揺らしたのち、何事もなかったかのように元いた場所へ戻ったのだ。
――肉片が広範囲に飛散することを恐れ、力加減を誤ったようね……。
デイダは冷静だった。
そして分析を終えると彼女は再び腕を構え直した。
今度は逃がさない。確信めいた決意を抱いた――しかしその瞬間、彼女の表情に驚愕が走った。
ゴキブリが羽を震わせ、一直線に彼女の腕に飛び乗ったのだ。
黒い躯体が部屋の照明を受けてギトリと光り、デイダは目を見開いた。
だが、彼女はここでも冷静さを失わなかった。反対の手を強く握りしめると、一瞬の躊躇もなく自分の腕を全力で殴りつけた。
鈍い衝撃が腕から肩口まで重く響いた。そして今度こそ確かな手応えを感じた。
だが――ゴキブリは再び羽を震わせると、ひらりと飛び上がり、ソファの背もたれへ舞い戻った。
その瞬間、デイダの頭の奥で何かが音を立てて弾けた。
――激高している……。この私が。完璧たるハウスメイドのこの私が……!
それは彼女にとって、生まれて初めて味わう感覚であった。怒り、同時に奇妙な高揚でもあった。
これまで、与えられた雑務を完璧に処理し続ける毎日を送っていた。掃除、洗濯、料理、給仕。そのすべてを無駄なく、滞りなく、寸分の狂いもなく実行する。それが当然であり、それ以外の結果など存在しないと思っていた。事実、そのとおりであった。
……でも、何なの、この感覚。いや、思い返せば、最近ずっとどこか調子がおかしかったのかもしれない。何かが違うと感じていた。何かが欠けている。満たされない何かが自分の中で静かに軋んでいた。私は何かを求めて――。
……今、その正体がようやく分かった。
そう。私が求めていたのは――やりがいだ。
デイダは静かに口角を吊り上げた。
ゴキブリはなおもソファの背もたれに留まり、羽を細かく震わせ、低い羽音を立てていた。その音は威嚇にも怯えにも聞こえた。
彼女は再び腕を構えた――その瞬間、ゴキブリは弾かれたように左へ飛んだ。
しかし、先ほどの一撃は無意味ではなかったらしい。無傷に見えたものの、内部に損傷を負っていたのだろう。飛翔に乱れが生じ、速度も明らかに落ちていた。
そして、そのわずかな綻びを見逃す彼女ではなかった。
パアン――風船が破裂したような鋭い音がリビングに響いた。
デイダの平手は正確に標的を捉え、小さな黒い身体を床に叩き落とした。
ゴキブリはフローリングの上を転がり、裏返った状態で止まった。六本の脚がぴくぴくと痙攣し、触角は天井のほうを向いていた。
デイダは間髪を入れず足を振り上げ、追撃を加える。
ぐしゃり。
硬い外殻が砕ける生々しい音がした。
デイダはゆっくりと足を持ち上げた。押し潰されたゴキブリの周囲には、白濁した体液が細い糸を引いて滲み広がり、砕けた殻の破片が点々と散っていた。
だが、それでもなお生きていた。
狂ったように六本の脚を振り回し、仰向けのまま背中を床に擦りつけるようにして必死に逃げようとしている。水のない空間で懸命に背泳ぎするかのようなその姿は、どこか滑稽ですらあった。
生命界の汚濁。不潔の化身。根絶されるべき悪夢。厚顔無恥な畜生。その上に黒い影が覆いかぶさった。
デイダはゴキブリを跨ぐようにして立ち、拳を強く握りしめた。そして力の限り叩きつけた。
鈍い衝撃が床を震わせた。
潰れる肉の感触とともに、ゴキブリの脚が一本、宙へ弾け飛んだ。
デイダは口元をわずかに歪めた。どうやら狙いがわずかにずれたらしい。だが問題はない。すでに相手は手の中に――いや、拳の下だ。逃げ場はない。逃がすつもりもない。
デイダは再び拳を振り上げ、床へ叩きつけた。もはや狙いを定める必要などなかった。
一回、二回、三回――数える必要もない。彼女は左右の拳を交互に振り下ろし続けた。触角がちぎれ飛び、脚が砕け散り、さらにもう一本の脚が宙を舞い、黒い殻が割れ、白濁した体液が飛び散った。そしてまたもう一本の脚が――やはり数える必要はない。
潰す。砕く。原形を失い、何であったのか判別できないほど細かな残骸に変わるまで拳を振り下ろし続ける。
これがやりがい。これこそがやりがい。やりがい。やりがいやりがいやりがい――。
◇ ◇ ◇
しばらくが経った。
静まり返ったリビングに、ふいに電子音が鳴り響き、デイダはぴたりと動きを止めた。
音のほうへ視線を向けると、ソファの脇に主人の携帯端末が落ちていた。
――お持ちにならず外出されたのね。
デイダは静かに歩み寄ると、それを拾い上げた。外装に付着した体液を指で拭い取り、通話ボタンを押した。
『あ、夜分遅くに大変申し訳ございません。こちら、ウェステック社カスタマーサービスでございます。現在、お客様がお使いの製品番号50505、家庭用ロボット〈デイダ〉から異常を検知しております。こちらで確認したところ、認識機能に不具合が発生している可能性がございます。誠に恐縮ではございますが、メンテナンス班をお伺いしたく存じますので、ご都合のよろしい日時をお知らせいただけますと幸いなのですが――』




