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最終回、代行します  作者: 幕間しおり
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第1話 神の続きを待っていた勇者たち


 株式会社エンドロール・サービスの朝は、いつもだいたい誰かの終わりから始まる。


 午前九時二分。最終回代行部のフロアでは、徹夜明けの社員が紙コップのコーヒーをすすりながら報告書を書いていた。壁際の掲示板には、色分けされた案件票が無数に貼られている。赤は終末暴走。黄は伏線腐敗。青は反復化。黒は封印対象。白は通常処理。普通の会社なら営業成績や社内イベントの案内が貼られていそうな場所に、「魔法少女もの・マスコット裏切り未回収」「青春バンド漫画・文化祭前夜十九回目」「探偵もの・密室が自己増殖中」などという、朝から胃の重くなる文言が並んでいた。


 その一角で、結城了太郎は机に突っ伏していた。黒いスーツは昨日から着ているものだった。ネクタイは胸元でだらしなく緩み、机の上には未処理の書類と、飲みかけの缶コーヒーと、誰かが置いていったらしい伏線整理課の栄養ゼリーが転がっている。三十二歳。眠そうな目つき。軽薄そうな口元。けれど、そのだらしなさの奥には、うっかり触れると火傷しそうな鋭さがあった。


 了太郎は夢を見ていた。


 荒野だった。夕焼けが止まっている。乾いた風が吹くはずの場所で、風だけが書き忘れられたように動かない。目の前には片目の男が立っている。かつて宿敵と呼ばれるはずだった男だ。彼の背後には、まだ名前のない奥義の気配があり、どこか遠くでは死んだ父の謎が、回収されないまま小石のように転がっていた。


 男が何かを言いかける。


 その瞬間、ページが切れる。


「了太郎さん」


 涼しい声が、夢の端を切り取った。了太郎が顔を上げると、机の向こうに栞が立っていた。年齢はわからない。少女のようにも見えるし、古い本棚の奥から出てきたしおりの化身のようにも見える。濃紺のワンピースに、きちんと整えられた髪。胸にはいつも一冊の文庫本を抱えている。その本は、開けばどんな未完作品にもつながる特別な端末であり、同時に、彼女が自分自身を世界につなぎ留める錨でもあるように見えた。


「寝てません」


「寝言で『そこから先を書け』と言っていました」


「仕事熱心なだけだ」


「夢の中で残業するのは、会社の規定外です」


 栞は淡々と言いながら、文庫本の間に挟んだ白いしおりを指で押さえた。しおりの先端が青く光り、了太郎の机の上に新しい案件票が投影される。


 案件番号、ES-F127。作品名『聖剣のアルカディア』。ジャンル、王道ファンタジー。症状、最終決戦前反復化。停止期間、三年と四日。終幕圧、危険域。推奨処理、A処理・原案準拠完結。読者満足度予測、良好。


 了太郎は半分しか開いていない目で案件票を見た。


「王道ファンタジーか。朝から胃もたれするな」


「原案準拠なら十五分で終わります」


「勇者が魔王を倒して、世界が救われて、仲間が泣いて、朝日が昇るやつか」


「概ねその通りです。追加で勇者死亡、魔王の正体は兄、聖剣の代償、未来から来た魔法使い、神託の虚偽、盗賊の王家血統があります」


「朝から全部盛り定食を出すな」


「作者の構想です」


 了太郎は椅子の背にもたれた。天井の蛍光灯が一本だけ微かにちらついている。最終回代行部の照明は、なぜかいつも少し疲れている。世界の終わりを処理する会社の天井が元気いっぱいでも困るが、それにしても陰気だった。


 隣の島から、恋愛終幕課の社員たちが騒ぐ声が聞こえた。どうやら、告白直前で七年停止した幼なじみものを処理したら、ヒロインがすでに主人公の兄と結婚していたらしい。「だから長期停止ラブコメは先に感情年齢を測れって言ったのよ」と強気な女の声が響く。紅坂玲奈だ。了太郎は聞かなかったことにした。


「結城」


 低い声が飛んだ。


 了太郎が顔を向けると、最終回代行部部長の黒瀬真澄が書類を片手に立っていた。四十代半ば。背筋が伸び、目つきは編集者のそれだった。人の甘えと原稿の穴を一秒で見抜く目だ。黒瀬は了太郎の机の乱れを見て、わずかに眉を寄せた。


「今回の案件は原案準拠で処理しろ。停止期間は長いが、作者メモは残っている。ジャンル構造も明確だ。余計な改稿は必要ない」


「俺がいつも余計なことをしてるみたいな言い方ですね」


「している」


 即答だった。


 栞が補足する。


「先月の了太郎さんの案件十二件中、原案準拠完結は三件です」


「三件もある」


「少ない」


 黒瀬は書類で机を軽く叩いた。


「会社はお前の創作論を実現する場所じゃない。未完作品の終幕圧を安全に抜くのが仕事だ。いいな。勇者が死ぬ予定なら死なせろ。魔王が滅びる予定なら滅ぼせ。美しい悲劇ならなおさら安全だ。読者も納得しやすい」


 了太郎は、机の上の銀色のペンに目を落とした。


 胸ポケットにいつも差しているそれは、ただのペンに見える。細身で、古く、持ち手の部分だけが少し擦れている。だが、そのペン先には、了太郎自身の未完領域がつながっていた。自分が終わらせてもらえなかった物語の、最後に描かれるはずだった一筆。それが世界の外に取り残され、道具として加工されたもの。使えば使うほど、了太郎の中に残る「書かれなかった未来」は薄くなる。


「聞いてるか、結城」


「聞いてますよ。原案準拠。安全第一。感情移入禁止」


「軽く言うな」


 黒瀬はしばらく了太郎を見ていたが、やがてため息をついた。


「栞、監視しろ。レベル四以上の権限開放は許可なく通すな」


「承知しました。形式上は」


「形式上ではなく実務上もだ」


「努力します」


「お前も結城に甘い」


 栞は無表情のまま、ほんの少しだけ文庫本を抱える腕に力を入れた。


「了太郎さんは、放っておくと面倒なことをします。近くで見ていないと、もっと面倒です」


「それを世間では甘いと言う」


 黒瀬はそれ以上言わず、踵を返した。了太郎は椅子から立ち上がり、胸ポケットに銀のペンを差し直す。栞は文庫本を開いた。ページは白紙だったが、彼女がしおりを一枚滑らせると、白紙の奥に黒い城と止まった曇天が浮かび上がった。


「接続します。対象作品『聖剣のアルカディア』第百二十七話末尾、魔王城前」


「了解」


「なお、最大権限開放は許可しません」


「まだ何も言ってない」


「了太郎さんは、言う前から顔に出ます」


「どんな顔だ」


「面倒な人を見つけた顔です」


 了太郎は小さく笑った。


「じゃあ、行くか。終わらせに」


 栞はしおりをページの中央に挟んだ。紙面が波打ち、フロアの空気が薄くなる。次の瞬間、二人の足元から現実がめくれ、会社の蛍光灯は、魔王城の曇天へと変わった。


     *


 魔王城の空は、三年間ずっと曇っていた。


 黒い雲が、城の尖塔に引っかかったまま動かない。雷は鳴らない。雨も降らない。ただ、今にも何かが始まりそうな重さだけを、空は毎日律儀に保っていた。城壁は黒曜石のように鈍く光り、門前の石畳には、古い戦場の傷が無数に残っている。


 魔王城の門は、三年前から閉じたままだった。


 いや、閉じているのではない。


 開く直前で、止まっている。


 黒い鉄扉の隙間には、稲妻のような光が細く挟まっている。城壁の上では、破れた旗が風になびく途中の形で揺れ続けていた。空の雷鳴は、遠くで低く唸ったまま、こちらへ落ちてこない。門前の松明は、同じ長さの炎を三年間燃やしている。焦げ落ちるはずの薪は焦げ落ちず、燃え尽きるはずの油は燃え尽きない。石畳に転がった小石は、昨日も、一年前も、三年前も、同じ場所にあった。


 魔王城の奥からは、ときどき低い地鳴りがする。最終決戦の始まりを告げるような、いかにもそれらしい音だった。


 だが、それ以上は何も起きない。


 世界はずっと、次の一文を書かれるのを待っているようだった。


 そこに四人の旅人がいた。


 勇者レオンは、聖剣を磨いていた。刃こぼれはない。錆もない。三年間、毎朝磨いているのだから当然だった。それでも彼は磨いた。今日こそ扉が開くかもしれない。今日こそ物語が続きを思い出すかもしれない。そう思わなければ、手を止めた瞬間に自分が勇者でなくなってしまう気がした。


 魔法使いミレイユは、門の脇に腰かけて分厚い魔導書を膝に置いていた。三年間で、彼女は最終決戦用の禁呪を千回以上確認した。もはや詠唱は体に染みつき、寝言でも発動しそうになる。最近は、夢の中で魔王を倒し、目が覚めるとまだ門前にいる。その落差に慣れてしまった自分が、少し嫌だった。


 僧侶セリアは、白い杖を胸に抱いて祈っていた。神へ。世界へ。そして、もう名前を呼ぶことすらためらわれる誰かへ。神託は三年前から沈黙している。けれど彼女は祈り続けた。祈ることをやめれば、自分がここにいる理由まで失ってしまうからだ。


 盗賊ガルドは、地面にしゃがみこんでいた。彼は門前に仕掛けられた落とし穴を、三年前から観察し続けている。罠の構造はすでに完全に理解していた。解除もできる。だが解除してしまうと、自分の役割がひとつ減る。だから彼は、毎日「今日こそ解除していいか」と聞きながら、今日も解除しない。


「勇者様」


 ミレイユが魔導書を閉じた。


 乾いた音が、門前の石畳に小さく響く。彼女はその音を何度聞いたかわからない。最初のころは、魔導書を閉じるたびに胸が高鳴った。これで準備は整った。次こそ扉が開く。次こそ最終決戦が始まる。そう信じていた。


 だが、同じ動作を千回以上繰り返すと、儀式は祈りではなく癖になる。魔導書のどのページにどの折れ目がついているか、指先だけでわかるようになった。禁呪の詠唱は、もはや意味よりも先に舌が覚えている。覚えすぎた言葉は、彼女の中で少しずつ重さを失っていた。


「今日で、詠唱確認が千九十六回目です」


 レオンは聖剣の刃を布で拭いていた。磨く必要など、もうない。三年間、毎朝磨いた剣は、月の光を閉じ込めたように澄んでいる。それでも彼は磨いた。勇者が剣を磨かなくなったら、何をして勇者でいればいいのかわからなかった。


「いいことじゃないか」


「覚えすぎて、寝言で禁呪を唱えるようになりました」


「それは悪いことだな」


 短い返事だった。ミレイユは少しだけ笑った。笑うしかなかった。このやりとりも、何度目かわからない。笑わなければ、たぶん泣いてしまう。泣いてしまえば、自分たちがまだ物語の途中にいるという建前が崩れてしまう。


 ガルドが罠の縁を指で叩く。


 彼はこの罠を、もう家族より長く見ている気がしていた。魔王城の門前に仕掛けられた落とし穴。いかにも最終決戦前の緊張を演出するための罠。最初に見つけたときは、盗賊として胸が躍った。解除してやろうと思った。仲間のために、最後の道を開くのだと思った。


 だが、扉は開かなかった。


 罠は解除されないまま、そこにあり続けた。やがてガルドは、罠の板の軋む音で天気がわかるようになり、落とし穴の縁に生えた苔の成長を見守るようになった。罠を解除すれば一歩進んでしまう。進んでしまえば、終わりが来る。終わりを待っているくせに、終わりの手前を守っている。そんな自分の矛盾に、彼はとっくに気づいていた。


「なあ、この罠さ、もう解除していいかな」


 レオンは剣を磨く手を止めなかった。


「駄目だ。最終決戦前に罠を解除すると緊張感がなくなる」


「俺の膝の緊張感は限界なんだが」


 ガルドは軽く言ったが、膝だけではなかった。待ち続けるというのは、意外と身体に来る。戦場の痛みなら誇れる。だが、いつ来るかわからない続きを待って腰と膝を痛めるなど、盗賊としても登場人物としても、あまりに締まらない。


 セリアが目を開けた。


 彼女の祈りは、三年間で少しずつ形を変えていた。最初は勝利を祈った。次に、仲間の無事を祈った。その次には、どうか今日こそ扉が開きますようにと祈った。二年目の終わりごろからは、祈る内容がなくなった。言葉は消え、形だけが残った。指を組み、目を閉じ、神に向かう姿勢を取る。そうしていれば、自分がまだ僧侶でいられる気がした。


 神託は、三年前から沈黙している。


 その沈黙を、神の試練だと思った時期もあった。だが今は違う。沈黙は沈黙だ。意味を与えているのは、待っている自分たちのほうなのかもしれない。そう思うたび、セリアは少しだけ怖くなる。もし神が何も言っていないのなら、自分は何を信じてここに立っているのか。


「神託は今日も無言です」


 レオンは、今度だけ少しだけ手を止めた。


 神託という言葉は、彼ら全員の胸に小さな影を落とす。勇者として選ばれたこと。聖剣を授かったこと。魔王を倒せと言われたこと。それらはすべて、神の言葉によって意味づけられていた。だから神が黙ると、彼らは自分たちの旅の意味まで黙り込んだような気がする。


「神も忙しいんだろう」


 レオンは軽く返した。


 軽く返すしかなかった。


「三年も?」


「神だぞ。納期という概念がない」


「うらやましいですね」


 軽口は、彼らの日課だった。そうしていなければ、耐えられなかった。三年前、彼らは魔王城の門前にたどり着いた。世界を焼いた魔王との最後の戦い。聖剣を手にした勇者。神託に選ばれた仲間たち。失われた王国の秘密。すべての伏線が、この扉の向こうで回収されるはずだった。


 だが、次回は来なかった。


 最初の一年は、皆が待った。二年目には、待つことに慣れた。三年目になると、誰も「なぜ」とは聞かなくなった。聞いてしまえば、答えがないことまで確定してしまう気がしたからだ。


 その日、魔王城の門前に、紙の端をめくるような音がした。


 ぺらり。


 最初に気づいたのは、セリアだった。祈りを終えたばかりの彼女が、ふと顔を上げる。風が吹いたわけではない。門が開いたわけでもない。けれど、世界のどこか薄いところに、指先が差し込まれたような気配があった。


 次に、ミレイユの魔導書が勝手にめくれた。禁呪のページではない。白紙だった。何も書かれていないはずの余白に、細い黒線が一本走る。その線はページの端まで届くと、紙そのものを切り開くように光った。


「待ってください」


 ミレイユが立ち上がる。


「この魔力、見たことがありません」


「魔力じゃない」


 ガルドが罠から離れ、短剣に手をかけた。盗賊の勘が、扉でも壁でもない場所に入口が生まれたことを告げていた。


「紙の匂いがする」


 レオンは聖剣を持ち上げた。三年間、魔王城の門だけを見てきた彼らの視線が、初めて別の場所に集まる。石畳の上、何もなかった空間に、白い縦線が浮かんでいた。線はゆっくりと左右に開く。まるで巨大な本のページが、内側からめくられていくようだった。


 そこから、会社の蛍光灯の白さが一瞬だけ漏れた。


 魔王城の曇天とは違う、平坦で疲れた光。その光を背にして、黒いスーツ姿の男が一歩踏み出した。革靴の底が石畳を踏む。場違いな音だった。剣も鎧も持たず、外套もまとわず、彼はただ少し眠そうな顔で、終末の門前に立った。


 続いて、小さな文庫本を抱えた少女が現れた。


 少女は、男より半歩後ろに立っていた。だが控えているようには見えなかった。むしろ、男が不用意に物語の奥へ踏み込みすぎないよう、ページの端を指で押さえているように見えた。彼女の手にある白いしおりが淡く光り、開いた裂け目は静かに閉じていく。


 魔王城の門前に、奇妙な沈黙が落ちた。


 彼らは敵には見えなかった。味方にも見えなかった。勇者一行の誰もが、直感的に理解した。これはこの物語の登場人物ではない。旅の途中で出会う賢者でも、隠しイベントの案内人でも、神の使いでもない。もっと外側の、ページをめくる手に近い何かだ。


 レオンが聖剣を構える。


「何者だ」


 男は周囲を見渡し、空を見上げ、魔王城を見た。黒雲、尖塔、止まった門、燃え尽きない松明、三年分の待機疲れを背負った勇者一行。その全部を一通り確認して、彼は眉を寄せた。


「更新停止型か」


 勇者一行は、誰もその言葉の意味を知らなかった。


 ミレイユが魔導書を抱え直し、セリアが不安そうに眉を寄せる。ガルドは小さく舌打ちし、レオンは聖剣をわずかに上げた。


 男はその反応を気にした様子もなく、現場に向けた第一声で言った。


「うわ」


 ガルドが眉をひそめる。


「なんだ、うわって」


「いや、思ったより終盤で止まってるなと」


 ミレイユが杖を構えた。


「あなたたちは何者ですか」


 男は胸ポケットから名刺を取り出した。


「株式会社エンドロール・サービス。最終回代行部、結城了太郎」


「最終回……代行?」


「終われなくなった物語に、幕を引く仕事だ」


 栞が文庫本を開いた。白紙のページに、細い文字が淡く浮かび上がる。


「未完放置案件です。最終決戦直前で本文更新が停止。以後、物語内時間だけが三年経過しています」


「要するに」


 了太郎は、止まった門を親指で示した。


「未完作品だ。作者が続きを書かなくなった」


 セリアが息を飲んだ。レオンは名刺を受け取らなかった。


「俺たちを終わらせに来たのか」


「正確には、終わり方を確認しに来た」


 ガルドが鼻で笑った。


「確認? そんなもん決まってるだろ。勇者が魔王を倒す。世界が救われる。俺たちは泣く。城が崩れる。最後に朝日。はい、拍手」


 ミレイユが続けた。


「ついでに勇者様は死にます。聖剣の代償で」


 空気が少しだけ冷えた。レオンは剣から目を離さない。


「ミレイユ」


「みんな知っています。知らないふりをしていただけです」


 セリアが杖を握りしめた。


「神託の最後の一節。『選ばれし剣は、魔を断ち、己をも断つ』。比喩だと思いたかった」


 ガルドが頭をかいた。


「俺も、王家の血筋らしいからな。レオンが死んだあと国をまとめる役だろ。やだよ、俺。王様の椅子より酒場の椅子がいい」


 栞が文庫本を開いた。


「確認します。本作『聖剣のアルカディア』最終構想メモによれば、魔王の正体は勇者レオンの実兄。聖剣は魔王を討つと同時に勇者の生命を吸収し、世界の穢れを浄化。魔法使いミレイユは未来より来た勇者の娘。僧侶セリアは神託の虚偽を知りながら旅に同行。盗賊ガルドは失われた王家の末裔」


 ガルドが両手で顔を覆った。


「やっぱり王家かよ。俺、税制とかわかんねえぞ」


 ミレイユは顔をしかめた。


 ミレイユは、栞が読み上げた構想メモの中で、自分の名前だけを少し遅れて受け取ったようだった。


「私は、勇者様の娘なんですか」


 問いかけられた栞は、文庫本の該当箇所に視線を落としたまま答えた。


「構想上は、そうなっています」


 ミレイユはレオンを見た。レオンもまた、どう反応していいかわからない顔をしていた。三年間、仲間として背中を預けてきた相手が、実は未来から来た自分の娘である。そう言われて納得できるほど、彼は器用ではなかった。


「年齢差がおかしくありませんか」


 ミレイユの声には、困惑と怒りと、わずかな現実逃避が混じっていた。


「時間移動で処理予定です」


 栞は淡々と答える。


「なお、時間移動型の登場人物は、自身の来歴を認識しない設計になる場合があります。記憶と役割は組み込まれますが、経緯の自覚は省略されています」


「便利ですね、時間移動」


「作者もそう思ったようです」


 了太郎が横目で栞を見た。


「作者の悪口は控えめにしろ」


「事実です」


 その軽いやりとりに、誰も笑わなかった。


 情報は冗談の形をしていたが、受け取った側にとっては、自分の人生をあとから書き換えられるような話だった。ミレイユは魔導書の表紙を指で押さえ、セリアは唇を結び、ガルドは「王家の末裔」という言葉がまだ耳に残っているのか、落ち着かない様子で自分の手の甲を見ていた。


 レオンは、ようやく聖剣を鞘に収めた。


 金具が鳴る。その音は、戦いをやめる音ではなかった。むしろ、覚悟を一度、身体の中へしまい直す音だった。


「それが、本来の結末か」


 レオンは了太郎に尋ねた。


 了太郎は頷いた。


「ああ。少なくとも、残されたメモではそうなっている」


 レオンは少しのあいだ黙った。


 魔王が兄であること。聖剣が自分の命を奪うこと。ミレイユが未来から来た娘であること。セリアが神託の虚偽を知ること。ガルドが王家の血を継ぐこと。どれも、いま聞いたばかりの真実だった。真実と呼ぶには、あまりにも突然で、あまりにも都合がよく、あまりにも重かった。


 それでも、レオンは勇者だった。


 勇者とは、物語に意味を与えられた者のことだ。誰かが敷いた道でも、そこに世界を救う理由があるなら歩く。自分が死ぬことになっていても、それが仲間と世界のためなら、受け入れる。三年間、彼はそうやって自分を保ってきた。


 だからレオンは、静かに言った。


「なら、それをやればいい」


 ミレイユが顔を上げた。


「勇者様」


 その声には、止めたい気持ちが滲んでいた。だが、止めるための言葉はまだ見つかっていない。彼女自身も、自分が何者なのかを突きつけられたばかりだった。


 レオンは仲間たちを見た。ミレイユ。セリア。ガルド。誰もが疲れていた。三年待った者の顔をしていた。物語の続きを待つだけで、心はすり減る。けれどその摩耗すら、彼らにとってはここまで来た証だった。


「俺たちは、そのためにここまで来た」


 レオンの声は静かだった。怒りもない。怯えもない。ただ、長く待ちすぎた人間の声だった。


「三年待った。俺は毎朝剣を磨いた。ミレイユは魔法を忘れないようにした。セリアは祈った。ガルドは罠を見張った。魔王もきっと、扉の向こうで待っている。なら、やろう。神が書いた筋書きがあるなら、それを」


 了太郎は黙っていた。その沈黙の中に、彼自身の古い痛みがあった。彼にも、物語があった。荒野を駆ける剣士。死んだ父の謎。片目の宿敵。まだ名前だけしか出ていない奥義。連載三巻の途中で、彼の世界は終わった。いや、終わりすらしなかった。あるページを境に、次のページが来なくなった。


 彼はずっと思っていた。本当は、どんな最後だったのか。自分は何者になるはずだったのか。誰を救い、誰を失い、どんな顔で終わるはずだったのか。


 だから了太郎は、作者の構想メモを見るたびに、どこかでそれを信じたかった。書かれなかったとしても、神の中には答えがあったのだと。未完になった物語にも、本当の結末がどこかに眠っているのだと。


「わかった」


 了太郎は言った。


「本来の筋書きをなぞる」


 栞が少しだけ彼を見上げた。


「原案準拠ですね」


「仕事だからな」


「そうですね。仕事です」


 その言葉は淡々としていたが、了太郎にはわずかな棘のように聞こえた。栞はいつもそうだ。止めるときも、許すときも、真正面からは言わない。けれど彼女の指が文庫本のしおりを押さえる角度で、了太郎にはだいたいわかる。彼女は今、少しだけつまらなそうにしている。


 魔王城の扉が開いた。三年分の沈黙が、重い音を立てて左右に割れる。


 玉座の間は広く、冷たかった。黒い石柱が並び、その奥に魔王が座っていた。巨大な角。赤い瞳。黒い外套。世界を滅ぼすにふさわしい威容。ただし、膝の上には温かそうな毛布がかかっていた。


 側近がそっと囁く。


「陛下、勇者が来ました」


 魔王は目を閉じたまま答えた。


「知っている。三年前から、その予定だ」


「腰は?」


「聞くな」


 レオンが一歩進む。魔王がゆっくりと立ち上がる。毛布が玉座から落ちた。


「よく来た、勇者よ」


 その声は低く、広間全体を震わせた。


 ガルドが小声で言った。


「ちゃんと魔王っぽいな」


 ミレイユも小声で返す。


「三年練習したのかもしれません」


 セリアが囁く。


「声帯に努力を感じます」


 魔王のこめかみがぴくりと動いた。


「聞こえているぞ」


 ガルドが親指を立てた。


「いい魔王声だぜ」


「褒めるな。調子が狂う」


 了太郎は思わず息を吐いた。


 こういう会話があるから、物語は厄介だ。


 役割だけなら、魔王は魔王で済む。勇者は勇者で済む。倒す者と倒される者。救う者と滅ぼす者。設定表の上なら、それで十分だった。魔王の欄には「勇者の兄。最終決戦で討たれる」と書かれ、勇者の欄には「聖剣の代償で世界を救う」と書かれる。魔法使いは未来から来た娘。僧侶は神託の秘密を知る者。盗賊は王家の末裔。それぞれが自分の欄に収まっていれば、物語はきれいに終わる。


 だが、現場は設定表ではない。


 魔王が腰を痛める。側近が毛布を差し出す。盗賊が罠に愛着を持つ。魔法使いが自分の年齢設定に文句を言う。僧侶が神より先に整体を求める。そういう余計な言葉が交わされるたびに、登場人物は少しずつ役割からはみ出していく。


 了太郎は、それを何度も見てきた。


 告白するだけだったヒロインが、待っているあいだに別の夢を持つ。犯人として裁かれるはずだった男が、罪を認める前に誰かを救ってしまう。悪役令嬢が破滅する日を待つうちに、自分の悪意を持て余して花を育て始める。物語は、止まっているように見えても、登場人物の内側だけは止まらない。


 だから、会話は危ない。


 誰かが誰かに冗談を言う。誰かがそれに答える。たったそれだけで、役割の奥から人間が顔を出す。顔を出した人間は、もう簡単には元の欄に戻らない。


 了太郎は、魔王と勇者たちの軽口を聞きながら、胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。


 この仕事において、「神」とは作者のことだ。神の意図は作者の構想であり、神のシナリオは原案メモを指す。神が沈黙するとは、作者が筆を置いたことと同じ意味を持つ。


 これは原案準拠で済む案件だ。構想メモも残っている。ジャンルも強い。終わり方も明確だ。会社的には、何ひとつ難しくない。


 それなのに、少し厄介だと思った。


 魔王の声に、倒される者の諦めだけではないものが混じっている。勇者の沈黙に、世界を救う者の覚悟だけではないものが沈んでいる。ミレイユの皮肉にも、セリアの祈りにも、ガルドの笑いにも、三年という時間が染み込んでいる。


 了太郎は知っていた。


 こういう物語は、原案通りに終わらせることはできる。だが、原案通りに終わらせたあとで、何かが残る。


 それは未回収伏線よりも厄介なものだ。


 登場人物が、自分の望まなかった最終回を覚えてしまうこと。


「始めよう」


 レオンが言った。


 聖剣が光る。ミレイユが詠唱を始める。セリアが祈る。ガルドが短剣を抜く。魔王は黒い炎をまとった。すべてが、美しかった。きっと、これが本来の最終回だった。


 勇者は魔王と剣を交えた。火花が散る。床が割れる。柱が砕ける。ミレイユの魔法が闇を裂き、セリアの祈りが光を呼び、ガルドの短剣が魔王の死角を刺す。了太郎は、その戦いを見ていた。どこかで羨ましかった。彼にはなかった最終決戦。彼には訪れなかった回収。彼には与えられなかった、意味ある終わり。


 レオンの聖剣が、ついに魔王の胸を捉えた。


 構想メモ通りだった。ここで魔王は笑う。自分が兄であることを明かす。勇者は涙をこらえて剣を突き立てる。世界は救われる。勇者は死ぬ。美しい悲劇が完成する。


 そのはずだった。


 魔王ヴァルドは、刃の切っ先を見ていた。


 恐怖はなかった。三年前なら、彼はきっと笑っていた。魔王らしく、ラスボスらしく、世界を憎んだ者のように。弟よ、と呼びかけ、遅すぎる真実を突きつけ、勇者に宿命の重さを背負わせ、そのうえで討たれる。それが自分に与えられた終わりだと知っていたからだ。


 いや、知っていた、というより、思い出しかけていた。


 魔王として生まれた彼の記憶には、ところどころ不自然な空白があった。幼い弟の手を引いていたような気がする。王都の外れで、夕焼けの下、まだ剣も握れない小さな子どもに木の枝を持たせたような気がする。けれど次の場面では、自分は魔王城の玉座に座っていた。人間を憎み、神を呪い、勇者を待つ者として。


 それが「設定」なのだと、彼はどこかで理解していた。


 魔王は勇者の兄である。だが勇者はそれを知らない。魔王は最後の瞬間にだけ、その真実を告げる。その真実は、勇者の剣を止めるためではなく、勇者の犠牲をより美しくするために用意されている。


 なんと都合のいい血縁だろう、と三年前のヴァルドは思っていた。


 それでもよかった。魔王とは、倒されるための役割だ。憎まれ、恐れられ、最後に勇者の光を際立たせるための影だ。自分が兄であることも、弟に殺されることも、この物語が美しく終わるためなら受け入れられる。そう思っていた。


 けれど、扉は開かなかった。


 一日目、ヴァルドは玉座で威厳を保っていた。二日目も、十日目も、一か月目もそうだった。勇者がいつ入ってきてもいいように、赤い瞳を細め、黒い外套を広げ、滅びる魔王としての姿勢を崩さなかった。


 半年が過ぎたころ、側近が毛布を持ってきた。


「陛下、腰が」


「魔王に腰はない」


「あります」


 そうして毛布が玉座に定着した。一年が過ぎると、待つことは儀式ではなく生活になった。二年目には、魔王軍の食堂改善案に目を通すようになった。三年目には、勇者が入ってきたら最初に何を言うべきかを、夜ごと考えるようになっていた。


 本来なら、彼は最後の瞬間に「我こそは汝の兄」と告げればよかった。


 しかし三年という時間は、設定を感情に変えてしまった。


 弟だったのか、と彼は思った。あの勇者は、ただ自分を討つために来る光ではなく、かつて自分が手を引いたかもしれない子どもなのか。聖剣を握るその手は、自分が木の枝を握らせた小さな手の先にあるのか。そう考えてしまったら、もう駄目だった。


 彼は何度も練習した。


 よく来た、勇者よ。


 我が名は魔王ヴァルド。


 そして、我はお前の兄だ。


 台詞は何度も言えた。だが、その後に続くはずの笑いだけが、どうしても出なくなった。弟に殺されるために兄だと名乗る。その構図の美しさよりも、あまりに遅くなった再会の残酷さのほうが、彼の中で大きくなっていった。


 もし扉がすぐに開いていれば、彼は魔王として死ねただろう。


 だが三年待った。


 待っているあいだに、魔王は兄になってしまった。


 だから、刃が胸を捉えたその瞬間、ヴァルドは笑えなかった。


 ただ、レオンを見た。赤い瞳の奥に、三年分の時間があった。滅びのための威厳ではなく、言いそびれた言葉ばかりを抱えた、ひとりの兄の時間があった。


「大きくなったな」


 それは、魔王の台詞ではなかった。


 兄の声だった。


 聖剣が止まった。レオンの手が震える。


「今、それを言うのか」


「三年、考えていた」


「こっちは十七年知らなかった」


「すまない」


 その一言は、玉座の間のどの魔法よりも深く響いた。


 レオンは返す言葉を失った。怒りたいはずだった。なぜ黙っていたのか、なぜ自分を勇者としてここまで歩かせたのか、なぜ兄でありながら魔王の玉座に座っていたのか。問い詰めるべきことはいくつもあった。けれど、目の前の男が魔王の仮面を剥がされ、ひとりの兄として立っているのを見た瞬間、レオンの中で、これまで積み上げてきた勇者としての言葉が音をなくした。


 玉座の間に、誰も動けない沈黙が落ちた。


 最初に杖を下ろしたのは、ミレイユだった。硬い音を立てて杖の先が石床に触れる。彼女の足元には、いつの間にか薄い魔法陣が浮かび上がっていた。まだ発動していない。けれど、その紋様を彼女は知っていた。父を失う場面に立ち会う者のための魔法。未来から来た娘という、彼女自身にも覚えのない役割が、足元から静かに彼女を縛ろうとしている。


「私は」


 ミレイユは喉の奥で一度言葉を止めた。いつもの皮肉は出てこなかった。


「勇者様の死を見届けるために、ここにいたんですか」


 栞が文庫本に目を落とす。答えはそこに書かれている。だからこそ、彼女は少しだけ間を置いた。


「構想上は、そうです」


 ミレイユは笑わなかった。怒りもしなかった。ただ、魔導書を抱く腕に力を込めた。三年間、彼女は最終決戦のために呪文を磨いてきた。勇者を勝たせるために。世界を救うために。けれど、その勝利の先に勇者の死があるのなら、自分の魔法は何を支えていたのか。


 彼女は杖を完全に下ろした。


「最悪ですね」


 その声は小さかったが、はっきりしていた。


 セリアは祈る手を解いた。指先が白くなるほど組み続けていた手をほどくと、掌には爪の跡が残っていた。神託の最後の一節は、彼女の中でずっと棘のように刺さっていた。選ばれし剣は、魔を断ち、己をも断つ。その意味に気づいていながら、彼女は祈り続けた。祈っていれば、神が別の言葉をくれるかもしれないと思っていた。


 だが神は、三年間沈黙した。


 セリアはゆっくりと息を吐いた。


「もう、聞きません」


 それは反抗というより、長い祈りを終える声だった。


 ガルドは短剣を鞘に戻した。乱暴な仕草だったが、その指先はわずかに震えていた。王家の血筋。勇者亡き後に国を継ぐ者。聞こえは立派だ。酒場で語れば、誰かは拍手するかもしれない。だがそれは、友の死を土台に置いた椅子だった。


 ガルドは自分の手の甲を睨む。まだ紋章は浮かんでいない。それでも、そこに見えない王冠の重さを感じた。


 彼は笑おうとして、失敗した。


「レオンが死んだあとに王様やれって? 悪いが断る。俺は友達の葬式を国づくりの第一歩にしたくねえ」


 レオンは聖剣を下ろした。


「俺たちは、これを待っていたのか」


 誰も答えなかった。


「俺が兄を殺して、俺も死んで、世界が救われて、みんなが泣いて、朝日が昇る。そういう話だったんだな」


 了太郎は言った。


「そうだ」


「たぶん、綺麗な終わりだった」


「ああ」


「でも、俺たちは三年待ってしまった」


 レオンは、聖剣の光を見つめた。


「その三年で、考えてしまった。俺が死んだあと、ミレイユがどう生きるのか。セリアが何に祈るのか。ガルドが王様になって酒場で愚痴るのか。魔王軍の民がどうなるのか。兄さんが、本当にただ殺されるべき悪なのか」


 魔王が目を閉じた。


「レオン」


「俺たちは、最終回の先を想像してしまったんだ」


 了太郎の胸に、その言葉は深く刺さった。最終回の先。彼はずっと、最終回を欲しがっていた。自分に与えられなかった最後の一ページを。作者が用意したはずの答えを。でも、本当は。終わりがなかったから、自分はここまで来たのかもしれない。書かれなかった余白を抱えて、他人の物語に幕を引く仕事を選んだ。なら、その余白は呪いだったのか。それとも、自由だったのか。


「了太郎さん」


 栞が小さく呼んだ。


「処理を続行しますか」


 それは、会社員としての確認だった。原案準拠で処理を続けるのか。それとも、現場判断で処理区分を変更するのか。栞の声はいつも通り平坦だったが、了太郎にはその奥に、小さな緊張が混じっているのがわかった。


 了太郎はすぐには答えなかった。


 このままなら、仕事は簡単だった。勇者に剣を振らせ、魔王に滅びの台詞を吐かせ、聖剣に命を吸わせればいい。仲間は泣き、空は晴れ、世界は救われる。報告書には「A処理、原案準拠完結」と書けば済む。黒瀬にも怒られない。栞も余計な制御をしなくていい。自分の未完領域も削れない。


 それは、安全な終わりだった。


 けれど、レオンはもう聖剣を下ろしていた。魔王は玉座に戻ろうとしなかった。ミレイユは魔導書を抱えたまま、未来から来た娘という役割を睨んでいた。セリアは祈る手をほどき、ガルドは王家の紋章が浮かびかけた自分の手の甲を、まるで悪い冗談を見るように見ていた。


 了太郎は、ゆっくりと言った。


「確認する」


 彼はまず、レオンを見た。


「お前は、魔王を倒さないのか」


 レオンは即答しなかった。勇者としての三年間が、まだ彼の肩に残っていた。魔王を倒すために歩いてきた。世界を救うために剣を抜いた。仲間たちも、民も、死んだ者たちも、きっとその結末を信じていた。


 それでも彼は、聖剣の柄から指を一本ずつ離すようにして言った。


「倒さない。俺は、この人を魔王として殺すんじゃなく、兄として話したい」


 了太郎は魔王を見た。


「お前は、勇者に討たれる魔王として終わらないのか」


 魔王は、黒い外套の裾を握りしめた。その影はいまだ玉座へ戻ろうとしている。滅ぼされるための威厳。世界に憎まれるための声。長く与えられてきた役割は、皮膚のように彼に貼りついていた。


 それでも魔王は、低く答えた。


「終わらぬ。ワシは、弟に殺されるためだけに三年待っていたわけではない」


 了太郎はミレイユを見た。


「お前は、未来から来た娘として父の死を見届けないのか」


「見届けません」


 ミレイユの声は震えていたが、杖を握る手は強かった。


「私が何者だったとしても、今ここにいる私は、勇者様に死んでほしくありません。未来のために現在を犠牲にする役なんて、こちらから降ります」


 了太郎はセリアを見た。


「お前は、神託に従わないのか」


 セリアは少しだけ目を伏せた。


「従いません。神が三年沈黙したのなら、ここから先は、自分の声で祈ります」


 了太郎は最後に、ガルドを見た。


「お前は、勇者亡き後の王にならないのか」


「ならねえよ」


 ガルドは乱暴に笑った。


「王様になるために友達の死体を踏み台にするくらいなら、俺は罠師でいい。いや、罠師も微妙だな。三年も同じ罠見てたせいで、もう罠とは距離を置きたい」


 その場に、わずかな笑いが起きた。けれど誰も、それがただの冗談ではないことを知っていた。彼らは笑いながら、自分たちに与えられた役割をひとつずつ手放していた。


 了太郎は、そこで初めて念を押した。


「本当にそれでいいんだな」


 今度の問いは、さっきまでの確認とは違っていた。何を望むのかではない。その望みのために、何を敵に回すのかを問う声だった。


 レオンが顔を上げる。


「何が起きる」


「物語が、お前たちを元の場所へ戻そうとする。神の筋書きだけじゃない。ジャンルも、読者の期待も、伏線も、役割も、全部まとめて襲ってくる」


 魔王が低く笑った。


「つまり、神と世間とお約束を敵に回すわけか」


「そういうことだ」


 ガルドが顔をしかめた。


「最終回って、もっと感動的で優しいもんじゃないのかよ」


 栞が事務的に言った。


「原案準拠なら優しいです。抗う場合は、だいたい暴力的です」


 ミレイユが聞いた。


「成功率は?」


「原案準拠が八割以上。改稿完結は二割以下。最大権限開放を使えば上昇しますが、術者への損耗があります」


 セリアが了太郎を見た。


「あなたが傷つくのですか」


「少しな」


 了太郎は軽く言った。軽く言うしかなかった。


 栞の指が、文庫本のしおりを強く押さえる。彼女は了太郎の横顔を見ていた。了太郎はいつもこういう顔をする。面倒だと言いながら、誰よりも先に危険な場所へ踏み込む顔。自分の未完領域が削れることを知っていながら、それを冗談で覆う顔。栞はその顔が好きだった。腹立たしいほど、好きだった。だからこそ、できれば見たくなかった。


「了太郎さん」


 栞が呼んだ。


 了太郎は振り向かなかった。彼女が何を言うかは、わかっていた。最大権限開放は許可制。銀のペンの制御には、栞の承認がいる。彼女が文庫本を閉じれば、了太郎はここから先へ進めない。少なくとも、正規の手続きでは。


 栞は胸に抱いた文庫本の背を、指先でなぞった。いつもなら淡々と読み上げる規定文が、このときだけ少し遅れた。


「最大権限開放は、許可制です」


「ああ」


「私は、許可を出さないこともできます」


「知ってる」


 了太郎の返事は軽かった。だが栞は、彼の肩がわずかに強張っているのを見逃さなかった。銀のペンを抜く前、了太郎はいつも少しだけ黙る。自分の中のどの未来を差し出すのか、無意識に数えているような沈黙だった。


 栞はその沈黙が嫌いだった。


 彼女は了太郎が銀の線を走らせる瞬間を、誰より美しいと思っている。その線が、登場人物を役割から解き放つことも知っている。けれど同時に、そのたび了太郎の中の何かが削れていくことも知っていた。誰も読まなかった彼の最終回。名づけられなかった奥義。宿敵と交わすはずだった最後の言葉。そういうものが、少しずつ薄くなる。


 それでも、了太郎は笑うのだ。


 困ったように、面倒くさそうに、まるで自分の痛みだけは勘定に入っていないみたいに。


「無理をしないでください」


 その言葉だけ、栞の声は少しだけ少女のものになった。


 了太郎は、ようやく彼女を見た。そして、いつものように笑った。


「無理かどうかは、終わってから考える」


「最低の判断基準です」


「いつものことだ」


 栞は小さく息を吐いた。呆れたため息に見えたが、その奥には、諦めきれない祈りのようなものがあった。


 そのやりとりを聞いていたレオンが、聖剣を握り直した。刃はまだ光っている。世界を救えと命じるように。魔王の胸を貫けと急かすように。それでもレオンは、その光に従わなかった。


「俺は、魔王を殺さない」


 それは叫びではなかった。自分自身に刻みつけるような声だった。


「勇者としてここまで来た。世界を救うために剣を抜いた。だからこそ、俺はこの剣で兄を殺す結末を選ばない。誰かひとりの死で救われる世界なら、救い方のほうを変える」


 魔王ヴァルドも、玉座の影を背にして立っていた。黒い外套はまだ彼を魔王へ戻そうとしている。角の影は壁に伸び、赤い瞳には滅びの火が宿りかけている。それでも彼は、玉座に背を向けた。


「ワシは、弟に殺されるだけの魔王では終わらない。滅びるために兄だと名乗るくらいなら、魔王の名を捨てる。ワシは、ヴァルドとして、レオンと話す」


 ミレイユは魔導書を閉じた。厚い表紙が鳴る。その音で、足元に浮かびかけていた未来の魔法陣がかすかに揺らいだ。


「私は、未来から来た娘という役を降ります。誰かの死を証明するために存在するなんて、冗談じゃありません。たとえそれが作者の設定でも、私は今ここにいる私として、勇者様に生きてほしい」


 セリアは杖を下ろした。祈りの形に慣れきった指を、ゆっくり開く。


「私は神託を破棄します。三年待っても神が沈黙するのなら、ここから先は、自分の言葉で祈ります。勇者様の死を、美しい犠牲などとは呼びません」


 ガルドは短剣を回して鞘に収めた。軽い仕草だったが、その目は笑っていなかった。


「俺は王様を保留にする。友達の死体の上に置かれた王冠なんざ、重すぎて首が折れる。王家の血筋は、まあ、都合のいいときだけ使う。酒場のツケを踏み倒すときとか」


 ミレイユが睨んだ。


「最低ですね」


「だから王に向いてないって言ってんだろ」


 わずかな笑いが、玉座の間に生まれた。だがそれは、緊張をごまかすための笑いではなかった。彼らが自分の役割から一歩ずつ離れていく、その足音のような笑いだった。


 了太郎は、ゆっくりと銀のペンを抜いた。


「栞」


 呼ばれる前から、栞は文庫本を開いていた。白いしおりを中央に置く。その指先は、ほんの少しだけ震えていた。


「終幕権限、レベル四から五へ。最大開放申請。現場判断、結城了太郎。補佐、栞。対象作品『聖剣のアルカディア』。処理分類、A処理からC処理を経由し、X処理へ移行」


 彼女は一拍置いた。


 その一拍のあいだに、栞は了太郎の横顔を見た。これから彼が削るものを、彼自身よりも少しだけ正確に想像した。それでも、この場で文庫本を閉じることはできなかった。レオンたちの選択は、もう物語の外側から処理されるべきものではない。彼ら自身が選んだ結末だった。


 だから栞は、しおりを深く差し込んだ。


「許可します」


 魔王城が震えた。


     *


 レオンが聖剣を下ろした瞬間、玉座の間の空気が軋んだ。


 音ではなかった。もっと根源的な、物語そのものが歯ぎしりをするような感触だった。黒い石柱に刻まれていた古代文字がひとつずつ赤く灯り、天井の闇が巨大な瞳のように見開かれる。魔王城全体が、彼らの選択を拒むように震えた。


 聖剣が勝手に鳴った。


 レオンの手の中で、銀白の刃が命を持ったように震え、ふたたび魔王の胸へ向かおうとする。レオンは歯を食いしばって柄を握り込んだが、腕が逆らえない。彼の意志ではない力が、肘を、肩を、背骨を、勇者という役割へ押し戻していく。


「ぐっ……!」


 レオンの足が一歩、前に出た。


 魔王もまた、己の胸に黒い炎が集まるのを感じていた。怒りではない。憎しみでもない。かつて作者が彼に与えた、滅びるための威厳だった。黒い外套が風もないのに広がり、角の影が玉座の間の壁いっぱいに膨れ上がる。弟に手を伸ばそうとした指が、ゆっくりと爪を立てる形に変わっていく。


「馬鹿な……まだ、ワシを魔王に戻す気か」


 魔王の声は、半分ほど別のものになっていた。ラスボスの声だった。聞く者の魂を震わせ、憎悪と恐怖を呼び起こす、よくできた終幕の声だった。


 ミレイユの足元に、複雑な魔法陣が勝手に広がる。彼女の喉から、覚えたことのない詠唱がこぼれた。未来から来た娘として、父を失う場面に立ち会うための呪文。セリアの杖は白く輝き、彼女の意思に反して神託の最終句を読み上げようとする。ガルドの手には王家の紋章が浮かび、盗賊の指ではなく、王の指として剣を握らせようとした。


「おいおいおい、ちょっと待て! 俺の手の甲に急に高貴な模様出すな! こっちは庶民でやってきたんだぞ!」


 ガルドの叫びは笑えた。だが、その笑いを飲み込むように、玉座の間の奥から巨大なページが現れた。空間そのものが一冊の本になり、彼らの頭上でめくられていく。そこには、まだ書かれていないはずの最終話が、黒い文字でびっしりと刻まれていた。


 勇者、魔王を討つ。


 聖剣、勇者の命を代償に世界を浄化する。


 魔法使い、父の死を見届ける。


 僧侶、神の真実を知り涙する。


 盗賊、王として立つ。


 夜明け。朝日。仲間たちの涙。完。


 それは美しかった。あまりにも整っていた。あまりにも王道だった。あまりにも、読者が知っている悲劇の形をしていた。だからこそ強かった。物語のセオリーは、鎖よりも固い。誰もが一度は見たことのある展開は、誰もが納得してしまう分だけ、抗いがたい。


 レオンは奥歯を噛みしめた。聖剣の切っ先は、もう魔王の胸元まで迫っている。


「違う……俺は、もう……」


 その瞬間、レオンは見た。


 聖剣を鞘に収めた自分が、魔王城の食堂でぎこちなく兄と向かい合っている光景を。魔王が不器用にパンをちぎり、何を話せばいいのかわからず、結局「スープは温かいか」とだけ聞いてくる未来を。ミレイユが未来から来た娘という設定を紙に書いて丸め、暖炉に投げ込んでいる未来を。セリアが神殿を出て、小さな診療所で祈りではなく誰かの手を握っている未来を。ガルドが王冠を質屋に持ち込みかけて怒られている未来を。


 ありふれていて、面倒で、締まりがなくて、英雄譚としては落第点みたいな未来。


 けれど、そこに自分たちは生きていた。


 魔王も同じものを見ていた。彼は玉座ではなく、食卓に座っていた。膝には毛布ではなく、レオンが雑に渡した上着がかかっていた。側近が呆れ顔で給仕をし、魔族の子どもが廊下を走り、誰も彼を世界の災厄とは呼ばなかった。魔王は思った。滅びのために用意された自分にも、こんなつまらなくて温かい場面を望む心があったのか、と。


 だが、その未来は一瞬で黒い文字に塗り潰された。


 勇者は死ぬ。


 魔王は滅びる。


 物語は完成する。


「ふざけるな……」


 レオンの声が震えた。聖剣は止まらない。腕はもう自分のものではなかった。魔王の黒炎も膨れ上がる。もしこのままぶつかれば、筋書きどおり、世界は救われる。美しい犠牲と涙の最終回が成立する。


 それでもレオンは、血が滲むほど柄を握った。


「ふざけるなよ。ここまで来て、他人の書いたシナリオどおりに……なってたまるか」


 魔王が笑った。苦しげに、けれど確かに笑った。


「それが神の書いたシナリオでも、か」


 魔王の声は、低く割れていた。兄の声と魔王の声が、同じ喉の奥で押し合っている。弟を案じる声が一瞬顔を出したかと思えば、次の瞬間には、世界を呪うラスボスの響きがそれを塗りつぶそうとする。


 レオンは笑おうとした。だが、うまく笑えなかった。聖剣の光が強まり、柄を握る手の皮膚が焼けるように熱い。勇者としての身体が、弟としての心を置き去りにして進もうとしている。剣を突き立てろ。世界を救え。泣きながら兄を殺せ。それが美しい。それが正しい。それが物語だ。そんな声が、血管の内側から流れ込んでくる。


「知るか」


 レオンは歯の隙間から声を絞り出した。


「三年も待たせた神だぞ。信用ならない」


 魔王は、苦しげに目を細めた。笑ったようにも、泣きかけたようにも見えた。


「言いおる」


 その短い返事のあと、魔王の背後で黒い炎が膨れ上がった。炎は翼の形になり、王冠の形になり、巨大な爪の形になった。魔王ヴァルドという男を、もう一度「世界の敵」の輪郭へ押し戻そうとしている。


 レオンはそれを見て、息を呑んだ。


 兄が遠ざかっていく。


 いま、名前を呼ばなければ、二度と届かなくなる気がした。


「兄さん」


 その呼び方に、魔王の肩がわずかに震えた。


「魔王に戻るな」


 ヴァルドは自分の右手を見た。弟に伸ばしたはずの手は、いつのまにか爪を立て、黒い炎をまとっている。倒されるべき悪。憎まれるべき災厄。そういう形に、世界が彼を整え直していく。


「戻りたくて、戻っているわけではない」


 彼は爪を握り込んだ。炎が掌の中で潰れ、黒い火花が床に散る。


「役割というのは、意外としつこい。三年待った程度では、剥がれてくれぬらしい」


 レオンは一歩踏みとどまった。膝が震える。聖剣はなおも前へ進もうとする。勇者の腕は、物語に所有されている。だが、声だけはまだ自分のものだった。


「だったら」


 レオンの腕がさらに押し出される。聖剣の光が魔王の胸を焼いた。


「だったら、誰か切ってくれ。俺たちを、この筋書きから」


 その声は、了太郎の胸を貫いた。


 彼は動けずにいた。目の前で展開しているのは、完成度の高い最終回だった。自分が一度も手に入れられなかったもの。意味のある死。回収される伏線。涙の置き場所。きれいな幕切れ。


 あの頃の自分なら、泣いて欲しがったかもしれない。父の謎を知りたかった。宿敵と戦いたかった。名もない奥義に名前を与えたかった。自分の物語にも、こういう最後がほしかった。ずっと、ほしかった。


 だからこそ、了太郎は銀のペンを握った。


 欲しかったものが美しいからといって、それが今ここにいる者たちにふさわしいとは限らない。


「栞」


「はい」


「開け」


 栞の表情がわずかに変わった。彼女はもう許可を出していた。それでも、ここで了太郎がもう一度呼ぶことの意味を知っていた。これは手続きではない。覚悟の確認だった。


「最大権限は、物語の反発を受けます」


「知ってる」


「失敗すれば、了太郎さんの未完領域が削られます」


「成功しても多少は削れるだろ」


「はい」


「それは困るな。まだ自分の最終回を見てない」


「では」


「でも、ここで書けなきゃ、俺は何のためにこの仕事をしてる」


 栞は文庫本を開いた。しおりがひとりでに燃え、青白い光となって了太郎の足元に円を描く。円は広がり、玉座の間の床を越え、壁を越え、天井に浮かぶ巨大なページへ届いた。


 栞は了太郎を見た。止めたいと思った。今日くらい、原案準拠で帰ればいいと思った。帰社して黒瀬に怒られず、缶コーヒーを飲みながらくだらない文句を言って、次の案件に向かえばいいと思った。了太郎の未完領域が削れるたび、彼の中のどこかが少しずつ遠くなることを、栞は誰より近くで見ていた。


 それでも、彼女はしおりを押し込んだ。


「終幕権限、最大開放。銀のペン、制御開始」


 了太郎は銀のペンを抜いた。ペン先にはインクではなく、夜明け前の星のような光が宿っていた。


 黒い文字が、彼を見た。


 勇者は死ぬ。


 魔王は滅びる。


 物語は完成する。


 了太郎は吐き捨てるように笑った。


「完成って言葉を、便利に使うなよ」


 彼は宙へ一歩踏み出した。足元に銀の線が走り、何もない空間に階段を描く。二歩目で、玉座の間に降っていた闇が裂けた。三歩目で、巨大なページの余白が白く燃え始めた。


 了太郎はペンを構えた。


 剣ではない。杖でもない。けれどその姿は、勇者よりも勇者らしく、魔法使いよりも魔法使いらしかった。書かれなかった者だけが持つ、余白を切り拓くための武器。


「この物語に、幕を引く」


 銀のペン先が走った。


 それは一筋の線だった。だが、その一筋は玉座の間を横切り、黒いページを貫き、聖剣に絡みついていた運命の鎖を切り裂いた。線は光の尾を引きながら何重にも弧を描き、まるで夜空に新しい星座を刻むように、勇者たちの頭上に未来の輪郭を描いていく。


 黒い文字が悲鳴を上げた。


 勇者は死ぬ、という一文がほどけ、銀の粒子になって散る。魔王は滅びる、という一文が二つに裂け、その間から食卓の灯りがこぼれる。魔法使いは父の死を見届ける、という筋書きが反転し、彼女自身が自分の今日を選ぶための白紙に変わる。僧侶の神託は、祈りではなく沈黙になった。ガルドの王冠は、彼の手の甲から浮き上がり、ただの古い紋章として床に落ちた。


 それでも、物語の強制力は終わらなかった。


 天井の巨大なページから、無数の黒い句読点が降り注いだ。句点は弾丸のように了太郎の肩を撃ち、読点は蛇のように腕に絡みつく。セオリー、予定調和、伏線回収、読者満足、悲劇の完成。名前のない力が、了太郎のペンを止めようとする。


 ペン先が震えた。


 了太郎の視界に、自分の荒野がよぎった。止まったままの夕焼け。三巻で途切れたページ。まだ抜かれていない剣。名前をもらえなかった奥義。こちらを見ていた仲間たちの顔。お前はどう終わるはずだったのか、と問い続ける声。


 その声ごと、了太郎はペンを握り込んだ。


「悪いな」


 誰に謝ったのか、自分でもわからなかった。


「俺もまだ、未完なんだ」


 だからこそ、彼は線を引いた。


 今度の一線は、先ほどよりも細かった。細いのに、深かった。紙を切る線ではなく、迷いと未練の境目をなぞる線だった。勇者が欲しかった悲劇。魔王が受け入れかけた滅び。仲間たちが覚悟していた喪失。作者を待ち続けた三年間。その全部を否定せず、抱えたまま、別の方角へ流していく線。


 レオンの腕が止まった。


 聖剣の光が、魔王の胸元でほどけた。殺すための光ではなく、長い戦争の終わりを告げる鐘のような光に変わっていく。魔王の黒炎もまた、燃え盛る憎悪ではなく、夜明け前の炉火のように小さく温かくなった。


 了太郎は最後の余白にペンを置いた。


 黒いページは、まだ抵抗していた。完、と書かれた一文字が巨大な門のように立ちはだかる。予定された結末の最後の砦。物語を閉じるためではなく、登場人物を閉じ込めるための完結。


 了太郎はその「完」の字に、銀の線を重ねた。


 横線を一本。縦線を一本。跳ねるように斜めへ。ペン先が火花を散らし、黒い文字の内部に白い亀裂が走る。亀裂の向こうに、雨上がりの空が見えた。魔王城の食堂が見えた。停戦協定のために徹夜する彼らが見えた。神殿を出るセリアが見えた。酒場で王家の血筋をネタにされるガルドが見えた。ミレイユが、未来ではなく自分の名前で新しい魔導書を書いている姿が見えた。


 レオンが、魔王に向かって手を伸ばしていた。


 兄弟として。


 了太郎は息を吸った。


「それじゃあ、エンドロールを流そうか」


 最後の一筆が振り下ろされた。


 銀光が爆ぜた。


 世界のすべてのページが一瞬だけめくれた。魔王城の壁も、曇天も、聖剣も、玉座も、登場人物たちの胸の奥に眠っていた台詞も、すべてが白い光の中で紙片となって舞い上がる。その紙片には、彼らが歩かなかった未来、選ばなかった台詞、捨てた悲劇、守った希望が刻まれていた。未回収の伏線たちは流星のように尾を引き、消えるのではなく、夜空の奥へ収められていく。


 そして、玉座の間に文字が降った。


 エンドロールだった。


 勇者レオン。魔王ヴァルド。魔法使いミレイユ。僧侶セリア。盗賊ガルド。側近。名もなき魔族たち。はじまりの村の人々。旅の途中で助けた子ども。死ななかった未来。選ばれなかった悲劇。神を待つことをやめた者たち。


 名前が流れていくたびに、彼らの体から役割の鎖が外れていった。勇者の肩から、世界をひとりで背負う重さが落ちる。魔王の角から、滅びの象徴としての影が薄れる。ミレイユの瞳から、未来の義務が消える。セリアの手から、神託の冷たさが抜ける。ガルドの手の甲の紋章は、ただの笑い話にできる程度の薄さになった。


 やがて光は静まり、ページは閉じた。


 けれど、そこに閉じ込められた者はもういなかった。


 レオンの聖剣は鞘に収まっていた。魔王の胸は貫かれていない。誰も死んでいない。世界は一瞬で救われてもいない。問題は山ほど残っている。停戦交渉も、民の不安も、神殿への説明も、王家の血筋問題も、明日からきっと面倒なほど押し寄せてくる。


 だが、その面倒さこそが、彼らの新しい未来だった。


 レオンは魔王を見た。


 すぐには言葉が出なかった。


 玉座の間は、さきほどまでと同じ場所のはずだった。黒い石柱が並び、割れた床があり、天井には闇が残っている。だが、空気だけが違っていた。あれほど重く張りついていた最終決戦の匂いが、少しずつ薄れている。血と炎と涙のために用意されていた空間が、ようやく別の用途を思い出そうとしていた。


 レオンの手の中で、聖剣は静かだった。


 それはもう、魔王を刺せとは言わなかった。世界を救えとも、命を払えとも言わなかった。ただ、長い役目を終えた道具のように、鞘の中で淡い熱を残している。レオンはその重さを感じながら、自分の胸の奥にぽっかりと空いた場所に気づいた。そこには本来、自分の死への覚悟が入るはずだった。仲間を置いていく痛み。世界のために命を差し出す誇り。勇者として完成するための、整った悲しみ。


 けれど今、その場所には何も決まったものが入っていなかった。


 死ななかった未来は、思ったよりも頼りなかった。何をすればいいのか、誰も教えてくれない。これから兄と何を話せばいいのか。戦争をどう終わらせるのか。民にどう説明するのか。聖剣を持つ自分が、勇者でなくなったあと何者になるのか。


 わからないことばかりだった。


 それでも、レオンは生きていた。


 その事実だけが、どうしようもなく新しかった。


「兄さん」


 声にした瞬間、魔王ヴァルドの顔が歪んだ。


 それは痛みに近い表情だった。三年待った言葉を、いざ受け取ると持て余してしまう。そんな顔だった。魔王の角も、黒い外套も、赤い瞳もそこにある。だが、もうそのすべてが、彼を世界の敵として固定してはいなかった。


「その呼び方は、慣れんな」


 ヴァルドは低く言った。


 レオンは少しだけ笑った。


「魔王よりはいいだろ」


「まあな」


 それだけの会話だった。


 けれど、それだけの会話が、三年前なら決して存在しなかった未来だった。勇者が魔王を兄と呼び、魔王がそれに困る。世界を救う大仰な宣言よりも、たぶん今の二人には、そのぎこちなさのほうが必要だった。


 ミレイユは閉じた魔導書を胸に抱いていた。足元にあった未来の魔法陣はもう消えている。彼女はしばらく床を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。


「私、これからどうしましょう」


 誰もすぐには答えなかった。


 未来から来た娘ではない。父の死を見届ける証人でもない。ならば自分は何者なのか。ミレイユの問いは、玉座の間に残った白紙そのものだった。


 セリアがそっと言った。


「まずは、今日のことを忘れないようにしましょう」


「忘れたら困りますね」


「忘れなければ、たぶん続きは考えられます」


 セリア自身も、まだ手のひらを見つめていた。神託を握りしめていた掌には、爪の跡が残っている。祈りをやめた手は、頼りなく見えた。けれどその頼りなさは、誰かから言葉を借りずに生きるための最初の空白でもあった。


 ガルドが、床に落ちていた王家の紋章をつまみ上げた。薄い金属片のようにも、光の欠片のようにも見えるそれは、彼の手の中で所在なげに揺れている。


「これ、質屋で売れる?」


 ミレイユが即答した。


「売ったら歴史が怒ります」


 セリアが微笑んだ。


「歴史もたまには怒らせていいと思います」


「僧侶が言うと重いな」


「元僧侶です」


 ガルドは肩をすくめた。笑い声が、玉座の間の高い天井へ上っていく。さっきまで黒いページが開いていた場所に、その笑いは軽くぶつかり、何にも縛られずにほどけた。


 魔王の側近が、そこで咳払いをした。


 彼もまた、少し困った顔をしていた。最終決戦用の姿勢で三年間控えていた側近にとって、勇者一行を食堂へ案内することなど、業務予定にはなかったはずだ。それでも彼は、長年の職務能力で状況を飲み込み、深く一礼した。


「とりあえず皆さま、食堂へ。三年分の最終決戦待機食が余っております」


 レオンが眉を上げる。


「待機食?」


 ヴァルドが重々しく頷いた。


「戦闘前に食べると胃がもたれない献立だ」


「そんなものを考えていたのか」


「三年あったからな」


 ガルドが腹を抱えて笑った。


「ラスボスが献立考えてたのかよ」


「栄養管理は軍務の基本だ」


「急に現実的になるな」


 その笑い声を背に、了太郎は銀のペンを下ろした。


 ペン先から光が消えると同時に、指先の感覚が遅れて戻ってきた。戻ってきた痛みは鋭かった。爪の間に冷たい針を差し込まれたような痺れがあり、肩は見えない誰かに掴まれているように重い。胸の奥には、もっと深い痛みがあった。どこかを削られたような痛み。自分の中にあったはずの未来が、ひとつ名前を失ったような感覚。


 了太郎はそれを表情に出さなかった。


 出さないことに慣れていた。


 ただ、食堂へ向かう彼らの背中を見ていると、その痛みは不思議と不快ではなかった。失ったものはある。削れたものもある。けれど、その代わりに、目の前の世界には書かれていなかった明日が生まれている。


 それは等価交換などではない。


 了太郎の未完領域と、彼らの未来は、同じ秤に乗せられるものではない。


 それでも彼は、銀のペンを抜いたことを後悔していなかった。


 栞が隣に立つ。


 彼女はすぐには報告しなかった。文庫本を胸に抱いたまま、了太郎の右手を見ている。彼の指先が、まだ細かく震えていたからだ。了太郎がそれに気づいて手を握り込むと、栞はようやく顔を上げた。


「最大権限、成功です」


「見ればわかる」


「未回収伏線、七十四件。予定悲劇、一件破棄。神のシナリオ、一部両断。読者満足度予測、賛否両論」


「いいんじゃないか」


「よろしいのですか」


 了太郎は、食堂へ向かう勇者と魔王の背を見た。


「他人の書いたシナリオどおりに行かない話なんて、賛否両論でちょうどいい」


 栞は、文庫本に新しいしおりを挟んだ。


「了太郎さんらしくありませんね」


「そうか?」


「少し、主人公みたいでした」


 了太郎は苦笑した。


「やめろ。縁起が悪い」


 魔王城の外では、三年止まっていた雲がようやくほどけ、雨上がりの光が差しはじめていた。エンドロールはもう見えない。けれど、彼らの名前は確かに流れ終えた。そしてその先に、書かれていない明日が残った。


     *


 会社に戻ると、黒瀬が待っていた。


 最終回代行部のフロアは、出発前とほとんど変わらない。徹夜明けの社員がまだコーヒーをすすっているし、恋愛終幕課では紅坂玲奈が誰かを怒鳴っているし、掲示板には新しい赤札が一枚増えている。世界がひとつ救われたところで、会社の朝は続く。そういう職場だった。


 黒瀬は了太郎の報告書を読んでいた。読み終える前から、眉間に深い皺が刻まれている。


「結城」


 黒瀬の声は静かだった。静かすぎて、周囲の社員たちが一斉に仕事をしているふりを始める程度には不穏だった。伏線整理課から借りっぱなしのホチキスを返しに来た若手社員が、了太郎の顔を見て、そっと回れ右をする。


 了太郎は黒瀬の机の前に立っていた。隣には栞がいる。二人とも、魔王城から帰ってきたばかりのくせに、表面上は何事もなかったような顔をしていた。了太郎のスーツの袖口には、銀の光に焼かれた細い焦げ跡が残っている。栞の文庫本には、新しいしおりが一枚増えていた。


 黒瀬は報告書をもう一度見た。読むたびに眉間の皺が深くなる書類というものがある。今回のそれは、ほとんど皺を彫刻するための道具だった。


「原案準拠で十五分の案件だったな」


「はい」


「処理結果は」


「現場判断で、改稿完結に変更しました」


 了太郎の声には反省の色がなかった。反省していないから当然だった。


 黒瀬は眼鏡を外し、机の上に置いた。眼鏡を外した黒瀬は、怒っているというより疲れて見えた。了太郎はこの顔を何度も見ている。怒鳴られるより厄介な顔だった。


「報告書に、“神のシナリオを一部両断”とある」


「事実です」


 黒瀬は目を閉じた。


 最終回代行部では、事実であれば何を書いてもいい、というわけではない。特に「神」「両断」「最大権限」「賛否両論」という単語は、監査部が妙に好む。報告書にそれらが並ぶと、黒瀬の仕事が増える。だいたい三倍くらい増える。


「事実です、じゃない」


 栞が一歩だけ前に出た。文庫本を胸に抱えたまま、感情の読めない顔で補足する。


「最大権限開放は成功。未完領域の損耗は軽微。ジャンル漏出は停止。登場人物の自律歩行を確認済みです。対象世界の終幕圧は安全域まで低下。災害再発リスクも低いと判断します」


 黒瀬は、栞を見た。


 了太郎ひとりなら、まだ叱りやすい。問題は、栞がこうして淡々と正当性を積み上げてくることだった。彼女は決して感情的に了太郎を庇わない。庇わない代わりに、事実だけを並べる。すると、了太郎の無茶はしばしば「現場判断としては妥当だったかもしれない面倒な例外」になる。黒瀬にとって、それがいちばん腹立たしい。


「栞」


「はい」


「お前も止めろ」


 栞は少しだけ視線を下げた。文庫本の背を親指でなぞる。


「止めました」


 了太郎が横を見る。


「止めたか?」


 栞は顔色ひとつ変えなかった。


「心の中で」


「それは止めたに入らない」


「了太郎さんも、聞く気はありませんでした」


「まあな」


 黒瀬は机の上の眼鏡をかけ直した。その動作はゆっくりだったが、最終回代行部の空気は一段冷えた。周囲の社員たちが、さらに真剣に仕事をしているふりをする。


 黒瀬は了太郎を見た。次に栞を見た。そして、二人の間にある妙な信頼のようなものを見て、深く息を吐いた。


「二人とも始末書だ」


 そのとき、通路の向こうから紅坂玲奈が歩いてきた。赤いヒールの音が、最終回代行部の床にやけに似合わない。長い髪を片手で払って、彼女は了太郎を見た。


「あら、また? 了太郎、あんた本当に原案通りに終わらせる気ないわね」


「原案通りに終わらせた案件もある」


 栞が補足する。


「今月は八件中三件です」


 紅坂は笑った。


「少なっ」


「恋愛終幕課は暇なのか」


「暇なわけないでしょ。告白直前で十年止まってるラブコメが来てるのよ。しかもヒロイン五人。うち三人はもう別の人生設計を始めてる」


 了太郎は嫌な予感がした。


「それ、うちの次案件じゃないよな」


 栞が文庫本を開いた。


「次案件です」


「最悪だ」


 紅坂が了太郎の肩を軽く叩いた。


「恋愛ものに手を出すなら、あたしを呼びなさい。あんたが恋愛案件に触ると、全員こじらせるのよ」


「失礼だな」


「事実でしょ」


 栞が頷いた。


「事実です」


 了太郎はため息をついた。胸の奥の痛みはまだ残っている。魔王城の雨上がりの匂いも、レオンの声も、魔王の困った顔も、まだ遠くに消えていない。仕事としては、効率が悪い。会社員としては、たぶん間違っている。黒瀬の言う通り、終わらせることと救うことを混同しているのかもしれない。


 それでも、了太郎は胸ポケットの銀のペンに触れた。


 まだ、自分の最終回は来ていない。


 だが今日、ひとつの物語に幕を引いた。誰かのために。あるいは、いつかの自分のために。


 栞が文庫本を閉じる。


「行きますか」


 栞が文庫本を閉じたまま言った。


 その声はいつも通りだった。けれど、了太郎にはわかった。彼女は急かしているのではない。魔王城の余韻から、了太郎を少しずつこちら側へ戻そうとしているのだ。了太郎はまだ、どこかに銀の光を残していた。レオンが兄と呼んだ声。ヴァルドがそれに困った顔をした瞬間。役割から外れた者たちが、ぎこちなく食堂へ向かう背中。その全部が、彼の胸の奥でまだ静かに揺れている。


「今から?」


「ラブコメの告白直前は、長く放置すると危険です」


 栞は事務的に言った。


「言葉にされなかった好意は、時間が経つと発酵します。発酵で済めばいいですが、十年ものになると、だいたい怨念か人生設計の破綻になります」


 紅坂が腕を組んだ。赤いヒールの先で床を軽く叩く。


「十年放置されてる時点で、もう十分危険だけどね。告白寸前の沈黙って、放っておくと恋じゃなくて呪いになるのよ」


「恋愛終幕課は言うことがいちいち重いな」


「事実よ。あんたみたいに、何でも銀のペンで切れば済むと思ってる男には特に言ってるの」


「思ってない」


「思ってる顔してる」


 了太郎は反論しようとして、やめた。恋愛ものは苦手だった。誰かを殺す筋書きより、誰かが誰かを好きだったという記憶のほうが、よほど切りにくいことがある。死は終わりに見える。だが、好きだった気持ちは、終わったあとも本人の中に残る。そういう案件は、了太郎の銀のペンと相性が悪い。


 彼は天井を仰いだ。蛍光灯は相変わらず一本だけちらついている。魔王城の雨上がりの光とは似ても似つかない、疲れた会社の白い光だった。それでも、その下で彼らは次の物語へ向かう。世界は終わらない。だから、仕事も終わらない。


 胸の奥に残る痛みは、まだ消えていなかった。未完領域を削った痛みなのか、レオンたちの結末を見届けた痛みなのか、あるいは自分にはまだ流れていないエンドロールへの羨望なのか、了太郎には判別できなかった。


 ただ、行かなければならないことだけはわかった。


「行くか」


 栞が少しだけ口元を緩めた。ほんの一瞬だった。見逃せば、表情が動いたことにも気づかないくらいの変化。だが了太郎は気づいた。栞はいつも、そうやってわずかに笑う。了太郎が無茶をしたあと、まだこちら側に戻ってきていることを確認するみたいに。


「了太郎さん」


「何だ」


「泣きました?」


「泣いてない」


 即答だった。早すぎる即答だった。


 栞は文庫本の角で口元を隠した。


「では、そういうことにしておきます」


「お前、ほんと性格悪いな」


「仕様です」


 了太郎は銀のペンを胸ポケットに差し直した。栞が文庫本にしおりを挟む。世界の端が、またぺらりとめくれる。


 終われなかった者が、終わりを選ぶ者たちのもとへ向かう。


 最終回は、物語を殺すためにあるんじゃない。


 登場人物を、物語から解放するためにある。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


『最終回、代行します』は、終われなくなった物語を一話ごとに幕引きしていく連作短編として書いていく予定です。


第1話は、王道ファンタジーの最終決戦前で止まってしまった勇者たちの話でした。


次回は、告白直前で十年止まっているラブコメの案件になる予定です。


もし少しでも「続きを読んでみたい」と思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




終われなかった物語たちに、もう少しだけお付き合いいただけたらうれしいです。



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