9 最終日
本日の更新は2話連続更新となります。
連続2話更新の1話目です。
今日は帰省して8日目、そして、実家に泊まる最後の日だ。明日の午前中には実家を出て、下宿先へと戻る予定だ。
正月も三が日が過ぎ、徐々に非日常から日常へと変わっていく。それが少し寂しい気もするし、また頑張ろうと気にもなる。
「じゃあ、綾と出かけてくるよ」
家を出る際に、両親にそう挨拶した。今日は1日綾と一緒に過ごすつもりだ。
「いってらっしゃい」
「遅くならないように気をつけてな」
2人は俺に向かって手を振った。それを見て、俺はリビングから出ようとした。
「ねえ、圭」
ふと背後から母さんに呼びかけられた。後ろを振り返ると、両親は優しい笑顔を浮かべていた。
「圭も綾もどちらも俺たちの大事な子供だ。2人が決めたことなら俺も尊重したい」
「だから、ちゃんと綾に向き合ってあげて」
両親はそう俺に向かって言った。2人の顔を見て、冗談で言っているわけではないことが分かった。
「ああ。それじゃ、いってきます」
そう言って、俺はリビングから出て行った。
***
「俺はどうすればいいんですか?」
昨日、屋形さんから綾が女の子になった原因を聞いた後のことだった。何かしらの理由で綾は女の子になることを望んだ。
その理由は未だ分からないが、それを知った時、俺はどうすればいいのだろう。弟とどう接すればいいのだろう。
「私自身の実体験に基づくものだけどね」
女性から男性へと変わった屋形さんは口を開いた。
「ありのままの自分と向き合って欲しい」
「ありのままですか?」
顔を上げた俺は屋形さんと目が合った。彼はにっこりと笑っていた。
「そう。私"たち"は誰も皆望んで変わった。だから、変わった私"たち"を拒絶しないで、向き合って欲しいんだ」
屋形さんは頼み込むように俺に言った。彼はある日突然男性になった。そのために屋形さんも何かしらの苦労をしたのかもしれない。
「別に受け入れろとは言わないよ。けれど、逃げたり拒絶したりしないで、君なりに考えて決めたことをどうか弟君に言って欲しい。私から言えることはそれだけだよ」
綾と向き合う。それを聞いて、頭の中で嬉しそうに笑う綾の顔が思い浮かんだ。
***
「お兄ちゃん、今日はどこに行くの?」
ふと弟の声が聞こえて、俺は意識をそちらに向ける。母さんの車を借りて、綾と一緒にドライブ中だ。
同級生にいたら好きになってしまうほど可愛い女の子になった弟は隣の助手席に座っていた。
「そうだな、映画館なんてどうだ?」
「いいね。僕も観たかった映画があるんだ」
そう言った綾の口から出てきたのは最近話題のアクション映画だった。
「分かった。じゃあ、それを観るか」
「ありがとう、お兄ちゃん」
「でも、どうしてそれにしたんだ?」
「だって、お兄ちゃんと観て感想を話したかったんだもん」
幸せそうに笑う綾の笑顔は運転中でも見惚れてしまうほど可愛かった。
その後、俺と綾は映画を一緒に観たり、昼ごはんを食べたり、ファッション店を覗いたりしていた。
ファッション店では、綾が試着した服の感想を俺に聞いてきた。綾が試着したのは、どれも似合っていて、とても可愛かった。結局1番似合う服を購入した。
「服を買ってくれてありがとう。大切にするね」
綾は宝物みたいに購入した服が入った紙袋を抱きしめていた。その姿はどこからどう見ても新しい服に喜ぶ女の子だった。
「こんなに買ってお金は大丈夫なの?」
「気にするな。まあ、これで向こうに帰ったらしばらく綾と会えないからな。その代わりみたいなものだ」
照れくさいのを隠すように俺は思わずそう口にした。それを聞いた綾は、一瞬だけ視線を落とした。俺は自分が間違いを犯したことに気づいた。
「次はどこに行きたい?」
「……うん! それじゃあ、次はね」
次の目的地を考える綾は先程までと違い、楽しそうな表情をしていた。
その後も、喫茶店で休憩したり、漫画を買いに本屋に行ったりした。
楽しい時間はあっという間に過ぎていき、気づけば日は落ち始めていた。もう少しすれば辺りは真っ暗になってしまうだろう。
「もう1日は終わりそうだね」
綾は笑っているが、元気がなさそうだった。いつもの弟とは打って変わった姿に俺は胸が締め付けられる思いがした。
「まだだ。次のところに行くぞ」
「え?」
俺の言葉に綾は呆気に取られていた。本当ならば、両親に約束した通り、家に帰らないといけない。けれど、このまま帰るわけにはいかなかった。
「最後は俺が行きたいところでいいか?」
俺だってまだ綾と一緒にいたいと思ったからだ。
***
「着いたぞ」
俺と綾がいるのは、この街を見渡せる高台にある展望台だった。眼下には灯りの灯った民家がいくつか見えた。
「綺麗な夜景じゃなくてごめんな」
「ううん。お兄ちゃんとこうしていられて嬉しいよ」
少しの間、俺と綾の間に沈黙が漂った。
「本当に明日で帰っちゃうの?」
綾の沈んだ声が聞こえてくる。
「そうだ。大学やバイトだってあるからな」
「家から通うのはダメなの?」
弟は上目遣いで俺を見ていた。そんな可愛い顔をされたら、いつも通り頷きたくなってしまう。
「それは無理だ。家から大学までは遠すぎるから」
どれだけ早く家を出たとしても、大学の授業には間に合わない。物理的に不可能だ。
「そっか……、それなら仕方ないね」
そう言った弟の顔を見た瞬間、俺の頭の中である記憶が甦った。
「"あの時"みたいに言ってこないんだな」
「僕ももう中学生だよ。子供みたいにわがまま言わないよ」
はっきりとは言わなかったが、綾には伝わったようだ。弟は不服そうに頬を膨らませた。"あの時"と違う反応をする綾を見て、俺は思い返す。
***
1人暮らしを始めるために、実家に出る時だった。その日は、朝早く家を出る予定だった。
俺を見送るために早起きした綾は、俺が家を出る直前、俺の腰にしがみついた。
「お兄ちゃん、行っちゃやだ!」
もうすぐ中学生になる弟は滝のように涙を流して、俺から離れようとしなかった。
「お兄ちゃんと離れたくない!」
俺と両親がいくら言い聞かせても、綾は俺に抱きついたままだった。いつも無邪気で明るく笑っている綾の姿から想像できなかった。
結局どうにか綾に言い聞かせて、俺は家を出て行った。あの時の弟の悲しそうな顔は今思い返しても胸が痛む。
「あの時の僕はずっとお兄ちゃんと一緒にいられると思っていたんだ」
綾の声が聞こえて、俺は意識を戻した。隣に目を向けると、綾はいつもより力なく微笑んでいた。
「僕とお兄ちゃんはずっと一緒。それが当たり前だと思っていたんだよ。でも、そうじゃないって、あの時気づいたんだ」
そう悟った時、綾はどう思ったのだろう。どれほど悲しんだのだろうか。俺には分からない。
「お兄ちゃんが隣にいるのが当たり前だったのに、今度は隣にいないのが当たり前になっちゃった。その時気づいたんだ。お兄ちゃんはいずれ僕から離れていくって」
俺は綾の言葉を否定しようとしたが、できなかった。それはある意味正しい。俺と綾が子供の頃のように一緒にいる時間は今後どんどん少なくなってしまうだろう。
「僕はお兄ちゃんとずっと一緒にいたい。優しくて、僕と遊んでくれて、僕のことを見てくれる。お兄ちゃんの隣にいたかった」
辺りはすっかり暗くなってしまった。展望台近くに立っている灯りが微かに俺と綾を照らしていた。
「でも、きっとお兄ちゃんは好きな女の人ができちゃう。僕よりもその人とずっと一緒にいるようになる。それが僕はどうしても受け入れられない」
不意に袖を引っ張られる感覚があった。俺は隣に顔を向けた。綾は頬を染めて、俺に優しい笑顔を向けた。
「だから、僕はこうなることを望んだ」
「え? それは一体どういう」
「ねえ、お兄ちゃん、お願いがあるの」
俺の言葉を遮って、綾は言葉を紡いだ。綾はそれはとても幸せそうに微笑んでいた。まるで長年の想いが実ったように見えた。
「綾の言うことを1つ何でも聞くってことか?」
「うん、そう。そんなに身構えなくていいよ。簡単なことだから」
綾は柔らかく笑った。その笑みは儚げな可憐さとぞっとするほどの美しさを孕んだものだった。俺の心臓の鼓動が早くなり、体温が上がる。
「僕がいいと言うまでじっとしてて」
それは驚くほどささやかな願いだった。俺を縛るようなものではなく、簡単に叶えられるものだったから、俺は拍子抜けした。
「そんなことでいいのか?」
「うん。でも、絶対に動かないで」
「わ、分かった」
綾の迫力に気圧されて、俺は頷いてしまった。俺の承諾を聞いた綾は、とても幸せそうに笑った。
「じゃあ、じっとしててね」
「綾?」
綾は俺の両腕を掴んだ。俺と綾は向かい合う体勢になった。
俺は何かに備えて体を固くした。綾はゆっくりと俺との距離を詰める。そして、背伸びをして、俺に顔を近づける。
「ちょっ、綾!?」
「動いちゃダメだよ」
綾の顔が徐々に近づいてくる。この世のどの女性よりも可愛いくて整った顔が俺に迫ってくる。俺の心臓は体から飛び出してしまうほど高鳴っていた。
そして、とうとう俺と綾は顔がぶつかってしまうほどの距離になった。その瞬間、綾と目が合った。
女の子になった弟は幸せの絶頂と言いたげな顔をしていた。俺は目を閉じた。
視界に暗闇が広がり、俺の唇に柔らかい感触が触れた。永遠とも錯覚できるようだった。
柔らかい感触は離れて、俺は目を開けた。目を開けた先には、笑顔を浮かべた綾がいた。
「大好きだよ、お兄ちゃん。この世の誰よりもお兄ちゃんが大好き」
帰省して最終日、俺は女の子になった実の弟から愛の告白を受けた。
次回、最終話です。




