息
「・・・」
私は、仰向けに空を見つめていた。空は何の変哲もないいつもの空だった。
「・・・」
私は穴の中に居続けていた。
「・・・」
私は呼吸をしていた。
「・・・」
ただ、呼吸をしていた。
「・・・」
自分の呼吸が見えていた。普段まったく意識しない自らの呼吸――。それがはっきりと見えていた。私は息づいている。私は生きている。その確かな感触があった。
息を吐き、息を吸う。その一呼吸一呼吸のその一瞬が永遠だった。私は呼吸と一つになっていた。私は、生きていた。私という意志とは関係なく、私は生きていた。
そこには呼吸だけがあった。
そこには呼吸だけがあった――。
「・・・」
生きているとは、ただ呼吸をしているということだった。吸って、吐いて、また吸う。この繰り返し。ただそれだけだった。
「・・・」
私は思い出していた。はっきりと。赤ちゃんの頃。それよりももっと昔。母のお腹の中にいた、胎児だった頃――。
その時、私の心の奥底に封印していたどす黒い汚泥のような感情の塊が溢れるように吹き出して来た。
「・・・」
私は苦しさの中にいた。ずっと苦しさの中にいた。その中を私はずっと生きてきた。
私は、聡い子どもだった。物心つくかつかないかの頃にすでに、私は、世の中の真実に気づいていた。すべてを知ってしまうことの苦しさの中に私はいた。
この時代の、この社会の、そこに生きる人間たちの関係性の中で紡がれる至上の価値を追いかけることの幸せという設定。その中で、最高のポジションへの到達方法を私はすべて知っていた。そして、自分がそれを実行し、その先の実現に到達できる人間だということも知っていた。
しかし、その先に幸せがないことも、思春期に入る前にすでに私は知っていた――。
私は私という知識と才能の万能に優越しながら、しかし、私はそれと同時に、私の人生に絶望していた。いや、人間という存在に絶望していた。
それでも私は生きていた。生きれていた。この表層的な刺激で成り立っている幸福という幻想の世界の中で、本質的には絶望しながら、私はそれでも生きることができていた。
なんだかんだ人の上に立つ優越感は気持ちよかった。頭のいい私には今の社会は非常に都合よくできていた。ある程度、テストのパターンと力のある大人たちの望むことを掴んでしまえば、トントン拍子にかんたんに評価がついて来る。そのおかげで、私からしたら容易にある程度の地位も金も名誉も権力も人からの称賛も手にすることができた。
女を抱けばやはり気持ちよかった。うまいものを食えば、やはりうまかった。欲しい物を手に入れれば、やはり、一時ではあるが、喜びと満足があった。今の時代、金さえあれば、人間の感じ得るすべての快楽を享受することができた。それでいいじゃないか。こんなことで人生が終わっていく。みんなそうなんだ。それでいいじゃないか。私はそう思ったりした。
そうやって、日々は流れて行った。それでいいじゃないか。それでいいじゃないか。私はそう自分に言い聞かせ、言い聞かせ、生きていた――。
しかし、虚しかった。やはり、堪らなく虚しかった。時々叫び出したくなるほどの虚しさが私を襲った。心の奥底にわだかまる虚しさに嘘はつけなかった。宇宙の広大さを知っていても、その実感はまったくないように、私は生きていながら、私には生きていることの実感がまったくなかった。私は生きている屍同然だった。
しかし、周囲の人間は違った。それで満足していた。快楽という虚しさにすら気づいていなった。何かを手に入れ、その中の小さな快楽に納得していた。快楽を幸せと錯覚し、それに満足していた。
寂しかった。堪らなく寂しかった。世界に自分だけがたった一人いるような気がした。この想いを共有することが誰ともできないという孤独。そんな堪らない孤独が私を苛んだ。周囲の人間たちはそんな世界をまったく疑いもなく享受している。私は孤独だった。
どこにも救いがなかった。世間では、有象無象の様々な人間たちが、勝手放題にそれぞれにそれぞれの理屈で救いを語っていた。いい大学を出れば、金を稼げば、有名になれば、就職すれば、家族を持てば、子どもを産めば、出世すれば、権力を握れば、神を信じれば――、時に金をとり、時に親切を装い、時に権威と科学をちらつかせ、肩書きや学位を与え、時に理屈と論理性で、これが救いであると、あれが救いであると、信じ込ませようと訳知り顔で、人々に啓蒙していた。しかし、それらはどれもこれもすべて愚にもつかないポンコツの偽物ばかりだった。
私だって御多分に漏れず、救いを探した。時に騙され、金を取られ、何かを信じ、誰かを信じ、金や人気や名誉や肩書きを追いかけた。しかし、私の心を根底から満たす救いは、どこにもなかった。世界中のどこにも・・。どこにもなかった。
優越感や、快楽、刺激、喜びや幸せは、一時的な痛み止めに過ぎなかった。人生は苦しい。どう転んでも苦しい。どうあがいても苦しい。人間の根底には、どうしようもない苦しさがあって、逃げても逃げてもそこから逃げ切ることはできなかった。人間はただそれを無力に見つめることしかできなかった。
見た目のよし悪しや、肩書きや学歴、社会的地位や名声、そんなものは人間の表層的なものに過ぎなかった。どんな名声や人気を手に入れても人間の本質は何も変わりはしなかった。人生はどう生きても苦しい。金持ちには金持ちの苦しみがあり、有名人には有名人の苦しみがあった。権力者に権力者の苦しみがあり、家族を持つ者には家族を持つ者の苦しみがあった。どの人間も、どんな人間も、悩み苦しみを抱えている。そして、みんな漏れなく歳をとって体が動かなくなって、最後には死んでしまう。
なんて理不尽で悲しい存在なのだろう。人間は。私は、それを知ってしまった。聡いが故に、私はそれに気づいてしまっていた。他の人間のたちのようにそんなことに気づかづに生きていけたらどんなに幸せだったろうか。目の前の快楽に何も考えず溺れられたら、どんなに幸せだったろうか。
私はいっそのこと、死んでしまおうかと考えることもあった。この無限の苦しみから抜け出したかった。とにかく、この堪らない人生の虚しさからどうにかして抜け出したかった。
しかし、それは出来なかった――。




