序章
夜ごと、満ち欠けを繰り返す月に、人々は祈りを捧げてきた。
その光は遠く、遠いがゆえに冷たく、決して手に触れることのできないもの。
だからこそ、人々は願いを託し、
時に畏怖を、時に憧れを、
そして、ときにどうしようもない憎しみや嘆きをも投げ入れてきた。
そうすることで人々は自らの灯を繋ぎ続けてきた。
この世界に存在するもの、それは数限りのない浮島。
島々は昼も夜も空を漂い、人々の営みを揺りかごのごとく柔らかく抱いている。
だがその理は満月の夜にだけ破られる。
夜空に浮かぶ真白の、欠けひとつない円に呼応して、
浮かぶことをやめた島々は海へと降り立つ。
そして、わずかに水面が揺れる程度の波間に寄り添い、互いの岸辺を結び合う。
普段は決して交わることのない島々をつなぐ「満月渡航」
この世界の古より受け継がれてきた唯一の移動の手段である。
月が満ち、真白の円となったその瞬間、
世界の理は揺らぎ、島々は重力に引かれるように静かに海へと降りていく。
波紋ひとつ生まれぬほどにやわらかく寄り添いながら。
この時を待ちわびる人々はこぞって船を出す。
木を組み、布を張り、祈りを込めて作られた船は、
島から島へと渡るためだけに存在する。
「満月渡航」
それは祝祭であり、別れであり、始まりでもある。
旅人は火を片手ににわか立ち、家族は再会を喜び、商人は物を運び、
そして子らは新しい風に踊り始める。
この日のために多くの家の軒先にはランタンの火が灯り、
戸口に飾られた鈍く銀白色に光る月草を照らされる。
去りゆく者に思い出と新たな出会いへの願いが託されているのだ。
広場には大きな幔幕が張られ、夜風を受け、気持ちよさそうになびいている。
布には古来かた各島に伝わる「渡航文様」が描かれている。
この世界に無数に広がる島々のすべての姿を知る者はいない。
人々はこの渡航文様を頼りに、島々のおおよその「アタリ」をつけ、渡っていく。
夜明けとともに月が欠け始めれば、
島々はふたたび音を立てることなく浮かび上がり、互いの短い逢瀬に幕を下ろす。
そこに残されたのは渡りゆく者たちの記憶と、
風に揺れるランタンの炎が描く、静かな輪郭だけ。